【57】暁の黄金(11)
校舎へ向かって歩き去っていく遥香さんを見送った後、俺、大町篤は体育館の通路の壁にもたれかかってしばらく佇んだ。
俺は遥香さんと電話で話した余韻に浸りつつも、校内ではふたりの関係を隠さなければならないもどかしさとやるせなさを感じていた。
数分ほどその場にいただろうか。
こちらへ近づいて来る足音がしたので音のする方を見ると、体育館の中央の出入り口に部長連代表の桑村先輩の姿があった。
桑村先輩はスマートフォンの画面をしばらく眺めてから黒いポシェットに納める。顔を上げた際に俺と目があった。
俺が軽く頭を下げると桑村先輩は上品に微笑んでから教員棟に向かって優雅に歩いて行く。
その後ろ姿を思わず目で追う。
「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」
まさしくこの言葉通りの人だ。
桑村先輩は文化祭3日目の演劇部の公演で主演を務める。この佳人は舞台の上でいっそう輝きを増し、舞台を華やかにするに違いない。
美しい女性への思慕がない訳ではないが、俺には遥香さんという恋人がいるのでその情動は瞬時に消える。その後に心の中に残ったのは、演劇をかじった者の端くれとして持つ「桑村先輩が作り上げる素晴らしい舞台」に対する強い好奇心だけであった。
演劇部の公演は文化祭3日目の夕方にある。必ず観に行こう、と心に決めた。
俺は通路を移動して後方の出入り口から体育館の中に入った。
ちょうどその時、アメリカンフットボールについての問題が読まれ
「ヘイル・メリー・パス」
と回答する声が聞こえた。
正解を知らせる電子音が鳴り、大歓声が沸いた。
決勝戦がまだ続いていたことに俺は安堵した。
この用語を俺は知っていた。だがそれを早押しクイズで咄嗟に答えられる生徒がいることにとても驚いた。
クイズ大会は体育館の前半分で行われており、後ろ半分は観客席となっている。観客席の特に前の方には熱心に応援する生徒たちが集まっていたが、後ろの方には数名ずつのグループで集まって座り、ゆったり観戦している生徒たちも散見された。
ほとんどの生徒が水筒やペットボトルを手にしていた。俺のようにコンビニのビニール袋を持っている生徒も多い。サコッシュやポシェットや小さなリュックを身につけたまま応援している生徒も多い。
おそらく用済みとなったと思われる大きな応援ボードが何枚か壁際に置かれていたが、その周りにはトートバッグやショルダーバッグなどの私物も残されていた。
数名ずつまとまっている生徒たちの多くが制服姿なのでどういった集団なのかはよく分からない。唯一はっきりしていたのはユニフォーム姿の野球部員たちで、野球部のチームが敗退した後もメガホンを持って決勝を戦っているチームの応援を続けていた。
そんな風に周囲を観察しながら歩いていると
「大町くん、井沢さんの応援ですか?」
と後ろから女子生徒に声をかけられた。
「そうです」
と答えつつ振り返ると、見覚えのある女子生徒がいた。1年D組のクラス演劇を取材した新聞部員の1年生で、生坂という名前だと記憶している。教室で受けたインタビューではこの人から不思議な質問をされ、上手く答えられなかった。そのため俺はいささか気まずかった。
「さっきはどうも」
と俺が釈明しようとすると、その先を遮って生坂さんは
「次の問題にチーム三奇人が正解すると優勝が決まります。文芸部の応援に合流するなら急いだほうがいいですよ」
と教えてくれた。決勝戦はもう終盤の山場だったのだ。
「ありがとう」
と俺は礼を言ってから早足でチーム文芸部の応援団のいる場所へ向かう。
「すみません。通して下さい」
そう言いながら前に進んでいる途中で
「アルベルト・アインシュタイン」
と女子生徒が答える声が聞こえた。井沢さんの声ではない。正解だと知らせる電子音が鳴り、大歓声が沸く。
少なくともチーム三奇人の男子生徒が正解した訳ではないのでほっとする。
周りよりも一際背が高い川上の茶髪の頭が見えたのでそれを目標にして進み、ようやくチーム文芸部の応援団に合流した。
「大町、やっと帰ったか」
