7
かつて、二百年の昔。《くろがねの国》には一人の君主がいた。
短躯で線が細く、武芸が苦手で書を好み、口数の少ない沈思黙考のひと――
名にし負う岩の館、《くろがねの国》の最後の君、アウルヴァングル。
先君から国を受け継いだ彼は、王国を滞り無く運営していたけれど、それでも戦士たちは嘆いたという。
我らが今代の君主は、炎神ブレイズではなく知識神エンライトに愛されてしまったと。
民たちはそんな君主が嫌いではなかった。
戦えるものもそうでないものも、彼はとりたてて区別せずに扱った。
彼には戦士でないものの気持ちがよくわかっていた。
戦士たちはそれが不満だった。
常に危険において先頭に立ち、命をなげうつ覚悟をしている自分たちと、そうでないものが同じに扱われる。
大君は自分たちを軽んじていなさる! 彼らは酒盃を呷り、盛んに嘆いた。
名前ばかり大仰で、勇ましい! なんたることか! 拳を振り上げ、怒りの叫びを上げた。
そんな嘆きと怒りの声のあることを聞いても、君主アウルヴァングルは困ったように笑うばかりだった。
小さな軋轢をはらみながらも、王国はおおむね上手くまわっていた。
平和な時代であった。
国が繁栄を謳歌していて、幸福は満ち溢れ、小さな不幸はあれど手を差し伸べる余裕がある人がいて。
路傍で、世を恨み、怒りと苦しみのままに生涯を終えるような人はいなかった。
――けれど、嵐は来た。
奈落の悪魔たちの侵攻。大いなる破局。
《大連邦》に名を連ねる、南の国々は次々と敗れ、焼かれ、悪魔たちの軍勢は《くろがねの国》にも迫っていた。
――その悪魔の王を示す称号は数あれど、そのまことの名を知る者は誰もいない。
其は《不死の剣魔》
其は《王の中の王》
其は《無垢なる邪悪》
其は《尽きせぬ暗黒》
其は《戦嵐の駆り手》
其は《哄笑するもの》
……其は《永劫なるものどもの上王》
敗勢は明らかだった。
サウスマーク大陸の南方諸王国は、いずれも悪も諸勢力との最前線たる、精強で知られた国々。
それらを薄紙でも破るかのように陥落させた《上王》を相手にしては、名だたるくろがね山脈の地底回廊をもってしても、幾日保つか。
しかも《上王》の軍勢の中には、いにしえの竜までもが参陣したというではないか。
戦士たちの誰もが青ざめ、言葉を失った時――使者が来た。
悪魔の使者だった。
「――《上王》につかぬか」
その悪魔はそう言った。
《上王》は剣を好む。
《上王》は軍勢を作るが、武器は作れぬ。
その職人の腕をもって仕えるのであれば、くろがねの山々は見逃そう。
戦士とは民を守るものなれば、それが正しき答えではないか。
「如何?」
悪魔は三日後に答えを聞くと告げ、去っていった。
苦い顔をしたドワーフたちが取り残された。
――それから、議論は紛糾した。
箝口令を敷いたはずが、噂はあっという間に流れ、誰もがそのことを口にした。
もしかしたら、それも、足並みを乱そうとする悪魔の手口だったのかもしれない。
君主だけが無言だった。
元が閉鎖的なドワーフたちだ。
武器を売る相手が変わるだけならば、それも良いではないかという者もいた。
赤子を抱く母は、戦火に巻き込まれたらこの子は死んでしまうと訴えた。
君主だけが無言だった。
もちろん、悪魔どもなど信頼できぬ、命尽きるまで戦うべしと言うものも大勢いた。
けれどどう戦うかとなると、議論百出。さまざまな話が出て決着がつかない。
誰もが混乱し、誰もが感情的になり、叫んで喚いて――刃傷沙汰さえ何件も起こった。
誰もが迷っていた。
君主だけが、やはり無言だった。
そして、臣下たちが何も決められぬままに約束の日となった。
無言だった君主アウルヴァングルが、始めて言葉を発した。
「私が決めよう」
彼はそう言って、返答を受け取りに来た悪魔の前に歩み出た。
「答えは?」
「これだ」
アウルヴァングルは抜き打ちの一撃で、迅雷のように悪魔の首を刎ねた。
悪魔が、どうと倒れた。
振り抜かれた《くろがねの国》の累代の霊剣、《夜明け呼ぶもの》は、悪魔の返り血を寄せ付けず、冴え冴えときらめいた。
