しがらむ
しがらむ――絡みつく。まとわりつく。また、絡みつける。
父が脳卒中で倒れた。興研設計への入社が決まり、入寮準備の荷造りをしている最中での出来事だった。パニックに陥る養母、多恵をなだめながら救急車で病院へ向かった。多恵を少しばかり看護師に託し、何はさておき祖母の福へ連絡を入れた。
「ばあちゃん、俺」
「穂高はん。珍しいどすな。あなたから電話をくれはるなんて」
祖母の嬉しげな言葉に面映さを感じたのも、ほんの刹那の時間だった。事情を説明すると、福は途端毅然とした声音になって、穂高がすべきことを簡潔明瞭に列挙した。
「解りました。渡部の方は私が連絡しますよってに、あなたは薫への連絡を頼みますえ」
万が一の為に、曾孫達も連れて来るよう伝え添えなはれ、という祖母の言葉が流石に曇った。
「解った。堪忍な、頼りない孫で」
「何言うてますのん。それより、あなたは大丈夫どすか」
多くの意味を孕む福の懸念に、「大丈夫」と答える声が小さくなる。
「私も出来るだけ早う行きます。邦明らが何を言おうと気にしたらあきまへんえ。気丈に堂々としていなはれ」
福はそれだけ言うと電話を切った。
大阪市内に住まう伯父達の方が、宇治に住む福よりも到着が早い。
「父さんも辛抱して来たことやさかい、俺が気張らんかったら罰が当たるわな」
声に出して、自分に発破を掛ける。自分を養子にした所為で、邦彦は親族から随分な批難を浴びせられ迷惑を掛けた。そんな負い目が穂高にはある。本当の息子として慈しんでくれた恩も感じている。自然の偉大さ、人間のちっぽけさ、その内に納まる悩みなどもっと小さなものだ、と豪快に笑う養父のことを、重荷に感じる一方で尊敬していることも確かだった。
手術の待合室に戻り、看護師からの説明を受けて諸々の手続きを取る。多恵はパニックの末過呼吸を起こし、卒倒してしまったらしい。
「お父さんの手術は当面掛かるさかいに、お母さんについてもらってええからね。何かあったらすぐこちらへ知らせるさかいに、君も少しでも身体を休めておきなさいね」
看護師長のプレートをつけたその看護師は、親しみを感じる言い回しで穂高のメンタルを保護するように明るい声でそう言った。そんなことを観察している自分の冷静さが我ながら意外だった。ある意味で、邦彦を羨んでいたのかも知れない。もしこれで死ねたら、渡部のしがらみという面倒から解放される。ただ何となく惰性のままに生きている穂高にとって、意識のない今の邦彦が置かれている状況というのは、束の間の平穏で至福の時を過ごしているように見えた。
ほどなく周辺が賑やかになる。伯父の邦明を筆頭に、親族が一斉に押しかけて来た為だ。
「穂高、邦彦は助かるんか」
そう問う伯父の口調は、心配というよりも。
「緊急オペだったので、詳しいことは自分にもまだ何も知らされてません」
「お前、斎場のことや費用についてはどない考えてるんや。多恵さんがこないな状態やったらお前が考え」
「外に、出ましょうか」
――まだ死ぬと決まった訳でもないやろうに。
邦明を促す言葉に、呆れを含んだ溜息が意図せず混じった。
手術待合室の一角で親族に囲まれる。気分はその昔尋問を受けた警察の取調室にいた時のようだった。
「邦彦が逝ってしもうたいう事態になったら、内々の葬儀では済まされへんで。絶対にまたマスコミがかぎつける。お前、その辺はどない考えてんのや」
「まだ、今の今という状態なので、特に何も」
「何も、って……。あんな、穂高さん。あんたが表に出るのは私らが困りますねん。何でかは言わんでも、自分で解ってはりますやろう?」
「……解ってます」
「ほんなら、あとのことはわしらに任せるな」
「あとのこと、って」
「葬儀やら相続やら、諸々のことや」
「……それは自分には答え兼ねることなので、母や祖母に聞いてもらわないと」
