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羊飼いも山羊もいない  作者: 遊舵 郁
九月、祭りのころ
49/63

【45】暁の黄金(8)

 舞台監督の川上が合図をかけると場内が暗転した。

 文化祭の初日、1年D組の演劇「Round Bound Wound」の第四回公演が始まる。

 俺、大町篤は書き割りの裏側で自分の出番が来るのを待っている。


 この舞台は探偵事務所の中だけで物語が完結する作品で、出演するキャストは


 ・井上役 :上田清志  

 ・江神役 :大町篤   

 ・和久井役:安住(あすみ)ひかり

 ・倉田役 :小海由乃


という4人のみ。

 このメンバーだけで1時間15分の舞台を上演する。


 本日の最終公演だからこの公演で全部出し切ろう、と俺は思っている。

 


 俺と小海さんは探偵助手の求人に応募してやって来る人物を演じるので、途中から舞台装置のドアを開けて登場することになっている。

 だから、序盤はふたりとも自分の出番が来るまではそのドアの裏側で待機している。



 場内に長閑な室内楽が流れて、程なくして舞台に灯りがついたので俺たちのいる場所にも光が差し込む。

 

 俺がいる位置からは見えないが、明るくなった舞台の上には所長の井上を演じる上田と、秘書の和久井役の安住さんがいて、芝居が始まろうとしている。




 まずは井上のこんな台詞からこの舞台は始まる。

「求人雑誌で募集をしてもう1週間だよ、和久井くん。

 世のため人のために働きたいと志す者はひとりもいないのかなあ」


 上田はスムーズに台詞を言えた。

 今回は心配なさそうだ。


「焦っても仕方ありませんよ、所長。

 この不景気ですから、なんでもやります!って気合いの入った人がきっと来てくれますよ」

と和久井が答える。


 安住さんは相変わらず落ち着いている。


 不安定な演技を続ける上田と未完成なまま舞台に上がっている俺を支えてくれるのは、安住さんの堅実な演技と咄嗟の対応力だ。安住さんは完全にこの芝居の柱となっている。

 小海さんは明らかに頑張りすぎなくらい「自分が求められている役」に徹している。無理させないようにサポートしたいとは思っているが、俺には終盤の長台詞という難関が待ち構えているからそれほど精神的な余裕がない。

 俺は最低限の目標として、他のキャストたちに迷惑をかけないようにそつのない演技をすることに専念しよう。


 井上と和久井の会話を通じて、この場所が探偵事務所であること、井上が所長で和久井が秘書であること、そして、井上が探偵助手を募集していること、などが伝えられる。


 お客さんがこの舞台の世界観を理解して下さったであろうタイミングで俺の登場シーンがやって来た。

 


「行ってくる」

と小声で小海さんに告げると

「さっきはありがとう」

と返事とともに、小海さんは優しく掌で背中を押してくれた。


 今までのように背中を「拳で叩く」のではなく「掌で押す」。

 小海さんの中でも変化が生まれたのかも知れない。


 

 俺の出番を知らせる「ピンポーン」という効果音が聞こえる。

 これは俺の演じる江神が鳴らしたことになっている事務所の入り口の呼び鈴の音だ。


 ドアの向こう側から

「はい、井上探偵事務所です」

と和久井が応答してくれたので、俺は

「あのー、求人広告を見て面接に参りました。

 生憎、携帯電話が故障してしまいまして今は修理に出しており、前もってご連絡することができず、突然の訪問となりまして大変申し訳ございません。

 もしもご都合が悪いようでしたら、また出直しますので、ご都合のよろしいお時間を教えていただければ幸いです」

とゆっくりと要件を伝えた。川上から要望された通り、ラストシーンまではゆったりと演技することを心がけよう。


 和久井が

「はい。採用の面接にいらっしゃった方ですね。

 どうぞお入り下さい。

 今、開けますね」

と言うと、ガチャっという効果音がした。ドアの鍵が開いたのだ。


 1、2、3、と少し待ってから俺はドアを開けてゆっくりとした足取りで舞台上に移動した。

 このシーンでは音響担当の遠見有希さんが用意してくれたゆったりとした感じのゆったりした曲が流れるからそれに合わせて速度を落として体を移動させた。


 客席から

「あっ、大町くん!」

「頑張って!」

という声がかかる。

 毎回ながらありがたい。


 せっかく応援をいただいたのだが、終盤の見せ場までは江神にはあまり派手なアクションもないし、台詞も少ない。

 特に初見のお客さんは肩透かしを喰らうことになるのだが、声をかけてくれたみんながこの舞台を最後まで見終わった時に満足してくれるように頑張ろう。


 舞台上での最初の台詞は

「今日は、突然お邪魔いたしまして、申し訳ございません。

 探偵助手として雇っていただきたく面談に参りました。江神と申します。

 よろしくお願いします」

とスムーズに出た。

 焦らずゆっくり喋ろう。



 井上は落ち着いた表情で俺に駆け寄ると、俺の体格の良さを確認してから

「君はいい体をしているね。

 何かスポーツでもやってたの?」

と嬉しそうに尋ねる。

 今回は井上がちゃんと笑顔になっている。

 

 当然ながら、隣にいる和久井もホッとした表情でいる。


 井上からの質問に対して、俺がゆっくり

「スポーツと言いますか、実は以前、」

と自分の来歴を語り始めたタイミングで、「ピンポーン」と呼び鈴が鳴る。

 この音が舞台上にいる3人の人物だけでなく、場内のお客さんたちへもふたり目の訪問者が現れたことを知らせる。


 台詞の途中でタイミング良く効果音を入れるのは難しいと思うが、毎回ぴったり合わせてくるあたり遠見さんは上手い。彼女は運動が得意で反射神経も良いからこんな芸当が出来てしまうのだろう。

 まさしく「適材適所」である。



「江神さん、少しお待ち下さい。

 珍しいね、来客が続くなんて」

と俺の話を止めてから、和久井がインターホンに向かい

「はい。井上探偵事務所です」

と新たな来訪者に応対する。


 和久井の応答を受けてから一呼吸置いて、その人は

「井上探偵事務所さんで雇っていただきたく参りました。

 倉田と申します。

 お電話では自分の熱い情熱をお伝えしきれないと判断し、直接お邪魔しました。

 まだ探偵助手の募集には間に合っておりますでしょうか?

 よろしくお願いします」

と元気よく答える。


 客席の女子生徒たちからは

「あっ、小海さんだ!」

「やったー!」

と声が上がる。

 早くもテンションが上がっているようだ。



 そもそもこの舞台には4人のキャストしかいなくて、既に上田、安住さん、俺の3人が既に舞台上にいるのだから、今から登場するのが倉田役の小海さんだということを誰もが知っている。


 いよいよ千両役者の登場だ。



 立て続けにふたりも求職者がやって来たので、和久井はやや困った顔で井上の方を見る。

 井上は俺が頑丈そうな体格なのを確かめて満足げな顔をしている。


「所長!どうしますか?

