式部卿の垣間見
ひさかたの 雲居にしのぶ 花の雲
あまぢ晴るれば 気も晴れなむに
『雲に隠れてしまっている桜の花。(その雲がなくなって)空が晴れれば、心もきっと晴れるだろうに。』
――式部卿
雲晴らす すべ知らざれば かひなくて
はかなき花は 雨に散るべし
『雲を晴らす術を知らないので、どうしようもなく、儚い花は雨に散ってしまいそうです。』
――桜花(喜与代筆)
雨降ると めぐき花をや 守らばや
身やは惜しまむ むら雲分かむ
『たとえ雨が降っても、私は愛しい花(=あなた)を守りたい。(私の)身は惜しくはない。雲をかき分けて進もう。』
――式部卿
*
式部卿はとある邸の陰に牛車を停めさせた。
日が当たらずじめじめとした地面に足を下ろすと、粗末な牛車がきしりと音を鳴らす。いつもなら決して聞き得ない音だ。
高貴なる式部卿がわざわざくたびれ色あせた狩衣に身をやつしてまでこの邸を訪れたのは、ずばり〝垣間見〟のためであった。
近衛府中将の邸。
従四位下という位階に相応しくそこそこのものだ。
やんごとなき式部卿の邸の素晴らしさには及ばないが、手入れはきちんと行き届いているように見える。
「こちらでございます。」
従者の帯刀が指し示すのに従って透垣に歩み寄った。
透垣というのは板と板あるいは竹と竹の隙間を少し開けて作った垣のこと。向こうが透けて見えるので垣間見にはうってつけという訳だ。
式部卿は形のよい目を細めて竹垣の隙を覗く。
狭い庭を隔てて建物がある。簾がかかっているので中は見えないが、向こうに人の気配が感じられる。
それにしても、小綺麗に整えられた邸の中でこの離れ家の一角だけが奇妙だった。
奇妙、というのは違和感で、違和感というのはつまり、少しばかりずさんな印象を受けるということ。
よく見れば庭木の剪定もそこらの掃除も、邸の他の部分とは違い半端でいい加減だ。
眉をひそめていると不意に簾が巻き上がる。
「ねえ見て、喜与さん」
簾を巻き上げた手の持ち主が後ろを振り向いて言う。
式部卿はその華奢な背にもどかしい思いをしながらも、確かに聞き覚えのある声に胸を高鳴らせた。
「昨日の雨で桜もすっかり散ってしまったわ。でも若葉が綺麗。」
どれ、見てみましょうと言う年配の女房らしき声も、式部卿の耳にはもはや入っていなかった。
一人の娘が庇の間に立っている。身なりは驚くほど粗末だが、娘自身の輝くような美しさのもとではそんなものは塵ほども気にならない。
ころころと笑う声は鈴を転がしたようで、彼女がそこにいるだけで空気が華やぐ。
家を出る術を知らずこのまま散ってしまいそうだと訴えてきた小さな桜の花。
(ぜひともこの手に入れたいものだ。)
式部卿は下ろした手を握り締めた。
「どれどれ」
奥から女房が出てくる。が、
「あれ」
という声と共に簾が下ろされてしまった。
「喜与さん、どうしたの?」
桜花の声はまだ聞こえる。
「垣間見でございますよ」
微かに聞こえる女房の囁き声。
桜花が息を呑む音が聞こえたのは幻覚なのかどうなのか。
(潮時か。)
式部卿は名残惜しく思いながらその場を立ち去った。
覗き見は今なら犯罪ですが、平安時代には恋の情報集めのための合法的な手段でした。