「あんたっ、そんなん言える立場やないでしょうっ。自分のしたことで、こっちがどれだけ迷惑したか解ってるんか」
伯母の甲高い罵声が響く。ふた言目には、その台詞だ。確かに迷惑を掛けた過去があるのは事実だが、それはあくまでも自分対彼らであって、養父一家には関係ない。何かと言えば邦彦の資産を取り上げようと画策をする親族達の矛盾した物言いに、いい加減穂高は聞き飽きていた。
「費用という形で、俺が渡部の株をそちらにお渡しすればいいですか。父の相続については、相続する気のない俺からは、何も言えません」
彼らの満足する答えを返す。幾分か溜飲を下げたのか、邦明が穏やかな声で言葉を次いだ。
「弁護士に相続放棄の手続書類を送らせるさかいに、それにサインをして送り返しておけ。いいな」
はい、と返事をしようとしたその時、待合室の扉の開く音がした。
「私のいない中で、何のお話し合いどすか」
ぴしりと厳しい声音が室内に響く。すり足で近づく草履の音が、穂高には救いの音色に聞こえていた。
「おふくろ……」
「お義母さん……」
途端に愛想笑いを浮かべる伯父や伯母達。彼らの泳ぐうろたえた目に、醒めた視線で俯いた先から盗み見る自分がいた。
「多恵はんが寝込んではるいうのに、病室へ行ったら穂高がおらしませんし。どこへ行ったのかと心配しましたんえ」
そう言って笑む福の目だけが笑っていない。息子達が孫に対し、何を言っていたのか探るような射抜く視線をひとりひとりに向けていた。ひとり、ふたりと視線を逸らす。無言で制圧する福は、祖母という個人でもなく、渡部薬品会長夫人という内助の功といった立場でもなく、渡部薬品の影の経営者という立場でそこにいた。
「穂高はんは社と関係ありません。あなたは早う多恵はんのところへ戻っておくれやす。あとは私が全て引き受けます。あなた達も、邦彦を見舞う気がないのでしたら、お帰りいただいて結構どすえ」
ぴしゃりと端的に言い放つ。まだぐずぐずと何かを口ごもる親族達の相手をしながら、福は穂高に目で促した。
(早う行きなはれ)
穂高は強欲な人間の塊から離れ、扉の前から福に小さく一礼をしてから部屋を出た。
長い時間が過ぎていたらしい。いつの間にか簡易椅子に座ったまま、多恵の眠るベッドの脇で穂高も転寝していたようだ。肩に掛けられた毛布が横を向いていた鼻先をくすぐり、それが穂高を目覚めさせた。
「あ、起こしちゃった。ごめんね、穂高ちゃん。大丈夫?」
久し振りに聴く幼い少女の声は、前より少しだけ低くなっていた。懐かしい姪の気遣う声が照れ臭くて、目をこすることで緩んだ顔をしゃきりとさせる。
「さんきゅ。お疲れさん、華」
穂高はベッドにうつぶせていた背筋を伸ばし、今日初めての笑顔を彼女に見せた。少しぎこちなくなってしまったのは、こんな状況での再会の所為だ。ふと周囲を見ても、妹の藍や薫の姿がない。時計を見れば、多恵の眠る病室へ来てからかれこれ四時間は過ぎようとしていた。
「福おばあちゃまやお母さんは?」
言い馴れない華流の呼び名で祖母や姉の所在を尋ねた。
「大おじちゃま達が帰ったから、おばあちゃまやおじいちゃまの荷物を取りに行って来る、って。華は穂高ちゃんをよろしくね、って」
たった今出て行ったところらしい。
「子供か、俺は」
そう愚痴を零しつつも、誇らしげに穂高の子守りを頼まれた華の顔を見ると、薫への不平も和らいだ。
「おばあちゃま、全然起きないね」
「うん。おじいちゃまが倒れて、すごく気持ちが疲れたらしくてな。医者に眠れる薬を打ってもらった」
「そっか。おじいちゃま、ちゃんと元気になるんだよね?」
その問いにだけは、少し言葉が詰まった。
「……大丈夫やろう。あかん場合は、もっと早くにオペ室から出て来るさかい」
繋いで来る手を手繰り寄せ、小さな身体を抱きしめる。自分の不安を抱きしめるように、華の温もりを確かめた。
