忘れてくれるなら、きっと笑えます。
私の反撃は、余裕で躱されてしまった。
流石は、剣道四段だ。反射神経は、流石であるが、悔しい・・・。
「おい、見えるって」
「見たんでしょうがっ!避けんなっ!」
「避けなかったらあぶないだろう。ほら、終わったぞ。筋もズレてないみたいだし、家帰ったらしっかり冷やせよ。」
やっと解放された足は、しっかりと処置がされているためか痛みもひいた様に感じた。
「どうも・・・未来の大先生」
「いえいえ、さてと・・・立てるよな」
「当たり前・・・でしょう!」
慌てて処置された足を靴に押し込む。足に走る痛みを無視して立ち上がり車から降りたのは、ニヤリと笑って来る男が次は何をするのかという恐怖があったからだ。
「・・・・なぁ、お前がピアノ辞めるのって俺のせいか?」
「は?」
だけど私の予想を裏切り、急に笑みを消して無表情になった好敵手が私へそう告げた。
この12日間ずっと感じていた違和感の理由に気づいた。そしてこいつが寝る間を惜しんでまでテンペストを完璧に弾きこなした本当の理由も。
「・・・俺が辞めたからか?」
「・・なによ、急に。」
「俺が辞めたから、お前は」
「・・・・・見くびんないでっ!」
私の声は、地下駐車場によく響いた。
そうそう何時までも習い事を競い合えるわけじゃない。私たちはもう大人になってしまった。
自分の生きる世界は、己で選び、そのための環境を選んでそして歩まなければならない。
ピアノが、最後だったのだ。
去年この男が急に辞めるまで、最後の繋がりだった。
だけどそれでも、私は、目の前の男が辞めたからなんて単純な理由でピアノを辞めるわけじゃない。
それだけは、絶対に違う。
「じゃあ、なんで辞めるんだよ」
「・・・あんたに関係ない」
うぬぼれんなっとそう心では言ってやったが、それを口にする事が出来なかったのは、やはり全てを否定する事ができないからだ。
毎日・・・レポート提出、実験の準備・・・苦手科目の予習と時間に追われて、それでも気づいたら、指が勝手に動いてる。
電車に乗ってても目の前の窓ガラスに指を置いて好きなフレーズを指がなぞる。
でも、実際に鍵盤に置いた指が、まるで自分のものではないような動きをした時に感じる喪失感。
それを打ち消そうとして必死にピアノに向かえば、初めて腱鞘炎になった。
別にピアニストが夢ではなかった、それでもいろんな人に褒められて期待されて・・・競う相手がいて・・・一番自分が夢中になれた。
他の子たちがテレビゲームやおもちゃで遊んでいても私の中でピアノが一番だったのだ。
「はぁ、・・・落ち着けよ」
「ため息吐きたいのは、私。この頓珍漢男・・・」
「・・・・悪かった。」
「良し。・・・じゃあ今日は、ありがとう。これでチャラね、後は、忘れてあげる」
そうして歩き出した私の背に声がかかった。
「忘れんなよ・・・」
「はっ?・・・・・ケンカ売ってんの?」
折角忘れてあげようというのにと苛立ちに満たされて私が振り返れば、そこには、あの日見た私の知らない好敵手でも幼馴染でもない男がいた。
「もう、これでライバルじゃない。」
「えっ・・・・」
「だから、これで俺は、もうライバルじゃない・・・」
嫌だ、・・・きっとこれは聞いては、いけない。
此処にいれば、全てが変わってしまう。
ねぇ、忘れてよ。
私も、あんたもきっとこのままでいい。
このままがいいよ、きっと・・・・。




