【56】暁の黄金(10)
文化祭初日のクイズ大会であるQUIZ ULTRA DAWNでは決勝に進む3チームが決まった。井沢さんのいるチーム文芸部も1年生チームながら勝ち残っている。俺、大町篤は1年D組の演劇仲間である川上、上田、小海さんの3人に加えて文芸部の松本先輩、岡谷先輩とも一緒に応援をしていた。
勝ち残っているチームの応援団は体育館の後方半分を占める立ち見の観客席のうち最前列を割り当てられているようで、体育館の中央部で熱戦を観て声援を送ることが出来る。
準決勝で敗退したチーム科学部とチーム武道場の応援団が後ろに下がったため、上手から順に、大人数のチーム三奇人の応援団とチームぎんなんの応援団が広く場所を取り、俺たちチーム文芸部の応援団は下手のスペースへ移動した。
ちょうど下手側の中央の出入り口付近に部長連代表の桑村先輩とラグビー部の前部長である汐路さんがいた。ふたりは会場内の警備を指揮しているようだ。
桑村先輩は黒いポシェットを肩から掛け、舞台の方を見遣っている。汐路さんは足元に頑丈そうな素材で作られたネイビーのショルダーバッグと2リットル入りペットボトルの麦茶を置き、警備担当のスタッフたちに向かって次々と指示を出している。忙しそうだ。
「応援団がさらに集まって来たぞ」
と上田が嬉しそうに言う。
俺が後ろを振り向くと、たくさんの生徒が集まっていた。
見知った顔が多く、ほとんどは1年生だ。色々な部活のユニフォームや練習着を着ている人もいるが、制服姿の生徒が多い。先ほど、俺にチーム文芸部の応援団の居場所を教えてくれたふたりの女子生徒の姿もある。
何人かの1年生たちが顔の広い川上や上田に声をかける。また、上級生らしき生徒たちは松本先輩や岡谷先輩と話をしていた。今までは他のチームを応援していた生徒たちが、決勝ではチーム文芸部を応援してくるのだろう。
出場者が上手に捌けた舞台の上では決勝戦を行うための準備が行われていた。
舞台上でクイズ研究部の部員たちがテキパキと働いている。舞台中央に長机を並べて解答席を作り、小さな箱状の機器を大事そうに運んで設置し、その機器から伸びたコード類を床に伝わせて審査員長席まで伸ばし、別の機器に繋いだ。
その様子を見て、上田が
「あれは何だろう?」
と疑問を口に出すと
「早押し機だよ。決勝は早押しクイズだからね」
と松本先輩が答える。
決勝戦では早押しクイズをやるのか。
予想していたよりも本格的なクイズ大会なので驚いた。
やがて舞台と機器の準備が整うと、司会者の男子の先輩とアシスタントの安住さんが舞台に現れて中央に立つ。 すかさず盛大な拍手が送られる。
突然、場内に有名な映画音楽が流れて、決勝に進出したチームの入場となる。
最初に入場するのは昨年の優勝チームであるチーム三奇人だ。赤いパジャマを着た長髪のリーダーが舞台袖から出て来ていきなりムーンウォークを始めた。青いパジャマと黄色いパジャマを着たチームメイトもそれに続く。
場内に笑い声が響いた。川上と上田も大笑いした。小海さんは
「上手だね」
と呟き真面目に3人のムーンウォークを観察している。文芸部のふたりの先輩も笑顔で見守っていた。
その時、ズボンのポケットの中でiPhoneが震えた。
遥香さんかも知れない。
咄嗟にiPhoneを取り出して着信を確認すると「大町 家」とあった。
遥香さんからの電話でなかったのは残念だが、普段はめったにかかってこない実家から電話がかかってきたからには何か一大事があったのかも知れない。
俺はすぐに電話に出て
「篤です」
と伝えたが、その瞬間またどっと大きな笑い声がして向こうの声が聞こえない。場所を変えないと、そう思った時に無意識に汐路さんの方を見る。汐路さんは俺の様子に気づいたようで、通路側の中央の出入り口を指差しながら声を抑えて
「真ん中を通って、外に出ろ」
と指示を出す。汐路さんの声はそれでも十分俺の耳に届いたので、俺は小さく頭を下げてから、片手にiPhone、もう一方の手にはまだ中身の入ったペットボトルを入れたビニール袋を持ったまま体育館の真ん中を突っ切り 中央の出入り口から通路に出た。それでもその場所はまだそこはやかましかったので、前方へ向かって通路を移動した。先ほど遥香さんを探して歩き回った時に、舞台のある辺りの通路の前方は意外と静かだったのを覚えていたからだ。体育館の前方の出入り口が閉ざされていたからであろう。