「大丈夫。俺、まだおじいちゃまともう一度穂高に登ろう、って言われたあと、まだ返事をしてへんし」
「山、おじいちゃまと登るって約束してたの?」
「この夏に登ろう、って誘われた時、俺、返事せえへんかったんや。そのすぐあとに、倒れてしもうた」
小さな手が、背中を撫でる。とんとんとあやすように背中に優しいリズムを刻む。
「じゃあ、きっと怒ってるよね。おじいちゃま、返事をしないなんてのは失礼だ、ってすぐお説教するもん。よかった、穂高ちゃんが返事をしないでおいてくれて」
これでは、どちらが子供でどちらが大人なのかわからない。そう思いながらも、穂高は華のそのひと言に救われた。
「せやな。説教の覚悟しとかな、あかんな」
少しだけ無理のある笑いを、二人同時に零していた。
「あのね、お母さんにスケッチブックを買ってもらったんだ」
っそう言って華が下げて来た大きめのバッグから取り出したのは、A5サイズのよくある普通のスケッチブックだった。
「穂高ちゃんが第一号の読者さん」
そう言って差し出されたそれを開くと、右ページの全てが丁寧な手書きの文字で埋め尽くされていた。
「穂高ちゃんの絵、私好きよ。だから挿絵を描かせてあげる」
にこりと笑う華の頬が、高飛車な口調と裏腹に照れた薄紅色に染まる。ふん、と鼻を鳴らして数ページを読めば、中身はこれまで読んだことのない物語――童話だった。
「大概の本は子供ン時に読み尽くした気がするねんけど。これは読んだことないわ」
「だからぁ、穂高ちゃんが第一号の読者さん、って言ったでしょ。私が考えたお話なのっ」
「嘘っ」
確かに背は伸びたものの、面差しも口調もそれほど変わらないと思っていたのに。いつの間にか、こんなに文章を書けるほど成長していたのかと改めて驚く。
「お前、四年生だよな、確か」
「うん、今度ね」
「……これ、全然小学生の文章と違うし」
「読んでる本の種類が、ほかの子達と違うもの。一緒にしないでよね」
得意げに大人振る華の、その自慢が年齢相応で笑えてしまう。童話作家になりたいのだと語る、きらきらとした瞳が眩しかった。自分が彼女の年頃には何を考えていただろう。
「ガチですげえわ。先生と呼ばせていただきます」
ブロッケン現象を見ること、という運任せだった自分の夢を思い出すと、華をよいしょしてごまかすことで自分への問いを封殺するしかない気がした。
読んでいる間、華は少し暇を持て余したのか、穂高に話し掛けて来た。穂高は最初の内こそ返事をしながら読んでいたが、いつしか寡黙になっていた。
華が書いた物語。それは穂高が最も好きな花、桜の精霊、なのだろうか。『しゃべるオオシマザクラ』が主人公の、限りなく優しい物語だった。
『人間はしゃべるサクをこわがって、まったく近よってくれなくなりました。』
『サクは、泣くことにもつかれてしまい、ただぼんやりと長い月日をすごしていました。』
それはまるで今の自分と同じ立ち位置にいるような錯覚を覚えた。だが、物語が進むにつれて、オオシマザクラのサクと自分の違いを思い知る。
『私も、みんなが大すき。みんな、ほんとうにありがとう』
皆に恐れられ疎まれ嫌われていても、サクは人を好きになることを止めなかった。気の遠くなるような歳月を過ごし、ひとりの少年と出会ったサクは、やがて自分を好きだと言ってくれる多くの人に癒され、そしてサクも皆を癒した。
サクに寿命という最期の時がやって来た時、最期にサクが言ったのは。
『――サクヤ、サクラ、子どもたち、さようなら。そして、ほんとうにありがとう』
ぼろぼろの老木になったサクは、そう言い残して真っ二つに折れて、逝った。
「……穂高、ちゃん?」
気づけば口許を押さえ、嗚咽を堪える自分がいた。華は何も知らないはずだ。過去に自分が犯した事件のことも、自分が薫の本当の弟ではないことも。渡部の親族と華の家は、殆ど交流していない。渡部の方が薫の財産狙いを避ける為に、懇意にしたがらないでここまで来た。
