【55】暁の黄金(9)
文化祭初日のクラス演劇の公演が終わった後、クイズ大会に出場するクラスメイトの井沢さんを応援する予定だった。
俺、大町篤と上田と小海さんはロッカーから制服やスマホを取り出して更衣室へ行き着替えを済ませると大会が開催される体育館へ向かう。
気付いたら川上が姿を消していたので、上田は川上にDINEでメッセージを送り、教員棟と体育館を繋ぐ渡り廊下で待ち合わせることにした。
川上を待つ間、俺は先に様子を見に行き、体育館中央の出入口から中の様子を伺う。体育館の中央部には「スタッフ」という文字の入った白い腕章をつけた生徒たちがどんどん前へ押し出してくる観客に対応していた。
「みんな、3歩ずつ下がって」
「ラグビー部のみんな、後ろにいる英語部の子たちにも場所を譲ってあげて」
などと指示を飛ばして上手く制御している。
中には見知った顔の運動部の先輩方がいたので、恐らく部長連の派遣した人員だと考えられた。
恐らく志願した生徒たちが手際よく働いている様を見て俺が感心していると
「待たせたな」
と川上の声が聞こえて来た。
俺がみんなのところに戻ると、上田はすかさず
「お前はどこに行ってたんだ?」
と尋ねたが、小海さんが
「話は後にしない?取り敢えず場所取りしようよ」
と提案したので、俺たちは後ろの出入口から体育館に入った。
クイズ研究部の主催するQUIZ ULTRA DAWNは体育館の舞台と前半分のフロアを使って行われるようで、後半分のフロアは応援する生徒のために観客席として開放されている。観客席とは言っても椅子などなく、立ち見である。その観客席には多数の生徒たちが詰めかけ、その多くは少しでも見やすい場所を求めて前へ前へと押し寄せている。
俺たちは体育館への到着が遅かったので、体育館の最後方に陣取ることになった。
ほとんどの生徒は立ったまま開演を待っている。時折、出場する友人や仲間に向けて声援を送るのが聞こえた。
場内には大人数の観客が詰めかけ、イベント開始前から場内のテンションは高い。そうした有志の生徒たちの警備がなければ観客が前へ前へと雪崩れ込んでしまいかねない。そうなったらクイズ大会へ支障を来すだろうし、最悪の場合は怪我人が出てしまうかもしれない。そうなったらクイズ大会も中止になりかねない。
俺は場内の熱気に圧倒された。
「仕方ない。ここで応援しよう」
と川上が肩をすくめる。
「まあ、最初は後ろの方でもいいんじゃね?もしも井沢さんのチームが勝ち上がったら、訳を話して前の方に入れて貰おうぜ」
と上田が提案する。
「それで良いんじゃない」
と小海さんもやや諦めたような表情で同意した。
「そうだな」
と言ってから自分の手元を見て思い出す。
俺には井沢さんと安住さんに届けたいものがあったのだ。それで
「お前らはクイズ研に知り合いがいないか?安住さん以外で」
と川上と上田に尋ねると
「いるよ、あそこに」
と上田が体育館の出入口付近でプラカードを持っている男子生徒を指さしながら答えた。黄色い法被を着ているのでクイズ研究部の部員に違いない。
「井沢さんと安住さんに飲み物を差し入れしたいんだけど頼めるか?」
と俺はペットボトルのお茶と水が入ったビニール袋を上田に差し出す。バスケ部の先輩からうちのクラスへの差し入れのお裾分けである。
「分かった、ちょっと頼んでくる」
と上田は袋を受け取るとその知り合いの方へ走って行った。
しばらくして上田は戻って来た。
知り合いの部員は上田の頼みごとをふたつ返事で引き受けてくれたらしい。
俺はホッとひと安心した。
すると上田が先ほどの質問を繰り返した。
「で、今までどこに行ってたんだよ、川上」
「ちょっと野暮用があって、その後で沢野先生に会いに職員室にいったんだけど、不在だった」
と川上は答える。上田は
「野暮用って、、、まあ訊くだけ野暮だな。沢野先生のところに行ったのは録画した舞台の映像のことでか?」