 採用希望者がもうひとりいらっしゃってますけど!」

と和久井は声を上げる。


 井上は首をひねりながらも

「そうだなあ。

 この江神くんのフィジカルは文句なしに合格点だが、まだ何も話が聞けてない。

 それに、わざわざ面接に来てくれたもうひとりの方を邪険に扱うのも私のポリシーに反する。

 和久井くん、その方にも入ってもらっちゃっていいよ」

と右手でサムズアップして答える。


 井上の様子はここまでは安定している。

 だが、第三回公演では倉田が登場してから明らかに挙動不審になった。


 今回は大丈夫であってくれ。

 俺は心の中でそう願った。



「では開けますね」

と和久井が伝えて、オートロックが解除される音がする。

 それを合図に倉田がドアをパーンと開け放って、颯爽と舞台に登場する。


 倉田の衣装はTシャツにミニスカートだったので

「え?」

という戸惑いの声が客席から漏れ聞こえて来たが、それを掻き消すかのように

「きゃー!」

「小海さ~ん!」

と大きな歓声が沸いた。


 活発な倉田の性質を表すテンポの良い音楽が流れる。



 倉田は俺には目もくれず、井上にまっすぐ近づいてその手をしっかり握ると

「自分は倉田と言います。

 なんでもやります!

 是非とも、井上先生のもとで働かせて下さい!

 お願いします」

と挨拶をする。


 井上は一瞬たじろいだが、今回は目を逸さない。

 むしろ倉田がちょっと驚いたほど、その目を見つめ返している。


 良いぞ、その調子だ!


 しばらく見つめあってから、井上は倉田の顔から視線を外す。

 嬉しそうな表情で

「井上先生かあ、、、いい響きだ」

と呟く。

 表情が台詞の内容や演出プランと合致しているから、今回は大丈夫だ。



 和久井は井上と倉田の間に割って入る。

「立ち話もなんですから、江神さんも倉田さんも所長も、まずはいったん座りましょう」

 舞台の真ん中よりやや下手側に置かれてあるソファーへ移動するように働きかける。



 この時点で倉田は俺の存在にようやく気づく。

 倉田は俺のことをすっかり事務所の探偵だと勘違いしており

「この方も探偵の先生ですか。

 初めまして。自分は倉田と申します。

 なんでもやりますので、よろしくお願いします」

と挨拶をする。

 一気に距離を詰められたので俺は内心たじろいだ。


 至近距離でこの綺麗な顔の女の子に見つめられて逃げなかったとは。

 舞台に上がったら私情を捨てて演技に集中する、という上田の覚悟は本物だ。


 それを受けて俺が

「いえいえ、僕は、、、」

とゆっくり喋ろうとすると、倉田はそれを遮って

「先輩のためならたとえ火の中水の中、自分、体張りますんでよろしくお願いします」

と笑顔でVサインをしている。


 正直なところ、この人にはこれ以上無理をして欲しくないと思うのだが、舞台にいるのは空手家の倉田であり、小海さんとは別の人物なのだ。

 俺も江神という役にもっと集中して、大町篤としての心情は排除しなければならない。



 和久井に案内されて4人でソファーに座る。

 上座にある来客用のふたりがけソファーに俺と倉田が座り、その向かいのふたつのひとり用ソファーに井上と和久井がそれぞれ座る。


 この時点で、倉田は俺が客としてもてなされていることにようやく気付く。

 井上が俺と倉田に向かって恭しく

「江神さん、倉田さん、我が井上探偵事務所の募集に応じてくださってありがとうございます」

と挨拶するので、俺と倉田はお辞儀をする。


「それで、せっかく御二方に事務所まで足を運んでいただいたのですが、求人広告にもありました通り、今回の募集人員は1名だけです。

 ですので、おふたりの両方を採用するわけにはいきません」

 井上は事実を伝える。

 実に心苦しげな表情が出来ているので、今の台詞が如何に言い辛い一言だったのかが伝わって来る。



 その説明から状況を察した倉田は、驚いた表情で

「え?この人は探偵の先輩じゃないんですか?

 探偵助手の候補者なんですか?

 じゃあもう決まりじゃないですか!

 自分にしましょう、井上先生。

 さっきから何も喋らないこんな『ウドの大木』なんかよりも自分の方がずっとお役に立ちますよ。

 こう見えて、自分は空手三段なんです。

 荒事だってこなして見せます!オッス!

 よろしくお願いします」

と身を乗り出して自分の正面に座っている井上に迫る。

 井上は逃げずに真剣な表情のまま倉田の顔をじっと見つめ返す。


 この一連の掛け合いを観て、客席から笑いが起こった。


 倉田はつい先ほど勘違いから俺のことを「先輩」と親しげに呼んでいたのに、自分と同じ探偵助手への応募者でありライバルだと分かった途端に「ウドの大木」と吐き捨てる。

 この小気味いい掌返しと絶妙な台詞回しを嫌味なくサラッと出来るようになるまで、小海さんがどれだけ苦労したかを客席にいる皆さんは知る由もないだろう。


 もちろん、観てくれる人たちはそんなこと気にしないで、面白いと思ったら笑ってくれれば良い。

 それが小海さんにとっての何よりの報酬だと思う。


 俺には台詞がないので黙っている。


 その倉田の台詞を受けて、井上は表情を緩めて、嬉しそうな顔になり

「倉田さんは空手の有段者なのかね!

 へえ~、人は見た目で判断できないね。

 実はね、私もこう見えて空手を嗜んでいるんだよ。

 とうー!やー!」

と空手の突きや手刀をするマネをする。

 今回は倉田に正対しているから井上はちゃんとテーブルに右手をぶつけ、「ゴツン」と痛そうな鈍い音がした。

 客席から小さな悲鳴も上がる。


 井上は大袈裟に痛がる。

 結構強く当てていたから実際にかなり痛いと思う。


 そんな辛そうな様子の井上に向かって

「所長が習ってるのは通信制空手じゃないですか。

 本物の有段者の倉田さんを自分と一緒にしちゃ失礼ですよ」

と和久井が突っ込みを入れると、場内から笑いが起こった。


 井上は苦悶の表情だったが、なんとか声を絞り出して

「いてててて。血が出ちゃった。

 和久井くん、絆創膏をちょうだい」

と和久井に伝える。


 4人が舞台に揃ってからの芝居のテンポが今までになく良い。

 みんなが良いリズムに乗って来ている実感がある。

 まだ俺が前に出る場面ではないから、しばらくは3人にこの良い流れを維持して欲しい。



 和久井は井上からの求めに応じて、質素な作りの自分の机に行き、救急箱のような小さな箱から絆創膏を1枚取り出す。

 戻って来て井上の右手のぶつけた箇所に絆創膏を貼る。


 和久井の救急処置にはまだ続きがある。


 井上の右手の上で両手の人差し指をくるくるっと回しながら

「痛いの痛いの」

と言う。

 回していた両手の人差し指を同時に天に向けながら

「飛んでけ〜」

とおまじないをかける。


 客席からクスッと笑いが漏れる。


 井上は照れながら

「和久井くん、手はめっちゃ痛いんだけど、お客さんの前では、流石に、やめてくれないか。

 恥ずかしいよ」

と徐々に声量を落としながら言い、バツが悪くて黙り込む。


 客席から笑い声が起こった。

 

 間髪入れずに倉田が

「井上先生、通信制でも空手家は空手家です。

 空手家同士、一緒に頑張っていきましょう!