「貴様らが欲していた鉄だ。欲していた武器だ。――存分にくれてやろうではないか!」
小さく細いドワーフの君主が、剣を掲げた。
民は沸き立った。
戦士たちは涙を流して声を詰まらせた。
彼らは、自分たちが己が君主を見誤っていたことに気づいたからだ。
彼らは伏して詫び、自らの不明を君主に詫びた。
その時、倒れ伏した悪魔の首が笑い出した。
「竜が来るぞ」
口から血泡を零しながらの、不吉に濁った声だった。
「竜が来る! 竜が来る! ヴァラキアカ! 災いの鎌が下る!」
白目を剥いた悪魔の首が、狂笑し、叫んだ。
「何一つ残らない!」
その首を、アウルヴァングルは踏みつけて潰した。
そして、彼は一言だけ、
「そうはさせぬ」
と呟いた。
◆
戦の準備が進んだ。
斧。盾。兜。鎧。
くろがねに身を包んだドワーフの戦士たち。
「奈落の悪魔どもを引きつけ、すべて地の底で殺す」
君主アウルヴァングルはそう宣言した。
「この地底回廊を、やつばらの墓場とせよ」
全ての民と戦士がそれに従い、悪魔たちを殺す支度を整えた。
凶悪な罠。複雑な迷路。籠城戦の支度。
たったの数日でそれを済ませると、アウルヴァングルは次に大広間で、こう命じた。
「全ての戦士ならざるもの、及び未熟な若き戦士は、くろがねの山より退去せよ」
その命令に、民たちは反発した。
彼らも、彼らの君主とともに死すつもりであったからだ。
足手まといだとでも言うつもりか。
我々もご一緒させて頂きたい。
轟々と巻き起こる怒りと失望と懇願の声に、しかしアウルヴァングルは静かだった。
ひとしきり人々の声を受け止め、その勢いが減じた時、彼は《夜明け呼ぶもの》の鞘の先端で床を突いた。
響き渡った音に、ざわめきが更に減じる。
それを見はからうと、柄頭に手を置き、彼は胸を張ってこう言った。
「諸君、私は死ぬ。山に残る、全ての戦士たちも死ぬであろう」
その言葉に、人々は静まり返った。
君主アウルヴァングルの言葉は、死にゆくものの言葉であった。
「――だが、《くろがねの国》を死なせてはならぬ」
その言葉は、静かな決意に満ちていた。
「諸君。私は諸君を、己が子の如く思っている。
その諸君に、このような身勝手を命ずる苦しみに、我が胸は引き裂かれるようだ」
だが、敢えて命ずる。
君主アウルヴァングルは言った。
「生きよ!」
君主は言葉を続ける。
「故郷を失い、汚辱と悔恨に塗れようとも! 山を下り、生きよ!
それこそが、私が諸君に命ずる戦いである!
諸君は逃げるのではない、異なる戦場を今より預かるのだ!」
大広間に声が響き渡る。
「我ら王と戦士は、誇りを守り名を守り、祖霊の眠るこの山でみな死のう!
諸君は誇りを捨て、生に全てを賭けよ! 炉の火を絶やしてはならぬ!」
そうして彼は、大きく息を吸い、もう一度だけ叫んだ。
「諸君、生きよ! 生きて戦え! 再起の時まで!」
それが、
「――これが、我が最後の命令である!」
それが《くろがねの国》、最後の君の、生き残りたちが知る最期の言葉だった。
彼は戦士たちを連れて、大広間を去った。
そして悪魔たちとの決戦の準備を整え――おびただしい悪魔の軍勢と、いにしえの竜さえ迎え撃ち、戦い抜いてみな死んだ。
そして山を下った民と、それを守る戦士たちは、故郷を失い放浪の民となった。
おびただしい難民たちとともに北へ渡り、苦難と、汚辱に満ちた生にあって――
それでもなお、歯を食いしばり、王の言葉を胸に二百年。
あるものは職人として。
あるものは傭兵として。
二百年を、生き抜いてきたのだ。
◆
「……それが、我らの秘。くろがね山の民たちの、言い伝えに御座います」
酒精で顔を赤くした禿頭のドワーフ、顔役のアグナルさんがそう言った。
「私は、当時はまだ生まれてもおりませんでした。グレンディル殿は……」
白髪のドワーフ、グレンディルさんは泣いていた。
お酒が入っているのもあるけれど、本当にもう、ぼろぼろと泣いている。
あの後、昔の話を願ったのだけれど、彼らは静かに頷いて語ってくれた。