と尋ねる。川上が答えたくないことを察したのだろう。
「ああ、そうだよ」
と言って川上は首肯する。
「出来たら、今夜のうちに映像を観ておきたいって思ったんだけどな。先生も忙しいだろうし無理は言えない」
そんな話をしていると、場内にノリの良い音楽が流れて、舞台上に司会者が現れた。いよいよ開幕である。
アシスタント役の安住さんも現れて、出場チームの入場が始まった。
予選ラウンドの○Xクイズが始まると川上、上田、小海さんの3人は小声で問題の答えを言い合っていた。俺はクイズが苦手なのでそれに参加しなかった。
第一問の正解が伝えられ、勝ち残ったチームとしてチーム文芸部の名前がアナウンスされた時には、4人で井沢さんへの声援を送った。
その後も何問か正解し続けたチーム文芸部を含めた3チームが予選を突破した。参加者と同様に○Xクイズに挑んだ川上・上田・小海さんの3人の成績は中々のものだった。全員が間違えた問題がなかったのは特筆すべきことだ。
「来年は3人でチームを組んで大会に出たら良いんじゃないか?」
と俺が提案すると、上田は
「それは良いかも。2年生になってクラスが違ってもチームは組めるもんな」
と答えた。一方、川上は
「2年生のクラスでも演劇の演出をさせてもらえたなら、クイズ大会に出てる場合じゃない。だから、俺は来年どうなるか分からん」
と答えた。
小海さんは
「確かに来年もクラス演劇のキャストになったら私も舞台の方に専念しないといけないね」
と笑顔で言った。
その後、プレーオフのじゃんけん対決で勝った2チームを加えて、勝ち残った5チームの紹介が始まった。
昨年の優勝チームと3年生の有名な優等生が結成したチームに続けて、チーム文芸部が舞台に上がった。チームリーダーの須坂という生徒がインタビューを受けている間に俺は誰かの視線を感じて周囲を見渡す。
見慣れたバスケ部のジャージを着た背の高い女子生徒の姿が体育館後部の出入口のところにいるのが目に入った。
間違いない。遙香さんだ。
遙香さんはまだ自分のクラスの演劇発表の準備をしているのだろう。
遙香さんと俺は交際している。だがそのことは周りに隠している。
一番の友人である川上にも上田にもこのことは秘密だ。
それは遙香さんも同様である。
本来ならば遙香さんは校内で俺との仲を怪しまれるようなことはしないはずだ。
それでも危険を承知で俺のことを探しに来たのであれば、もしかして遙香さんの身に何か困ったことでもあったのかもしれない。
そう考えると俺はいてもたってもいられなくなった。
視線を舞台に戻すとチーム文芸部のインタビューは終わっていた。
「井沢さんたちの紹介も終わったから、ちょっと飲み物を買ってくる」
と俺が切り出すと、川上が
「俺の分もお願い。炭酸系のジュースで。財布を持って来てないから金は後で払う」
と反応した。よく考えたら俺も財布を教室のロッカーに入れたままだったことを思い出す。川上に乗っかる形で
「じゃあ、俺も同じで」
と上田がちゃっかり要望を伝えたので
「小海さんは?」
と俺が尋ねると
「じゃあ、お願い。私もみんなと一緒で良いよ」
と返事を貰った。
そうして俺は早足で後ろの出入口から通路に出て、周りを見渡す。
人の往来は多い。だが、遙香さんの姿はない。
通路を体育館の前方へ向かって移動する。ちょうど舞台がある辺りの位置に制服姿の5人の生徒たちがいる。リーダーらしき男子生徒が書類の束を片手に確認作業をしているようだ。
2年生なのは分かるが、どこのクラスか分からないし、その中にも遙香さんはいない。
その5人の横を通り過ぎて通路の西端に行く。そこからは学校の前庭、つまり正門から入ってすぐの広いスペースが見える。
前庭にはたくさんの立て看板が設置されていた。
明日からの一般公開に備えて恐らく2年生のクラス演劇の宣伝のために設置しているのであろう。
看板の周囲にもたくさんの生徒たちがいるのが見える。
