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最果てのパラディン  作者: 柳野かなた
〈第三章:鉄錆の山の王 後編〉
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26

「――――!!」


 水に引き込まれるその瞬間、僕は息を吸い込み肺に蓄えた。

 この世界では泳げない人も多いけれど、幸い僕は前世でも今生でも、一通り泳ぎに関する教育は受けている。


 横腹に食らいついた蛇が、困惑するように身をよじる。

 その湾曲した牙に、ミスリルの鎖帷子を貫く威力はなく。

 そしてその顎に、僕の腹直筋や腹斜筋を圧して内臓を潰すだけの咬合力はなかった。


 一応、鰐と違って蛇の主力は毒や締め付けだから大丈夫と踏んでいたけど、やはり筋肉は正義だ。

 ……とはいえ勿論、このまま締められて水底へ引きずり込まれたら溺死する。


「…………」


 ごぼごぼと、泡が水面へのぼってゆく。

 淀んだ水の中では目を開くこともできず、開いても意味が無い。

 もちろん、《ことば》を発声することもできない。


 だから噛み潰されないようにお腹に力を入れながら、僕は祈った。心に浮かべるのは、光と清浄。

 次の瞬間には光が走り、周囲、100メートル四方程度の水から淀みが消え、澄んだ清水へと変じた。

 ――《きよめの祈り》だ。


 そうして視界を確保し目を開くと、水中をウヨウヨと泳ぐ大水蛇たちの姿がくっきりと見えた。

 何匹もの水蛇が、水中に落ちた僕を狙って群がろうとしている。

 なんとか捌き、手先足先などに噛みつかれることは避けたけれど、動きづらい。水がまとわりつくようだ。



 ……けれど、もう、解決法は見えている。



 喉笛を狙って正面から突っ込んできた一匹の顎を捕まえると、僕はおもむろにそれを引き裂いた。

 上顎と下顎を掴んで。

 上下に思い切り、力任せに割り開いて。


「――~~!!」


 手の中で狂ったように大水蛇が暴れ、清められた水に水蛇の血が流れだす。

 更に横腹に食らいついていた一匹を片手で掴んで抑えると、ベルトの短剣を引き抜いて首のあたりを掻き切る。

 水に濁った血がどんどんと流れ出す。


 ――他の水蛇たちが、血を流す二匹に食らいつき始めた。


 彼らは魔獣ではなく、単なる大きな水蛇だ。

 捕食のために襲ってきているのだ。

 ……であればとことんまで戦わずとも、より弱った獲物、襲いやすい獲物を用意してやれば良いのだ。


 襲ってきた別の数匹を更に仕留める。無呼吸の立ち回りを繰り返し、息が苦しい。

 それでも堪えて、水蛇たちの注意が僕から弱った同族に向くまで粘ると、僕は水面に向けて泳ぎだした。

 水を吸ってまとわりつく衣服がひどく重い。

 必死に水をかきわけ、船の傍に顔を出す。


「ぷは――!」


 何分、無呼吸で戦っていたのだろうか。空気が美味しかった。


「ウィル殿!」


 ルゥが即座にロープを投げ渡してくる。

 それに掴まると、僕はなんとか船の上に戻った。

 全身からぼたぼたと水が滴り落ちる。


「はぁ……はぁ……」


 甲板に手をつき、荒い呼吸を繰り返す。

 全身が酸素を求めていた。


「ウィル!」

「無事か?」


 声をかけてくる皆に頷きを返す。

 落ちる寸前に手放した《おぼろ月》が見え、ああ、水に落とさなくて良かったと、そんなことを考えつつ、僕は息を整え――



「《衝撃炸裂(エールプティオー)》」



 水面に向けて、思い切り攻撃魔法を叩き込んだ。

 今度は狙い過たず、水中に炸裂が生じ、伝導率の高い水の中で駆け抜けた衝撃は水蛇たちを打ちのめし、肉を潰して骨を砕いた。

 水中の衝撃に、船がひどく揺れる。


「ふう」


 僕は、これでよし、と息をつく。

 時をおかず、たくさんの水蛇の死骸が浮かんできた。


「容赦ねーな……」


 とメネルが呆れたように呟いた。

 そりゃあね、積極的に船を狙う相手を放置するわけにも。


「メネル、移動しよう。あと、おおよそ片付いたと思いますが、みな警戒を」

「ああ」

「承った」

