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羊飼いも山羊もいない  作者: 遊舵 郁
九月、祭りのころ
48/63

【44】暁の黄金(7)

 波乱含みの第三回公演が無事に幕を閉じた。

 クラスの演劇「Round Bound Wound」で江神(えがみ)という探偵助手候補を演じている俺、大町篤は終盤の長台詞に苦しんでいる。スランプなのではなくて、純粋に未完成な状態で初日を迎えてしまっただけなのだ。


 次の公演へ向けてのミーティングの後、しばし休憩となったが、上田はどこかへと消えてしまい、その上田を巡って舞台監督の川上と演者の小海さんが口論をしていた。周りの生徒、特に女子生徒たちは心配そうな表情でその様子を窺っている。

 だが、俺はこの状況について全く心配はしていない。


 やがて、言い争いが終わると小海さんはまたしてもどこかへ消え去った。

 見た目には川上と小海さんが喧嘩別れしたように見えなくもないが、そうではないだろう。


 お互いに思ったことを率直にぶつけ合うというのはとても勇気がいることだし、その前提として信頼関係が築かれていなければならない。

 この1年D組のメンバーは演劇の稽古中はもちろん、学校での日常生活でも球技大会やセミナー合宿のような特別な行事でもみんなが正々堂々と面と向かって意見を述べて議論することが多い。他のクラスはどうなのだろうか?


 自分の意見を述べるにはそれだけの責任が伴うから、その覚悟がない者は黙っているしかないだろう。

 それでも、そうしたリスクを取ってでも自らの意思を主張することを選ぶ人たちのことを俺は心から尊敬している。

 俺は稽古の間、川上から随分と厳しいことを言われ続けた。多分、俺の次にたくさん叱られたのは小海さんだろう。相手は女の子なんだからそこまで言わなくても良いのに、と俺は何度か口を挟もうとしたことがある。しかし、そうした場面ではいつも小海さんが「私の問題だから勝手に止めないで」と目で訴えていたから介入しなかった。そうして小海さんも自力で這い上がった。そうやって修練を積んできた俺たちの間には何ら遺恨はないし、むしろ同じ目標に向かって進む仲間同士、どんどん意見を言い合って高みを目指そう、という強固な一体感を生んだ。


 そうした姿勢のある人間はクラスの中に止まらず、例えば俺が所属している男子バスケットボール部にもたくさんいる。

 うちのバスケ部は顧問の駒根先生の方針でコート上では先輩・後輩という縦の関係性は排除され、先輩が間違ったプレーをしていたら遠慮せず後輩が注意して良い。そういう文化が形成されている。

 コート上では互いをファーストネームやニックネームで呼び合い、「〇〇先輩」という呼称は禁止されている。そんな気遣いをする余裕があるならもっとプレーの質を向上させることに集中しろ、ということだ。


 実際、俺は夏のインターハイ予選の大差のついた試合で出場機会を得たが、一緒にコート上にいた当時のキャプテンの辰野宗佑(たつのそうすけ)先輩が守備の連携でミスをしていたのに気付いたので大声で「ソウスケ、7番マークしろ!」と指示を出した。反射的に取った行動だった。瞬時に反応した辰野先輩がその相手チームの7番の選手を止めてことなきを得た。

 そんなのはうちのチームではいつものことなので俺は平然としていたが、相手チームの選手たちは違った。暁月(あかつき)高校には大勢の決まった試合の中で自分のチームのキャプテンを平気で怒鳴りつける1年生がいることに衝撃を受けていたようだ。

 その様子を見て、俺も考え直した。公式戦で既に決着がついた場面だったので、流石にあれは言い過ぎたか?と後から反省した。

 だから、俺は試合後に謝りに行ったのだが、辰野先輩は「大町、ありがとう。ああいう油断は良くない。身が引き締まったぞ」と感謝してくれた。ちなみに、俺とは別に「あつし」という名前の先輩がいるのでチーム内で俺は「大町」と呼ばれている。

 コート内ではそんな風に一切の遠慮がないが、当然ながらコートの外では先輩たちのことを呼び慣れた呼称に「さん」をつけて呼んでいる。


 放課後のグラウンドでラグビー部の練習を目にする機会が何度もあったが、練習中に汐路さんが他の部員と胸ぐらを掴み合って口論しているのを何度か見かけた。今にして思えばその相手は漆木(うるぎ)先輩だったと思われる

 恐らくラグビー部はバスケ部とは違う方法で互いを高め合う文化を持っているのだと思う。



 うちのクラスの演劇チームはちゃんとお互いを認め合った上で忌憚のない意見をぶつけ合っているので、川上と小海さんのこの程度の口論は日常茶飯事だ。心配する必要はない。

 


 俺は舞台上で明らかに足を引っ張っているので、自分の芝居を向上させることにだけ集中しよう。

 他の演者やプロンプターの川上の助けのおかげでなんとか劇として成立した第三回公演だったが、個人のパフォーマンスとしては全く上手くいかなかった。今日の舞台の中で一番出来が悪かった。


 その苦い思い出から気分を変えようと、俺は鞄に入れてきたチェーホフの「かもめ・ワーニャ伯父さん」の文庫本を開いた。遥香さんとの楽しい思い出の品だ。

 ひとかけらのマドレーヌを口にした途端に壮大な思い出が蘇ることもあるのだ、文庫本を開いた時に大好きな人と一緒に「かもめ」の舞台を観劇した思い出が瞼に浮かんだって良いはずだ。



 だが、スピンのついた文庫本の表紙を眺めた瞬間に、別の記憶が俺の脳裏をよぎった。


 第三回公演の前に上田が口にした言葉。


「大町、メーテルリンクの『青い鳥』って知ってるか?」


 メーテルリンクの「青い鳥」は同じ文庫にも収められていた。中学生の頃だったかな?書店でたまたま見付けたので大人向けの書籍だとどんな感じなのだろうかと興味が湧いたので試しに読んでみたら戯曲だったので驚いた。