 これからは自分も『痛いの痛いの、飛んでけ~』を和久井さんと一緒にしますから鬼に金棒です」

と井上を庇い、自分のことをアピールする。



 倉田は、今回のこの「痛いの痛いの、飛んでけ~」を和久井の言い方に寄せて可愛らしく表現していた。


 上田が舞台上では井上という役に徹すると覚悟を決めたのとは逆に、小海さんは「みんなの求める小海由乃」という重荷を下ろして本当の自分の姿を舞台上で見せようと心に決めたのかも知れない。




 そこから倉田の猛烈なアピールが続き、俺の演じる江神は何も話させてもらえない。

 俺はほとんど喋らないが、順調に芝居が続いている。

 

 喋らないといえば、上手側の舞台袖でプロンプターを務めているはずの井沢さんの声が全く聞こえて来ない。


 そうか!

 キャスト全員が前の台詞に続けて自然と自分の台詞を言えるようになっているのだ。


 演出助手の井沢さんは台詞をサポートするだけでなく、演技全般をサポートすることになっているのだが、今のところ井沢さんから修正の指示は出ていない。


 アクションや立ち位置の移動についても、4人のキャストが流動的に動くことでスムーズになっている。

 公演が終わると毎回のように川上から細かい修正が入るのは、不自然な部分をなくして俺たちキャストが演じやすくしてくれていたのだ。

 今更ながら気付く。


 横目で上手側の舞台袖を見るとその瞬間にも井沢さんは台本を片手にじっと舞台を見守ってくれている。いつでも助けに行くよ、という気概を感じる。

 頼りになる井沢さんがそこにいてくれているおかげで俺たちキャスト陣はいつも何も恐れずに舞台に立てているのだ、と再認識する。


 井沢さんに助けられているのは演者だけではない。

 川上が細かい修正を何度も加えることが出来るのは、舞台袖にサポート役の井沢さんがいるからだ。


 本当にありがとう。


 今までの人生で、演劇では「木の役」しかやったことがない俺がこうして台詞のある役を舞台上で演じられるのは、井沢さんのおかげだと言って過言ではない。



 

 舞台上では「どちらを探偵助手として雇うか?」という問題が議論の的となる。


 和久井が

「所長、どうするんですか?おひとりに決めないと」

と井上に決断を迫ると

「う~ん。迷うなあ」

と言いながら上手側にある豪華な作りに見える自分のデスクへ向かう。


 和久井が

「何か良い考えでもありますか?」

と尋ねると。井上は上手側のある自分のデスクの上に並べられた書籍の中から古びた表紙の本を取り出して

「ちょっと待ってね。確かこの秘伝書に探偵に必要不可欠な能力について載ってたような」

とページをめくり始める。

 倉田が

「探偵の秘伝書ですか!かっこいいですね」

とおだてると、井上は

「まあね。これは一子相伝の探偵虎の巻だから、助手になっても見せてあげられないけど」

と得意げに言う。

 倉田は

「えー!?門外不出なんですか!?ますます気になります」

と驚きの声を上げる。



 和久井は下手側に倉田を呼び寄せる。


 倉田が和久井のそばに行くと井上には聞こえないように小声で

「あれは、所長の大好きな漫画ですよ。少年探偵が出てくる」

と「秘伝書」の正体を明かす。

 

 客席から笑いが起こる。

 

 倉田は

「でも、見た感じは如何にも秘伝書って感じですけど」

と尋ねる。

 和久井は

「あの表紙は私が付けたダミーの表紙ですよ。探偵事務所の所長の机の上に漫画が置いてあったら、せっかくお仕事の相談にいらっしゃったお客さんが『やっぱりこんな人に依頼するのはやめます』って言われちゃいますからね」

と事実を伝える。


 倉田は黙って頷き、井上の様子を眺める。


 しばらく考え込んでいた井上は「秘伝書」を閉じて

「よし、決めた!倉田くんと江神くんでスケボーで勝負して勝った方を採用しよう!」

と宣言する。


 笑いが起こる。


 和久井が

「スケートボードなんて、事務所に置いてありませんよ」

と答えたので、井上は

「あ、そうだったね」

と言いながら頭を搔く。


 ややウケる。


 井上はもう一度「秘伝書」を開いてページをパラパラとめくって思案してから

「それじゃあ、サッカー対決ならどうだ!君たち、サッカーをした経験はあるかな?」

と第二の提案をする。


 俺が

「僕は、、」

と返事をしようとすると、それに被せて倉田が

「自分は、生まれてこのかたサッカーなんてしたことがありません」

と言い放ったので、大爆笑が起こる。


 倉田役の小海さんが全国クラスのサッカー選手なので原作者の津川マモル先生の意図せぬところで笑いが生まれているのだ。

 

 倉田は続けて

「しかし、井上先生が『サッカーをやれ』とおっしゃるのであれば、この倉田、喜んでサッカーにこの身を捧げましょう」

と誓いを立てる。

 ここでも客席が湧いた。


 井上はその言葉を受けて

「確かに君ほどの人なら凄いサッカー選手になるかも知れないね」

と返しす。

 またしても大きな笑いが生まれる。


 そんな風に井上と倉田が盛り上がっているところへ、和久井が

「所長。うちにはサッカーボールもありませんよ」

という事実を伝えて水を差す。




 スケートボードもサッカーボールも事務所にはないので、井上は即戦力としてどちらが優れているかを確認するため、その場の思い付きで倉田と俺へ試練を課すことになる。


 ここからが中盤の見せ場である江神と倉田の三番勝負でアクションが多くなるが、俺は基本的に立っているだけで勝手に倉田や井上が周りを走り回るので俺の主な役目は「みんなの目標」なのだ。

