21
各々、ガスに案内されて神殿の幾つかの部屋に分宿することになった。
僕の割り当ては、少年時代を過ごした懐かしい部屋だ。
石組みの壁。木製の小さな椅子や、ちょっとした書き物机があり、壁面を窪ませたアルコーブには寝心地の良さそうなベッドもある。
書き物机や棚には、旅に出るにあたって置いて行った生活用品や本、沢山の覚え書きがそのまま残っていた。
けれど、少し違和感がある。
「……?」
こんなに小さかったかな?
そう思って、そうか、自分が大きくなったのか、と気づいた。
神殿を出て行ったのは数え15の頃、つまり14歳だ。
前世のように定期的な身体測定はないから分からないけれど、あれから僕は背も伸びて、大きくなったのだ。
「…………」
冷たい石壁を指でなぞる。
アンデッドの三人は寒暖差があまり分からないけれど、僕は生身だから、冷え込む冬の夜はずいぶん寒かった。
そういう時、ガスは何だかんだと言いながら温石をこしらえてくれた。
炉端で石があたたまるのを待ちながら、ブラッドは大げさな身振り手振りで勇壮な武勇伝を語ってくれて、マリーは縫い物をしながら、ブラッドの語りに微笑んで相槌を打っていた。
それはもう過ぎ去ってしまった、きらきらと輝く幸せな過去だった。
……ブラッドとマリーは、もういない。
けれど、それはきっと、あの日々の価値を損なうものではない。
幸せな過去は、きらきらと輝き続ける。
多分ガスが消えて、そしていつか、僕が死んでしまったって。
流れる時の河の底に降り積もる、うつくしい砂のように。
――ずっと、きらきらと輝き続けるのだ。
「…………」
そんな風に想像すると、口の端から笑みがこぼれた。
故郷に帰ってきて、少しだけ感傷的になっているのかもしれない。
と、部屋の戸を叩く音がした。
「――よ。入るぜ」
ぎしぎしと軋みながら、古い戸が開けてメネルが入ってきた。
きょろきょろと、彼は興味深げに視線を巡らせる。
「ここが、お前の部屋か?」
「うん」
メネルはふぅん、と呟いて辺りを眺めた。
「小さいな」
「子供の頃は、けっこう手頃だったんだけどね」
神殿に務める僧侶が寝起きをするための部屋だ。
余計なものを入れるスペースは殆どなく、シンプルな構造になっている。
「……なぁ、ウィル。あのガスって爺さんよ、すげぇな」
「想像より俗っぽいとか、そんな風に言われるかと思ってたよ」
「いや。俗っぽいんだけど。俗っぽいんだけど、なんつーか……」
メネルは言葉を選ぶように少し沈黙して、
「部屋に案内される時、何もかも見透かされた気がした」
呟くメネルに、僕は静かに頷いた。
……世に名を轟かせる偉大な魔法使いは、寡黙な人物が多い。
嘘をつくことは、《創造のことば》のちからを弱める。
切れ味もなく、重くもなく。ただ鈍く軽いだけの《ことば》では、何も為すことができない。
だから賢者と呼ばれる魔法使いたちは沈黙を選び、俗なことを語らない。
けれど、ガスは喋る、ものすごく喋る。
カネじゃ女じゃと、好んで俗なことを語って喜々として笑う。
けれど彼の《ことば》のちからは弱まらない。
寡黙なひとから発される、ただ一言が重いように。
才知を俗塵で和らげたひとの、真実の一語には鋭い切れ味がある。
「うん、凄いでしょ?」
そんなガスが嘘らしきものを口にしたのは、僕の知るかぎりで、たった一度だけだ。
あの薄暗い地下街で――僕を殺さないと、決めた時だけ。
「……僕の、自慢のおじいちゃんだよ」
そう言って、僕は笑った。
メネルも笑った。
◆