 その頃は戯曲を読んだことなんてなかったから、自分には読めないだろうと判断して、そのまま本をそっと閉じて書棚に戻した。


 「青い鳥」は戯曲だからこの質問はクラスの演劇と関係あるのことなのかと訊いたのだが、上田は

「いや、個人的なことだから気にするな」

と素っ気なく答えた。

 開演が迫っていたから、俺はその言葉の真意を深く考えずに流してしまっていた。


 しかし、前回の公演で舞台上の上田が妙な行動を繰り返したのを見て、俺は「青い鳥」の意味するところを理解した。



 俺は小学校の低学年の頃に発表会で「青い鳥」のお芝居に出た。

 当然ながら俺はいつも通りの「木の役」だった。台詞はなく舞台の後方でただぼーっと立っているだけだった。

 それでも、みんなが目の前で演じているお話に興味が湧いたので、伊那川(いなかわ)町の図書館で児童向けの「青い鳥」の絵本を借りて来て読んだ。だから内容は知っている。


 本来の戯曲や大人向けの小説ではもっと深い意味があるだろうとは思うが、上田が俺へ伝えたかったことは「青い鳥」のオチとして一般的に知られている


「自分の探し求めていたものは案外近くにあった」


ということだったのだろう。



 上田は普段からあれだけ可愛い女子生徒を求めて学校内をくまなく割に、自分のクラスにいる、しかも、いつも近くにいてくれる小海さんのことを全力でスルーしていたのだ。


 確かに小海さんは小さな頃から優れたアスリートとしてサッカーと陸上競技で活躍している人で、実際に接してみると性格もさっぱりしていて女の子っぽくない。

 周りに男子の友達も多い一方で、女子生徒の中にはファンも多い。

 それに加えて、どう考えてもうちの学年では随一のスターなのに奢った様子はなく、クラスの中では控え目で、ホームルームのような話し合いや、球技大会の打ち上げのような場ではむしろクラスの中心から離れた場所で静かに佇んでいることが多い。

 そういった行動様式から考えると小海さんは実は穏やかでおとなしい性格なのかも知れない。


 それに加えて、小海さんは入学してから随分と雰囲気が変わった。

 いつも同じ教室にいるから自然と目に入って気が付いていたのだが、小海さんは外見が少しずつ女の子っぽくなり、服装や持ち物が可愛らしい方向へ向かっている気がする。

 髪型も大きく変わった。高校入学時には無造作なショートカットだったけれど、その後は髪を伸ばして、夏休みの間に髪の色も変えた。


 なんで俺がそうした小海さんの変化に気付いたか、というと、これは完全に姉貴のせいである。

 常日頃から付箋が貼られた女性向けのファッション誌や情報誌が自室の机の上に置かれてあって、俺は「目を通しておくように」と無言の圧力をかけられているのだ。俺はそのおかげで女性が好むファッションやアクセサリーや小物などについて、それなりに分かるようになり、女子生徒の細かい変化にまで気付くようになってしまった。


 一方、日常的に姉貴から与えられた課題は俺に良い効果も与えていて、自分の恋人である遥香さんの服装や持ち物を褒めることが出来ているのも事実だ。姉貴には感謝すべきなのかも知れない。



 話を小海さんの変化についてに戻すと、その原因は誰か好きな人が出来たからなのではないだろうか?恐らく相手は男子生徒だろう。

 俺は演劇の稽古の時くらいしか小海さんと話さないから、深い話もしたことがないし、詳しい交友関係も知らない。その相手が誰なのか?その人に想いが相手に届いているか?ということについても全く分からない。

 それでも、その人のために、その人に自分のことを好きになってもらうために日々努力しているのではないかと勝手に予想している。

 恐らくその相手は小海さんの生活圏内にいる人なのだろう。だから普段から可愛くあろうと努力しているのではなかろうか?


 小海さんは男装しても映えるし、女子生徒のファンが多いことから分かる通り、目鼻立ちがはっきりしていて美形の部類に入る女の子だと思う。

 元々髪が短く日焼けしていて、スポーツをさせたらなんでも出来てしまうから随分と様子が変わった今もなお「男勝り」なイメージが残ってしまっている。

 さらに勉強もかなり出来るから「超人」過ぎて周りの男が萎縮してしまうのは仕方ない。


 小海さんは外見や運動能力や学業だけでなく、人としても尊敬出来る。非常に努力家で、川上によれば女子サッカー部の練習に飽き足らず男子サッカー部の練習にも参加して研鑽を重ね続けているらしい。自らキャストに立候補して臨んだクラスの演劇でも舞台監督の川上から毎日のように厳しいことを言われ続けているが、弱音を吐いたところを一度も観たことがない。



 そこで、俺はひとつの仮説を立ててみた。


 小海さんは、根が真面目で向上心が高いだけではなく、自分が周りから求められているイメージを保ち続けようと無理をしているのではなかろうか?


 そう考えると腑に落ちる点がいくつかある。



・なぜ体育祭のミスター暁月コンテストに立候補したのか?


・なぜ短距離走のレースに臨んで必ず勝利宣言をしたのか?


・なぜ舞台「Round Bound Wound」では秘書の和久井役ではなく空手家の倉田役に志願したのか?


・なぜ役作りのためにわざわざ空手の道場に体験入門までしたのか?


・なぜ第二回公演で上田に中段回し蹴りをしたのか?


・なぜ第二回公演のアンコールの際に寸止めの中段突きをしたのか?



 そうした疑問には、対して先ほど俺が立てた仮説で説明が付く。


 つまり、小海さんは自分が求められている人物像は「男子みたいなかっこいい女の子」「強いアスリート」「勇敢で強い女」だと分かってしまっていて、その期待に応えるべく、そうしたイメージに自分自身のあり方を適合させようと努力し続けてているのではなかろうか?


 小海さんの本心は、好きな人のために可愛い女の子になりたい、というものなので、その解離に苦しんでいるのではないだろうか?


 一方、小海さん本来の人柄と思しき部分が垣間見られたエピソードもある。



・羽村さんが用意した倉田役の舞台衣装がミニスカートだったが、照れつつもそれを受け入れた。


・第二回公演で開演前に緊張した上田をからかって緊張をほぐそうとした。


・第二回公演でお気に入りの女子生徒に手を振られて舞い上がっていた上田の頭を小突いて釘を刺した。


・第二回公演の後で何処かへ消えて、泣き腫らした顔で帰ってきた。



 こうした点と、普段の日常生活の中で見られる小海さんの姿を踏まえて考えると、実は小海さんは自分が先頭を切って何かをするタイプではなく、本来は周りの人間によく気を配り、仲間を常に支えるために自己犠牲を厭わない人なのではなかろうか?

 そういう心根の優しい人なのだろう。その優しさが巡り巡って自らに望まぬ行動を強いて、自分自身を苦しめているのではなかろうか?