ここからでは遠すぎて前庭に遙香さんがいるかどうかまでは視力の良い俺でも流石に分からない。だが、バスケ部のジャージを着た生徒はいないようだ。
俺は場所を変えて校内を移動しながら遙香さんを探すことにする。
まずは体育館の通路の中央部へ戻り、そこで左に折れて教員棟に繋がる渡り廊下を通る。その途中にも遙香さんの姿はない。
教育棟へ入り、1階の廊下へ到達する。
階段の近くに制服姿の女子生徒がいることにすぐ気付いた。後ろ姿しか見えないが長い髪を後ろでまとめている。姉貴が昔、同じような髪型をしていた時に「これはシニヨン。覚えておきなさい」と教えられた。この女子生徒の髪型はそのシニヨンなのだと思う。
上履きの色から2年生だと分かる。その人は大きな段ボール箱を載せた台車を廊下の壁際に停めて、その箱をひとりで持ち上げようとしていた。だが、上手く持ち上がらない。それでも諦めずに両腕を大きく広げて箱の両端を掴んで、再度持ち上げようとする。そうやって少しだけ持ち上げるものの、すぐにバランスを崩して箱を台車の上に戻していた。この女子生徒が非力なだけかも知れないし、もしかしたら箱の中身が重いのかも知れない。
それでもなおこの女子の先輩はひとりでなんとか持ち上げようと苦労しているので、俺は黙って見ていられなくなった。先輩に近づいて
「先輩、手伝いますよ」
と声をかけた。
「え」
不意をつかれたその女子生徒はそう驚いて俺の方へ振り返る。目が合った時に俺は息を呑んだ。
その先輩は緑がかった淡褐色の瞳で俺のことを見つめていた。楚々とした佇まいに驚く。色白の整った顔に赤いフレームの眼鏡がとても良く似合っていた。近くで見ると艶やかな髪の色はダークブラウンであった。ブルネットとも表現できる髪色である。
突然、知らない男子生徒から声をかけられて、先輩は当惑したような表情を浮かべていた。俺は何とか自分の言葉の意味を説明しようと試みたが言葉が出なかった。やがて俺の意図を理解したのだろう、先輩は姿勢を正して優しく微笑む。その立ち姿は文化祭の喧騒から離れたところにひっそりと咲く野の花のように可憐だった。
思わず俺はしばし見惚れた。
俺がそうして押し黙ってしまったためだろう。先輩は歩み寄り、俺と向かい合ってから俺の目を見て
「君は1年生ですね」
と尋ねた。上履きから判断したのだろう。
「はい。1年D組の大町です」
と俺は名乗る。すると先輩は
「1年生が今日、こんな時間まで残っているということは、何か大切な用事があるからなのですよね」
と言って小首をかしげる。その姿も様になっていて直視出来ない。
しっかりしなくてはいけないが目を見て話し辛い。俺は何とか先輩の頭の少し上の辺りに視点を定めて
「友達がクイズ大会に出ているから応援しています。今は抜け出してジュースを買いに来ただけです。少しくらい戻るのが遅れても問題ないですよ」
と事情を説明すると、
「そうでしたか。つまり、君には今しなければならない仕事はない。今はクイズ大会の応援を少し休んでいる。そういうことですね」
先輩はそう確認してしばらく黙る。先輩の姿を一瞥すると顎に手を当てて思案している。その姿も絵になる。先輩の視線は台車の上の大きな箱と俺の間を行ったり来たりしている。
そして、もう一度廊下を見回してから
「そうですね。君以外に手伝ってくれそうな人は誰もいません。2年生や文化部の部員なら、まだたくさん校内に残っているはずですが、自分たちの準備に忙しいはずです。だから雑用を頼めません。他に選択肢はないですね。手伝ってもらえますか?お願いします」
と言い、深々と頭を下げた。
2年生の女子の先輩が1年生の男子生徒に頭を下げている状況はいささか気まずかったので、事態を進展させるために
「この箱はどこに運べば良いですか?」
と俺が尋ねると、先輩は頭を上げて
「3階の音楽室までお願いします。もちろん、ふたりで」
と答えた。
