17
――竜の咆哮による、森の生物たちの狂奔。
その被害は各所で報告されており、急いで戻った僕はそのまま対応に追われた。
各所に冒険者や神官を派遣し、《白帆の都》と忙しく手紙をやりとりし……
「…………」
そして、それらが一段落ついた今。
僕は、《灯火の川港》にいた。
今でも、断続的に竜の唸りは響き続けている。
それに伴って、流石に初回ほどの狂奔はないにしろ、さまざまな生物が生息域を移すことで衝突が発生している。
当然、人的被害も少しずつ、出ている。
街道を行き交う人や車馬は減り、船の往来もこころなしか寂しい雰囲気だ。
誰もが《鉄錆山脈》に住まう邪竜――唸りをあげるそれが竜であるという噂は、驚くほど迅速に駆け巡った――を恐れている。
竜というのは、それほどの脅威だ。
それが目覚め、気まぐれに飛来しただけで、《灯火の川港》はおろか、《白帆の都》すら滅びかねない。
人はいずれ死ぬ。
だけれど己の死そのものが唸りを上げるのを耳にして、平静でいられる者はどれだけいるのだろう。
「…………」
僕は今、鎧戸を閉め切った薄暗い執務室で、魔法の灯りの下、《賢者の学院》からの手紙に目を通している。
《惑わしの司》ハイラム師から、手紙の返信がきたのだ。
邪竜についての情報は、不死神がもたらしたそれを裏付けるものだった。
《災いの鎌》ヴァラキアカ。
神話の時代から生きる、真なる古竜。
その爪は鉄を裂き、その鱗は英雄の剣を折る。
そして、その気性を映したかのような、邪毒と熱狂の吐息。
――邪毒と熱狂。
その性質とは、忘れもしない3年前に遭遇している。
奈落の悪魔たちの邪悪な研究によって生まれた、異常なワイバーンやキマイラが帯びていたものだ。
悪魔たちは、眠りについた邪竜から溢れる吐息を利用して――それを魔獣に混ぜた上で、飼い慣らす研究をしていたのだろう。
間違いなく、邪竜とともに高位の悪魔が居る、とハイラム師は手紙で警告していた。
あるじに不吉を知らせるという、彼の杖の煙水晶が、ほとんど濁りに染まってしまった。
それでも貴方はゆくことを選ぶかもしれないが、逃げることは恥ではないと、彼は滾々と説いている。
「貴方はゆくことを選ぶ、か」
どうしてハイラム師は、そんな風に思ったのだろう。
彼はいったい僕を、どういう風に見ているのだろう。
――僕はまだ、こうして悩んでいるというのに。
これから竜は目覚めるだろう。
不死神や、《ヒイラギの王》がああ言うということは、犠牲者も出るのだろう。
恐らくはまず、目覚めた竜が戯れに近隣の集落を襲い、人が死ぬ。
そして、ただそれだけに終わらない。
竜がいつ飛来するかわからない場所で、活発で円滑な流通が成立するわけがない。
物の流れは滞り、車馬や船舶の行き交いは絶え、再び魔獣たちが人の領域を我が物顔で闊歩する。
流通に支えられた商工業は次々に破綻し、失業者が出るだろう。
食い詰めた者が犯罪に走り、治安は悪化し、行政は無力となりその権威は地に落ちる。
多分、竜の爪にかかる以上に沢山の人が、竜の戯れから起こった波に呑まれて死ぬ。
一つの地域、一つの社会が、たった一頭の竜によって、破綻する。
それは、僕にとっては許容できない事態だ。
動かなければならないことだ。
それも、竜が動いてからでは遅い。
直接の犠牲者が出れば、もうその影響の波及は止められない。
竜の牙が人を引き裂く前に、未然に解決しなければならない。
それなのに、僕はまだ、動くことを決断できなかった。
巷では聖騎士は臆病風に吹かれたと、そう言う人もいるらしい。
それも、まるきりデタラメとも言い切れない。
――【汝は灯火の加護もて竜に挑み――そして、力及ばず敗れ死す】
不死神の言葉に、嘘偽りの気配はなかった。
僕では勝てない。
現状の僕の力では、勝てないのだ。
……そう自覚した時から、僕は踏み出せなくなっていた。
気づけば、手を組んでいた。
◆
どうすれば良いのか、分からなかった。
縋るように灯火の神さまに祈りを捧げる。
けれど、何の手応えもない。神さまは何も答えてくれなかった。
――当たり前だ。
神さまは便利な取引相手でも、気安い友人でもない。
だけれど、今、僕は神さまの声が聞きたかった。
お前ならば勝てると言って欲しかった。
あるいは、勝てなくても戦え、正義を示せと命じて欲しかった。
そう言ってもらえれば。
言ってもらえさえすれば、きっと僕は、戦いに向かえるのに。
「う……」
呻きが漏れる。
前世の記憶が、瞬くように脳裏によぎる。
薄暗い部屋。
モニターの明かり。
踏み出せない自分。
時が無為に過ぎてゆく。
時が無為に過ぎてゆく。
胸を焼く焦燥。
時が無為に過ぎてゆく。
呻きをあげる。
涙を零す。
それでも時は、無為に過ぎてゆく。
踏み出せない。
踏み出せない。
何度も勇気を振り絞ろうとして、それでも踏み出せない。
踏み出せないまま、ぬるま湯の現状維持に浸り、そしてゆるやかに破局が迫る――
「うう……」
あの時から、僕はどれだけ変わったというのだろう。
違う世界。
違う環境。
鍛えぬかれた身体。
不思議な魔法の力。
神さまの奇跡の力。
物語の英雄みたいな能力を与えられて。手に入れて。
ずっとそれらしく振舞ってきて、それで――
――それで、僕の何が変わったのだろう?