 昔から慣れ親しんだ「木の役」と通じるものはある。



 井上と倉田、時には和久井も交えた動きの多いシーンの連続だったので客席が沸いた。


 ここまでは俺以外の3人のキャストたちが舞台を盛り上げてくれた。

 文句なしに今日一番の出来栄えだ。

 ありがとう。




 そして、芝居はついに終盤を迎える。


 倉田はがむしゃらな積極性を井上に気に入られて探偵助手に採用されることなる。

 当然ながら俺は不採用である。

 

 

 俺はそれを伝えられても、文句を言わず感情の起伏もないまま

「そうですか。

 仕方ありませんね。

 どうもありがとうございました」

と挨拶をして事務所を去ろうとする。


 

 倉田を採用することが決まったため事務所内は慌しくなる。

 井上と倉田はソファに向かい合って座って勤務についての具体的な説明をし始め、和久井が倉田に雇用契約の書類を渡す。

 


 井上から指示を受け、和久井は自分の机の引き出しから封筒を取り出して

「お足代です。どうぞお納め下さい」

と俺に渡そうとする。


 俺は受け取ることを断る。

 なんとか和久井が俺に押し付けようとしても断固として拒否する。


 困った和久井がソファの下座に腰掛けた井上のところへ行って

「江神さんが受け取って下さいません」

と訴えるが井上は倉田との話に夢中で取り合ってくれない。

 そのタイミングで和久井の机の上にある電話が鳴る。



 今回は立ち位置が良かったので呼び出し音が聞こえるとすぐに電話に出た。反射的に左手で受話器を掴んでしまっていた。

 音響担当の遠見さんはなんとか俺の想定外の動きに合わせて効果音をすぐに止めてくれた。

 今までは長台詞に挑む覚悟を決めるために、呼び出し音が3回くらい鳴ってから受話器を取っていたので、いきなり芝居のテンポを変えられて遠見さんはさぞや肝を冷やしたに違いない。

 咄嗟に対応してくれてありがとう。



 左手で持った受話器を耳に当てる。

 この電話機はただの小道具なので当然だが何も聞こえないはずだ。


 だが、俺の耳には

「あ、あ、あの、大町篤くん?」

という遥香さんの慌てている声が聴こえて来る。


 あの日も自室でいきなり俺のiPhoneが鳴ったのですぐに電話に出たら遥香さんからだった。

 要件は、中府(なかくら)市内で公演のあった舞台「かもめ」を観に行こうというお誘いだった。


 その翌日にふたりで一緒に舞台を観た後、俺がプロの俳優さんたちの演技を見て自らの拙さを思い知らされて落ち込んでいたのを見抜いた遥香さんはこんなアドバイスをしてくれた。


「篤くんは篤くんの演技をすればいいんです」

 

 その通りだ。俺はどう頑張っても俺が出せる以上のパフォーマンスを発揮することは出来ない。

 自明の理だ。

  

 今回の公演では、客席に遥香さんはいない。

 電話の向こうから聞こえて来た遥香さんの声は、俺の心の弱さが招いた幻聴、いや、俺の心の中にいる遥香さんが見るに見かねて顕現してくれたのかも知れない。

 その声が俺に歩むべき道を示してくれた。

 

 俺は俺の出来る芝居を全力でするだけだ。

 もう迷いはない。



 最前列に座っている小柄な女子生徒の姿が目に入った。

 遠見咲乃さんという名前で、入学式では新入生代表を務めたから入学試験の主席合格者だ。

 上田はこの生徒のことを「ユニーク」だと表現していた。この人がどうして唯一無二なのかは俺には分からない。上田は学業成績の良し悪しなんかで人を評価するはずがないから、きっと別に理由があるのだろう。

 

 遠見咲乃さんは先ほどは俺たちの舞台を観て涙を流してくれた。

 今は最前列に座って、胸の前で両手をギュッと結んで祈るような姿で舞台を観ている。その姿は西洋の絵画でモチーフとしてよく見られる「祈りを捧げる乙女」そのものである。

 この人はうちの演劇を一度観ているから、この先舞台上で何が起こるか分かっているはずだ。

 だからこそ、俺が今から挑もうとしている試練に打ち勝つことが出来ますように、と静かに祈ってくれているのかも知れない。

 俺の直接の知り合いではないのに、こんな小さくか細い女の子が俺のことを必死に支えようとしてくれている。

 心が震えて胸が熱くなった。



 もうひとりの鋭い視線を感じる。

 そして、教室の下手側後方。川上がいつも立っている辺りだが、恐らく川上ではない。

 あそこに座っている人はわざわざ俺たちの舞台を観に来てくれた。

 この学校の中で最も演劇に詳しく、そして、最も演劇に厳しい人が観ているのだ。

 恐らくあの人はこの作品の内容をご存知で、この公演が成功するかどうかは終盤の俺の演技にかかっている、ということもご承知のことだろう。

 あの人の心に俺の演技がどれだけ通じるか分からない。

 それでも、俺はどこまでやれるか、行けるところまで行ってみよう。


 先ほど間近で見たあの貴婦人のような美しい所作は今でもくっきりとまぶたに焼き付いている。

 本当に美しい人だと感動した。恋愛感情などという生やさしいものではない。心の奥底にある原始的な情動のようなものを突き動かされた。

 そんな特別な人が「楽しみにしている」と言ってくれたのだ。

 こんなにありがたいことはない。



 上手側の舞台袖を一瞥すると井沢さんが控えていてくれる。

 真剣な表情で「大丈夫、私がついているよ」と励ましてくれている。


 だから、俺は恐れることなく進もう。どんなにも険しい道のりでも井沢さん、いや、俺を支えてくれるたくさんの人たちがいるから俺は乗り越えられるはずだ。

 さあ、行こうか。


 みんなで協力して盛り上げてくれたこの舞台を終わらせる時だ。




 俺は受話器に向かって静かに話し始める。

「はい、井上探偵事務所です。

 え?

 はい?


 すると、そちら様に当事務所がご迷惑をおかけしたということでございますか。

 つきましては、お金を包んでお詫びに来ていただきたいと。

 え?お金ですか!


 はい、しかしながら、そう申されましても。


 はい。

 ですから、当事務所としてはそういう記録はないと思われますが。


 ええ、そうはおっしゃいますが、え?

 おたく様の関係者の方にご迷惑をかけたなどと申されましても、

 はい、井上が、でございますか?」


 そこまで喋り終えて、俺は一旦止まり、井上の方を見る。

 倉田と和久井も同時に井上の方を見る。

 

 視線の先にいる井上は手を横に振って否定する。


 俺はその動作を確認してから、受話器に向かって喋る。

「残念ながら、本日はお休みをいただいております。

 ええ、確かに井上へはお伝えいたしますが、それでよろしいでしょうか?

 え?今日、詫びに来て欲しい、ですか?

 これは参りました。


 実は井上の親族に不幸がありまして、昨夜から連絡が取れない状態でして。

 はい、ならば、お前が来い、でございますか?