 第二回公演では壊れていく舞台を守り、浮かれて不甲斐ない演技を続ける上田を助けるために自ら嫌われ役を買って出たのだろう。「そういう役目はこの勇猛果敢な小海由乃が担うべきだ」と咄嗟に判断したと考えられる。

 だが心優しい小海さんはその行為に対する後悔とその結果として上田の傷付いた姿を見ている辛さに耐えきれず、隠れて泣かざるを得なかった。

 そう考えると全てに説明が付く。



 もしも俺のこの解釈が事実通りだったとすれば、辛くて涙したすぐ後の第三回公演では、本来ならばとても舞台に上がれるような精神状態ではなかったはずだ。

 それでも小海さんは舞台に立ち、堂々たる演技を見せた。


 なぜそこまで頑張れる?

 尊敬よりも心配が勝る。


 第三回公演で小海さんがどんな気持ちで演技を続けていたのか?と改めて想像してみると心が痛んだ。

 しかも、心の優しい女の子が「みんなの求める小海由乃」という大役を演じた上に重ねて、さらに好戦的な倉田という役を演じていたのだ。さぞやキツかったと思う。


 先ほどは、ほんの些細な助言だったとは言え、俺の機転が小海さんにもう一度嫌われ役を担わせることを防ぐことが出来て良かった。


 俺は決めた。

 今後は小海さんにはもう二度と辛い役目をさせない。

 この先、舞台上で汚れ役が必要な場面があれば、その時は絶対に俺がその役目を受け持とう。非難も責任も俺が被れば良い。俺はそんなに弱くないから大丈夫だ。




 一方、第三回公演では上田にも変化が見られた。


 上田も俺と同様に小海さんの本当の姿に気付いたのではなかろうか?

 奇しくも泣き腫らした顔を隠すために羽村さんが施したアイメイクによって、小海さんの本来の「女性らしさ」が表出したからだ。

 逆説的だが、それが真実だと思う。


 上田の好みの女の子のタイプは、話題に上がる女子生徒の名前が多過ぎて未だに理解出来ない。


 ただ、第三回公演の舞台上で見せた上田の様子は明らかに「好きな女の子と目を合わせられない思春期の男子特有の挙動不振」そのものだった。上田が小海さんを異性として意識し始めた証拠だと思う。

 さらに言えば、あそこまで動揺していたくらいだから、恐らくはあいつにとって理想的な女の子が突如として自分のすぐ近くにいたことに気付いて混乱しているのだろう。

 第三回公演の後のミーティングで上田自身が川上や他のキャストに伝えた言葉にもその心のうちは現れていた。


「ああ、分かってるよ。お前に言われなくても痛いほど分かってる。

 これは俺個人の問題だから、俺が自分で解決しないといけない」


「でも、気持ちの整理がつくまでもう少し時間が欲しい。

 だから、しばらくみんなに迷惑をかけると思うけど、どうか力を貸してくれ」


 上田とは付き合いの長い川上もそれとなく示唆していたから、上田の心情に関する俺の推察はあながち的外れではなかろう。



 ただ、川上との口論の内容から察するに小海さんは上田の気持ちには気付いていないと思う。あのタイミングで上田を追いかけて行ってふたりっきりになったら上田の心が保たない、ということに気付けなかったんだから。



 ここでいくつか問題が浮かび上がる。


 ひとつ目は上田の問題。

 上田は自分の気持ちをどうコントロールするのか?

 小海さんは共演者だから公私混同しない、と割り切っていくのか?

 それとも、自分の気持ちと向き合って、「小海さんは自分が好きな女の子である」と再定義して接していくのか?


 ふたつ目は小海さんの問題。

 小海さんは上田が自分に好意を持っていることに気付いたら、どう思うだろう?

 小海さんには誰か想い人がいる、と俺は予想している。心に決めた人がいる状態で今までは演劇仲間でしかなかった上田から好意を寄せられたらどうなるのだろう?

 


 ひとつ目の問題については先ほどのミーティングでのあいつのコメントからあいつの選択が分かる。


「役者として舞台に上がらないといけないのに、俺は所長の井上ではなく上田清志(きよし)のままだった。本当に恥ずかしい」


 そう言っていた。

 上田本人は小海さんのことが好きでも、舞台上では「探偵事務所の所長の井上」という役に徹する、という覚悟を決めるつもりだ。


 ふたつ目については全く予想がつかない。


 これは小海さんの心の中の問題だからだ。

 俺には女心なんて分からないし、人を好きになる気持ちは理屈で説明出来るものではないからだ。

 上田は確かに普段から馬鹿なことばかりしている奴だが、いつも明るく面白い。人の悪口は言わないし、人を傷付けるような言動はしない。笑いを取る時にも他の人を笑い者にするのではなく必ず自分の言動を笑ってもらえるように狙っている。そんな風に誰にでも優しく接する聖人君子と呼べる人格者だから周りからの人望もある。

 もしも女の子から「上田くんのことが好きです」と相談されたら、俺は上田のことを交際相手としてお勧めする。

 だからと言って、その上田を小海さんの想い人と比較することは出来ない。恋愛というのは本当に難しい。


 だから、もしも上田が意を決して小海さんに告白したとしても、上田は小海さんから振られる可能性の方が高いだろう。

 競合相手は誰だか知らないけれど、あの小海さんが惚れ込んで自らを変えるきっかけとなった男なのである。

 今までの人生で女の子に告白する度に振られ続けた上田ではかなり分が悪い。


 だが、上田のことだ。恐らく玉砕覚悟で小海さんに告白するだろう。

 幸いなことに文化祭の4日目には後夜祭としてバーニング・ナイトという男女の距離を縮める絶好のチャンスもある。

 お祭りムードに任せて突撃するのではなかろうか?