と上田がすかさず声を掛ける。続けて川上が
「今はピンチだ。次の問題をチームぎんなんが取ったら優勝だ」
と状況を短く伝える。
何とか決着がつく前にギリギリ間に合ったようだ。
俺たちは息を飲んで見守った。
次の問題では、チームぎんなんのリーダーの生徒が「オンブズマン」と回答して正解し、優勝を決めた。
優勝チームのインタビューの後、クイズ研究部の部長の吉田先輩が閉会の挨拶をして大会は終わった。
舞台に緞帳が降り始めるのと同時に新聞部の生坂さんとその相方の大滝先輩が下手側のドアから舞台裏へ入って行くのが見える。
舞台に赴いて取材をするのだろう。
そんなことを考えながら俺が舞台をぼんやり眺めていると
「一緒に応援してくれてありがとう」
と文芸部の松本先輩が1年D組の俺たちに向かってお礼を述べた。
「こちらこそありがとうございます。それにしても惜しかったですね」
と川上が1年D組の4人を代表して挨拶を返した。すると岡谷先輩が
「そうだね。あと一歩だった。1年生だけで良くやったよ」
と言い、松本先輩がちらっと腕時計を一瞥してから
「僕も岡谷さんも家が遠いから先に帰るよ」
と言い、ふたり揃って足早にその場を後にした。
1年D組の4人だけになると
「ところで大町は大丈夫だったのか?急な電話があったみたいだけど」
と上田が心配げな表情で俺に尋ねる。
「ああ、家からの電話だ。母さんが残業するから夕食を自分で何とかするように、って連絡だった」
と答えると上田は
「そうか。お前んとこの母ちゃんも大変だな。まあ、うちの母ちゃんも似たような感じなんだけどな」
としんみりと言った。
上手前方の壁際では自治委員の生徒がクイズ大会の出場者たちに貴重品を返却している。
貴重品を受け取った後、そのまま帰宅する者も散見された。
井沢さんが舞台の方からなかなか出て来ないので、上田が
「井沢さん、まだかな」
と誰にともなく尋ねる。俺が
「うちのクラスに取材に来た新聞部のふたり組が舞台裏に入って行ったから井沢さんたちも取材を受けているんじゃないかな?」
と答えると、上田は
「そっか。じゃあ帰りは結構遅くなりそうだから、大町は井沢さんを家まで送って行けよ。同じ町内だろ」
と言うので、俺は
「ああ、最初からそのつもりだ」
と答えた。すると川上は
「じゃあ、俺は安住さんを送って行くよ。家が近いから。小海さんを送るのは上田に任せた」
と提案した。上田はあたふたして
「え、俺も」
と素っ頓狂な声を上げる。それに対して
「私は別に良いよ。上田くんと家が近い訳じゃないし」
と小海さんがややむっとした表情で返す。その様子を見て慌てた上田は
「ごめんごめん。小海さんは俺が責任を持っておうちまで送って行きます」
と顔の前で手を合わせながら何度も頭を下げる。その情けない姿が面白かったのもあってか、小海さんは笑みを浮かべながら機嫌を直して
「分かりました。じゃあ、よろしくね」
と明るく答えた。
しばらくすると、マイクの電源が入る音がした。続けて
「文化祭実行委員です。明日以降の体育館での公演に向けた準備を今から行います。残ってくれる生徒の皆さんは手伝って下さい。自宅の遠い生徒は遠慮せず下校して下さい」
という指示が出された。
体育館の前方を見ると、緑色の腕章をつけた男子生徒がマイクを持って立ち、その側には同様に緑色の腕章をつけた生徒たちが20人ほど控えている。
そのアナウンスを聞いて、半分くらいの生徒たちが帰って行く。
「まずは、○Xクイズのシートを片付けます。例年通りラグビー部の皆さん、お願いします」
そうアナウンスされると、すぐさま汐路さんの
「よし行くぞ」
という大きな掛け声が耳に入った。
クイズ大会を応援していたラグビー部員と思しき男子生徒たちの一団が体育館の前方に走って行く。クイズ大会に参加していたラグビー部員たちも合流する。
汐路さんもその近くに移動して指示を出している。現場監督なのだろう。
ラグビー部員たちは体育館の前半分の床に広げられた「○」と「X」の書かれた2枚の大きなシートの前方に並んでしゃがむと、漆木先輩の
「せーの」