 いや、私ではとても井上の代役は務まらないと思いますが。

 はい、それでもいいから、早く金持って来い、ですか。

 いや、事務所のお金を管理しているのは所長の井上でして。

 え?別に事務所の金じゃなくてもいい?

 と、申されますと?

 はい、はい、え!

 私がですか?

 しかも、100万円ですか?

 そんな大金を持っておりませんし、

 井上の許可なく行動することは私には許されておりません。

 はい?お前に脳みそは入っているのか、ですか?

 はい、一応ですが、入っております」


 そこまで喋って、俺は受話器を耳から外し、受話器を右手の人差し指で指差して、うるさく言われているような仕草をする。


 受話器に向かって台詞を続ける。

「もしもし、あなた様の要望は理解致しましたが、今は当の井上が不在でございます。

 ですから、後日、改めてご連絡を差し上げるということで、

 はい、え?

 それじゃあ、誠意がない、ですか。

 そう仰られても、井上個人のことですから当の本人不在で所員が対応することはできかねます」


 少しずつだが喋る速度を上げ、声のトーンを強くして行った。

 ゆっくり動き、おっとり穏やかに喋って来た俺がギアを上げて攻勢に出る時が来る。


 相手が俺に罵詈雑言を浴びせている間、俺は黙って電話相手の話を傾聴している。電話相手が言っていることは戯曲には書かれていないが多分こういうことを言われているんだろうな、と想像出来る言葉を心に思い浮かべて、その罵声に対して沸き起こる感情を胸に懐きながら演技を切り替える準備を整える。


 電話の向こうにいる相手がもう罵倒する言葉に付きだろう、そろそろ良い頃合いだ、と判断出来たので、受話器を耳から外して、もう一度右手の人差し指で受話器を指差し、うるさく言われていることを他の3人へ伝えるような仕草をする。



 さて、1時間以上貯めて来たエネルギーを爆発させる瞬間だ。

  

 俺は声色を変えて、低くて太いものにし、荒々しい口調で怒鳴った。

「おい、いい加減にしろ。

 黙って聞いてりゃ、いい気になりやがって!

 お前、誰にものを言ってんだ?

 俺は、泣く子も黙る『仏の江神』だぞ?

 あ~ん?

 仏っていうけどな、『地獄に仏』の『仏』だ!

 俺がどれだけの修羅場をくぐって来てると思うか?

 お前、3年前に恋良(こいら)海岸で起きた高波、知ってるか?

 ああ、そうだ。あの近くの住宅まで水没した高波のことだ。

 俺はあそこで波が荒れ狂う中、波に飲み込まれた小さな子供を見つけたから、

 海に飛び込んで助けに行ったんだ

 それが証拠に訊いてみたらええ、

 あの辺りで『江神の兄ちゃん知ってるか?』ってちびっ子たちに訊いてみろ。

 みんな知ってるぞ。

 はあ?

 まだ金とか誠意とかそんなこと言ってるのか?

 お前、誰に向かって偉そうな口を聞いてやがる?

 

 じゃあ、お前、これ知ってるか?

 去年、大雨で増水した時に、百上(ももかみ)川の中州に取り残された小学生を通りすがりの男が助けたって話。

 あれもなあ、俺だ。



 なあ、おい、人間なんて自然に比べればほんのちっぽけなもんだ。

 そんな人間風情がそんなイキがったところで何にも意味はないぞ。

 わかったか!

 

 ま~だ、ごちゃごちゃ言ってるのか!

 ちょっと待て、お前じゃ埒があかん。

 お前んところの(かしら)と電話を代わってくれ。

 はあ?

 早く代われよ。

 優しく言っているうちに代わっておいた方が身のためだぞ?」


 そこまで喋って、一旦黙る。


 やはり客席にいる多くの人たちがドン引きしているのを肌で感じる。

 小さな悲鳴も聞こえた。

 狙い通りの演技が出来ている証拠だ。

 


 最後の仕上げに入ろう。

 電話の向こうで話し相手がその上司と電話を変わるまでの間を十分開けた。

 その間に頭の中をリセットして、元のゆったりとした江神の口調を思い出した。

 

 可能な限り穏やかで柔らかい口調を心がけながら受話器に向かって喋る。

「はい、もしもし、あなた様がそちらの上司の方ですか。

 どうもすみません。

 私は井上探偵事務所のしがない見習いでございます。

 どうもそちらのお方にうちの井上がご迷惑をおかけしたようで。

 ただ、あいにくと井上の身内に不幸がございまして、しばらくお休みをいただいております。

 どうかそこのところをお含みいただければ幸いなのですが、なかなかご理解いただけなくて。

 それで、上司のあなた様と直接お話をさせていただいた次第です。


 はい、私ですか?

 当事務所の見習い探偵の江神でございます。

 はい、さんずいに工場の工と書いて江、神は神様の神です。

 前の仕事でございますか?

 はい、つい最前まで、虹浜海水浴場でライフセイバーをしておりました。

 ええ、運悪く災害に遭遇した時にはそこでも人命救助をしております。

 人として当たり前ですから。

 ですから、何とかおたく様とも円満にお付き合いして行きたいと思っております。

 はい。

 そうですか。

 ありがとうございます。

 ご理解いただけて何よりです。

 では井上が戻り次第、折り返しお電話を、、、え?結構ですか?

 それでしたら、井上に伝えておきますので、せめてお名前だけでも。

 はい、鈴木様、あのう、失礼ですが、下のお名前もお願いできますでしょうか?

 一郎様、 一に、朗らかな方の、

 失礼いたしました、そうじゃなくて桃太郎さんの郎でございますね。

 鈴木一郎様からご連絡があった旨、しかと、井上にお伝えさせていただきます。

 それでは、何かのご用命の際には当探偵事務所をくれぐれもご贔屓にお願いいたします。

 失礼いたします」

 

 ガチャッと音がしないように静かに受話器を置く。


 相手方の上司との会話では実際に受話器の向こうに相手がいると想像して、身振り手振りを加えたりお辞儀をしたり、丁寧な対応をしているように見える工夫をした。



 それだけ言い終えて他の3人に会釈して事務所を出ようとドアに向かう。

 俺が出口のドアノブに手をかけた瞬間に井上が俺の腕を掴んで

「ちょっと、待って!、ください、江神く、、、さん。

 鈴木一郎って、、、それ、絶対に、、偽名だし、

 謝れとか金払えとか、、詐欺だし、

 相手、絶対、、マジで怖い人だし。


 そんなの撃退しちゃうとか、、、俺よりすげえし!

 はい、わかりました。

 あなたも採用です!