そうして静かな場所まで移動してからiPhoneを確認すると、まだ通話は切れていなかった。
「ごめん、今なら大丈夫。何かあったの?」
恐らく母だろうと想定して通話の相手にそう伝えると
「反応が遅い。それにしてもあんた、さっきどこにいたの?うるさすぎるんだけど」
と厳しい叱責が返ってきた。
その声の主は姉貴だった。
「なんだ、姉貴か。驚かすなよ」
「私で悪かったわね。それと、ちゃんと質問に答えなさい」
「今はまだ学校。クイズ大会の応援に来てる。友達が出場しているんだ」
「あんたんとこは色々と面白いことをやってるね。無茶苦茶盛り上がってたじゃない」
「そうだな。さっきの爆笑はクイズ大会の決勝戦にムーンウォークで入場したチームがいたからなんだよ。それも去年の優勝チームがね」
「その動画、後で見せて」
「録画はしてない」
「ちぇ。まあ勝手に録画するのは倫理的にアウトだと気が引けたのか」
「法律的にもアウトだぞ、多分。そんなことより何か急用か?」
「うん、そうだったね。今日は母さんが急遽、夜のシフトのヘルプに入ることになった、ってついさっき連絡があったのよ。だから今夜は家に帰ってきてもご飯がないから、あんたどこかで夕飯を食べてくるなり買って帰って来るなりしなさい」
「分かった。母さんも大変だな。父さんは?」
「連絡済み。父さんも帰るのが遅くなるみたい」
「父さんも相変わらず忙しそうだな」
「仕方ないんじゃない?ふたりとも私とあんたのために頑張ってくれてるのよ」
「その点に関しては頭が上がらないな。分かった。帰りにコンビニかどこかで食うもんを買って帰るよ」
「そうしてちょうだい」
「その件についてはこれで話はおしまいだよな」
「うん。そうだけど。あんたも何か話があるの?」
この際だから、こちらの要件も伝えよう。
「姉貴に頼みたいことがある」
「私に頼みごとなんて珍しいね。出来ることなら良いよ。ただし、人に物を頼む時には伝え方が大事だけどね」
「家の電話が置いてある台の引き出しの中にうちのクラスの緊急連絡網のプリント、確か母さんがクリアファイルに挟んでいたと思うんだけど、それを取り出して、、、下さい。お願いします」
「よろしい。え~っと、ちょっと待ってね。これだね。暁月高校1年D組緊急連絡網と書かれてあって、ちゃんとあんたの名前も書いてある。見つけたけど、どうするの?」
「井沢景、という生徒の自宅の電話番号を教えて下さい」
「井沢、井沢、、、あったよ。この市外局番からして伊那川町の子だね」
「伊那川中出身だからね。井沢さんの自宅の電話番号を教えて下さい」
「なんで、同じクラスのあんたが井沢さんの自宅の電話番号を知りたがってるの?そんな回りくどいことしなくても、直接その、井沢さんと話せば良いでしょ。もしかして何か企んでるんじゃないの?怪しいなあ」
「別に深い意味はないよ。井沢さんはクイズ大会に参加していて、今も決勝を戦っている。だから帰宅はかなり遅くなるんだ。だから俺が井沢さんを家まで責任を持って送り届けようと思ってる。同じ町に住んでるからな。井沢さんはしばらくクイズで忙しいから、先に井沢さんの家に連絡を入れておけば家族の人の心配を減らすことが出来るんじゃないかと思って、今から俺が電話しようと考えている。これでどう、、、いかがですか?」
「あんたも気が利くようになったね。分かった。私も帰りが遅くなった時には、よくあんたに駅まで迎えに来て貰ったもんね。井沢さんのお宅には私の方から連絡をするから、その代わり、あんたは外食とか買い食いとかしないでイベントが終わったらまっすぐ帰って井沢さんを自宅まで送り届けなさい。いいわね」
「なんで姉貴が電話するんだよ。俺が自分でかければ良いのに」
「あのね、こういう時には大人が連絡するべきなの。本来なら母さんか父さんが電話すべきなんだけど、今はふたりとも仕事でいないから私がその代理で電話をします。それにあんたは井沢さんのご両親と面識がないでしょ?信頼関係のないまま、自分の娘と同じクラスの男子生徒からそんな電話がかかって来たら、井沢さんが夜遊びに連れて行かれているのではないか、って余計な心配をかけちゃうよ」