 気配りの出来る心優しい小海さんなら上手に上田からの告白を断って、次の日からもクラスメイトとしていつも通りに接してくれると信じている。


 そこまで考えて、最終的に俺が取るべき行動が近い将来に上田の残念会の計画も立てることだと判明する。

 その時には川上と一緒に慰めてやろう。



 実は、問題はもうひとつ残っている。


 解決すべき問題かどうか分からないのだが、俺はこの問題は是非とも解決して欲しい、と願っている。


 小海さんには「あるがままに」生きて欲しい。

 もう無理して「みんなの求める小海由乃」を演じ続けなくて良くなって欲しい。


 これは俺の力でどうこうできる問題ではない。あくまで小海さんの心の持ち方によることだからだ。


 でも、ああいう頑張り屋で心の優しい人には気兼ねせずにもっと自由に暮らして欲しいと願っている。


 ここから先は俺の関与すべき問題じゃない。

 俺はこれ以上考えるのをやめた。




 改めて文庫本を開く。


 ああ、思い出した。

 俺は夏休みの最後の日に遥香さんとふたりで「劇団・真珠星」のチェーホフ「かもめ」の公演を観に行った。

 その前日に遥香さんから珍しく電話があって急遽スケジュールを決めたんだった。


 遥香さんのために絶対に当日券を手に入れたかったから随分前から劇場の前で待った。

 並ぶ前にこの文庫本を買った。

 待ち合わせ時間よりも早く現れた遥香さんはあの日も綺麗だった。

 黒と白のボーダーの長袖Tシャツにデニムで、キャメルのジャケットを羽織っていた。それから黒いパンプス。全て似合ってた。

 開場を待っている間に見せてくれた笑顔は今でも瞼に浮かぶ。

 上演中はずっと繋いでいた手の温もり。

 終演後に初めてふたりで一緒に食事をした。遥香さんはずっと笑顔だった。

 

 文庫本のページをめくりながらそんな思い出に浸った。


 


「あ、上田くん」

と誰かが上田の名前を呼んだので視線を上げると、教室に上田が戻って来ている。

 上田は真剣な表情のままで、まだ悩んでいそうだった。

 声をかけるべきかどうか迷ったが、すぐに川上が近寄っていき、川上の定位置となっている教室後方の下手側に連れて行かれ、何やら小声で話し始めた。


 上田との付き合いの長い川上だから、俺なんかよりももっと適切なアドバイスを送ることが出来るだろう。


 もう一度意識を文庫本に戻そうとした時に視野に違和感を覚えた。


 教室の廊下側の壁の前に見慣れない生徒がいた。

 小柄でベージュの髪をした垢抜けた印象の女子生徒だった。

 まだ開場前だから教室の中にはうちのクラスの生徒しかいないはずでは?


 足元がよく見えないから上履きを見て学年を確認することは出来なかったが、そのそばに井沢さんが立っていた。

 きっと井沢さんの友達なのだろう。ならば問題ない。

 あれ?でも、井沢さんは確か午後はずっと文芸部の当番だったはずだ。

 まあ、きっと何か変更があってクラスの方に戻って来てくれたのだろう。

 俺にとってはとても心強い。



 俺は再び文庫本に意識を戻した。

 舞台を観た後で遥香さんと一緒にカフェに行き、自分の演技の拙さに凹んでいると打ち明けた時にこう言われた。


「篤くんは篤くんの演技をすればいいんです」


 ああ、そうだ。

 俺は自分の演技を、出来る範囲で最高のものをお見せすれば良いんだ。

 

 そう考えるとかなり気持ちが楽になった。


 ありがとう、遥香さん。

 

 俺は心の中で何度も感謝を伝えた。

 


 そんな時に

「お疲れ様です。どうやら大盛況のようですね。次の公演を私も観せてもらってもいいですか?」

と聞き覚えのある優しい男性の声がした。


 声のする方を向くと沢野先生がいらっしゃっていた。ハンディカメラを手にされていた。

 陣中見舞いがてら俺たちの芝居を観に来てくれたのだろう。

 沢野先生は夏休みの間も何度か教室で稽古している俺たちの様子を見に来て下さって、毎回必ず冷たい飲み物を差し入れしてくれた。


 クラスの責任者である川上との話から、自分の担任クラスの次の公演を見るだけでなく、録画もして下さるようだ、と分かる。

 生徒に干渉しすぎないように一定の距離を保ちながら、ここぞという時には惜しみなく手を差し伸べる。

 以前、学校内で暴力事件を起こした俺と両親は沢野先生に救われた。

 本当にこの先生は凄い。

 将来、俺もこういう大人になりたいと思う。


 沢野先生は下手側の高岡さんが座っている席のやや後ろに陣取ってカメラアングルをチェックし始めた。

 録画していただいた次の舞台の映像を見て自分の演技をチェックして、今後の参考にしようと思う。



 俺は視線を下げて文庫の表紙に目をやる。表紙にはロシア語のタイトルも書かれてある。

 かもめはロシア語では「チャイカ」(Чайка)というのだ。

 ロシア語には全く馴染みがない。初めてこの字面を見たときには英語風に無理やり読んで間違えたのを覚えている。


 確か大学では第二外国語が必修だったはずだ。

 川上は「サッカーが好きだからスペイン語を選ぶ」と言っていたし、上田は「喋れたらモテそうだし、選択する女子が多そうだからフランス語を選ぶ」と言っていたのを思い出した。俺はまだ何も決めていない。大学時代にはアメリカへバスケを観に行きたいから英語力を身につけるのは必須だが、もうひとつ外国語を選ぶとしたら何が良いのだろう?まだ先の話だから、大学に入った時に決めれば良い。



「川上くん、新聞部が取材に来てるけど入ってもらって良い?」

と尋ねる声が教室に響き、川上が

「良いよ、入ってもらって」

と答えたので、新聞部の腕章をつけたふたりの女子生徒が入って来た。

 1年生と2年生のコンビだった。


 なんとなく新聞部のふたり組を眺めていると、1年生の方と目があった。

 その人は優しそうな顔でにっこり微笑む。俺の知り合いではないが、柔和な笑顔からお人柄が容易に予想出来た。良い人だと思う。

 

 その1年生の新聞部員は井沢さんの方へ向かって行った。

 井沢さんの友達なのか!