「あっ、あの……いきなり水が綺麗になったのですが」

「えっ? ただの《きよめ》だよ」

「えっ?」


 わけがわからないといった様子のルゥだけれど、僕もわけがわからない。


「えっと、《きよめ》というと普通、瓶ひとつとか、せいぜい池ひとつとか……」

「ああ……」


 出力の問題でしたか。

 戸惑うルゥの肩を、メネルがぽんぽんと叩いた。


「慣れろ」

「え」

「こいつ澄ました顔して、基本戦法が蛮族なみのゴリ押しなんだよ。慣れろ」

「…………」

「俺はもう慣れた」


 メネルはなんだか、悟ったような顔でそう言った。


「蛮族なみのゴリ押しって、ひどいなぁ、もう」

「じゃあなんだって言うんだよ」

「僕は蛮族より手数と出力あるから、蛮族以上のゴリ押しだよ」


 したり顔でそう言うと、メネルは無言で首を左右に振り、ルゥは複雑そうな顔で頷いた。


「くっ、何さその顔……!」


 などとじゃれていると、


「しかし、この地形の変動は問題だな」


 レイストフさんが適切なタイミングで、冷静に漫談をぶった切った。




 ◆




 確かに、辺りはもうすっかり二百年前の地図や情報とは様変わりしている。

 淀んだ川は流れを変えて、すっかりかつての森を飲み込んでいる。

 川辺はじめじめとした湿地帯になっており、うまく船をあげられそうな場所も見当たらない。


 おまけにあんな水蛇のような危険な生き物がたくさん棲み着いている……

 ここ二百年、人類が踏み入ったことのない暗黒の領域というのは、伊達ではないのだ。


「……ゲルレイズ、何か見覚えのあるものは」

「いや」


 ゲルレイズさんが首を左右に振る。


「これでは何も……」

「あっ!」


 と、ルゥが声をあげた。


「あれはどうだろう、ゲルレイズ」


 ルゥの指差す先に、何だ、と皆の視線が向く。

 彼の指は、水面を指し示していた。

 見れば、《きよめ》によって澄んだ水底。ゆらめく水の向こうに、建物の遺構が並んで見える。


「む……」


 ゲルレイズさんはその遺構を見て、少し考えだした。


「…………」

「どうだろうか?」

「あの建築様式……間違いなくエルフのものと」

「おー、やるなぁ!」

「よく見つけた」

「うん、お手柄だよ」

「いえ。そんな……」


 皆がそう言うと、ルゥははにかむように笑った。


「とすると、地図だとどれにあたる?」

「多分この……」


 と、船を水蛇たち死骸から離しつつ、地図を見て皆で検討する。

 そしておおよそあたりをつけると、僕たちは改めて、移動を開始した。


 ただ、一帯が《忌み言葉》によって穢されているせいで、《追い風》の呪文による帆走がおぼつかない。

 辺りの風や水を《きよめ》によって澄んだものにしても、それで精霊の弱体化がすぐにどうこうなるわけでもない。

 メネルの妖精使いの腕と、未来の《森の主》としてのちからを込みなら、改善は見込めそうだけれど――


「大規模な変化は、悪魔どもに勘付かれる可能性もある」


 とのレイストフさんのもっともな指摘もあり、僕たちはもっと原始的な手段に頼ることにした。

 帆走ばかりに頼るのはここまでとして、櫂を下ろして漕いでゆくことにしたのだ。


 メネルが船尾で舵棒を握り、声をかける。

 その声に合わせて調子を取ると、右舷と左舷に分かれて漕いでゆく。


 暗く淀んだ水。

 辺りに並ぶ白く立ち枯れた木は、樹齢数百年を下らない巨木ばかりで、まるで古代の神殿の柱廊のようだ。


「…………」


 時折、水棲の生き物たちの不気味な鳴き声が響くほかは、音もない死に絶えた森。

 いつしか薄く白い霧が辺りを覆い、《鉄錆山脈》の山々も朧な影しか見えない。

 櫂のきしむ音と、水をかき分ける音ともに、船は進む。


 最初はいくらか会話もあったのだけれど、だんだん会話は減ってゆく。

 周囲の陰鬱な雰囲気につられるように、皆が無言になった頃――


「?」


 右舷の水面に、気配を感じた。

 視線を向けると、そこからぶくぶくと泡が立ち上り――

 幾つもの手が、水面に立ち現われた。


「っ!」


 淀んだ水から突き出される、ひどく青褪めた腕。

 腐ったものも、骨だけのものもある。