俺と先輩は台車の上の段ボール箱を持ち上げた。重さはそれほどではなかった。箱のサイズが大きいのが問題だったのだ。ふたりで運ぶのであればそんなに難しくない。俺がひとりで運ぶことも不可能ではないが、その場合はバランスを取りづらいこと、前が見えづらいこと、さらには足元が見えないことがネックとなって箱をひとりで持って階段を上るのは難しそうだ。
「ふたりで運ぶなら大丈夫そうですね」
と俺が言うと、先輩は頷いてから
「階段はゆっくり上がりましょう」
と促した。俺の方が背が高いのでその分だけ先輩よりも下の段を進めば良い。箱の重さも下にいる俺の方に負荷がかかるからちょうど良い。
1階と2階の途中の踊り場で一旦、荷物を下ろして少し休む。
「君の方が重さの負担が大きいでしょう。まだ大丈夫ですか?」
と先輩が俺を労う。
「文芸部の文集を運んだ時よりは楽ですよ。あの時の箱はもっと小さかったですが中にはぎっしり本が入ってましたから」
と俺が答えると、先輩は驚いた様子で
「確かにそれは重そうですね。その時も偶然通りがかったのですか?」
と尋ねた。
「いいえ、クラスの友達に頼まれました」
と俺が答えると、先輩は穏やかな口調で
「君は優しいですね。見ず知らずの私にも声をかけてくれましたし」
と褒めてくれたので照れくさくなり
「そんな大したことはしてませんよ」
と俺が否定すると、先輩は頭を振って
「いいえ。困っている人、しかも自分の知り合いではない人に声を掛けるのにはそれなりに勇気が必要です」
と俺を諭すように言った。続けて
「その勇気を持っていて、私に声をかけてくれてありがとう。さて、荷物運びを続けましょう」
と励ますように声をかけて、段ボール箱に手を掛けた。
俺たちは順調に3階まで段ボール箱を運び、音楽室の前に到達した。
そこで箱を床に下ろす。
「誰かまだいるといいなあ」
と言いながら先輩は音楽室の入口の引き戸を開ける。
ドアが開いているということは中に誰かいるのだろう。
先輩はそのまま室内に消える。
音楽室の入口に近い掲示板には2枚のポスターが貼られていた。吹奏楽部と合唱部の文化祭での演奏発表を宣伝するものだった。
吹奏楽部が明日の土曜日のお昼、合唱部が明後日の日曜日のお昼に体育館で演奏を行う、と分かった。
すぐにふたりの男子生徒がやって来た。
「ありがとう。大変だったね」
「ここからは僕らが運ぶよ」
そう言って段ボール箱を音楽室内へと搬入した。
すると、入れ違いに先輩が現れて
「本当にありがとうございました。後できちんとお礼をしたいから、もう一度クラスと名前を教えてもらえますか?」
と尋ねる。手元にはメモ帳とボールペンがあった。
「1年D組の大町です」
と答える。先輩が俺のクラスと苗字を書き取っている間、誰かの視線を感じた。音楽室の入口の方を見ると、髪の長いすらりと背の高いひとりの女子生徒が立っていて、俺と目が合うと何度もお辞儀をした。
あの人には見覚えがあった。だが名前は知らない。
先輩は俺の視線の先にいる女子生徒を一瞥すると
「あっ、そうだったんですね。君のことをどこかで見た覚えがあるなあと思っていたのですが、体育祭でうちの沙紀ちゃんをお姫様抱っこしてくれた人だったんですね」
先輩からそう言われて、俺はようやく合点がいった。
昨日の体育祭の借り物競走で俺は飯島さんに頼まれて審判の生徒の前、否、全校生徒と教職員の前で飯島さんをお姫様抱っこした。あれは恥ずかしかった。
クラスの応援席に戻ってから飯島さんが吹奏楽部の部員であることを川上に教えてもらった。
音楽室で活動している部活はひとつではないが、文化祭初日にこの時間まで準備をしているのは明日の土曜日に演奏発表がある吹奏楽部だの部員に違いない。飯島さんがこの場にいるのが何よりの証拠だ。
そこでひとつの疑問が頭に浮かんだ。
先輩は何故、音楽室にいる吹奏楽部の部員に応援を求めなかったのだろう?