 俺と同じ伊那川中学校の出身だけれど、井沢さんは俺よりも遥かに交友範囲が広い。

 いつも謙虚でよく気の利く井沢さんのことを認めてくれている人がたくさんいることは、まるで自分のことのように嬉しい。



 上田は水分補給しつつ台本の確認をしていた。

 今の上田に必要なアドバイスは川上から既に伝えられているはずなので、俺から特に言うこともないだろう。



 新聞部のふたりの準備が整うと舞台上で舞台監督の川上と主演の上田への取材が始まる。

 あいつらのことだ、上手くうちのクラスの演劇をアピールしてくれるだろう。

 


 俺はまた文庫本の方へ意識を向ける。

 この本を目にすると、遥香さんの笑顔が浮かんでくるので、戯曲の内容が全く頭に入って来ない。

 だが、俺にとってはチェーホフの名作よりも遥香さんの笑顔の方が重要なのでむしろ大歓迎だ。


 ペットボトルの飲み物を飲もうとして文庫本から目を離すと、視野の中にいつの間にか戻って来ていた小海さんの姿があった。


 改めて小海さんの顔を明るい場所で見ると、やはり先ほどの俺の推察が正しかったと気付く。

 メイクで際立っているのもあるが、紛れもなく美形だと思う。

 上田が驚いたのも無理はない。

 


 小海さんは井沢さんに声をかけられて、お連れの人と一緒に3人で何やら話している。

 あの小柄なお友達は井沢さんと小海さんとの共通の友人なのだろう。

 俺は女子生徒の交友関係には全く詳しくないからとりあえずそう認識しておこう。




 そんなことを考えながら水分補給をしていると、舞台上にいる川上から残りのキャストも取材したいそうだから集まってくれ、と呼ばれた。

 文庫本を鞄にしまい、ロッカーに収めてから舞台に上がると、先に安住(あすみ)さんと小海さんが新聞部のふたりから取材を受けている。

 上履きから2年生と分かる生徒が質問し、もうひとりの井沢さんの知り合いの1年生の部員がボイスレコーダーに録音していた。

 安住さんは夏休みの間に行われた高校生のクイズ大会のN県予選で決勝戦まで残ったから、地方ローカル局ながら既にテレビに出演していたし、小海さんは全国レベルのアスリートだからインタビューには慣れている。

 しかし、俺にはそんな経験などないから自分の番が回って来るまで密かに緊張はしていた。


 俺へのインタビューで2年生の部員から訊かれたのは

「この舞台では大町くんが大事な役目を果たしているとお聞きしていますが、それについて一言」

「役作りで苦労したことがあれば教えて下さい」

という無難な質問だったので、普通に答えられた。

 もちろん回答を用意してあったわけではないが、その場で考えて答えられる質問だからだ。

 その後、1年生の部員から

「もし、私が海で溺れていたら、江神は助けてくれるでしょうか?小さな子供ではありません。いかがですか?」

と思いも寄らない質問が飛んできた。

 俺はしばし考えた後で

「江神は、目の前で溺れているのがちびっ子じゃなくても、大人だろうとお年寄りだろうと、迷わず海に飛び込む男です。だから、絶対に助けます」

と答えた。この答えに自信はあった。


 だが、問いを投げかけた本人は唖然としていた。

 その表情を見て、安住さんは

「大町くん。そういうことじゃないよ」

と呆れ顔で言い、小海さんも黙って頷いている。


 どうやら俺は回答を間違えたらしい。

 さりとて、それで人の命に関わるような深刻な問題にはならない。その失敗を忘れることにした。



 新聞部からの取材が終わり、気がつくと先ほどの小柄な井沢さんのお友達は高岡さんの隣に座っていた。

 仲良さそうにお話しているから、どうやらその人は高岡さんの知り合いでもあるようだ、



 井沢さんはやはりプロンプターとして戻って来てくれたようなので、次の公演に向けて舞台上で川上と打ち合わせを始めた。



 会場係の生徒が廊下に向かって

「1年D組のクラス演劇『Round Bound Wound』、本日の第四回公演の開場をします。本日の最終公演となります。おひとりずつ、ゆっくりとご入場下さい。ご協力よろしくお願いします」

とアナウンスする声が聞こえたので、俺は下手側の舞台袖に移動する。



 既に上田、安住さん、小海さんがそこで待機している。


 もうすぐ芝居が始まるというのに上田と小海さんが目も合わさない状況だったので、安住さんは困り顔だ。 


 とりあえず俺が上田に

「調子はどうだ?腹はもう大丈夫か?」

と尋ねると、上田は

「ああ。大丈夫だ」

と答えてから、続けて

「だから小海さん、安心してよ」

と小海さんへ伝えるが、小海さんは

「それはよかった」

とだけ独り言のように言う。

 互いに顔を合わせないままの会話だ。


 見るに見かねた安住さんが

「新聞部の生坂さんって、良い人だったね」

と話題を振る。恐らく上田に向けての言葉だろう。

 どっちの部員がその生坂さんだったのか俺には分からないが、上田が雑談の中でよく「生坂さん」という名前を口にしていたのは覚えている。

 上田は素っ気なく

「取材だからね」

と意外と冷静に答えるだけだ。

 今回は浮かれた様子はなさそうだ。



 教室内には次々にお客さんたちが入場する。

 最初に入って来たのは女子4人のグループで、最前列の真ん中に並んで座る。

 確かこの人たちは前にも最前列に座ってなかったか?

 どの公演だったか?というところまでは流石に覚えていない。


 ただ、そのうちのひとりの生徒のことだけはしっかり覚えている。

 第一回公演の後で涙を流していた生徒だ。

 この舞台「Round Bound Wound」はどこをどう切り取っても喜劇なのに何故か泣いていたので、印象に残っている。


 その女子生徒は自分の席を確保してから、後ろへ歩いて行く。


 俺の知らない人だが、後ろ姿には見覚えがある。

 入学式で新入生代表を務めていた女子生徒に違いない。

 小さな体躯も特徴的だが、首の後ろでひとつにまとめた黒髪が腰の辺りまで達している。あれだけ髪の長い生徒は校内広しと言えども彼女だけだろう。


 俺は入学式であの髪型の後ろ姿しか見てなかったから、その生徒は神社で見かける巫女さんのような人なのだろうと勝手に思い込んでいた。

 だが、実際は全く違っていた。


 どうやら彼女は高岡さんに用があるみたいだ。

 きっと高岡さんの知り合いなのだろう。


 俺がその髪の長い生徒の後ろ姿を眺めているのに気付いた上田が

「あの子は1年A組の遠見咲乃さんだよ。彼女は有名人だよ。ユニークだからね」

と教えてくれた。やはり新入生代表の生徒だ。

 その人がうちのクラスの遠見有希さんの従姉妹だと安住さんに教えてもらったことがある。このふたりはあまり似てない。従姉妹ならそんなに似てなくても当然か?うちは姉弟でも似てないから別に不思議はではないと思う。


 上田は国語も英語も得意だから、その遠見咲乃さんを「ユニーク」と表現したのは、「変な」「面白い」という日本人がしがちな誤用ではなくて、英単語の”unique”の意味そのものの「唯一無二の」という意味で使ったのだと思う。