俺はそこまで考えが及んでいなかった。
「確かにそうだな。反論の余地がない」
「じゃあ、井沢さんのご自宅にはちゃんと電話するから任せておいて。それで、あんたはくれぐれも送り狼にならないように」
「なるか」
「でしょうね。まあ、この件はこれでよいとして」
「まだ何かあるのか?」
「さっきから遠くの方でかすかに漏れ聞こえてくる大歓声がね、やっぱり気になるのよ。盗撮は無理だとしても、せめて音声くらいは聞かせてくれない?スマホで話していると相手のいる場所で流れている音楽が聞こえちゃうことってあるでしょ?それと一緒だから。ね?」
「意図してやるのは一緒じゃないだろ」
「分かってるのかな?あんたがこうして無駄に費やした時間の分だけ井沢さんのご両親は気を揉むことになるってことに」
「分かったよ。ちょっと待ってくれ」
そう言って俺は通路を移動して中央の出入り口の近くで形ばかりiPhoneで通話しているようなポーズを取り、そこから徐々に顔を遠ざけて、しばらくの間、舞台上で繰り広げられている早押しクイズの様子を姉貴に聞かせた。
井沢さんが「要石」と答えて正解したところで、iPhoneを顔に近づけて俺は尋ねる。
「もう十分だろ」
「ちぇっ、文芸部の反撃が始まって面白くなってきたところなのに」
「ちなみに今の問題に答えたのが井沢さんだ」
「へえ、なかなか出来る子だね。要石、なんて言葉が咄嗟に出て来るとは流石。文芸部で物書きをしている子だ」
「そうなんだよ。クラスの演劇でも文字通り『要石』としてみんなを支えてるぞ」
「じゃあ、そのキーパーソンの活躍をもう少しだけ聞かせてよ」
「いいや、これ以上はダメだ。姉貴がこうして無駄に費やした時間の分だけ井沢さんのご両親は気を揉むことになるのだが」
「人の言葉を逆手に取って反撃するとは小賢しい。あとさ、さっきから何度か電子音が鳴って音声が途切れたんだけど、あんたの学校って電波状況が悪いのかな」
「確かにそうかもしれないな。そんなことよりとにかく、井沢さんの家への電話を頼んだぞ」
「分かってる。それじゃ」
と言って、姉貴は電話を切った。
結構な時間を使ってしまった。
無駄に疲れたのでしばらく通路の壁に背中をあずけて佇む。
念のためにiPhoneの画面を確認するが電波状況は悪くない。
色々と触ってみてもiPhoneの作動には問題が無さそうだ。
はたと気づき通話履歴を確認すると、姉貴と通話している間に3件の着信があった。
全てが遥香さんからの電話であった。姉貴が指摘していた電子音や音声の途切れはキャッチホンのお知らせだったのだ。
慌てて留守番電話を確認したがメッセージは残されていなかった。
遥香さんはやはり俺に用があったのだ。
体育館まで俺を探しに来たり、俺に電話をかけて来たりするということを遥香さんは通常ならしない。
この3回の着信履歴から察するに、遥香さんは今とても困っていて、俺に助けを求めている。
俺の方から電話をかけた方が良いかどうかを迷っていると、手の中でiPhoneが震えた。
画面に表示されたのは遥香さんの名前だった。
俺は慌ててiPhoneの画面の通話ボタンをスライドして電話に出る。
「はい。大町です」
そう言い終えてから周囲を見渡す。幸いなことに近くに他の生徒が誰もいなかった。
「良かった。やっと繋がった」
遥香さんが嬉しそうな声で応える。
「ずっと通話中だったけど、何かあったの?」
「すみません。姉貴からの電話です。母さんが残業するから今日は夕飯を自分でなんとかしなさい、という要件でした」
「お母さんのお仕事は大変だもんね。それにしてもそのまま長電話しちゃうなんて、お姉さんとは本当に仲が良いんだね」
「いや、姉貴がクイズ大会の様子を聞きたいって譲らなかったんでしばらく音声だけ聞かせてたんですよ。それで長電話です。すみません」
「良いのよ。でも、篤くんとお姉さんは一緒にライブに行ったりして仲が良くて羨ましいなあ」
「羨ましがられるような仲じゃないですよ。そんなことより何か困ったことでもあったんですか?」
「あっ、そうそう。ちょっと知恵を借りたくて」
「俺で役に立てることなら良いですが」
「それは大丈夫。篤くんなら知ってるだろう、と見込んでのお願いだから」
「そうなんですか。どういう要件ですか?」