という大きな掛け声を合図にシートをくるくると巻いて中央部にまで到達し、大きな巻物がふたつ出来上がった。慣れた手つきである。
「それじゃ、倉庫まで運ぶぞ」
と漆木先輩の号令を受けてラグビー部員たちは中央の出入り口から外へシートを運び出して行った。
ラグビー部員たちと入れ違いに先ほど職員室で話をした石黒先生が体育館に現れた。前方でマイクを受け取ると
「続けて、会場の設営を行います。まず最初に、フロアにビニールシートを敷いてもらいます。敷き方については実行委員が具体的に指示をします。腕力のある男子生徒の皆さんはシートを運んで下さい。他の生徒はシートを敷く係をお願いします」
と指示を出した。
石黒先生はマイクを文化祭実行委員の生徒に返すと、スラックスのポケットから大きなキーホルダーのついた鍵を取り出して、舞台下にある収納スペースの開錠をした。
実行委員の生徒たちが上手の一番端の棚を引き出す。
「最初にこの棚からシートを運んで下さい。ご協力お願いします」
と実行委員のひとりが声を掛ける。すると、そこに男子生徒たちが集まって行き、自然と列を作る。
「俺たちも行こうぜ」
と川上が提案すると、上田は
「小海さん、ちょっと待っててね」
と声をかけて
「分かった」
と小海さんから許可を得ると川上と一緒に走り出した。俺もそれに続いた。
灰色のビニールシートの幅が2mくらいでロールは丸太のように太い。そのためふたり一組となってひとつのロールを運ぶよう伝えられた。
上田と川上がコンビを組んだ。同様にして周りで次々とふたり組が出来ていった。
俺も相方を見つけるために後ろを向いて右手を挙げて
「誰か一緒にお願いします」
と声をかけると、列のかなり後ろの方から
「篤、俺と組もうぜ」
と声を掛けられた。校内で俺をファーストネームで呼び捨てにする人はひとりしかいない。駆け寄って来たのは坂木先輩だった。
坂木先輩と一緒にビニールシートのロールを持ち上げる。ずしりと重い。近くにいた実行委員の女子生徒から
「こっちです」
と誘導されて、フロアの中央部までロールを運んだ。その場で待機していた生徒たちはビニールシートを受け取ると指示通りに後方に向けて転がしてビニールシートを敷いた。
その後、他の棚からもビニールシートのロールが出されて、俺は2度同じようにビニールシートを運んだ。それらが敷かれるとようやく体育館のフロアは辺縁部以外の大部分がビニールシートで覆われた。
「次は椅子並べだな」
「はい」
などと坂木先輩と喋りながら一息ついていると、急に体育館内に拍手が沸き起こった。
周りの生徒たちの視線の先にはクイズ大会で優勝したチームぎんなんの3人がいた。
3人は照れながら会釈をして応える。
しばらくして拍手が止むと自治委員から貴重品を受け取って静かに体育館を去った。
「次は椅子を並べて下さい。出来る範囲での協力をお願いします。元気の有り余っている人は椅子を運んで下さい。それ以外の人はフロア全体に分かれて実行委員の指示に従って椅子を並べるのを手伝って下さい。お願いします」
そう石黒先生がアナウンスすると、下手の端の舞台下の収納スペースが引き出され、そこに収められた折りたたみ式のパイプ椅子を受け取るための列が自然に出来た。
男子生徒たちはそれぞれ両腕に2脚ずつ椅子を持って運ぶ。体育館の後方で手を挙げて待っている実行委員の元を目指した。
椅子はそこで待っている生徒たちへ渡されて並べられる。
入学式の時と同様に椅子は横並びにされるようだ。
列の前方で椅子を受け取る時、汐路さんが
「3つずつくれ」
と言って6脚を受け取り両腕に椅子を3脚ずつ持って運んでいた。
しばらくすると、漆木先輩も
「俺も3つずつだ」
と宣言して汐路さんと同じく6脚の椅子を運んだ。
すると今度は、自治会長の小諸先輩が
「俺は3つ頼む」
と言って、3脚の椅子を受け取り、右腕で赤いバインダーを大事そうに抱えながら、左腕で3脚の椅子を運んでいた。
この先輩も荷物がなければ6脚の椅子を運んでいただろう。
俺も6脚に挑戦しようかと思案していたが、コンビニのビニール袋を持っていたので難しそうだ。そんなことを考えていると
「危険ですから、椅子を運ぶのは片手に2つまでにして下さい」