 彼女はそんなに特別なのか?俺は首を捻る。

 それを見た上田は

「あれ?大町は知らねえの。遠見さんはね、あっ!」

と話の途中で驚きの声をあげた。

 客席を見渡すが、別段驚くような事件は起きていないので、俺が

「どうした?」

と尋ねたら、上田は

「うわ!まじか?伝説の『The Chosen One』が最前列にいるぞ!」

と状況を説明してくれた。


 その名前で呼ばれる人で俺が知っているのは、心から尊敬するあのお方だけだ。

 当然ながらそれらしき人物はいない。そんなバスケットボール界のスーパースターがいきなり日本の地方にある高校の文化祭に現れたりはしない。


 いまいち状況が理解できないので、俺が

「その『The Chosen One』ってのは誰のことだ?」

と訊くと、上田は

「お前、あの人のこともマジで知らねえの?凄い先輩なのに。え~っと、なんて言えば良いのかな?」

と腕組みをしながら考える。そんなに難しいなら別に説明しなくても良いぞ、と俺は思う。別に知らないままでも構わない。

 考え込んで1分も経たない間に上田は

「俺には大町にも分かるように説明できる自信がないなあ。安住さん、お願い出来る?」

と説明を安住さんに丸投げした。俺をバレー部に勧誘した時ほどではないが上田は出来ることと出来ないことの判断が早い。バレーボールに青春を捧げている上田はボールを保持しても良いバスケットボールをしている俺とは違う時間の尺度で生きているのだろう。

 それを受けて安住さんは

「うん、良いよ。その名で呼ばれるのは2年C組の久保まゆみさんのことだよ。水泳部の先輩だよ。最前列の、遠見咲乃さんが確保した席の左隣に座ってるショートカットの女の子が久保先輩だね」

とその異名で呼ばれている人が誰かを教えてくれた。

 示されたその場所には「天真爛漫」を絵に描いたような可愛らしい女子生徒がいた。

「確かに見栄えのする先輩だけど、なんでそんな風に呼ばれてるんだ?」

と俺が尋ねると、安住さんは

「普段はご覧の通り、とても愛嬌のある可愛らしい人なんだけど、舞台に上がるとまるで別人になるのよ。昨年の1年生の教室演劇でテアトル大賞を獲得したクラスの主演を務めたのが久保先輩なんだよ。2年生の間では去年の文化祭でのこの功績が舞台監督の水内先輩によるものなのか?主演の久保先輩によるものなのか?という問題については今でも議論が尽きないらしいよ。ただ、去年の久保先輩の舞台を観た生徒の証言から『久保さんが舞台上にいるだけで教室内が全く別の世界になった』って、その類稀なる演技力が伝えられてるのよ。残念ながらその舞台の映像は残されてないからあくまで言い伝えだけなんだけどね。特に演劇経験もない生徒が突如としてそこまで圧巻のパフォーマンスを見せた伝説のことを受けて、久保先輩は、『The Chosen One』、つまり、『選ばれし者』と呼ばれるようになったそうだよ。尤も本人はその名前で呼ばれることを嫌がっているみたいだけどね」

と分かりやすく説明してくれた。情報通の安住さんらしい丁寧な解説だ。思わず聞き入ってしまう。

 俺の知ってる「The Chosen One」とは全くの別人だが、その先輩もきっとそれくらい凄い人なのだろう。


 安住さんはさらに続けて

「今年の文化祭の2年生の演劇は大注目だよ。2年B組の舞台監督は水内先輩で、2年C組の舞台には久保先輩が出演するのよ。だから、昨年の文化祭で生まれた、本当に凄いのは水内先輩か久保先輩か?という議論に決着がつくはずなの。実はこの対決にはもう一つの側面があって、景ちゃんの文芸部の部長と副部長がそれぞれの陣営にいるのよ」

とその伝説が今年の文化祭にも繋がっていることを教えてくれた。

 楽しみが増えた。

 その2つのクラスの舞台は絶対に観たい。両方ともファイナル・ステージに残って欲しい。


 自分が話題を振っておきながら、安住さんに説明を丸投げして、親切な解説をただただ拝聴した上田は、一言だけ感想を述べる。

「応仁の乱みたいになってるな」


 確かに応仁の乱も国内の様々な勢力が東西両陣営に分かれて争ったはずだ。

 上手い例えだと思う。



 安住さんの説明の中には俺の知らない先輩たちがたくさん登場したので詳しい事情は完全には理解出来ていないが、ともかく2年生の演劇のグランプリ争いが熱い展開になっていることだけははっきりした。

 そのキーパーソンがうちの舞台を観に来てくれているのだから気合を入れて舞台に上がろうと思う。


 するとまた、客席をチェックしていた上田が

「文芸部の飯山先輩だ。入り口のところにいるよ」

と声をあげる。

 俺が視線を向けるとそこにはショートカットの女子生徒がいた。

 確か川上はその人のファンだったはずだ、と思い出して、川上の方を見遣るとやはりあいつはその先輩のいる一点を凝視していた。


 文芸部の飯山先輩はチャットルームで川上が後夜祭のバーニング・ナイトで一緒にフォークダンスを踊りたいと言っていた憧れの先輩だ。

 心の中で「川上、良かったな。憧れの先輩が観に来てくれたぞ」とあいつの幸運を祝った。

 体育祭の借り物競走で「憧れの先輩」というお題を引き当てて小牧先輩を連れてゴールした上田と同じく、川上の身にも良いことが起きたので俺も嬉しい。

 上田も川上もこんなに頑張っているんだ。ご褒美があって然るべきだと思う。尤も、上田の場合は想定外の贈り物のおかげで悩んでいる最中だが。

 

 先ほどから小海さんは黙ったままだ。

 きっと彼女なりに集中力を高めているのだろう。

 

 その文芸部の飯山先輩は井沢さんのお友達の隣の席に着く。


 そこまで見届けた川上は井沢さんとの打ち合わせを再開する。 



 そろそろ開演時間だから、俺と小海さんは書き割りのドアの裏側に移動しないといけない。

 結局、上田と小海さんは目も合わさず、先ほどの短いやり取り以外は会話をしなかった。


 その時、客席から

「大町~!頑張れよ」

と大きな声が聞こえて来た。

 舞台袖に戻って客席を見ると、教室の後ろの壁際に男子バスケットボール部の先輩たちがいる。

 小川賢人先輩が大きなビニール袋を掲げて

「差し入れを持ってきたぞ」

と俺を呼んでいるので、川上の方を見て確認すると「行ってこい」と目で合図している。


 小海さんは

「先に行ってるね」

と書き割りの裏に移動し、俺は

「じゃあ、後で」

と客席へ向かった。



 まだ入場して来るお客さんがいるので、俺はうまくすれ違いながら教室の後ろへ到達すると、部長の箕輪大輝(みのわだいき)先輩、副部長の小谷歩夢(こたにあゆむ)先輩、小川先輩、靖岡伯(やすおかはく)先輩という4人の2年生部員がいる。