 彼らの手は、もがくように、縋るように船を掴みはじめた。

 船が、きしむ。




 ◆




「む」

「…………」


 がたがたと船が揺れるなか、レイストフさんとゲルレイズさんも、各々に武器を構える。

 死者の町で新調した、彼らの武器は魔法の武具だ。不死者にもよく通じるだろう。


「……敵か?」


 メネルは、ことに冷静だった。

 武器を抜けるように身構えながらも、僕に向けて問いかける。


「ううん」


 僕は首を横に振った。


「ただ、苦しがってるだけだよ」


 僕は船を掴む腕の一つに、手を伸ばした。

 水によってぶよぶよに膨れ上がった腕は、生臭い臭気を撒き散らしている。

 その手を、握った。


「――っ」


 ルゥが息を呑む気配がする。


「大丈夫」


 伝われ、と思いつつ声をかける。


「もう、大丈夫です」


 もう苦しまなくて、いいんです。

 恨まなくてもいいんです。

 頑張らないで、いいんです。


「あなたたちは、もう誰も呪わない。祟らない、苦しめない」


 握った腕から。

 そして周囲の腕からも、力が抜けてゆく。


「――あとのことは、何とかします」


 もう頑張らないで、大丈夫。

 守ろうとしなくても、大丈夫。

 戦わないでも、大丈夫。

 背負わないでも、大丈夫。

 重荷を下ろして、いいんです。だから――


「ゆっくりと、お休み下さい」


 一言一言、ゆっくりと、そう告げて。

 僕は祈った。



「灯火の神グレイスフィールよ。……安息と、導きを」



 曇り空に灯るのは、《聖なる灯火の導き(ディヴァイン・トーチ)》。

 浮かび上がった奇跡の灯火が、彷徨える魂を輪廻へと導いてゆく。


 ふわりと、いくつもの青白い霊体が現れた。

 編み上げられた美しい髪。笹穂を思わせる尖った耳に、秀麗な顔立ち。


「――――」


 彼らは無言のまま僕たちに向けて、気高く、優雅な一礼をした。


「おお……」


 ゲルレイズさんが、震える声を漏らす。

 それは、きっと在りし日の、すばるの枝(レムミラス)のエルフたちの姿そのままだったのだろう。


「――――」


 彼らは何か言いたいことがあるのか、言葉をしゃべろうとして――

 そして、叶わない。


「…………」


 水底の眠りは、彼らの喉から言葉を奪ってしまったのだろうか。

 けれど、彼らはそれでも典雅だった。


 美しく肩を竦めると、しなやかな指である方角を指し示す。

 くるくると指を回すのは、できるだけ早く、ということだろうか。


「あちらに行けばいいんですね? できるだけ迅速に」


 頷きが返る。

 それから先頭に立つ一人が、指をふたつ立てて、それから拳を握り、左胸の前に置いた。

 流れるような動作だった。


「ウィル、あれは……」

「大丈夫、意味は分かってる」


 同じ動作を返す。

 ――親しみを込めた、別れの挨拶の動作だ。


「どうか、灯火の祝福を」


 そうして。

 すばるの枝(レムミラス)のいにしえのエルフたちは、柔らかい笑みとともに、薄れて、消えていった。


「…………」

「…………」

「…………」


 ルゥも、ゲルレイズさんも、レイストフさんも無言になるなか。


「行くぞ」


 唐突にメネルがそう言った。


「あっちの方角に全速だ。すぐ、早く!」

「えっ?」

「エルフの時間感覚を信頼すんな!」


 メネルは焦った様子でそう言うと、妖精たちにかなり強い口調で声をかけ、再び《追い風》の呪文を使う。

 更には自らに念入りに《水上歩行》の術を加えながら、彼は叫んだ。


「エルフの『ちょっと待ってろ』は『1年後くらいにまたな』だって小話、ありゃ本当なんだよ!」


 船が恐ろしい勢いで動き出す。

 淀んだ水をかき分け、薄靄の中を進む。


「そのあいつらが『なるべく早く』だぞ、つまり」


 靄の向こうから、悲鳴が聞こえてきた。


「――やっぱりかクソッタレ!」


 メネルは悪態をつくと、まるで水切り遊びの石のような俊敏さで、水の上を駆け出した。



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