荷を降ろし、装具を緩めて一息ついたところで、メネルに皆のことを頼んで、僕はガスの所に赴いた。
ガスに情報を求めるためだ。
今のガスは町に縛られたゴーストだけれど、同時に二百年前の賢者だ。
何か有益な情報を知っているかもしれない。
「《神々の鎌》にして《災いの鎌》、邪竜ヴァラキアカについては、ワシもお目にかかったことはない」
ガスは肩をすくめた。
「機会があれば会って、交渉の一つもしたかったのじゃがな。
やつを悪魔の陣営に付かせなければ、《上王》戦でああも多くの英雄たちの命を擦り減らすことはなかった」
神代より生きる古き竜が一頭、敵陣につくか自陣につくかというのは、それほどに違うのだとガスは言う。
「仮に戦うとすれば、古傷を狙うことじゃな。
古来より様々な戦場で、神々の《木霊》や数多の英雄と戦ってきたヴァラキアカには、傷を受け鱗を剥がれた逸話が複数ある。
……竜の鱗は強靭じゃ。仮にブラッドとて、竜鱗の上から肉までは断てぬ」
ドワーフや人間の戦士、ハーフエルフの狩人とともに、竜に支配された山に向かい、鱗の剥がれた部分を狙う。
なんだか、前世の古いファンタジー小説のような状況だ。現実になるとぞっとしない。
「……《存在抹消のことば》は?」
考えていた手を、ガスに問うてみる。
ガスが不死神の《木霊》を仕留めた、あの魔法であれば、あるいは――
「当たればのう、そりゃあ竜とて消し飛ばせるじゃろうが」
ガスのその物言いはつまり、当たらないということだ。
「いにしえの、まことの竜はなぜ巨体でありながら疾く飛べるか。
……上古の竜は神話の住人。今を生きるワシらよりも、《ことば》に親しい存在よ」
故に竜は飛ぶ。
「《ことば》は宙を駆けるものなれば」
ありとあらゆる道理を無視して、竜は飛ぶ。
《ことば》と親しくあるがゆえに。
「上古の竜は極まった《ことば》の使い手でもある。
しかもヴァラキアカは不死神のような交渉屋ではなく、年季の入ったゴリゴリの戦争屋じゃぞ?
ウィル、おぬしはなかなかの魔法使いとなったようじゃが、魔法の撃ち合いに持ち込まれたら撃ち負けよう」
「……魔法戦は不利、と」
「体格も頑強さも洒落にならんで、白兵でも不利なんじゃがな。
ブラッド流に言えば筋肉で負けとる」
分かっちゃいたけど筋肉による力押しで勝てないってのは痛い。
……今までだいたいそれで勝ってきたし。
「じゃから古来より竜殺しの定石といえば、準備を整えきったうえで、相手の不準備を突いての巣穴への奇襲なんじゃが……
ほれ、悪魔どもが群れとるじゃろう。ヴァラキアカは恐らく、悪魔どもの勢力を、警報代わりに使っておるのよ」
「不死神に止められた理由がわかってきた……」
いにしえの魔法の力。
圧倒的な体格と筋肉。
そして長い年月に蓄積された、己の弱点を補う経験と知恵。
――そりゃあスタグネイトも、今の僕では勝ち目がほぼ無いと判断するだろう。
「ふん。スタグネイトか。……《遣い》でも?」
「鴉がきたよ」
ガスは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「気に入られたようじゃな」
「不本意なことに」
僕も顔をしかめて答えた。
「……奴の思想は神の思想じゃ、ワシら神ならぬものの多くはついてゆけぬ」
「うん」
「おまけに神じゃというのに馴れ馴れしい。……というか、こすっからい!
ワシらが逃れられんタイミングで契約を持ちかけてくるなぞ、小賢しいにもほどがあるわ!
あんな筋も道理も無視した契約、破り捨ててやってせいせいしたわい!