 早速、小川先輩がビニール袋を俺に渡した。

「はい、差し入れ」

 受け取って袋の中身を確認すると中にはペットボトルのスポーツ飲料やお茶が入っている。

「ありがとうございます。わざわざ観に来てくれたんですか」

 差し入れと来場についてお礼を伝えると、小川先輩が

「DINEでこのクラスの情報を見つけたんだよ。話題沸騰中だな」

と囃し立てる。小川先輩はチームの盛り上げ役だ。

 すると、箕輪先輩が

「大町が頑張ってるからみんなで観に行こうぜ、って空いてる奴に声をかけたんだよ」

と説明を加えた。箕輪先輩はチームのキャプテンで前任者の辰野先輩と同じくプレイで引っ張るタイプのリーダーだと思う。だから他の先輩方も一緒に来てくれた。

「うちのクラスの子が面白かったって言ってたよ」

とコメントしたのは靖岡先輩。口コミでも評判が良いのは喜ばしい。

「まあ、俺らデカいから一番後ろで立って観るよ」

と最後に締めの一言を加えたのが、俺よりも背が高い小谷先輩。小谷先輩がいるから俺はポジションをセンターからパワーフォワードへコンバートされた。

「周囲に迷惑かかるほどデカいのはお前だけだよ」

と小川先輩が突っ込むと俺たちバスケ部のメンバーだけでなく、周りの生徒たちからも笑いが起きた。


 コート上では常に厳しく互いを高め合ううちの部員もコート外ではみんなこうして仲が良い。

 

 俺が舞台上でもがき苦しんでいる、と知って先輩方は応援に駆けつけてくれたのだろう。

 本当に有難い。



 バスケ部の先輩たちは、それぞれが周りの生徒と話し始めたので黙礼して去ろうとすると、教室の下手側の後方から

「大町くん」

と俺の名を呼ぶ声がしたのでそちらを見る。

 どこかで見覚えのある目鼻立ちの整った男子生徒が一番後ろの下手側の端の席に着いていた。

 その右隣の席は空いていたが、誰かがオレンジ色のクラッチバッグを置いて席を確保しているようだ。


 俺とこの人のこのやり取りを見ていた周りの生徒たちが静まり返る。



 どこか見覚えがあるが、面識はない先輩だ。少なくとも話したことはない。


 俺が自分のことを認識していないことを感じ取って、その人は

「3年F組の萱野だ」

と自己紹介した。


 3年F組の萱野先輩、と言われても、そのクラスには知り合いはいない。

 

 相手は3年生で、俺が自分のことを知っていることを前提として話しかけてくれているのに、「どちら様でしたっけ?」などと気軽には訊けない。



 しばらく考えてから、ようやく思い出した。

 3年生の萱野先輩と言ったら、うちの高校の生徒会長じゃないか!

 入学時の行事や生徒集会で遠目にお見かけしただけだったからすぐには気付かなかった。見覚えがあったのにも納得出来た。

 

 俺は慌てて姿勢を正して

「萱野先輩、失礼しました。生徒会の巡回ですか?」

と尋ねた。萱野先輩は

「それもあるけど、ひとりの生徒として演劇を観に来た、というのも本音だよ」

と答えた。


 ついにうちのクラスは生徒会にまで目をつけられてしまったか。

 くれぐれも失礼のないように対応しないといけない。


 そんな風に俺が身構えていると、萱野先輩は続けて

「伊那川中学校の出身で男子バスケ部の部員。昨日のStrong Armsではあの平島くんの不敗記録を止めた。それに確か4月の『監禁ドラフト』で無事に残ったのも君だったらしいね 」

と俺の来歴を話す。メモの類いは一切見ていない。俺は思わず

「よくご存知ですね」

と口に出していた。

 生徒会長が俺なんかのことを詳しく知っていることに驚いたのだ。


 萱野先輩は表情を変えず

「僕は生徒会長だからね。生徒の情報には長けているよ」

とこともなげに言う。


 やはり人の上に立つ人間というのは凄い。


 萱野先輩は続けて

「一応、DINEで『暁月祭専用連絡網』はチェックしているよ。今日はこの1年D組の演劇の話題で持ちきりだよ」

と説明してくれた。


 先ほど安住さんも同じ話をしていた。

 俺はDINEを使っていないから、話題がどの程度盛り上がっているかは知らない。


 萱野先輩は生徒会長であり、学内でも有名な「カッコいい男子生徒」のひとりだ。他の学校の女子生徒の中にもファンがいると聞く。

 だが、萱野先輩は外見が良いだけでなく、テニス部の強豪選手でもある。


 高校入学時から部内で1番の実力者だったが、ストイックに自らの強さを求めるタイプということで、周りに勧められてもキャプテンにならなかった。


 生徒会長に就任したの異例だったそうだ。

 バスケ部の先輩たちから教えてもらったのだが、 萱野先輩は入学してからずっとテニス一筋の生徒であったのに、いきなり2年生の後期の生徒会長選挙に立候補して圧倒的な票数を得て当選した。

 元々、学校内でトップクラスの有名人ではあったが、投票前に行われた立会演説会でのスピーチが全校生徒の心を鷲掴みにしたのが勝因だったそうだ。

 一体、どんなスピーチをしたのか興味があったのだが、生徒会長選挙に関する学内の規定で立会演説会の映像や音源は残されていない。おまけに、萱野先輩はその見事な演説を原稿を見ずにしたという伝説も残っている。

 俺たちが入学する前に行われた3年生の前期の選挙にも勝って生徒会長に再選され、もうすぐ任期を終える。


 従来ならば生徒会長を目指す者は1年生の後期から生徒会役員として実務をこなしつつ功績を挙げて、2年生の後期での生徒会長選挙に備える、というのが伝統だった。

 そうした慣例を打ち破って、いきなり立候補して生徒会長の座に就いた数少ない例がこの萱野先輩である。

 