長い話になるからと、水の代わりに平然と火酒が出てくるあたりがドワーフのドワーフたる所以だろうか。
「儂は……儂は当時、近衛の戦士となったばかりで……」
ぐずぐずと、子供のように鼻をすする。
「先達の戦士らと、ともに戦うこともできず……ただ、命に従って……民とともに……うっ、ううう……」
アグナルさんが気遣わしげにグレンディルさんを見ている。
「それも、楽なものではありませんでした……
寒い中でした……辛い道行きに耐え切れず……子供が……子供が、死んでゆくのです。
笑って、頑張ろうと周りを励ましていた、明るい子供が……だんだんと疲弊して、笑うことすらできなくなり……
疲労で虚ろとなり、ただの風邪で、動くことすらできなくなり…………そのまま、死んだ。担いだ、儂の背で、死んだ……っ!」
長い行列を狙った、はぐれ悪魔の散発的な襲撃。
乏しい食料を巡る不和。
街にたどり着いても大量の難民。
北へ渡っても、同様の難民に紛れて容易に職は得られず……
「何人死んだかなど、もはや覚えておりませぬ。
……泥を啜り、木の根を齧るなど生易しい。
若い女は子に一杯の粥を飲ませるために春を売り、見かねた男どものうちには、盗みを働き打ち殺されるものもおった。
骨と皮ばかりになり、物乞いの真似事までして……」
僕はじっと、その話を聞いていた。
王の勇気に、民の悲嘆に、僕の目にも気づけば涙が浮かんでいた。
「それでも、生きた。……生きたのです。
二百年、生きた。何とか生きた……」
グレンディルさんが、呟いた。
「そうして、ウィリアム殿。
あなたがここまで……ここまで、人の手に戻して下さった。
それどころか、ともに泣いてすら下さる」
グレンディルさんは鉄錆山脈……いや、くろがね山脈の方角を、振り仰ぐ。
「いつか、帰れる。いつか、戻せる。
いつか我らは、我らが主君の言葉を果たせる……」
その声は、震えていた。
「そう信じられることの、なんと尊いことか……ありがたいことか……」
ありがとう、ありがとう。
グレンディルさんは、僕に何度もそう言いながら、ゆっくりとお酒のもたらす眠気に崩れ落ちた。
話しにくいこと、辛い思い出だからと、強いお酒を何度も何度も呷っていたのだから、当然だ。
「…………」
「胸の内を打ち明けられて、グレンディル殿も嬉しかったことでしょう」
アグナルさんが、目を細めながらそう言った。
「……お分かりでしょうか。我らの来歴というのは、そのようなものなのですよ」
「言いづらいことを……本当に、ありがとうございました」
「いえ」
と、そのようなやり取りを経て。
僕は、アグナルさんの屋敷を退出した。
お酒を交えながら、昔話を夢中になって聞いていて、時間経過に気づいていなかったけれど――外に出ると、もう夕方になっていた。
ドワーフさんたちも、仕事を終えて自宅に帰るか、酒場に立ち寄るふうな流れだ。
僕は色々なことを考えていた。
くろがねの山のこと。
生き残ったドワーフさんたちのこと。
当時の大君アウルヴァングルさんの想い。
あるいは同時代を生きたブラッドやマリー、ガスのこと。
おそるべき《上王》のこと。
繁栄して、平和だったという《大連邦時代》のこと。
……そして、《ヒイラギの王》の予言。
ぷらぷらと歩きながら、とりとめもなくそんなことを考えていると――
気づいたら、ずいぶん暗くなっていた。もう夜だ。
この世界の夜は、灯りが少ないので前世に比べて暗い。
ここはどこの通りかな? と無個性な家々を前に困っていたら、酒場の灯りが目に入ったので、そちらへ歩いてゆく。
流石にお店の看板を見ればどこの通りかくらいは分かる。この街の規模はその程度だ。
すると、なんだか騒動の音が聞こえてきた。
誰かが誰かを殴る音。
酒場の喧嘩? と思いつつ足を早めると、酒場の扉を破って誰かが突き飛ばされてきた。
――慌てて受け止める。編んだ赤茶けた髪が、ふわりと舞った。
「あ」
見れば、朝の鍛錬を見に来たあのドワーフさんだ。
彼はなんだか、ボロボロにやられていた。