1階にいる時に先輩は、明日に向けて準備をしている人の手は患わせたくない、と言っていたが、それは自分の所属している吹奏楽部の部員についても同じだったのだ。
だから何とかしてあの大きな箱を自分だけで運ぼうとしたのだ。
自己犠牲を重んじているのか、とことん利他主義なのか、その正確な信条は分からないが、とにかく自分よりも周りの人間を大事にしようという考えが強すぎる。
もしも俺が手伝っていなかったら、無理をしてひとりで段ボール箱を運ぼうとして、最悪の場合には転落事故を起こしていたかもしれない。
背筋を冷たいものが走った。
あんな可憐な人が大怪我をするなんて、想像したくなかった。
それとともに少し前の記憶が蘇った。
吹奏楽部の2年生の女子部員で、川上と上田が主宰していたチャットスペースで吹奏楽部の2年生の先輩が話題に上がっていた。
音楽室へ向かう先輩の背中に向かって俺は声をかける。
「1階に置いてきたあの台車ですが、どこに返却すれば良いですか?どうせ1階に下りるのでついでに返しておきますよ」
「職員室に返却すれば良いのですが、お願いしてもいいですか?」
「もちろん大丈夫です。それと、最後にもうひとつだけ」
俺がそう言いかけた時に、音楽室から出て来た女子生徒から
「りっかちゃん。2曲目のソロパートで確認したいことがあるんだけど」
と声がかかる。先輩は声のする方を振り返り
「はい。すぐに行きます」
と答えた。俺の方に向き直り
「そう言えば、私はまだ名乗ってませんでしたね。失礼しました。芹田六花です。六つの花と書いて六花です」
と自己紹介した。やはりこの人が吹奏楽部の美人の部員として有名な芹田先輩だったのだ。
「それで、他に何か訊きたいことがありますか?」
と芹田先輩は続けて尋ねる。名前を教えて欲しかったのだがそれはもう済んだ。俺は一瞬考えて
「吹奏楽について全く詳しくないのですが、芹田先輩はどの楽器を演奏しているのですか?」
と質問した。芹田先輩は嬉しそうに
「トランペットです」
と答えた。恐らくは吹奏楽において花形のパートなのだろうと予想できたが、俺にはこの話題を広げる自信もなかったし、忙しい芹田先輩を引き留めて時間を浪費させるのは得策ではないと考えたので
「そうですか。それでは明日の演奏を頑張って下さい」
と言って踵を返して階段へ向かって歩み出す。
後ろで早足で近づく足音が聞こえる。吹奏楽部員の誰かが慌ただしく準備しているだけだろう。先を急いでいたので俺はそのまま歩を進める。すると
「ちょっと待って」
と呼び止められた。芹田先輩の声ではない。足音が更に近づき止まる。俺も立ち止まって振り返る。
そこにいたのは飯島さんだった。体育祭の時は長い黒髪を後ろでまとめていたが、今は髪を下ろしていた。それで印象が随分変わっていた。飯島さんが蠱惑的な瞳で真っ直ぐ俺を見つめるので俺はたじろぐ。
「あっ、ごめんね。ちょっとだけ話したいんだけど、良いかな」
「ああ、分かった」
「じゃあ、階段を降りたところで」
飯島さんはそう言ってから先に階段を降りて踊り場で止まる。俺が追いつくと、俺の正面に立ち
「昨日はありがとう。借り物競走のことね。それと、今日はD組の演劇を観たけど凄く良かった。特に最後のシーンが。私も負けないように明日の演奏を頑張るね。大町君はクラスの演劇で忙しいと思うけど、もし良かったら明日の吹奏楽部の演奏を聴きに来て欲しい。私もトランペットのパートなんだ。まだソロパートは吹いてないけどいつか任せてもらえるように頑張ってる」
飯島さんはそう一気に言い終えた。流石はトランペット奏者である。呼吸に乱れはない。その言葉には強い意志を感じた。
「そうか。俺も出来たらお返しに吹奏楽部の演奏を聴きに行きたい。でも実際のところ、クラス演劇があるからそれは難しいと思う。だから、もしも当日の演奏を録音するなら、その音源を聴かせて欲しい」
と答えた。多分、明日の昼に教室から離れるのは難しいだろう。それを俺は正直に伝えた。その返事を聞いて飯島さんは残念そうな表情になる。
「そう。やっぱりそうだよね。うん。仕方ないね。無理しないで。演奏の録音は残すけど、部員用だから。でも先輩たちのOKが出れば大町くんにも渡すよ」
俺が黙って頷くと、飯島さんは小声でこう続けた。
「それとね。もうひとつだけ。文化祭の後夜祭で、もし良かったら私と踊って欲しい」
飯島さんは頬を赤らめる。
