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※後宮基礎知識

これから後宮での物語が始まる。

だがこんな疑問を持った読者もいるかもしれない。

ズバリ。


〝後宮って何だ?〟


ということでここでは一旦本編を離れて、日本の平安時代における後宮とは何なのか、解説を加えていこうと思う。

もう知ってるよーって人は読み飛ばしてほしい。



まず、そうだな、そもそもの「後宮」というものから。

平安京の俯瞰図を思い浮かべて。

日本史や古典の勉強で一度は習ったと思う。碁盤の目、「条坊(じょうぼう)制」の四角い都。

その中には北端に接してこれまた四角い「大内裏(だいだいり)」がある。

大内裏を拡大して見てみると、その中には八省とか近衛府とかいったお役所の建物がぎっしり。いわばこの国の心臓、政治の舞台だね。

で、その大内裏の中央あたりにある四角いのが「内裏」。ズームアップしてみよう。


内裏の南半分は天皇――(みかど)の領域だ。公的な行事を執り行う紫宸(ししん)殿とか、帝が住まう清涼(せいりょう)殿とか。

で、北半分。北半分には「七殿五舎(しちでんごしゃ)」と呼ばれる十二の建物があって、ここに帝の妃たちが住んでいる。

ここがいわゆる、「後宮(こうきゅう)」。


天子(てんし)南面(なんめん)す」って言葉は聞いたことある? これは「天子(つまり帝)は南を向いて政治をする」っていう、中国から伝わった考え方らしい。

もう一度平安京の図を見て。内裏は北にあって、南に広がる都を一望する。ほらね。

……この思想によると北は背後になる。だから、帝の居所清涼殿より北にある七殿五舎は《《後》》宮と呼ばれるわけ。


七殿――承香(じょうきょう)殿、弘徽(こき)殿、常寧(じょうねい)殿、麗景(れいけい)殿、登花(とうか)殿、貞観(じょうがん)殿、宣輝(せんよう)殿。

五舎――飛香(ひぎょう)舎(藤壺)、凝華(ぎょうか)舎(梅壺)、襲芳(しほう)舎(雷鳴壺)、昭陽(しょうよう)舎(梨壺)、淑景(しげい)舎(桐壺)。


親の身分が高い人ほど帝の清涼殿にほど近い殿舎を賜ったんだとか。

ちなみに承香殿は弘徽殿・飛香舎(藤壺)と並んでトップスリーくらいの近さね。


美しくも、ときに毒を持つ女たちの花園。……う~ん、そそられるねぇ。


あぁそれで、帝と妃の子どもたちはどこに住むのかというと、基本的には母君の住まう殿舎に一緒に住むらしい。少なくとも私が創った世界では。

ただの高校生だもの、そんな詳しいこと知らないよ。


まあともかくとしてそういうわけで、「承香殿の女御」の娘である楽子姫はこの承香殿に住んでるのだ。


あっ、「女御(にょうご)」っていうのは、帝の奥様方の中で特に身分が高い人たちのことね。

まるまる一つの殿舎を与えられた人はその建物の名を取って「承香殿の女御」とか「弘徽殿の女御」とか呼ばれる。


さて、やんごとなき方々についてはこれでよしとして。

あとは「女房(にょうぼう)」って何かって話かな。

現代では女房というと奥さんのことを言うけど、(っていうかもう廃れかけてる呼び名な気がするけど、)平安時代における女房というのは簡単に言えば、高貴なお方(特に宮中)に仕える女性のこと。

個人用の部屋=「房」をあたえられたから「女房」というらしい。



……こんなところかなあ。

まああとは適宜、必要になったときに可能な限りお話ししよう。

ではでは、後宮編をお楽しみあれ~。


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