桜は新生活の象徴なわけで
あー、楽しかった。
現在、早朝。何時かはわからない。
場所は式部卿にあてがわれた寝室。朝とはいえ締め切った室内は薄暗い。
でも遠くから鳥の声が聞こえる。
「桜花姫、起きていますか?」
几帳の向こうから声がする。
結局、式部卿と私とは本当に一晩中語り合って過ごした。
その間指一本も触れてはいない。
やっぱり実直な人だ。
私はあくびを噛み殺す。
「ふぁい、起きてます……」
噛み殺しきれてない。すごい失礼だと思うんだけど、もう双方気にしない。
式部卿もあくびをしたようだ。
「……さすがに徹夜で語り尽くしは眠いですね……」
白い布越しに見えるシルエット。
夜が明けてくるとともに、白い几帳は薄く頼りなく感じられる。
「えぇ。なんかすみません。今になって申し訳なさの波が……」
同時に二度目のあくびの波が……。
「……それで、この後どうしましょうか。」
灰色のシルエットはそう言いながら首を回す。
おー、ゴキゴキ言ってるぞ大丈夫か。
「この後」
おうむ返しにする私。
この後っていうのは、今日この後どうするかということか、あるいは今後の身の振り方をどうするかということか。
たぶん両方考えなくちゃならない。
昨晩、私は話の流れに任せて〝桜花〟の生い立ちを話した。
もちろん式部卿はとても親身になって聞いてくれて、自分にできることなら何でもするとまで言ってくれたのだ。
……この後、か。
どうしよっかな。
「この邸を、出るのか出ないのか。」
と式部卿。
「出ます。」
と私。即答。これはもう。
あんな気持ちの悪い従弟がいる邸、一刻も早く出て行きたい。
「そうでしょうね。では私と結婚するのかしないのか。」
心臓もたないって。
「今のところは……」
と首を振る。
いやまあわかるけどね。結婚して連れ出すのが今の式部卿にとってはベストなチョイスだもんね。
「まあ今すぐ決めよとは言いません。」
「はい……。」
ぴぃよぴぃよと鳥の声。
実は私、徹夜したのって前世含めて人生初めてなんだ。
「私に考えがある。」
イケボが言う。
「考え」
「ええ。考えです。……私に任せていただけますか?」
「それは、結婚以外の方法?」
「そうです。」
「じゃあお願いします。」
もう自力でどうにかなるとは思えないしね。
こうなったら思いきって人を頼るしかない。
「ではさっそく、朝食の場にでも動きましょうか。」
と式部卿。
私が姿勢を正して首肯すると、彼は少し首を傾ける。
「……どちらにしても、もう後戻りはできませんよ。ふふふ。」
意味深なことを言いながら妖艶に微笑むのはやめなさい。
*
「桜花さんを私にください。」
……こいつ何言ってんの?
朝食の席。家族と客人とが一同に会している。
爽やかな風が淀んだ空気を洗う。
「おうか、を……?」
几帳越しの叔父さんが固まってる。箸を取り落とさなかっただけ偉いぞ。
結婚以外の手段って言ったのにこんなセリフを吐く式部卿。
天使の微笑み。これはからかってる。一夜を共に過ごした私にはわかる。
いや一夜を共にって余計怪しいセリフだしそういう意味じゃないし。
「えーーーっっっと……」
掠れがかった長ぁぁい声とともに、叔父さんの箸が傾き始める。いよいよ危ない。
さりげなく見回せば白蓮も昴も霞も、みんな呆気にとられた顔で式部卿を凝視している。
特に昴。汗だらだら。そんな顔に出やすくて政界で生きてけるのかね?
あぁ、出世しないからいいのか。
「おっと、誤解を招くような言い方をして申し訳ない。つまりその、ぜひとも私の妹と一緒に、小波の姫宮様にお仕えしていただきたいと思いましてね。」
小波の姫宮。
承香殿の女御腹の四の宮、楽子内親王の通称だ。
なるほどそう来たか。
「な……なぜ桜花を」
叔父さん、ようやく箸を持ち直す。
「このあいだの歌合でお会いしたときから才気香る方だと思っておりました。この度実際にお話をしてみて、やはり相応しい、と。」
式部卿は優雅に箸を置く。
「ですからぜひ、桜花姫を私に任せていただきたいのです。」
いろいろ思うところはあるだろう。叔父さんは小さく口を開けて、やたらに瞬きを繰り返している。
妻と子どもたちは固唾を飲んで見守っている。白蓮なんかもう鬼の形相だ。
「こっ」
叔父さんの口から声が押し出された。
「光栄ですっ。身に余る光栄……ぜひとも、こちらこそ、よろしくお願いいたします。」
かちゃり、と箸が落ちた。
叔父さんの箸じゃない。白蓮の箸だ。
「ありがとうございます。ではそういうことで。……また後程。」
いつの間にやら食べ終えていた式部卿は、するりと立ち上がると軽い、けれども有無を言わさぬ足取りで去ってしまった。
式部卿、かっけー。
*
あれよあれよという間に式部卿の提案は現実になっていった。
さすがの白蓮でも昴でも、式部卿ともあろうお方と一家の大黒柱との間の約束に口を出すことはできない。それはつまり、私に手を出すこともできないということ。
準備はみんな式部卿側がやってくれるから、手伝いも邪魔もせず未練がましい視線を寄越してくるだけ。
そういうとき、私は一人で微笑んで見せるのだ。
ああ清々する。
やがて邸を立つ日がやってきた。
「叔父上、叔母上、これまでお世話になりました。」
一家が集まったところ、義理として頭を下げておく。
衣食住では最低限だとしても世話になったからね。
「昴と霞も。」
と二人に微笑みかける。昴は歯を食い縛って身を固くしている。霞は……ちょっと嬉しそう?
「うむ。」
と叔父さんは頷いた。さすがに風格がある。
この人、桜花に無関心なだけであって、人間としてはちゃんとした人なのだ。
――今は無関心とは言えないけど。
「しっかりお仕えしてくるのだぞ。」
その目。
全ては出世したいがために。
掌を返して私を丁重に扱う様子は見ていて滑稽だった。人間って面白いね。ハハハ。
「はい。」
そんな笑いは心に収めて、素直に頷く。
「行って参ります。」
叔父さん以外は誰も何も言わない。白蓮は能面のように白い顔。
最後だからざまあしてやろうなんて馬鹿なことを考えちゃあいけない。
これから関わることもなくなる人間にエネルギーを割くなんて、はっきり言って無駄だ。
そもそもそんなに憎んでないしね。
……可哀想な人。
それが私のただ一つの感想だ。
こうして私は宮仕えをすることになった。
これから始まる新生活に、心ならずも胸を膨らませて――。
『桜花の巻』終(『青嵐の巻』に続く)
第一巻完結です。
次巻からはいよいよ宮仕えが始まります!