後夜祭のフォークダンスに関しては川上と上田の立ち上げたチャットルームで情報を得ていた。男女が距離を縮める絶好の機会だと生徒の間では認識されている。
飯島さんはつまり俺と踊って親密になりたい、と思っているのだろう。
これは困った。俺には遥香さんがいるので、その願いに応えることは出来ない。かと言って、そうはっきり告げることは出来ない。俺と遥香さんの関係については言及できないから、俺が飯島さんのことを嫌いな訳ではないことを上手く伝えられる自信がないのだ。さりとて勇気を出して声をかけてくれたこの人に対してその場しのぎのいい加減な口約束も出来ない。俺は
「後夜祭のフォークダンスがどんな風に行われるのか分からないけど、巡り合わせが良ければ、お願いします」
と伝えた。
小説や映画に出てくるような西洋の上流階級の催す舞踏会のように男性がフロアで意中の女性にアプローチして同意があればふたりで踊る、というような方式なら約束することも出来る。流石にそんな趣向ではないだろう。だから、そう答えざるを得ない。
「うん。そうだよね。私も詳しいことは分かんないけど、大町くんを見つけたら、私がそっちに行くから。よろしくね」
「ありがとう。よろしくな」
そうして、俺は階段を下りて1階へ向かった。途中で振り返ると踊り場で飯島さんが小さく手を振っていた。
俺は1階まで降りると、廊下に置きっぱなしにしてあった台車を職員室まで押して運んだ。
失礼します、と挨拶をしてから職員室へ入り
「吹奏楽部が借りていた台車を返却しに来ました」
と要件を伝えると
「はい」
と返事があり、地歴の石黒先生が席を立ってやって来る。俺は石黒先生の授業を受けているので互いに面識があった。ベテランの世界史の先生で、授業が面白いのでうちのクラスでも人気だ。
近くで見るとやや長めの髪には白いものが混じっているのが分かる。うちの父親よりも年上なのだろう。半袖の白いワイシャツにスラックスという普段通りの服装だった。
「お疲れ様。でも、大町君はバスケ部だったよね」
と訊かれたので
「はい。通りすがりでお手伝いしただけです」
と答えると、石黒先生は
「そうか。あの大きな箱を運ぶのは大変そうだったから、心配してたんだ。君が手伝ってくれたのなら良かった」
と応え、台車を畳んで壁際に寄せた。
「備品貸し出しの記録簿の方は私の方で記入しておく。もう行って良いぞ」
と石黒先生が返却手続きを受け持ってくれたので
「よろしくお願いします。それでは失礼します」
と礼を述べて、俺は職員室を後にした。
遙香さんを探しつつ自分のロッカーを目指す。まずは教員棟から学生棟へ繋がる渡り廊下を北へと進む。
中庭には4つのだいたい10人くらいの生徒のグループがいた。グラウンドの方を見やると同じくらいの規模の3つのグループが見えた。中庭から台詞らしき声が聞こえてくるから、立ち稽古をしているようだ。恐らく2年生たちが本番に向けて最後の仕上げをしているのだろう。こんな直前のギリギリまで稽古をしているのだからやはり2年生のクラス演劇は気合いの入り方が違う。
なお、依然として遥香さんの姿は見つけられなかった。
渡り廊下を進んで学生棟の1階へ入る。突き当たりが東西に伸びる廊下である。俺は左に曲がって廊下を西へ進み、1年D組の教室の近くにあるロッカーを目指す。1年生の教室はどこも灯りが消えていた。
そうして俺は自分のロッカーへ辿り着き、財布を取り出す。捨てずに取っておいたコンビニの白いビニール袋がロッカーの中にあるのを見つけたのでジュースを入れるために持って行くことにした。
学生棟を出て、西側の渡り廊下を通り、中庭に出る。1年D 組の教室からならこれが目指す自販機への最短ルートであった。
中庭で芝居の稽古をしている生徒のうち何人かの生徒に見覚えがあったので2年生のクラス演劇の準備なのだとはっきりした。ざっと見渡したがやはりここにも遙香さんの姿はない。
俺は先輩たちの稽古を邪魔しないように中庭の端を通って教員棟の近くに設置された自動販売機の元へ移動する。既にいくつかの商品が売り切れているのが分かった。ペットボトルのスポーツドリンク、ミネラルウォーター、麦茶はもう売り切れていて買えない。幸いなことにレモン風味の炭酸飲料はまだ残っていたので3本購入して袋に入れる。自分の飲み物は何にしようかと少し考えていると背後に人の気配がした。振り返ると生徒会長の萱野先輩がそこにいた。1年D組の教室で会った時と同様にオレンジ色のクラッチバッグを手にしている。