神ならもっと堂々とせんか、堂々と! 奴が悪神の一柱に数えられるのも道理というものじゃ!」
ガスはひとしきり喚いて、ふぅ、と息をついて。
「……ただ、多少の感謝は、しておらんこともない」
ふてくされたような表情で、そう言った。
◆
「不死者となり、おぬしを育てる機会を与えられ。
ブラッドとマリーは――息子や娘のようにも思っておった、ワシの数少ない友人たちは、幸福に逝けた」
ガスの視線がつい、と流れる。
その方向は、彼らのお墓だ。
「……そして、ワシもまたおぬしを育てられた」
ガスは、視線を逸らしたままそう言った。
「ワシは弟子を取らなんだ。
ワシの知識も技術も、ワシ一代。パッと咲いて、潔く散る。それで良いと思っておったが――
どうしてどうして、死して失うとなれば、なかなか未練が湧くものよ」
「ガス……」
「お主のおかげで、次につながった。――これもまた、生きることの妙味じゃな」
ま、ワシゃとっくに死んでおるが、とガスはからからと笑った。
「のう。分かっておるかの?」
「大丈夫、分かってるよ」
だから一人でガスに話にきたのだ。
あの場でガスはああ言って、雰囲気を和らげてくれたけど――
「交渉の余地は、ほぼ無い」
その通りじゃ、とガスは頷いた。
「この地域一帯に、今のおぬし以上の戦力はないと、神も認めた。
であればヴァラキアカにとっては、今こそ打って出るが良い時期であろう」
「僕もそう思う」
だって、
「ヴァラキアカはもう、神々に警戒されている」
不死神は言っていた。
自ら《木霊》を降ろせれば、討ちにいきたいほどだと。
ガスは言っていた。
神代より生きる古き竜が一頭、敵陣につくか自陣につくかというのは、戦の趨勢を大きく左右すると。
今の時代に生きる竜というのは、それほどの脅威であり――
逆を言えば竜が生きるには、それ相応の立ち回りが要求されてしまう。
「ヴァラキアカは何の対策もなく眠り続け、孤立すれば、いずれどこかの神に『我が計画の妨げ』と暗殺される立場にある。
アウルヴァングル王につけられた眼の傷が癒えたら、また打って出て勢力を築くか、どこかの勢力に参入して、乱を起こさないといけない」
「そういうことじゃ。泳ぎ続けねば死ぬ魚のようなものじゃな。
ヴァラキアカが乱の渦中でしか生きられぬ以上、穏健なおぬしを主と仰ぐことはあるまい。
今の時代に《上王》ほどの圧倒的存在がおらぬとなれば、己の旗を掲げるか、あるいは他の勢力に混じって大乱を起こすか。
いずれにせよ、世を荒らし、神々の目を晦ます他はなく――」
ガスが、僕を見た。
「それを躊躇わせられる力を持つのは、それこそおぬし一人じゃ」
頷く。
「そして僕には、その実力が足りない。
多分、竜から見たら乗り越えられる障害だ」
今まで僕が乗り越えられる障害を、乗り越えてきたように。
竜も僕をそれとみなして、乗り越えようとするだろう。
「ウィル。……おぬし、死ぬぞ」
「それでも、戦うって決めたんだ」
神さまが託してくれた暖かい熱は、まだ僕の胸の中に息づいていた。
「それにどうせ放っておいても、竜を解き放ったら乱が起こるんだ」
「逃げれば良いではないか」
「……ガス」
僕はガスに、笑いかけた。
「《生きてる》のと、《死んでない》のは、違うよ」
何もかも見捨てて生き延びても、それは死んでないだけだ。
それじゃあ駄目だと、僕は前世で、そして今生で学んだのだ。
「…………致し方あるまいな」
ガスはため息をついた。
何かを諦めようとするような、深いため息だった。
そんなガスに対して、僕は口調を明るく切り替えて話を変える。
「あ、そうだ、ガス。ずっと聞きたかったんだけど……3人の飛竜殺しの英雄譚を聞いたんだ。
それでお金と短剣を貸した人間の男の子と、ハーフエルフの女の子、覚えてる?」
「ん? おお、懐かしいのう。覚えておるとも」
「出世して、貴族になって。……ハーフエルフの女の子、お婆さんになった今も、ずっと待ってるって」
「……そうか」
と、ガスは笑った。
寂しげな微笑みだった。
「この体じゃ。もう取り立てには、行ってやれんのう」
「代わりに行ってきていいかな?」
そう告げると、ガスは僕が言いたいことを察したようだ。
「うむ、頼む。……カネの取り立ては大事じゃからな! 死んではいられんな!」
「だよね! ちゃんと貸したものは返してもらわないとね!」
お金は大事だ! 筋力と同じくらいには!
「ならば、構わん」
生きて帰るつもりがあるなら、良いということだろう。
「ワシの取り立ての代理人をするというならば、おちおち死なせるわけにもいかんのう」
ガスはにやりと笑って、こう言った。
「この街には、《上王》に挑んだ戦友どもの装備も残っておる。
――仲間のものも含めて、少し新調していかぬか?」
「もちろん!」
僕も笑って、頷いた。




