新世界よコンニチハ(終)
三人が横穴を抜けると、そこは海だった。小さな即席の浮き桟橋があり、その先に一隻の船があった。
見るからに小さく、とてもではないが遠洋に出れるようなものではない。嵐にでもあってしまえばひっくり返ってしまいそうであった。
これから切支丹たちは、この船に乗って遠い島原の地を目指すというのか。
仲間の元へと向かうお通を見ていると、無理だとは言えなかった。ここに残っていても、死からは免れない。であれば、わずかでも希望のある方へと行くべきだろうということはわかっているが、それでも止めたくなってしまう。
「佐之助、一緒に来て」
お通がそう言った。彼女は風津へと手を差しのばす。
「心強いし、それに……一緒にいたい」
幼馴染の又八を斬った。そう知ってもなお、誘いをかけるのはなぜだろう。風津は彼女に嫌われると、いいや、きっと恨まれるだろうと思っていた。それでも生きて欲しいと願ったはずなのに。
「きっと必要としてる人が、向こうにはいっぱいいるよ。生まれのことだって誰も知らない。そんな場所なの。ううん、そんな場所にしてみせる。だから!」
それは風津を助けるためというより、悲痛な叫びに聞こえた。
彼女もまた許されたいのだ。自分が生きていることを。誰かを守ることで。誰かを生かすことで。
風津は空を見上げた。
今日は絶好の花火日和だった。黄昏の空は雲ひとつなく、日の赤から夜の青へと変わっていく。一番星だって見えている。
「俺は行かねえよ。いいや、行けねえんだ」
「どうして! いっぱい、いっぱい辛い思いをしてきたじゃない!」
「なあ、お通」
風津は彼女へと声をかける。もう時間は残されていない。医療屋敷の焼け跡から、自分たちが忽然と消えていることはすでにわかっているはずだ。横穴を通って公儀の者たちがここへやってくる。
それでも、伝えなければいけないことがあった。
「俺はいま、幸せに見えてるか?」
そっと珊の手を引き寄せた。驚く顔を浮かべる彼女であったが、手を握り返してきた。
お通はそんな風津と珊を交互に見る。その様子に何かを納得して、涙を浮かべながら顔を伏せた。
「そっか、そうだったね。一人じゃなかったんだったね」
「俺はここで、まだまだやりてえことがある。悪いな、おめえをまた一人にする」
「それがあんたが選んだ道なら、いいよ」
そう言ってお通は船に乗り込む。最後にとびきりの笑顔を見せたのは、別れ際を飾るためだろうか。それとも、笑顔の自分を覚えてほしかったのだろうか。
「じゃあね、風津。それに珊ちゃんも。元気でね!」
「ああ、おめえも、達者でな」
「お通殿! この借りは必ず!」
その言葉を最後に、船が出る。桟橋を離れて、遠い海へと向かっていった。ただでさえ小さな船が、どんどん小さくなる姿は不安にさせたが、願わくばどこまでも遠くへと行ってほしいとも思った。
台場町の方へと振り返ろうとして、珊と手をつないだままであることを思い出す。二人は同時に気づいて、そっと離した。
日も沈んできた頃合いであった。二人は頷いて、海に背を向ける。
「見せつけてくれるねえ、お二人さん」
そのように声をかけてきたのは、横穴から出てきた男だ。眼帯をした彼の姿は、ついさっき見たはずなのに遠い過去に出会ったもののようにさえ感じられた。
なっ、とうろたえたのは珊である。
「や、柳生但馬守三厳……様!」
「無理して様をつけんでもいいっての」
柳生三厳は珊にとっては上司のようなものである。敬称で呼ぶのも無理はない。
一方で、彼がここにやってくる理由などもはやわかりきったことでもあった。風津と珊の二人は深い構えをとった。
「おいおい、穏やかじゃないなあ」
なおもおどけてみせるが、その目は真剣そのものである。それも、並大抵の者であればその殺気に気づかぬものだ。風津の額に冷や汗が流れた。
