第36話
「……な、なんだ……これは?!」
Leoは首を捻り、顔を強張らせたまま森の奥を見つめた。
「クソ! クソッ!
あの狐め……卑怯な、陰険な狐!!」
「まさか……森中の魔物を、全部引き連れてきたっていうのか???」
誰からも返事はない。
張本人――
彼らが血眼になって追いかけていた標的は、
すでに尻尾をひと振りし、密林の奥へと姿を消していた。
残されたのは、
目の前に突如として現れた――数百体の魔物と、彼らだけ。
逃げるには、もう遅すぎた。
魔物の濁流は、すでに目前まで押し寄せている。
隊列の中には、機動力の低い魔法職や重装戦士が多い。
どう足掻いても、振り切れる状況ではなかった。
だから――
自分たちが“肉盾”に使われたと分かっていても、
彼らは武器を取るしかなかった。
あの狐のために――魔物を食い止めるために。
……だが、そんなことで。
本当に、耐え切れるのか?!
Leoは、今にも泣き出しそうな顔になる。
今まで――
天国〈ヘヴン〉が他人を肉盾にしてきたことはあっても、
自分たちが肉盾にされる日が来るなんて……!
「畜生ォォォッ!!!」
◇
おかげで――
あの強盗どもには、心から感謝することになった。
私は、ようやく足を止めて休息を取ることができた。
木々に刻まれたダークエルフの標識によれば、
ここは大型魔物の縄張り、その境界線。
当面、他の魔物が近づいてくる気配はない。
――もっとも。
“最大の脅威”を刺激しなければ、の話だが。
「……動かないで」
燈里を地面に下ろすと、すぐに距離を取り、
私は自分の体についた細かな傷の手当てを始めた。
走行中に枝で切ったものがほとんどで、
致命傷ではない。出血も軽微だ。
それでも――
飢えた吸血鬼の前で、血を晒す趣味はない。
燈里は目を細め、弱々しい声で言った。
「……血の匂いがする」
「分かってる」
水を取り出し、傷口の血を洗い流し、
包帯できつく覆う。
「……私が言ってるのは、あなたじゃない」
燈里の視線は、
さらに森の奥――大型魔物の領域へと向けられていた。
呼吸を整え、意識を研ぎ澄ますと、
私にも、その匂いがはっきりと分かる。
狐族の嗅覚は鋭い。
すぐに、匂いの方向と……その“質”まで読み取れた。
血の匂い。
それに混じる、腐敗した悪臭。
「大型魔物の巣なら、こういう匂いがしても不思議じゃない……
獲物の残骸だろ」
探索するつもりはない。
ここには私と燈里しかいないし、彼女は行動不能だ。
今、無用な危険を背負う理由はない。
私は彼女を見る。
「……なあ。
どれくらい、持ちそうだ?」
「……分からない」
身体を震わせながら、燈里は短剣を抜いた。
私は即座に警戒する。
「何をする気?!」
「シュッ――」
しかし、その刃は――
彼女自身の腕を貫いた。
歯を食いしばり、
痛みに喉を鳴らす。
「……痛みがあれば、少しは正気でいられる。
でも……長くは、もたない……」
「…………」
本当に――
厄介な種族だ。
「一人の血を飲んだら、
もう供給源は変えられない……本当?」
来た道の方角をちらりと見る。
あそこには、天堂の連中が大勢いる。
混乱の中で一人捕まえるくらい、
不可能じゃない。
「……うん」
「じゃあ……その供給者が死んだら?」
「……それでも、変えられない」
「……は?
こんな“一途”な吸血鬼、初めて聞いた」
思わず、笑いが漏れた。
そんなに一途なら、
吸血鬼ハンターなんて要らない。
絶滅危惧種として保護すべきだ。
「…………」
燈里は何も言わず、
ただ、じっと私を見つめている。
その視線に、
首筋がぞくりと冷えた。
私は慌ててアイテムボックスから衣服を十数枚取り出し、
首元をぐるぐると覆った。
まるで――
奇妙な生贄のような格好だ。
「私は、あなたを生きたままセーフゾーンまで連れて帰る!