と石黒先生から注意が入った。俺はおとなしく指示に従い、4脚の椅子を受け取った。
4脚の椅子を抱えて体育館の後方へ行くと
「こっちです」
と呼んでいる生徒たちがいたので、そこへ向かう。先ほどチーム文芸部の応援団の居場所を教えてくれたふたりの女子生徒がいた。
「大町くん。椅子、受け取るね」
と背の高いショートヘアの子から声を掛けられたので、2脚を渡す。
続けて、もうひとりのセミロングの子に残りの2脚を渡すと
「ありがとう。杏奈はついさっきまで一緒にいたんだけど部室へ着替えに行っちゃった。残念」
と悔しそうに言った。
「そうか。じゃあ、よろしく伝えておいてくれ」
それだけ言ってその場を去り、俺は椅子を受け取るための列に再び並んだ。
列の前方を見ると赤・青・黄色のパジャマを着た3人組が並んでいた。
先ほどまで決勝戦を戦っていたチーム三奇人の皆さんだろう。この人たちこそ着替えに行った方が良いのではないか。俺は妙なおかしみを覚えた。
順番を待つ間に周りの様子を見ると、緑色の腕章をつけた文化祭実行委員の生徒がゴミを拾ったり、壁に掲示物を貼っていたりとよく働いているのが分かる。下手の前方で
「忘れ物や落とし物は僕のところに持って来て」
と大声で伝えている者もいた。
その後、何度か椅子を運び、椅子を並べる手伝いもした。
概ね必要な座席数を並べ終えると、石黒先生が数名の文化祭実行委員の生徒たちと最終チェックを始めた。
俺は川上、上田、小海さんの3人と一緒に通路側の後方の出入り口に近い場所で合流して次の指示を待っていた。
しばらくすると、文化祭実行委員の生徒から
「後は実行委員だけで作業しますので、もう大丈夫です。ご協力ありがとうございました」
とアナウンスされたので、生徒たちは次々と体育館から出て行った。
「大町はどうするんだ」
と上田から尋ねられたので
「体育館で井沢さんを待つよ。行き違いになるといけないから」
と俺は答える。
「そうか。じゃあ、井沢さんのことは任せた。俺は今から小海さんを送って行くよ。悪いが先に帰る」
と上田は言い、小海さんも
「それじゃあ、お先に」
と一言ことわってから帰途についた。
川上は上田と小海さんを見送るためか、ふたりと一緒に通路へ出て行った。
井沢さんはまだ舞台裏から出て来ない。
俺は手にしたビニール袋の中に入っていたペットボトルの緑茶を飲み干した。
もうぬるくなっていたが、ひと働きした後のお茶は美味しかった。
5分ほどすると体育館前方の上手のドアから荷物を抱えたクイズ研究部の部員たちが出て来た。その中に安住さんがいた。いつの間にか戻って来ていた川上は
「やっと安住さんが出て来た。じゃあお先に。明日も頼むぞ」
と言い残して走って行き、安住さんの持っていた荷物を受け取って一緒に体育館から出て行った。
特にやることがないので俺は場内の様子を眺める。
体育館のフロア全体には横並びでパイプ椅子が整然と並んでいる。縦横の中央部に広めの十字形の通路があった。観客の出入りのしやすさを考えてのことだろう。
最後列に1脚だけ位置が後方にずれている椅子があることに俺は気づいた。下手の端から5つ目の椅子だった。
誰かそのことに気づいている人がいないか、と周囲を見渡して確認する。
壁に貼り紙をしている実行委員の生徒は何人かいるが壁の方に注意を向けており、他の実行委員たちのほとんどは作業を終えたようで、前方で集まっている。ミーティングをしているのだろう。座席の最後列の近くには誰もいない。
仕方がないので自分で位置を直すことにした。
せっかくみんなでたくさんの椅子をここまで綺麗に並べたのだ。画竜点睛を欠くのは惜しい。
位置のずれた椅子に近づき、両手で椅子の背を持って位置を整える。
その時、カサっと乾いた音がした。持っているコンビニのビニール袋から出た音ではない。椅子の黒い座面のあたりから聞こえたのだ。
座面をよく見てみると、黒くて四角い物が座面に乗っている。郵便はがきくらいの大きさだった。
誰かの忘れ物だろうか。
忘れ物なら担当者へ届けたほうが良い。そう考えて俺はその四角い物を手に取った。