「てめえ、何しに来た」
「んなこと、お前さんが一番わかってんだろ。切支丹どもを逃した、これがいかなる罪に問われるかわかってんのか?」
「俺は逃したつもりはねえぜ。あいつらが勝手に逃げたんだ。それに、俺が受けた依頼は親玉を取っ捕まえることだけだからな。他のことは知らねえよ」
「よく言う。それはきちんと仕事をした奴が言うもんだ」
三厳はそう言って、刀の柄に手をかけた。緊張感が高まる。一触即発の空気は、風津を自然と強張らせた。
この場において二対一である。柳生三厳と言えども風津と珊という卓越した武技の使い手を相手にするのは厳しいだろう。
しかし、この浮き桟橋という場は厄介であり、三厳の有利に働くだろう。何せ彼は、一歩引けば陸地へと降り立つことができ、安定した足場を得るのである。剣の技において、踏場を持つことがいかに重要かなど説くまでもない。
「ま、待つでござる! 拙者に如何様な沙汰を下そうと構いはせぬ。いいや、そもそも拙者が敵方にこの身を奪われるなど、あってはならぬこと。罰を受けるべきは拙者でござる!」
「ふうん……」
三厳は途端に警戒を解いた。柳生新陰流における水月の境地、その構えにも似ていたが、殺気すらも霧散していた。
そして二人を見て、にんまりと笑う。
「俺は珊なんて奴、知らねえな」
「は、え?」
混乱する珊をよそに、彼は続ける。
「そんな奴、公儀隠密にいたかねえ。俺が知ってる絡繰の忍者と言えば、霧隠才蔵と石川五右衛門をおいて他にはいねえ。珊なんてやつ、知らん知らん」
はっはっは、と笑って三厳は横穴へと戻っていく。ぽかんとして、珊はその後ろ姿を見ていた。
彼の姿が見えなくなってから、風津は珊の頭をぽんぽんと叩く。
「……拙者はもう、公儀の者ではないのでござるな」
寂しそうに、珊はそう言った。三厳の残した言葉は確かに、もはや珊は公儀隠密の籍はないということであっただろう。
だが、これで終わりではないだろう。霧隠才蔵がいるし、何よりこれは風津への貸しなのである。今回のところは見逃そう、しかし次はない。この借りはいつか回収しにくる。そういう脅しのようにも風津には聞こえていた。
「それでも一件落着ってやつだ。それに行く場所がないなら……」
風津は言いながら、自分がとても恥ずかしいことを口にしようとしていることに気づいた。語尾がどんどん小さくなっていく。珊の顔を伺えば、彼女は何も気づいていないようであった。
「これから行く場所がある」
そのように言い直した。ようやく珊は顔を上げる。
「どこへでござるか?」
「とりあえずついてこいよ。悪いようにはしねえさ」
歯を見せて笑うと、珊の不安そうな顔がより深くなっていった。
* * *
「ふ、風津殿、この服は、いささか、いささか恥ずかしゅうござる」
そのようにして、裾を抑えている珊は、いつも以上に顔を赤くしている。
いま彼女が身につけているのは白い衣服であった。ワンピースなるものであるとシーラからは聞いていた。和蘭では庶民的な女の服であると言うが、彼女が用意したものは細かな刺繍がほどこされており、その細かな装飾は京繍を思わせた。
裾が広がっているのは、日ノ本では見られない形である。そして腰も帯で締められており、ほっそりとした影を生み出している。素朴であったが、華やかさを兼ね備えていた。年中は着れずとも、暑い夏には心地好さそうに思える。少なくとも着る者が人であれば、であるが。
慣れない服に足元をおぼつかなくさせている珊は、一歩前を歩く風津の袖をつかむ。長い髪はいつもと違いまとめられておらず、布のように翻った。
「なんだか足に風が通っておるし、拙者の球体関節が丸見えでござる!」
「恥ずかしがるのはそこか!?」