「さっきまでクラスの演劇の最終チェックをしていて、演出の子がオープニングとエンディングの音楽を変えたいって提案して、スタッフもキャストもそれには賛成なんだけど、ぴったりな楽曲が見つからないのよ」
「そうですか。直前まで大変ですね。それで一体どういう曲を探しているんですか?」
「元々は映画の劇伴音楽、インストゥルメンタルの曲を当てていたんだけど、英語の歌詞が入る曲に変えたい、ってことになって。しかも、『君さりし夜』に合うように、その時代に活躍したアーティストの作品が望ましいの」
俺は自分のクラスでも上演作品の候補に上がった「君さりし夜」の概要を思い返した。確かあの作品はうちの親の世代くらいの主人公が登場する話のはずだった。
「あの作品は30年くらい前の時代設定でしたよね」
「よく覚えてるね。その時代に流行した曲に詳しい人が誰もクラスにいなくて、それで篤くんに聞いてみたの。お父さんもお母さんも昔から海外の音楽が好きだったから学生時代に好きだった曲を今でも家で聞いている、って前に言ってなかったかな」
「はい。うちの親が今でもよく聞いているような音楽で良いんですね」
「うん。思い当たるものがある?」
「パッとは思い浮かびませんが考えてみます。どういう雰囲気の曲がいいですか?何か指定はありますか?」
「あるよ。まずオープニングで流したいのは、ちょっと待ってね、メモを見るから。ええと『絶望の淵にいる人が少しだけ希望を持てそうになる曲』だそうです。それでエンディングに流したいのは、『心の傷ついた人に寄り添ってくれるような優しい曲』です。これが私からの要望です。何か候補に挙げられる?」
そういう楽曲を選択する意図は俺にもよく分かる。「君さりし夜」という舞台はあまりにも悲しいラブストーリーなので、観ている人たちの心を癒すことまで考えての配慮だろう。
「考える時間を10分、いや、5分だけ下さい。気に入ったアルバムはiPhone に入っているんです。音楽アプリを見ながら探したいんで、一旦、電話を切った方がいいのですが、それで良いですか?」
「もちろん良いよ。せかしちゃってごめん。このお礼はちゃんとするから」
「お礼とか気にしないで下さい。曲が見つかったらこっちから電話しますね」
「あっ、待って。私はクラスの話し合いに戻るから、頃合いを見てまたこちらから電話する」
「分かりました」
「さっきから敬語になってるよ。それではよろしくね」
そこで通話を終えた。
体育館の中で大きな歓声が沸いた。クイズ大会の決着がついたのだろうか?気にはなる。
だが今の俺にはやるべきことがあるので雑念を払って、音楽アプリに入っている曲を検索した。海外アーティストの楽曲で条件に合いそうな曲を10曲ほど小さな音量で再生して確認した。
程なくして、遥香さんにお勧めする楽曲が決まった。手元にメモを取る道具がないので、何度も復唱してアーティスト名と曲名を暗記した。
遥香さんからの電話を待っている間に、別の角度からも楽曲選びが出来ることに気づき、2曲がすぐに頭に浮かんだ。曲名を確認しようと音楽アプリのアイコンをタップしたタイミングで電話がかかって来た。すぐに電話に出る。
「遅くなってごめん。結局10分くらいになっちゃった。こっちではまだ楽曲を決めかねているけど、篤くんはどう?何か候補を挙げられる?」
「はい、大丈夫です」
「すごい!ありがとう。やっぱり頼って良かった」
「ご期待に添えるかどうか分かりませんが、とりあえず俺がお勧めするアーティストと曲を言います。ひとつ目はホール・アンド・オーツという男性デュオです。オープニングに合わせるのは『Kiss on My List』という曲です。エンディングには『Everytime You Go Away』という曲がいいと思います」
「そのホール・アンド・オーツはジャンル的にはどんな感じ?」
「彼らの音楽はソウルミュージックだと言われますが、ポップな感じだと俺は思います」
「うん、分かった。曲名をもう一回お願い」
2曲のタイトルを俺が復唱すると、遥香さんはメモを取ってから
「ありがとう。他にもお勧めがあるの?」
と尋ねる。
「はい。もうひとりのアーティストはビリー・ジョエルです」
「その人は知ってる」