それは黒い紙のブックカバーをかけた文庫本だった。本の天を見るとスピンがある。裏表紙と思われる側の見返しには同じく黒い封筒が挟んである。
表紙はカバーで覆われているが、本の背を見るとカバーに丸い穴が開いていて、カタカナの「リ」という一文字が穴から覗いて見えた。
その時、ゴトンという鈍い音が後ろで聞こえた。振り向くと、すぐ後ろの壁際で女子生徒が床に落ちたガムテープを拾っていた。上履きの色から3年生だと分かる。何枚かコピー用紙のようなものを抱えて持っている。緑色の腕章は着けていないが、この人は貼り紙をしている実行委員のうちのひとりなのだろう。
その女子の先輩は顔を上げると俺の方をじっと見た。大きな瞳が特徴でやや茶色がかった髪を黄色いヘアピンで止めていた。
よく見るとThe Garnished Fridgeの黒いバンドTシャツを着ている。俺はこのバンドのファンとして仲間意識を感じたが、この人は俺の知り合いではない。だが、この文庫本の持ち主かも知れないので俺は声を掛けた。
「これは先輩の忘れ物ですか?」
その人は頭を振って
「ち、違います」
と言うなり、足早に走り去って体育館から出て行ってしまった。
俺はあの先輩を不快にさせるようなことを何かしたのだろうか。少しだけ先のやり取りを思い返したが、はっきりした原因に思い至らない。人の心の中を完全に理解するのは不可能なので、それ以上は深く考えないことにした。
再び文庫本に目を移す。
表紙をめくって本のタイトルを確認する。
ウィリアム・シェイクスピアの戯曲「リア王」だった。
スピンのついた文庫の「リア王」は俺も持っている。6月の学校行事で課題図書として読んだからだ。
次に見返しに挟んである黒い封筒を確認する。洋式の封筒の表の中央に細長い白い紙が貼ってあり、そこに黒い文字で「クイズ研究部へ」と印字されていた。封筒の裏に差し出し人の名前はない。封筒は楕円形の黒いシールで封をされていた。
これはクイズ研究部宛ての本と手紙のようだ。
黒いブックカバーに黒い封筒という取り合わせが醸し出す雰囲気から察するにあまり友好的な類のものではないだろう。
それでもやはりこの本と手紙は宛先のクイズ研究部へ届けるべきだ。
俺は視線を上げてクイズ研究部の部員を探す。
黄色い法被を着た女子生徒が制服の男子生徒が中央の出入り口の辺りで話しているのを見つけた。少なくとも法被を着ている人はクイズ研究部の部員に違いない。
その女子生徒が帰ってしまう前に本と手紙を渡してしまおうと思い、俺は彼女の元へ足早に向かった。
並べられた椅子の後ろを歩いて俺が通路側の壁際まで到達した時に、ちょうどそのふたりが出て行こうとしていたので
「クイズ研の人、ちょっと待って」
と声をかけて呼び止めた。
「はい」
と男子生徒の方が返事をした。
眼鏡をかけた理知的な顔つきの男子生徒はクイズ研究部の部長の吉田先輩だった。クイズ大会で登壇していたので分かる。
黄色い法被を着た小柄な女子生徒は上履きの色から2年生だと分かった。
俺はふたりの近くに行ってから
「引き留めてしまってすみません、先輩。クイズ研究部宛てのものを見つけたので持って来ました」
と要件を伝え、吉田先輩に文庫本と封筒を渡した。吉田先輩は封筒の宛名を確認して
「確かに宛先がうちの部ですね」
と呟く。
「見つけた時には封筒は文庫本に挟んでありました」
と俺が言うと、吉田先輩は封筒を表紙の見返しに挟んで
「こんな感じですか」
と尋ねた。
「裏表紙の方に挟んでありました。見つけた場所は最後列の椅子の上です」
と伝えると、吉田先輩は言われた通り文庫本の裏表紙の見返しに封筒を挟んでから文庫本をよく観察した。
「シェイクスピアの『リア王』ですか。カバーの穴は何のためだろう」
とブックカバーの背の穴を覗き込みながら呟く。
次に吉田先輩は近くの椅子に歩いて近寄り、座面に置くと
「黒い座面の上に黒い文庫本が置かれていたのか。これは見つけづらい。どうして君は気づいたのかな」
と尋ねる。俺は
「その本が置かれた椅子の位置がずれていたので位置を直そうと椅子を動かしたらその本が動く音がしたので気づきました」