「くう、このようなことをシーラ殿と企んでおったとは……」
二人が出てきたのは、和蘭東印度会社の商館である。
風津は以前より足繁くシーラの元を訪れていた。そのたびにどのような訳あってのことかと珊に問い詰められたものの、何とかはぐらかして今日このときまでやってきたのだった。
決して安い買い物ではなかった。舶来品であるから、本来なら新品の着物を一着拵えることができるほどの額はかかったはずだ。そこを風津は何度も話を重ねることで、どうにか手の届く値段にしてもらったのである。
このワンピース、実のところシーラ自身が幼い日に着ていたものを直しただけだそうであるが、使い古された様子もなく、状態もとてもいい。
最初は嫌がっていた珊であったが、先ほどまで纏っていた戦闘服の方が圧倒的に露出が多いことと、その身体も医療屋敷が燃えた際の煤で汚れてしまっていたために、渋々であったが着ざるを得なかったのだった。
なおも恥ずかしがる珊を見かねて、風津は声をかける。
「似合ってるぞ」
「……風津殿はずるいでござる」
そう言ってそっぽを向く珊であったが、決して離れることはなかった。
二人は雑踏の中を抜けていく。人々はみな、空を見上げながら海の方へと向かっている。
この日は花火大会であった。そのことを珊は失念していて、気づいたときには途端にしおらしくなっていた。
「ど、どこへ行くでござるか。花火は海の方が見やすいと聞いているでござるが」
流れに逆らっている二人は、珊の服装や風津の髪も相まって注目を集めている。
珊は後ろをしっかりとついてくる。風津はなにも言わない。
「ずっと、ずっとこの日のために、用意していたのでござるか?」
珊は尋ねた。なおも風津は答えない。
いつもならもっと問い詰める珊であったが、このときばかりは何も言わなかった。どちらも答えのわかりきった問いであったからだ。
二人が暮らしている長屋に着くと、風津は屋根の上に上がった。珊も同じように跳んだが、いつもと違う服装であるからか上手く着地できなかった。そんな彼女を風津は手で支える。
そして屋根の一角につくと、ぽんと敷物を叩いた。
「よし、ここ座れよ」
「むしろまで用意していたのでござるか」
「俺がこういう準備を怠らないってのは、知ってんだろ」
風津がそう言うと、珊は頷いて座った。その隣に、少しの距離を空けて風津も座る。
二人の間に沈黙が流れた。いろんなことを言うべきだろうと思った。あのとき、どうして敵方へと回ったのか。お通との別れはあれでよかったのか。公儀から抜けた珊は今後、どのようにして振舞っていくべきなのか。
けれども、そんなものを吹き飛ばすような照れと羞恥があった。珊は簪を手で弄ぶと、髪をまとめては挿して調整をしている。
風津は自分が女も知らぬ童になったようにさえ思えた。むしろ、そのような感覚は初めてであった。いままで様々な出会いをし、恋をし、女遊びもしたものであったが、自分の中にある純に気づいてしまった。今にも逃げ出したい気分であったが、それ以上にここにいたいという思いがあった。
そんな静寂を、一発の轟音が引き裂いた。
大きな花が空に咲いた。光が空を照らす。まるで星を、手に届くところまで持ってきたかのようであった。
珊が感嘆の声をあげた。花火を見たことがないのだろうか。もしかすると、腰を落ち着けて何かを楽しむことさえ、なかったのかもしれない。
自分はどうか。風津は思い出す。かつて花火を見た。二人の幼馴染とともにだった。いま隣にはいない、自分の手で切った縁であった。
ふと、手が重ねられた。珊がその手を握っているのだ。
これではいつぞやの時と、立場が逆ではないか。
「風津殿。拙者は、珊はここにいるでござるよ」
空に滲んでしまった花火を見ながら、ああ、と息を吐いた。二人の指がそっと絡まった。