俺は慌てて
「すみません。先輩、お先にどうぞ」
と自動販売機の正面から退くと、萱野先輩は
「先に並んでいたのは君だ。ゆっくり選べば良い。そもそも僕はそういう古臭い上下関係のあり方には反対だ」
「そうですか。分かりました」
と答えて俺は手早く硬貨を投入し、ペットボトルの緑茶を買った。
俺が自動販売機の前の場所を譲ると萱野先輩は制服のズボンのポケットから財布を取り出し、アイスティーを購入した。
「先輩は校内の見回りですか」
と俺が尋ねると、萱野先輩はアイスティーのペットボトルのキャップを開けようとする手を止めて
「僕は自治会の人間じゃない。まあ、今は自治委員の多くがクイズ大会に行っているし、部長連も同じだ。確かに不用心だが、だからと言って僕ひとりで校内の治安を守ることは出来ないよ」
それは当然のことだ。俺は黙って頷く。
「僕は単に人気のない校舎を散歩していただけだ。色々と考えながらね。『孤独な散歩者の夢想』には程遠いが」
「その本は、確かルソーでしたね」
萱野先輩は目を丸くして驚き
「そうか。君はそういう分野にも強いのか」
「いいえ。読んだことはありません。自分の好きな文庫レーベルに入っているので知っているだけです」
「謙遜する必要はない。その場合もある意味『知っている』と言って良い。それと、可能ならば好きな文庫レーベルを読破するくらいの勢いでジャンルに拘らず色んな本を読むことをお勧めする。そうやって読んだ本は君の血肉となるからね」
「はい。分かりました」
と俺が答えると、萱野先輩は大きく頷いて
「そのジュースは友達に持って行くんだろ?ぬるくなる前に早く行ったほうが良い」
と促す。俺は
「はい。そうですね。失礼します」
と言って最敬礼し、体育館へと急いだ。
俺が体育館に戻ると、川上たち3人の姿は見当たらない。俺は啞然として周りを見回す。しかし3人は見つからない。俺は途方に暮れる。
すると近くに立っていた女子生徒から
「あっ、大町くん。上田くんたちは前の方に移動したよ」
と声をかけられた。遥香さんほどではないが背の高いショートヘアの子だ。その人の隣にはセミロングの女子生徒が一緒にいる。ふたりともどこかであったことがあるような気がするが制服姿なので俺にとってどういう間柄の人なのかは分からない。ともかく上田の知り合いのようだから信頼できる。
「そうなのか?」
と端的に尋ねると、今度はセミロングの子が
「とりあえず、前の方に行ってみたら良いんじゃない。真ん中よりも少し右側だと思う」
と促す。
「ありがとう」
とお礼を言うと、その人は
「気にしないで」
と笑顔で手を振る。するとショートヘアの子が
「大町くん。もし良かったら、私たちからお願いがあるんだけど良い?」
と切り出したので
「俺に出来ることだったら良いよ」
と答える。すると
「後夜祭で友達の杏奈、1-Aの下条杏奈と踊ってあげて」
と意外な要望を挙げた。状況はよく分からないが1年A組の下条さんと後夜祭で踊れば良いことは分かった。そもそも下条さんと面識がないのが気がかりだが、後で上田に訊けば大丈夫だろう。そこまで考えて俺は
「努力はする。とにかくありがとう」
と答えた。
「よろしくね」
「じゃあね」
と言ってふたりと別れ、上田たちを探すことにした。
俺は後夜祭のフォークダンスで遥香さんだけでなく、吹奏楽部の飯島さんに加えて1年A組の下条さんとも踊ることが出来るように努力しないといけない。どうなることやら、と先が思いやられる。
「チーム文芸部の応援をしたいんで、通して下さい」
そう繰り返しながら、観客の中を掻き分けて前に進むと、誰もが
「いいよ」
「どうぞ」
といった感じで快く道を開けてくれたり
「文芸部の応援団はあそこだよ」
と教えてくれたりした。指差す先に頭ひとつ抜けた背の高い川上の茶髪の頭部が見えた。
人を掻き分けながら
「川上」
と呼びかけると、振り返った川上が
「大町、無事だったか」
と心配そうに尋ねるので
「悪い。色々と寄り道してたんだ」
と答える。すると上田が
「お前がまた誰かに拉致されたんじゃないかって、みんなで心配してたよ」
と茶化した。
すると近くにいた眼鏡をかけた男子生徒が
「君が監禁ドラフトから生還した伝説の人なんだってね」
と尋ねる。この人が誰なのかは知らないが
「はい」
と答える。すると、その隣にいた小柄な女子生徒が
「坂木くんが言ってた『ダイハード大町』くんだね」