強くなって、できることが増えて、だからどうした?
挫折に対して、立ち向かえるようになったというのか。
絶望に対して、何かができるようになったのか。
……結局、ふがいない性根は、前世のままではないのか?
心の奥底。
真っ黒な泥のなかから、濁った声が響く。
……絶対に勝てる相手と戦って勝つのは、痛快だったか?
英雄として褒めそやされ、謙遜して見せるのは、さぞ気持ちが良かったろう?
この世界でなら成功者になれると、お前はそう、ちらとも思わなかったか?
愛されて育って。
凄い力を手に入れて。
仲間たちの中心になって。
尊敬されて、認められて。
楽しかっただろう?
――でも、勝てない勝負となれば、こんなものさ。
心の奥。黒い泥から、ごぼごぼと声が響く。
泥の奥には、前世の僕が居た。
僕が、笑う。
分かっているのだろう? とばかりに。
――僕は君で、君は僕なんだから。
ぎゅっと胸を抑える。
分かっている。
自分でも、分かっている。
これが単なる弱気だっていうのは、よく分かっている。
いつかマリーに叱り飛ばされた時のような、自分の卑屈な面だ。
でも今、もう、叱ってくれるマリーは、いない。
いないのだ。
自分で立たなければ、ならない。
――けれど。
自分の足で立ち上がるには、どうすればいいのだろう。
前世は、ずっと倒れたままだった。
今生でも、多分、マリーがいなければ倒れたままだった。
一体どうすれば立ち上がれるのか、僕は知らない。
ぐるぐると、思考が堂々巡りをする。
いま、自分がいけない状態に陥っていると分かりながら、どうしていいのか分からない。
……いつまで考え込んでいたのだろう。
ノックの音が響き、僕は顔を上げた。
「入るぞ」
無遠慮に扉を開けて、メネルが入ってきた。
彼は薄暗い室内に顔をしかめると、小さく光の妖精に声をかけて、室内を照らした。
「また悩んでんな」
「……うん」
そう言うと、メネルは嘆息した。
「それで気づいてなかったのか。……外見ろ。ちょいと面倒なことになってんぞ」
「……?」
言われてみると、少し外が騒がしい。
鎧戸を少し開けて、窓の外を覗いてみる。
――屋敷の前に、たくさんのドワーフが詰めかけてきていた。
◆
「聖騎士殿の意を問いたい!」
「竜を討たれるつもりはあるのか!」
グレンディルさんがいた。
ゲルレイズさんがいた。
他にも見知った人たちが居た。みな、老いたドワーフだった。
彼らは粗末な武器を担ぎ、口々に叫んでいた。
「それを問い、どうするつもりなのだ!」
それと向き合っているのは、ルゥだった。
彼はたった一人で、沢山のドワーフさんたちと向き合っていた。
――彼はもう、あの日のように震えてはいなかった。
「討たれるつもりがあるなら、我ら道行きを共に!!」
「聖騎士殿が恐れの妖精に憑かれたというなら、我らのみでも山に向かう所存!」
「竜を討ち損ねしは我らドワーフが咎!」
「ドワーフが血を流さねばならぬ!」
「不名誉を、血でもって雪がねばならぬ!」
轟々と叫びが上がる。
「やめよ! 死ぬつもりか!」
ルゥが制止の声をあげる。
「竜は難敵! 聖騎士殿は方策をお考えになっておられるのだ、煩わすのはやめよ!」
手を広げ、叫ぶルゥに対して――
「何を命ぜられたかは存じませぬが、時間稼ぎはおやめくだされ!」
「何も命ぜられてはおらぬ! 自棄になるなと申しておるのだ!」
「自棄と申すか!」
「みなが束になり挑んだところで、竜に傷一つつけられぬ!」
「何を――!」
意を問うのみ! 通して頂く! と、一人のドワーフがルゥに向けて詰めより――
「やめよと言うているッ!」
次の瞬間、掴みかかったドワーフを、ルゥが投げた。
鮮やかに投げ落とすと、襟首を捻って首の動脈を押さえ、一瞬で意識を断ち切った。
詰めかけていたドワーフたちが、その手並みに、ざわめいた。
「みなは――みなは、もう私にさえ勝てぬほど、老いておるのだ!