 いや、お願いします。

 ぜひここで働いてください!」

となんとか引き止める。

 

 俺は出て行こうとするを止める。


 俺の腕から手を離した井上は姿勢を正してから深々とお辞儀をする。



 すぐに暗転して、終演となる。




 4人のキャストはすぐに下手側の舞台袖へはけた。


 ほんの短い静寂の後、客席の前方から拍手が起こり、それが徐々に広がって行き、教室内は大きな拍手に包まれる。



 しばらくすると客席から

「Bravo!」

と女性の美しい声が場内に響き渡る。


 それに引き続いて

「ブラボー!」

「やるな~!」

「ブラボー!」

「凄かったぞ~!」

「ブラボー!」

「面白かったよ~!」

「今回も良かったぞ~!」

と掛け声が起こった。



 好評なようで何よりだ。


 今回は「ブラボー!」と連呼する女子生徒たちの声が目立つ。


 ただ、最初にかかった掛け声だけは発音が明らかに日本語の「ブラボー」ではなかった。日本語にはない「R」と「V」の発音が美しく聴こえたからだ。

 そもそも「ブラボー」が元々どこの国の言葉なのかは知らないが、英語にもなっていたはずだ。俺はアメリカのプロのバスケットボールの試合中継を英語の実況解説付きで観ているからなんとなくだがネイティブスピーカーの英語と日本人の英語の違いが分かった。

 客席に留学生がいたかどうかは覚えていない。日本人の生徒の中には帰国子女の生徒もそれなりにいるだろうから、流暢な発音の「Bravo!」が聞こえて来たことには何ら不思議ではない。


 


 舞台に灯りがついた。


 さあ、カーテンコールだ。

 安住さん、小海さん、上田、俺という順番でひとりずつ舞台に上がった。


 本来なら主役の上田が舞台に出て行くのは最後なのだが、気付いたら上田が小海さんに続いていたのでそのままにした。

 舞台に上がった俺たちキャスト陣をお客さんたちは拍手喝采で迎えてくれた。 


 「小海さ~ん!」

 「上田~!」

 「安住さん!」

 「大町く~ん!」

 と演者の名前を呼ぶ声がこだました。


 やはり小海さんへの声援が一番大きい。


 中には男子生徒から

「上田~、生存ルートで良かったな!」

という野次も飛んで周囲の笑いを誘った。

 きっと上田の演じる井上が舞台上で小海さんの演じる倉田から中段回し蹴りを喰らっていた第二回公演か第三回公演を観に来てくれたリピーターのお客さんだろう。

 その声に対して、上田はガッツポーズをしながら

「上田はこの通り、めっちゃ元気です!」

と笑顔でアピールして、笑いを取った。


 そして、恒例となった

「上田、上田、上田、上田、上田、上田」

という上田コールが今までよりも長く、より多くのお客さんが参加して大きな声で沸き起こった。


 演者4人で手を繋いでもう一度揃ってお辞儀をした。

 きっと上田と小海さんはスムーズに手を繋いだだろう。



 拍手が鳴りやまないので、そのまま舞台に留まった。


 客席に目をやると、最前列の遠見咲乃さんは泣いていなかったが、その隣に座っている「The Chosen One」こと久保先輩が笑顔のまま涙を流していた。



 しばらくして拍手が収まったので、みんなで下手に下がった。

 本人は気付いていないが、舞台袖に下がった後も上田は小海さんの手を握ったままだ。

 小海さんは手を繋いだままなのを嫌がっているように見えないが、小海さんの方も上田と同様にただそのことに気付かないでいるのかも知れない。




「アンコール!アンコール!アンコール!アンコール!」

 お約束のようにアンコールの声が沸き起こった。

 

 今度は安住さん、小海さん、上田、俺という順番で手を繋いだ状態で舞台に上がる。


 すると、過去3回の公演の後では、見られなかった光景が広がっていた。

 客席にいた全てのお客さんが立って拍手していたのだ。


 スタンディング・オベーションだ。



 この光景は俺たち4人だけが味わって良いものではないので、俺は上田の手を離して、上手側の舞台袖にいる井沢さんの手を引いて舞台に上げた。


 井沢さんは笑顔だった。

 上手側から俺、井沢さん、安住さん、小海さん、上田という順番で手を繋いで並んでお客さんからの拍手を浴び続けた。


 だが、もうひとり足りない。

 この称賛を最も受けるべき奴がここにいない。


 俺は叫んだ。

「川上、上がって来い」


 続け様に上田が

「舞台監督の川上です。皆さん、拍手でお迎え下さい」

と紹介したので、会場係が教室内の明かりを全て点けてくれた。

 

 場内では

「川上、川上、川上、川上、川上、川上」

という川上コールが巻き起こる。


 川上も流石に無視出来ない状況になったので、お客さんを掻き分けながら舞台に上がって来た。安住さんと小海さんが繋いでいた手を離してその間に川上が入ってそのふたりと手を繋ぎ、一緒に拍手喝采を浴びた。




 拍手が止むまでしばらく時間がかかった。

 

 場内が静かになると、川上は

「舞台監督の川上です。本日はご来場ありがとうございました。今日はこれでお終いなので俺も舞台に上がらせていただきました。他にも出し物がたくさんある中でうちのクラスの演劇を観に来て下さったことをとても嬉しく思います。光栄です。初日だけですでに何回も観に来て観てくれた方もいらっしゃいますが、見ての通り俺たちはまだまだ成長途中です。この先、公演を重ねる度により良い舞台になるよう、キャスト・スタッフ、クラス全員が一丸となって、いっそう努力していきます。一度観て下さった人が、もう一度観たい、さらにもう一度観たいと思える舞台を目指していますので、明日、明後日もまた観に来ていただければ励みになります。本日はどうもありがとうございました」

と挨拶をし、深々とお辞儀した。

 それに合わせて俺たちも全員でお辞儀をして感謝を伝えた。


 溢れんばかりの拍手が起こった。 




 その拍手が鳴り止むのを見計らって、会場係から

「第四回公演はこれにて終了です。

 どうもありがとうございました。

 本日はこれでお終いです。

 慌てて退出していただかなくても結構です。

 明日以降の公演もよろしくお願いします。

 この舞台が気に入ってくれた方は、テアトル大賞への投票をよろしくお願いします」

という御案内があった。


 テアトル大賞は1年生の教室演劇で最も得票を集めたクラスが選ばれる。

 投票の方法は、文化祭のパンフレットの中にある投票用紙のページに投票したいクラス名を記入して切り離し、そのクラスの教室にある投票箱へ入れる、というものだ。

 パンフレットを配布されている学内生徒とパンフレットをご購入いただいた一般来場者がひとり1票ずつ投票する権利を持っている。

 まだ初日なので、「他のクラスも観てから決めよう」と考えている人が多いはずだが、第三回公演までの段階でうちのクラスに票を投じてくれた生徒が意外と多かったのに驚いた。


