泣かないです。好敵手
言葉を紡ぐ事をこんなにつらく感じた日が来るとは思わなかった。
「・・・もう、ピアノ辞めたんで」
「こんな綺麗な指して、嘘つくなよ」
うん・・ウソです。先輩、今もそして昨日でさえいつの間にか指が動く。
白と黒の鍵盤を私の指は叩き続ける。
それでも最近・・やっとその回数は減ってきてた。
あの日・・そう決めたの。
好敵手を諦めない代わりに、ピアノだけは、諦めようって。
馬鹿みたいに、それを願掛けの代わりにしてた。
でも・・どうしても・・・私の指はピアノに取りつかれてる。
「先輩・・・私忙しいので・・」
逃げよう、そう決めた。このままこの場から逃げようと足が向きを変えようとした時、やはりタイミングをよく手を掴まれた。
「好きだったよ・・・ずっと」
そう聞こえた。いくらなんでも酷過ぎる空耳だった。
そうであって欲しいのに、掴まれた手が僅かに震えていた。真剣過ぎる視線が私を射抜く。
「先輩・・ふざけ」
「ふざけてない・・・受験がきっかけだった。香月がR校を受験するって聞いて、同じ所を受ける事が嬉しいって思わなかった自分に本気で驚いたよ。・・・でも俺は中2病だったからさ、あいつが俺を好きになってくれるなんてないって思ってたから、フラれるためだけに告白した。バカ見たいにただただ気持ちの区切りをつけたかったから。」
知らなかった事実に私の心が嫌な音をたてる。
香月先輩と上手くいったんですか?・・・聞きたいことが言葉が上手く音にならなかった。
「でもな、あいつにOKもらってお前と別れて、受験勉強を香月としてても・・お前のピアノが俺を」
ダメだ。これ以上聞いてはダメ。
「先輩っ!!」
遮るためにあげた声が悲鳴のようになってしまった。
「・・・・お前の事が好きになってた」
確かに音は、空気を震わせ、私に届く。
そして聞いてしまった・・・。心が壊れる音がする。
その頃の思い出が走馬灯のように流れていく。その中の自分が私は大嫌いだった。
「ふざけないで下さいっ!・・・先輩が言ったのに・・・」
好きもなにも言えないようにして、私の傍に居て。
でも欲しい言葉はくれる。
「好きだったのは、私。・・・あの時キスだってした癖にっ」
気まぐれなキスをして。
でも好きは言わない・・・あなたが大っ嫌いで・・・大好きだった。
「っ!!」
私の言葉に彼が息を吞んだ。そして目の前の顔が滲む。
泣いてない・・泣いてない。
絶対泣かない・・・そう決めてたのに。
「悪い・・・でもな、香月と別れて、・・気づいたらピアノを弾いてた。お前みたいに弾きたかったから」
頬が熱い。
なんで・・・どうして・・・。
コレは何?
「必死だった・・とにかく必死に。通ってたピアノの教室で一番になった俺がコンクールに出て・・・もしかしたらお前に会えるかもってずっと俺は弾きつづけてたんだ。」
聞こえてくる先輩の過去。
私の知らない先輩・・・。
「コンクールの冊子・・まだ持ってるんだ。お前の番号・・・印をつけて」
「・・・私が・・・ピアノを弾かない事がそんなに嫌なんですか?」
震える声を何とか繕って、そう問う。
嗚呼と力強く頷かた事が・・嬉しい。それでも・・・それでもあなたが大嫌いです。
「あなたのピアノ・・・大切にしてください」
ただそれだけだ。たとえどんな理由でさえ、海外のコンクールにまで推薦される程の腕を大切にしてほしい。
「なんでっ!なんでなんだよっ!!辞めるなっ・・・辞めるなよ梨桜」
あまりにも真剣に必死にそう請われる。
「先輩・・・音楽って一人で向き合うものです。」
そう、それは必然である。
真理だ・・・ソリストは、孤独であり、自身の中の音を奏で続ける戦士だ。
「・・・私のピアノは、・・・私のもの。先輩は先輩の音を」
「知ってるっ、でも俺が・・・俺の」
腕が引かれた。その勢いのままやわらかく抱きしめられた。
「俺の音楽はお前から生まれたんだ・・・」
音が・・・聞こえない。まるで心音だけの世界に居るようだ。
いつもと違う・・・クリアな視界。
私を抱きしめる人・・その人の胸が目の前にあるのが普通で。
こんな風に桜を見ることが出来ない筈だ。一瞬浮かんだその腕の持ち主のバカにしたうような顔で正気に戻った。
目の前の肩を思いっ切り突き飛ばす。
「っおわ」
「いい加減にしてくださいっ・・・・私も」
「俺がお前を好きでも・・・ダメなのか?」
やめて・・・。
なんでそんな事言うの?
絶望に打ちのめされた顔・・・そんな瞳で私を見ないで。
前の・・中2病のあなたは、もっと・・・。
「梨桜ーーー」
声・・・こえ・・・孝之。
この声は、孝之の・・・。
やっと耳が捕らえた声は、好敵手のものだった。
「先輩・・・音楽と私・・・あなたが欲しいのはどっちですか?」
私の言葉が彼に届くだろうか。
先輩の求めるものが、私なのか、自身の音楽なのかわからないけど、今私は、この人と共に居る事はない。
「それは」
「音は鏡、私の先生はいつも言ってました。全てをのせて弾け」
あなたの音楽を生んだのは、あなたを好きだった私のピアノ。
好きという言葉が言えなかった私の音。
それが全てだった14歳の女の子は、もうここにいない。
「ピアノは、私の心全てです。・・・」
あの日言えなかった。言葉。
「須藤先輩・・・好きでした。・・・さようなら」
そう告げて私は走り出す。
ミュールのせいで痛む足を引きずりながら。