その後、誰を噛もうが知ったことじゃない!
だから……私に手を出すな!」
こんな奴と、長期パーティなんて冗談じゃない。
この顔を見るたびに、
ギルド戦で、何度も殺されかけた記憶が蘇る。
それも、こんな至近距離で――!
経験上、三メートル以内にこの顔がある状況は、
戦闘的に最悪だ。
今でも、
不意に振り向いて彼女が視界に入ると、
反射的に身体が跳ねる。
だが――幸いにも。
これが終われば、
借りも返し終わる。
その後は――
この女に何が起ころうと、私の知ったことじゃない。
「……カチ……ギィ……ギィ……」
頭の上で、
耳が電流を浴びたように跳ね上がった。
「……聞こえた?」
耳を僅かに動かし、音の方向を探る。
「……何も」
燈里の視線は虚ろで、
音を捉えられていない。
「歯車が回る音……
機械の摩擦音……幻聴?」
あり得ない。
黒樹迷界に、傀儡系の魔物はいない。
確かに、この環境は幻聴を招きやすいが――
……いや。
前世の経験が、警鐘を鳴らす。
この耳を、疑うな。
黒樹迷界に存在しないはずの音。
それはつまり――
“極度の危険”の兆候だ。
「……上がって」
私は燈里を引き寄せ、
再び背中に背負った。
彼女の顔は、
あの大量の衣服に埋もれる。
「…………」
「……カチ……ギィ……ギィ……」
まただ!
錯覚じゃない。
しかも――近い!
「――轟ッ!!!」
影の中から、
重い斬撃が振り下ろされ、
ついさっきまで私が立っていた場所を叩き潰した!
地面に深く食い込む刃。
間一髪で、私は躱していた。
「……避けた、だと……」
この威力。
この剣の質。
違う――
これは、プレイヤーの攻撃じゃない!
大型魔物に見つかった?
いや、黒樹迷界の魔物は剣を使わない。
――違う。
もっと厄介な存在。
人型NPCだ!
「暗夜血族……それに、東部森林の狐族か。
我がアルセイン帝国の黒樹迷界に足を踏み入れるとは……
遠路はるばる、ご苦労なことだ」
「せっかくだ。
……存分に、もてなしてやろう」
語調は、紛れもなくNPC。
一目で、私たちの種族を見抜いている。
しかも、その声には――
古い録音機のような、歪んだノイズが混じっていた。
――替身魔偶。
最悪だ。
替身魔偶の背後にいる操縦者は、
たいていLv50以上の怪物。
操られる魔偶ですら、
通常の魔物とは比べ物にならない強さを持つ。
しかも、今の一撃……
この魔偶は、少なくともLv20以上。
私は、まだLv18だ。
「……降ろして」
燈里が、かすれた声で言う。
「この魔偶……動きが速い。
私を背負ってたら……避けられない……」
「黙れ! しっかり掴まれ!」
吐き捨てるように言い、
私は息を吸い込み、全力で走り出した。
目指すのは――
大型魔物の領域、その中心。
標識によれば、
ここにはLv25クラスのボスがいる。
今の状況で生き残るには――
もっと厄介な存在を、あいつにぶつけるしかない。
そう思った瞬間、
その策は、頭の中から消え去った。
前方の開けた場所。
小山のような、
装甲に覆われた巨虎が倒れている。
すでに――息はない。
標識に記された、
あの大型魔物だ。
さらに恐ろしいのは――
腹部から流れ出た大量の血が、
地面に刻まれた陣の溝へと流れ込み、
陣全体を満たしていること。
陣は、
不吉な黒紅色の光を放ち――
そして。
私が、よく知っている。
――上位災厄の気配。
「おやおや~~
見られてしまいましたかぁ~~」
魔偶が、ゆっくりと森の中から姿を現す。
その声は、穏やかで――冷たい。
「それでは……」
「あなたの血を、いただいてもよろしいですか?
……全部」