 この第四回公演を観てくれたお客さんたちの多くは、自分のパンフレットの投票用紙のページに「1年D組」や「1ーD」と記入して切り取り、出口にある投票箱へ入れてくれている。みんな投票箱を持っている会場係に自分がこのクラスに投票したことを明示してくれているようで、その度に会場係やその周りにいるうちのクラスの生徒たちが

「ありがとうございます」

と感謝を伝えてお辞儀する様子が窺える。



 最前列真ん中にいる4人の女子生徒のうちのひとり、一番目立つ背の高い女子生徒が、音響機器のところにいる遠見有希さんの方へ行き、ふたりで何やら話している。

 うちのクラスの遠見有希さんと遠見咲乃さんは従姉妹だから、この女子生徒が共通の友人であってもおかしくはない。

 遠見咲乃さんは席についたままで、投票用紙に「1ーD」と記入している。最前列に座っているからはっきり見えた。その投票用紙をパンフレットから切り取った後、遠見有希さんと話していた生徒が戻って来るのを待って、仲良く一緒に退出した。もちろんその用紙を実際に投票箱へ入れてくれた。

 


 その4人の隣に座っていた久保先輩はようやく泣き止んで、涙に濡れた目を擦りながら、うちのクラスへ投票してくれているようだった。


 去年の文化祭で伝説を作った先輩がうちのクラスの演劇に感銘を受け、自分の大切な1票を投じてくれようとしている。

 舞台上にいた全員が喜んだ。


 その久保先輩の左隣に座っていた短髪の体格の良い男子生徒は、舞台上の俺たちに向かって

「ひかり、裕二、凄い物を見せてくれてありがとう。うちの久保ちゃんが感動しちゃったから、これは絶対に自分のクラスの演劇に昇華される。絶対にファイナル・ステージに残るよ!だから、明日と明後日は自分たちの舞台に専念してくれ。このお礼はファイナル・ステージでこのお返しをするよ」

と声をかけてくれた。安住さんと川上の名前が出てるからきっと白川中学校の出身なのだろう。

 案の定、川上が

「悠さん、俺はあの芝居を楽しみにしています。絶対にファイナル・ステージに残って下さい!」

と返事をした。

 安住さんも

「私も楽しみにしています」

と答えた。


 その先輩はサムズアップして

「任せとけ!」

と川上と安住さんに威勢よく請け負うと、今度は

「大町篤!やっぱ、お前は噂以上だな。俺は2年C組の坂木悠。裕二やひかりだけじゃなく、景、井沢景さんとも友達だ、『悠』って呼んでくれ。お前のことを『篤』って呼んで良いか?」

と俺に話しかけて来た。

 今まで話したことのない人だけど、俺のことを知っている先輩なので失礼があってはいけない。それに川上や安住さんや井沢さんの知り合いならきっと良い人に違いない。

 そう思ったので俺は

「大歓迎です。じゃあ、俺も『悠さん』って呼びますね」

と答えた。


 すると、悠さんは

「呼び捨てで構わんぞ!それから、もちろん、俺の1票はお前らに入れるよ。このクラスならそのまま2年生の演劇に飛び級で参加してもきっと上位を狙えるはずだ」

と嬉しい高評価を伝えてくれた。


 川上が代表して

「ありがとうございます」

とお礼を言う。


 すると、隣にいた久保先輩が

「私も1票入れるね。みんな本当に頑張ったんだね。観てたらそれが伝わって来たよ」

と俺たちのことを褒めてくれた。

 久保先輩は作品の内容に感激したのではなく、この芝居を上演するために俺たちがこなして来た稽古の厳しさを容易に理解出来たから感情を抑え切れなかったのだ。

 自分たちが積み上げて来た努力を褒められたのは素直に嬉しい。


 舞台上にいた全員が同じ思いだったと思う。


 久保先輩は、坂木先輩に倣って

「私は景の友達だから、篤は私とも友達になってよ。私のことは『久保ちゃん』って呼んでね」

と俺に声をかける。


 俺が迷わず

「大歓迎です。ファイナル・ステージ、楽しみにしてます。久保ちゃん先輩!」

と答えると、まだ真っ赤な目のままにっこり微笑んだ。



 悠さんと久保先輩は出口で投票して、もう一度俺たちに手を振った後、会場から立ち去った。




 高岡さんの隣に座っていたベージュの髪の井沢さんのお友達が

「井沢さん、1票入れとくね」

と投票用紙を見せながら伝えて、その隣にいた文芸部の飯山先輩も

「私も1票入れます。楽しかったです」

と涼しげな笑みを浮かべている。


 上田が川上を肘で突きながら

「川上、良かったな」

と言うが、川上は呆けていた。

 川上の努力が報われた。俺も自分のことのように嬉しい。




 そのふたりが去ると、(おもむろ)にひとりの人物が舞台の方へ歩み出た。


 俺たちは全員姿勢を正してお迎えした。



 演劇部の部長にして部長連代表の桑村先輩だ。

 

 当然ながら、舞台上にいるメンバーの中でこの会場に桑村先輩と萱野先輩がいたことを知っているのは俺と川上だけだ。


 今回の公演を桑村先輩が観てくれていたことを知っていた者も知らなかった者も舞台上にいる全員で

「ありがとうございました」

と挨拶してから深くお辞儀をして迎えた。


 桑村先輩はやや驚いた表情で

「え?そんなに構えなくて良いですよ」

と言い、静かに微笑む。


 そして、誰に対して、という訳ではなく

「演劇は楽しいですか?」

と尋ねる。


 多分、これはこの場にいる全員の統一見解だと思ったので

「楽しいです」

と俺が即答する。


 その返事を聞いて満足したのか優しく微笑んで

「良かった」

と呟く。


 桑村先輩は柔和な表情のまま

「この学校の文化祭でのクラス演劇の賞レースのあり方には意見したいことがたくさんありますが、そういう不毛な競争に拘らず、純粋により良い舞台をお客さんたちへお見せしようということだけを考えているクラスがあることを私はとても嬉しく思います」

