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このままがいいのです。

 朝8時、広いコンサート会場を震わせたのは、ショパン作曲『幻想即興曲』。

 調律もそしてこの会場の環境も完璧だからこそ、美しく響く音たち。

 流石は、十八番。響かせ方、聞かせ方・・・表現の仕方もあの男らしく、凛として透明だ。


 嫌味なほどに完璧に弾き切った男は、その場で優雅に礼をする。

 その場に居るスタッフ数名と先生、そして準備中の撮影スタッフの人まで拍手する。

 タイプミスは、2度だけ。

 そして私を挑発するように手で手招きした。


 昔からそうだった。ライバルである孝之(たかゆき)が得意とするものは、速さと正確さを求められる曲ばかり、技術面で勝てた試しがない。


 だけど私だって負けてばかりじゃなかった。表現力と聞かせ方ならこっちが上だ。


 檀上に上がれば、どうだと言わんばかりに場所を譲る。

 本当に嫌な奴だ、でもきっとこいつが居たから私は、ピアノを続けられた。


 ゆっくり息を吐く。 幼馴染がそっと離れていったのを背中で感じた。

 静寂が場を支配し自分の心音を聞きながら、鍵盤へと指をおく。


 一音目が美しく響き世界は、私が支配した。



 最後の一音が空気に溶けて行く。

 大きな音をたてないように慎重に立ち上がって、客席の方へ向く。

 礼をすると、聞こえて来た拍手にゆっくりと頭を上げた。

 視線を巡らせて、好敵手を探せば意外にもホール中央の一番良い席、私たちの師の隣に座って、そして一番大きく拍手を鳴らしていた。


 私が弾いたのは、ラベル作:亡き王女のためのパヴァーヌ。


 幼馴染の孝之(たかゆき)が得意とするのは、ショパンやリスト。

 私が得意とするのは、ラヴェルとドビュッシーだ。


 二人とも系統が違う作曲家を選んでいたので、先生たちからは、お前たちが互いに教え合った方が上手くなるのかもしれないとまで言われた。

 足して2乗すれば、天才ピアニストなのにと何度理事長に言われたか・・・。


 拍手が止んでから檀上から降りて、先生と好敵手の元へと向かう。

 発表会の開始時刻は、午前9時。

 8時半には受付開始だ。


「先生・・・・どうでしたか?」


 負けてたつもりはない。完璧に近いものを演奏出来たとも思うが、自信はなかった。

 それほどに好敵手は、上手かったのだ。


「どうって・・・ねぇ、本当に辞めるの?」


「っ・・・・はい。」


 そう、私は今年を最後にこのピアノ教室を辞める。流石に大学との両立が難しいからだ。

 そしてなにより、趣味として続けるにはピアノが好き過ぎて・・・忙しさにかまけて練習が疎かになり、自分の指が思った様に動かなくなって行く苦痛に耐えきれなかったからだ。


「そう、残念ね、高西(たかにし)くんもあなたも・・・ずっと頑張ってたのに」


 幼馴染は、肩をすくめて先生の傍から離れた。この教室で10年以上の経歴を持つ人間は、ほんの一握りだ。

 ほとんどの子が中学生になるまでに辞めてしまうからだ。

 そして中学生まで頑張っていた子も、発表会で上手く実力が発揮出来なかったり、部活動の方が楽しいという理由で辞めてしまう。

 高校生でも続けている子は、音大を目指している音楽家志望の子ばかりだ。


 私もそして幼馴染も実力は、多分上位だとは思う。それでもピアニストという道に進もうとは思えなかったのだ。


 その理由も多分同じだ。十年以上この教室に居るからこそ知ってしまうのだ、自分は、『凡人』なのだと。

 本物の才能を持った子を間近にする機会が多すぎるから・・・。


「先生っ、私が勝ったって事でいいんですよね?」


 暗くなりそうな空気を変えたくてそう明るく言えば、先生は微笑ながらしっかりと頷いた。


「よし!」


 勝利した!その嬉しさにガッツポーズを決めればいつの間にか近くまで来ていた好敵手は、私の頭にその手をのせて、まるで子供にするように撫でてきた。


「よく出来ました・・・・うっ!」


 そう言う男にボディブローを決めた私が、先生から怒られるまで5秒。


 私が悪いんじゃありませんっ!
















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