と付け加える。垢抜けたこの人はうちのクラスの演劇を観に来てくれた井沢さんの知り合いだ。小海さんや高岡さんとも知り合いだったと記憶している。それにしても俺は随分と大袈裟な異名をつけられたものだ。
俺が状況を理解出来ていないことを察した上田が
「こちらは文芸部の松本先輩と岡谷先輩です。一緒にチーム文芸部を応援してるんだ」
と状況を説明する。
「おめでとうございます。チーム三奇人とチームぎんなんは決勝進出です」
とアナウンスがあり、場内で歓声が沸き起こった。
「あっ。先に行かれた。チーム三奇人とチームぎんなんが決勝進出を決めたぞ」
と川上が悔しそうに言う。
「さっきから文芸部と武道場が潰し合いをいてるもんなあ。このまま科学部が勝ち抜いちゃうんじゃね」
と上田が不吉なことを言うと、小海さんが
「そういうことはたとえ思ったとしても口にしないで」
と語気を強めてたしなめた。
俺はアナウンスにあった「決勝」という言葉に引っかかるものを感じたので
「まだ1回戦だろ?」
と尋ねた。川上は呆れたような表情で
「お前がどこかはるか遠いところへジュースを買いに行っている間に、体育館ではいつも通りに時間が進みクイズ大会は本戦の第2ラウンドまで進んでるんだよ」
と説明した。俺は買って来たジュースの存在を思い出して
「そうそう、ジュースを買って来たぞ」
と言ってペットボトルを手渡す。
自分ではそんなに時間が経ったように感じなかったが、恐らく芹田先輩に会って惚けていたのと先輩のお役に立てるように必死に頑張ったのが原因で時間の経過が分からなくなったのだろう。
3人はジュースを渡すとすぐにキャップを開けて飲み始めた。
「冷たくて美味しい。ありがとね」
と小海さんが言い、川上は
「確かにジュースは冷たいな。それに中庭の自販機で売ってるジュースだ。大町が中庭の自販機まで辿り着く途中で体験した時間の経過を忘れるほどの楽しみがどんなものだったのか、とても気にはなる。でも今はチーム文芸部の応援に専念しよう」
と言って視線を舞台に向けた。上田はキャップを開けてジュースをゴクゴクと喉を鳴らして飲んだ。
「喉が渇いていたからめっちゃ美味い。大町、もしかしてこの美味しさを俺たちにお届けするためにお前はわざと時間をかけたのか」
と上田が訝しむが、すぐに
「そんな訳ねえよな」
と自ら否定した。
その後、地理の問題が2つ続いたが、それで決着がつき、チーム文芸部は決勝進出を決めた。
休憩に入ったところで俺たちも一息つく。
小海さんが何かを思い出したような素振りで
「あっ、そういえば大町くんがいない時に3年生の女子の先輩がふたりで大町くんのことを探しに来たよ。1回戦が終わった後だったかな」
と俺に伝える。
「今はちょうどいないけど、いずれ戻って来ます、って伝えておいた。だから、また後で訪ねて来るんじゃない」
小海さんのその対応は正しい。だが、要件は何だったのだろう。相手は先輩だし、こちらから訪ねていくべきだろう。そう思って
「先輩たちが誰だったか、分かるか?」
と訪ねたが、小海さんは頭を振り
「私の知らない人たちだった。多分、文化部の先輩じゃないかな」
と答える。目線を上田に向けると
「悪い。俺はちょうどその時トイレに行ってた」
と答え、続けて川上が
「俺も電話がかかって来て通路に出てた」
と状況を伝えた。
3年生の女子の先輩たちが俺を探す理由が分からない。俺が考え込んでいると、上田が
「俺と川上の推理はこうだ。大町は3年生の女子の先輩たちに校内のどこかで捕まって、楽しい監禁生活を送っていた。どうだ、当たっているか?」
と自慢有りげに言う。すかさず
「そんな訳あるか」
と俺は答える。一方、小海さんは
「私は何となく分かったよ。どうして先輩たちが大町くんを探していたのか」
とことなげに言う。
「だったら教えてくれ」
「教えない。せっかくの文化祭なんだからサプライズがあった方が楽しいでしょ」
「でも急用だったり何か困っていたらまずいだろう」
「急用じゃないし悪い話じゃないと思う。だから心配しなくて良いよ。はい、この話はお終い」
そう言って小海さんは会話を打ち切った。
自惚れかも知れないが、これも後夜祭のフォークダンス絡みなのかも知れない。その時が来れば分かることだろうから今からあれこれ考えても仕方ない。
場内に有名なスパイ映画のテーマ曲が流れ、観客席からも大きな歓声が沸き起こる。とうとう決勝戦が始まるのだ。
決勝戦には間に合って良かった。
(続く)