と素直な心情を述べ、自分の投票用紙に「1年D組」と書かれてあるのを見せてから

「だから、私もあなたたちに投票します。明日からも頑張って下さいね」

という嬉しい言葉を俺たちにかけると、俺たちに喜ぶ間も与えず

「それでは。私はこの後、部長連の用事があって行かないといけないので失礼します」

と颯爽と立ち去った。


 俺たちは黙ったままその美しい後ろ姿を見送った。




 桑村先輩が教室から退出すると、ようやく上田が

「よっしゃー!」

と喜びの声を上げた。

 川上も

「この上ない栄誉だよ」

と嬉しそうだ。




 改めて教室内を見回すともうほとんどお客さんの姿はない。


 気付けば舞台をハンディカメラで撮影して下さっていたはずの沢野先生の姿もなかった。

 恐らくは「今は生徒たちだけで過ごす大切な時間だから教師は速やかに退出しよう」とでも判断されたのだろう。

 そういう配慮に優しさを感じる。


 うちのクラスの生徒以外では、新聞部のふたりだけが残り、カメラを手にした高岡さんもそこに合流している。

 恐らく今回の公演を紙面でどう扱うか?どの舞台写真を掲載するか?というような相談をしているのだろう。




 今日の公演はもう全部終わったから、川上を中心に今から反省会とミーティングが始まるのだろうと思っていたが、安住さんが

「この後、クイズ研に行かないといけないから、もう良いかな?」

と言い出したので、川上も

「ああ、もうそんな時間か?ごめんね。早く行って」

と送り出した。それを聞いた井沢さんが

「私も行かなきゃ」

と焦り出した。安住さんが

「景ちゃんはそこまで焦らなくて良いよ。私は大急ぎで行かなきゃ駄目、っていうか、完全に遅刻だね。大会参加者は4時受付開始で4時半にスタートだからまだ間に合うでしょ?私は打ち合わせや準備があるから先に行くわ」

と言って足早に立ち去った。


 井沢さんも台本、筆記用具、iPhoneといった身の回りのものを手に取って教室から出て行こうとしたが、川上が

「井沢さん、待って」

と引き止めて

「一点だけ確認させて。もう4時20分だけど、さっきの上演時間はどうだった?」

と尋ねると、手にしていた上演中の時間経過のノートを開いて

「あっ、ごめん。これは川上くんに渡しておかないと。さっきの上演時間は1時間11分だから今までで最短だよ。その後のアンコールや舞台挨拶なんかが長かっただけ」

と答えてくれた。


 井沢さんの表情には明らかに焦りの色が窺えた。安住さんの話では16時30分からクイズ大会が始まるのだから当然だ。

 井沢さんから溢れ出る焦燥感を理解した川上は

「ありがとう。引き止めてごめんな。もう行って。俺らも後で応援に行くから頑張ってね」

と送り出した。 井沢さんは黙って頷いて教室を後にした。


 井沢さんから渡されたノートに目を通した川上は、第四回公演の舞台の進行状況を確認して

「やっぱりそうだよね。全体的にテンポが良かった」

と正直な感想を述べる。

 上田も

「やっぱ良かったよな。パシッとハマった気がする」

と嬉しそうだ。

 小海さんは

「やっと仕上がった感じがするよね。良かった」

と満足げに話す。

 流石にもうこのふたりは手を繋いでいない。


 川上は

「今回の公演は沢野先生が録画してくれてるから、後で見直して修正点を伝えるよ。俺たちは後片付けや最小限のミーティングだけしてクイズ大会の応援に行こう」

と今後のスケジュールを伝える。




 井沢さんは今からクイズ大会に出場するとは大変そうだ。

 正直言うと、俺はもうくたくたに疲れている。

 第四回公演で全て出し切った。燃え尽きている。

 もう自分の出番が終わったのだからさっさと家に帰りたいところだが、演劇仲間でもあり、縁の下の力持ちとして俺たちキャストを支え続けてくれる井沢さんの晴れ舞台であるクイズ大会は応援に行かない訳にはいかない。今度は俺が井沢さんをサポートする番だ。井沢さんが気分良く活躍出来るように応援に行こう。


 クイズ大会がどれくらい時間がかかるのかは知らないが、きっと終わるのは遅くなりそうだ。同じ伊那川(いなかわ)町に住んでいる俺が責任を持って井沢さんを家まで送って行こう。




 川上はクラスのスタッフたちに声をかけて回っている。

 今日は「後片付けが済んだ人から解散とする」と決めたようだ。



 その後、川上は新聞部の3人にも声をかける。

 2年生の方の部員は川上と二言三言話した後、1年生の部員を伴って退出した。


 高岡さんだけは教室に残っているが、キャスト陣の方へ来て

「私はこれで帰ります。明日も頑張って下さいね」

と伝える。


 高岡さんは持病があって体育の授業に参加出来ないほど体が弱い。

 自分の健康状態をよく知っているから、今日はもう無理をせずおとなしく帰宅して明日に備える、と判断したのだろう。

 朝からずっと舞台に上がって疲れていても夕方から始まるイベントに参加できる健康な俺たちとは境遇が異なるのだ。

 穏やかな表情のまま「自分だけはこの先、みんなと一緒にクラスの友達の応援に行けない」と仲間に告げなければならない高岡さんの心中を察するに心が痛んだ。

 


 この人に対してどんな言葉をかけるのが適切なのか?と俺は悩む。

 返答に窮する。


 だが、上田が俺たちを代表して

「ありがとう。ゆっくり休んでね。井沢さんの応援は俺らが高岡さんの分まで頑張ってするから任せてよ」

と声をかける。こういう時には上田の純粋な優しさが実に頼もしい。

 高岡さんはにっこり微笑んで

「はい。よろしくお願いします」

と答える。


 そうして、高岡さんは帰り支度を始める。

 


 そんなタイミングに羽村さんが教室へ戻って来た。

 今日の公演が終わる頃合いを見計らって現れたのだろう。

 早速、自分のメイク道具を取り出して

「由乃、安住さん、メイクを落とすからこっち来て」

と自分がメイクを施した女子のキャストに声をかける。


 小海さんは即座に

「分かった」

と返事をするが、当然ながら安住さんからの返事がない。

 羽村さんは

「あれ?安住さんは?あっ、そうか!もうクイズ研の方に行っちゃったか」

とその不在の理由に気付く。


 羽村さんの方へ向かおうとする小海さんを

「小海さん、ちょっと待って。バスケ部の先輩からの差し入れがあるから」

と俺は引き止めて、舞台裏に置いておいたビニール袋を取って来て中身を見せる。あれだけ舞台上で動き回った後だからしっかり水分補給してもらいたい。

「ちょっとぬるくなったと思うけど、1本どうぞ」

と袋の中身を見せると、5本あるペットボトルの中から小海さんは

「じゃあ、このスポーツドリンクで」

と1本取って、羽村さんの元へ向かった。


 俺は麦茶、上田は紅茶を選んで飲んだ。やはりぬるくなっているがあれだけ喋った後だから美味しい。

 残った緑茶とミネラルウォーターは後で井沢さんと安住さんに渡そう。

 

 上田がペットボトルの紅茶を半分ほど飲み終えて

「あれ?川上がいねえな」

と呟いた。

 確かに教室の中に川上の姿はない。

 いつの間にか姿を消していた。


 さっきの俺の長台詞の出来がどうだったかを川上に聞くのを忘れた。

 口頭でアドバイスを受けるよりも、映像で確認した方が良いからあいつは何も言わなかったのだろう。


 とりあえず、今日の四回の公演が無事に終わって良かった。




(続く)

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