「それは良かった『Uptown Girl』がオープニングに、『Honesty』がエンディングに合っていると思います」
「ありがとう。『アップタウン・ガール』と『オーネスティー』ね」
「この4曲はYouTubeでミュージックビデオが見られると思います」
「それならすぐにチェックできるね。早速試してみる。ありがとう。じゃあ、みんなに伝えてくる」
そのまま電話を切られそうだったので、俺は
「ちょっと待って下さい。実はもうひとつ提案があります」
と引き止めた。そして、先ほど頭に浮かんだアイデアを急いで脳内でまとめた。
「他にもお勧めがあるの?ありがとう。それも教えて」
「はい。日本のアーティストで歌詞が英語、というのはどうでしょう。現在活動しているバンドですが、昔の海外の音楽の影響を受けているから曲の雰囲気はあながち外れていないと思うのですが」
「分かった。ガーニッシュでしょ」
「はい」
ガーニッシュというのは俺が好きなバンドであるThe Garnished Fridgeの愛称である。九州にある大学の軽音楽サークルで活動していた3つのバンドの中心メンバーが在学中に結成したギター・ベース・ドラムのスリーピースバンドである。実験的なプロジェクトでインディーズでミニアルバム「Raid the Fridge」を出した。その後、解散する予定だったのだが、そのミニアルバムの評判が口コミで全国に広がり東京のレーベルの目に止まり、そのままメジャーデビューして活動を続けている。
メンバーが3人とも作詞・作曲とリードボーカルをつとめ、外国語学部英米学科の卒業生で英語に堪能なので歌詞は全て英語である。
俺が強く勧めたので遥香さんも興味を持ってくれてガーニッシュのアルバムを聴くようになった。今ではすっかり大ファンになっている。
「はい。あの劇に合うんじゃないかな、と思う曲があります」
「あのバンドには色んなテイストの曲があるからお芝居に合うものもあるかも。お勧めを教えて」
「はい。オープニングに良さそうなのは『Peter Piper』です」
「ピクルスの早口言葉が歌詞になってる曲ね。確かに良さそう」
「ですよね。それで、エンディングは『Nancy Sings Softly』です。これはアコースティックバージョンの方がしんみりしていて良いですね」
「ああ、確かに。序盤は静かに始まるもんね。篤くんはそれをライブで聴いたんだよね。羨ましい。でも、そのライブ音源はどこで聴けるの?もしかして配信されてるの?」
「博多でのアコースティック・ライブがアルバムとして配信されてます。『Local Enthusiasm』というタイトルです。ライブ盤なんでノイズとか観客の声が入ってますが、俺は気にならないです。ファンの間では『伝説のライブ』と言われています。お勧めです」
「地元での熱狂、って意味だね。ガーニッシュは福岡出身のバンドだからかなり盛り上がったんでしょうね。早速ダウンロードして聴いてみる」
「1曲目の『Peter Piper』からアンコールの『Nancy』と『Blow Them Out』まで全て名演ですよ」
「それは楽しみ。篤くんはそのセットリストからお勧めの曲を決めたんだね」
「はい。俺からの提案はこれでお終いですが、何とかなりそうですか」
「大丈夫。後はこっちで相談して決めるから安心して」
「分かりました。それでは」
「ちょっと待って。電話を切って10秒数えたら渡り廊下の方を見てみて。じゃあね。ありがとう」
そこで通話が終わった。
遥香さんに言われた通り10秒数えながら通路を歩き、中央部まで来ると渡り廊下の方へ視線を向けた。
視線の先に、教員棟へ向かって歩いて行く遥香さんの後ろ姿が見えた。遥香さんは振り返ることもなく校舎の中へ消えて行った。
「近くにいたんだ」
と俺は思わず呟き、ため息をついた。
手の中でiPhoneが震えたので確認すると、ショートメッセージが届いていた。
「篤くんを頼って良かった。ありがとう。遥香」
俺は無言でその文面をまぶたに焼き付けて、そのメッセージを消した。遥香さんからの着信履歴も削除した。これはふたりで決めた約束だった。そして、iPhoneの電源を切った。
朝寝坊して慌てて家を飛び出してから充電する暇もなかったので、iPhoneのバッテリー残量はわずかになっていた。
(続く)