喋れるサクの異質さは、サクの所為なんかじゃない。サクは一度もそんな自分の身の上を恨みもしなければ、そんな自分を卑下もしていなかった。自分とは真逆の心を持った存在に、生き方を諭されたような感動が溢れた。
「華……サクは、幸せに逝けたんやんな?」
華に視線を合わせられず、何度もそのくだりを読み返しながら問い掛けた。
「うん、そのつもり。大おじいちゃまが前にね、酔っ払って言ったんだ。『福おばあちゃまに悪いことした、華は大じいみたいにあとでごめんなさい、って思うような生き方をしちゃダメだぞ』って」
大おじいちゃまとは、穂高の祖父に当たる、渡部薬品の会長、渡部邦夫のことだ。妾のところへ入りびたりで、福の住まう本宅へ殆ど帰ることのない、穂高から見たらどうしようもない名ばかりの夫であり、名ばかりの会長職に就いている役立たずの老体でしかない人物だ。
「大おじいちゃま、一回入院したでしょう。その時にね、いっぱいああしておけばよかった、とか思ったんだって。死ぬ時は『ああよかった、いい人生だったな』って思いながら死にたい、って。だからね、穂高ちゃんに読んでもらって、いい出来なら大おじいちゃまにプレゼントしようと思うんだ」
華は、そんな屑の言うことまで自分の糧として吸収し、まっすぐな心のままで成長している。素直な心で咀嚼し、自分なりの判断で取り入れている。柔らかでまっさらな心に触れたことが、自分のどす黒く濁った心を穂高に痛感させた。
「どう?」
「……上出来。これ、そのまま大じいにあげちゃうのか?」
まだ華ほどには渡部の祖父を受け容れられない。まだサクのように、自分を疎むものにまで慈愛をほどこせるほど人間が出来ていない。
「うーん、でも、穂高ちゃんが絵を描いてくれるとしたら、もったいないから、書き直す」
「んじゃ、俺がパソコンで打ち込んでやろうか。そんで、これには挿絵を描いてやる」
そのくらいなら、出来そうだ。挿絵は寧ろ、描かせて欲しい。
「ホントっ? やったーっ」
病室にいることを忘れて、甲高い声で華が叫ぶ。飛びついて来た身体を抱きとめるのと、看護師が顔を出したのが同時だった。
てっきり叱責を受けると思ったのだが。
「渡部さん、オペ終わりましたよ。成功です。ICUまでご案内しますから、どうぞ」
堪えていた涙が、ひとつだけぽたりと落ちた。
「……よかったね、穂高ちゃん」
華がそう言いながら、ポケットからハンカチを取り出して目許をそっと拭ってくれた。
「対応が早かったので、命に別状はありませんとのことですよ。よかったですね」
ICUへ向かう途中でそんな説明を受けると、華と一緒に溜息がもれた。自分で思っていた以上に、養父の発作にショックを受けていたこと、そのあまり心が麻痺に近い状態だったに過ぎなかったのだと、今頃になって気がついた。
看護師に導かれる廊下で、華に小声で問い掛ける。
「なあ、いつかサクヤにとってのサクラみたいな、大切な人とか、誰にでも出来るんかな」
サクの大切な友達になった男の子がサクに紹介した女の子、サクラ。穂高は勝手に自分の中で、サクラという女の子をサクの擬人化と受け止めていた。多分、物語を作った華にそんな意図はないのだろうが。
「出来るんじゃない? 出来なかった時は、私が穂高ちゃんのお嫁さんになってあげる」
幼い声が、おしゃまな答えを返して来た。
「そりゃありがたいことで、っと」
繋いでいた手を離して、愛しい姪を抱き上げる。
「あ。子供扱いした」
「って、思いっ切り子供やん」
「半分成人過ぎたもんっ」
前を歩く看護師長が、くすりと小さな笑いを零した。
――いつか、巡り逢えるだろうか。自分より大切と思える人に。
ほんの一瞬だけだったが、煩わしいと思っているはずのしがらみも、そう悪くないかも知れないと思わせてくれるひとときだった。