と答えた。
「そうでしたか。どの部員に宛てたのかも差出人も分からないので、とりあえず僕が読んでみます。君はちょっと待っていて下さい」
そう言うと吉田先輩は封筒を手に取り、慎重にシールを剥がして開けた。
中から出て来たのは三つ折りの白い紙だ。2枚ある。サイズと質感から察するにおそらくA4のコピー用紙だろう。
ゆっくりと1枚目を読み進めると手紙を持つ手が震え出し、続けて2枚目を読むと吉田先輩の眉間に深い皺が寄った。
鋭い眼差しで俺の方を見ると
「君の名前を聞いてもいいかな」
と尋ねた。
「1年D組の大町です」
と答えると、しばらく考え込んでから、隣にいる女子部員に
「松川さん、桑村さんを呼んで来て」
と言ったが、体育館内を見渡して
「いないなあ、もう帰っちゃったかな。じゃあ、汐路くんを今すぐ呼んで来て」
と指示を出した。いずれも厳しい口調だった。
松川先輩という2年生が踵を返して走って行き、体育館の舞台前で文化祭実行委員会のメンバーたちと話をしていた汐路さんを連れて来た。
汐路さんは呑気そうな表情でやって来たが、吉田先輩の表情を見て険しい顔になった。
「何があった」
と尋ねたので、吉田先輩が
「この大町くんからこんなものを渡された」
と言って文庫本と封筒を渡した。汐路さんはじっくりと観察してから
「何だ、これは。文庫本は『リア王』か。この穴は何だ。カバーも封筒も黒とは物騒な感じだな」
と印象を述べる。吉田先輩が
「手紙の内容も穏やかじゃない」
と伝えると、汐路さんは
「中の手紙を読んでもいいか?」
と尋ね、吉田先輩は
「いいよ」
と快諾する。
汐路さんは黙って2枚の手紙を読むとさらに深刻そうな表情になって文庫本と封筒を吉田先輩に返した。
「松川さんは読んだか?」
と尋ねた。
「まだです」
と松川先輩が答えると、吉田先輩は
「松川さんも読んでおいて」
と伝えて封筒を松川先輩に渡した。
松川先輩は手紙の1枚目を読んだだけで呆然として、ただ一言
「何これ」
と呟いた。
そうした反応だけでは俺にはその手紙の内容がさっぱり分からなかった。
「大町くん、念のために訊きたいんだが、これを用意したのは君じゃないよね」
と吉田先輩が尋ねる。
「違います。座席の上に置かれていたのを見つけて、宛先がクイズ研究部だから先輩たちに渡したんです」
と俺は答えた。これは風向きが良くない。
「大町。俺はお前がこんなことをする奴じゃないことを知っている。だが、事件が起きたら第一発見者を疑う、というのは大原則だ。俺もあえて訊くが、これは本当にお前が仕組んだことではないんだよな」
汐路さんまでが俺を疑い始めた。
「俺じゃありません」
と俺は否認する。すると吉田先輩は
「でもこれを用意したのが君じゃないという証拠はない。でも、もし他の誰かがこれを置くところを見たのなら話は別だ。犯人を教えて欲しい。どうかな」
とさらに厳しく問い詰める。
「そもそも俺がやったという証拠もないでしょう。それと、残念ながら誰かがそれを置いたところは見ていません」
間髪を入れずに俺が答えると、吉田先輩と汐路さんは考え込んだ。
その様子を見ていた松川先輩が間に割って入り
「私はこの人がその手紙を書いたとは思えません。親切心で届けてくれただけだと思います。証拠はないかも知れませんが」
と助け舟を出してくれた。
しばらく沈黙が続いた。
すると、少し離れたところから
「チーム文芸部の皆さんの貴重品です。受け取ったらサインして下さい」
という男子生徒の呼びかけに対して
「はい。分かりました」
と返事する女子生徒の声が耳に入った。聞き馴染みのある声だった。
声のする方を見るとチーム文芸部の3人が赤い腕章をつけた自治委員の生徒からスマホを受け取っているのが見えた。
俺はこう提案した。
「すみません。この場に呼んで欲しい人がいます。良いでしょうか?」
汐路先輩はいぶかしげな表情で
「誰かを呼ぶって。もしかして弁護士か?」
と尋ねる。
「違います。弁護士ではないけれど俺を助けてくれる人です」
と俺は答え、続けてこう言った。
「チーム文芸部の井沢景さんをここに呼んで下さい」
(続く)