やめよ! 私はみなが無為に死ぬのを、望まぬ!」
背筋を伸ばし。凛と叫ぶルゥの声に、誰もが沈黙し――
そして、歩み出たグレンディルさんが、ゆっくりと口を開いた。
「若……」
「グレンディル」
二者が、視線を交わす。
「若。お見事に御座います。……よう成長なされた。
なれど。なれど、だからこそ。儂は、儂らは」
グレンディルさんの顔は、くしゃくしゃに歪んでいた。
「儂らは、もう、死にとう御座います……」
絞り出される声。
「儂らは、我らが王と共に、死にたかったのです。あの日、あの山の戦いで」
「…………」
「あの日、死を許されず。二百年を生き申した……
誇りを捨て……みじめに流浪しての二百年は、長う御座いました……」
ルゥは無言で、その声と向き合っていた。
「もう良かろう……もう良かろう……もう十分だ、自分は十分にやった、もう良かろう……
そう思い続け、思い続け――そしてついにあの、憎き竜が生きておることが分かったのです!
あの日の続きを望んで、戦いと死を望んで、何が悪いと仰るかッ!!」
グレンディルさんが叫びながらルゥに掴みかかる。
ルゥはそれを受けると、がしりと組み合った。
「通して下され――聖騎士殿の意を伺う!」
「通さぬ!」
グレンディルさんの、老いてなお筋肉質な体が宙を舞い、庭に叩きつけられる。
それを合図にしたかのように、老いたドワーフたちがルゥに向かって押し寄せた。
その全てを、ルゥは次々に打ちのめし、投げ飛ばし、叩き伏せてゆく。
数分、叫びと呻きが交錯する乱闘が続き――最後に立っていたのは、ルゥだった。
「何が悪いかと言ったな、グレンディル」
ルゥはまっすぐに立ち、庭に倒れ、伏せ、呻く彼らに、語りかける。
「みなは、もはや死ぬことばかりで、勝つことを考えておらぬ。
それでは、いかん。それでは、いかんだろう。
……誇り高き山の戦士が命を捨ててかかるときは、勝つためにこそ」
その目はまっすぐで。
その声は、優しかった。
「そう教えてくれたのは、みなではないか」
――常日頃から、あいつらは考えている。
――自分の命をなげうつに足る、戦う理由とは何かってことを、だ。
ブラッドの言葉が、脳裏に蘇る。
「大丈夫だ。心配するな。みなよ、約束しよう」
――そして、それを得た時。
「聖騎士殿は、必ず決断なされる。
その時こそ私が共に向かい、ドワーフの名誉を再び勝ち取ろう!」
――奴らは魂を燃やし、勇気の炎とともに戦いに臨む。けして死ぬことを恐れない。
「《くろがねの国》の最後の君主、アウルヴァングルの名にかけて!
――その孫たる、このヴィンダールヴが、父祖の山々を取り戻す!」
その叫びは、ドワーフたちだけでなく、僕にも響いた。
……どくん、と心臓が鳴った。
胸のうちから、じわりと、熱が溢れてくる。
そうだ。彼は、ルゥは、そういうひとだった。
酒場で会った時も、従士になると叫びを上げた時も。
ずっと、勇気のあるひとだった。
――そして僕は、彼の捧げる『まこと』を、我が手で守ると誓ったのだ。
「……アイツ、格好いいよな」
「うん」
「負けちゃいられねぇな」
「うん」
メネルの呟く言葉に、頷く。
「なぁ、覚えてるか?」
「何を?」
「お前の誓いだよ」
そう言われて、僕は小さく苦笑した。
「ごめん、ちょっと忘れてた」
「はっ、だと思ってたよ、馬鹿野郎。いつかは人に偉そうに言った癖しやがって」
――我が生涯を、あなたに捧げる。
――あなたの剣として邪悪を打ち払い、あなたの手として嘆くものを救う。
「お前はいつだって、どっちが得か損かなんて考えの外だったろ。
慣れねぇこと考え始めるから、そうなるんだよ。
そうするべきだから、そうしてきたんだ」
今度もそうすりゃいいんだよ、とメネルは笑った。
僕も笑い返した。
どうやって立ち上がるか、勇気を奮い起こすかなんて、考える必要はなかった。
誰かのために、何かのために。
――がむしゃらに立ち上がって歩いていくうちに、勇気なんて、後から湧いてくるのだ。