 生徒会長になってからも生徒会の業務とテニスを両立させて、夏のインターハイ予選ではかなり良いところまで勝ち上がったそうだ。


 萱野先輩が所属していたテニス部も実は特殊だ。

 毎年、ほぼ全ての部活が新入部員の争奪戦が繰り広げる暁月高校の中で唯一、テニス部だけは「少数精鋭主義」を貫いている。

 新入生向けの部活説明会にも形だけ参加はするが前もってスカウティングしてある競技実績のある生徒を勧誘するだけなのだ。


 その方針には2つの理由が挙げられる。


 ひとつ目は、テニスは個人競技なので大勢の部員が必要なわけではないから。

 ふたつ目は、練習環境が限られるから。つまり、部員の数が多いと練習の質が落ちるので、むしろ人数制限が必要なのだ。


 それでもテニス部への入部を希望する生徒は毎年たくさんいるから、仮入部前に入部テストを行い、合格基準に達したものだけが入部を許されるとのこと。

 いくら入部を希望していても弱い選手は要らない、という厳しい方針なのだ。


 今年のテニス部に関してはこんな噂も聞いた。


 1年生の女子生徒でひとり、中学時代に活躍した強豪選手がいたそうなのだが、その生徒は入部説明会で声をかけても入部せず、何度かスカウトの生徒たちが教室を訪ねて説得を試みても入部しなかったらしい。

 その人が高校でテニスをしない理由には、実は怪我をしていてテニスを出来ないとか、別にやりたいことがあるとか、色々あったのだろう。

 ある意味、入部したいと願ってもおいそれと入れてもらえないエリート集団のテニス部から再三に渡って勧誘されても断固として自分の意思を変えずに入部しなかった人というのがどんな人物なのか興味はある。機会があれば一度会って話してみたいと思う。

 もちろん、女子生徒だからお近づきになりたい、という訳ではない。俺には遥香さんという心に決めた人がいるから他の女子生徒に好意を抱いたりしない。



 校内で異質なテニス部の強豪選手にして、学校史上非常に珍しい経緯で就任した生徒会長でもある萱野先輩を目の当たりにして俺の頭の中はかなり混乱していた。


 そんな俺の心中を察してか、萱野先輩は

「色々考えてるね。まあ難しいこと抜きに、気楽に文化祭を楽しもう。僕にもその権利はあるからね」

と笑顔で話を終えようとした。


 俺がなんとか

「はい」

とだけ答えると、萱野先輩は会場の入り口の方を見遣り

「連れが来たようだ」

と視線の先に手を振った。


 俺が視線の先を目で追うと、そこには部長連代表の桑村先輩がいた。学校内の全ての部活を統括する人だ。

 立ち姿がとても美しく、ただそこに立っているだけで絵になる。


 周囲がさらにざわつき出した。


 またしても重鎮が登場したので俺は失礼がないように

「桑村先輩、おかげさまで無理なく上演出来ています」

と先刻の忠告を守って安全に公演を続けている旨を報告すると、桑村先輩は毅然とした態度のまま

「それは何より。でもね、今は巡回じゃなくひとりの生徒として来たんです。一応、演劇部なんで。話題の舞台は見ておかないと。今度はちゃんと演劇を観ます。楽しみにしてますよ」

と静かに答えた。清らかで澄んだ声だった。

 混み合って雑音が多い教室の中でも桑村先輩の声はまるで俺の耳、否、心にまっすぐ届いた。

 これが役者としての鍛錬を重ねて来た人の持つ声なのだろう。

 いいや、それだけではない。この人の放つ言葉の力も大きく作用していると思う。


 萱野先輩は席を立ち、右隣の空席に置いてあったクラッチバッグを掴んでその席に座り、今まで自分が座っていた一番奥の席を左手で恭しく示して

「どうぞ。お好きな席をお取りしておきました」

と桑村先輩に勧めた。

「流石によく覚えてるね。では、お言葉に甘えて」

 桑村先輩は映画や芝居でヨーロッパの宮廷の貴婦人たちが挨拶する時のように制服のスカートを両手の指先でつまんで少し持ち上げながら片足を後ろに引いて上品に軽くお辞儀すると、優雅な身のこなしで席に着いた。

 流石は演劇部の部長というだけあって、とても上品で様になっていた。


 思わず見惚れてしまったが、その桑村先輩から

「そろそろ開演でしょう?」

と言われたので、舞台の方を振り返ると井沢さんが台本をパラパラめくっていた。きっと最後のおさらいをしているのだろう。


 俺は萱野先輩と桑村先輩に

「それでは、楽しんでいただけるよう頑張ります」

と告げてお辞儀をして、混み合った場内を掻き分けて下手側の舞台袖に移動した。


 

 バスケ部の先輩から受け取った差し入れのドリンクを奥に置く。

 上田が

「大町、遅かったな。何かあったのか?」

と訊いて来たが、あの桑村先輩が客席にいる、などと伝えたらまた上田が緊張してしまい兼ねない上に、またもや小海さんに無理を強いることになるので

「後で話す」

とだけ伝えて急いで書き割りのドアの裏側へ移動した。



 既にドアの裏側で待っていた小海さんに

「遅くなった」

と詫びると、小海さんは

「いや、井沢さんもちょうど準備出来たところだから大丈夫だよ」

と答える。

 この場所にずっといたから川上と井沢さんの打ち合わせをずっと聞いていたのだろう。


 なんとなしに俺は

「大丈夫か?」

と訊く。

 心の中で小海さんの置かれた状況を理解したつもりでいたからだ。


 小海さんは俺の方を見ないまま

「え?何のこと?」

と答える。


 小海さんはあれほど泣き腫らした後でもなお「みんなの求める小海由乃」であり続けようとしている。

 その矜持を持ったまま今から舞台に上がろうとしている。


 本当にこの人は強い。


 ならば俺は誇り高い彼女を守る盾になろう。


 舞台の上では俺のフィジカルの強さは大して役に立たないだろうが、持てる全ての力を使ってこのお芝居を成立させて、小海さんに余計な負担がかからないようにしようと思う。


 だが、実際には俺は人のことを構っていられる場合じゃない。

 俺の1番の難関はやはり終盤の長台詞だ。

 遥香さんが見守っていてくれたおかげで成功した第二回公演以外は危なっかしいままだ。

 

 井沢さんがプロンプターとして戻って来てくれたのは頼もしい。

 共に稽古を乗り越えた者同士の阿吽の呼吸があるから、井沢さんは演者に助けを出すかどうかギリギリのタイミングまで待って判断をしてくれる。自力でなんとか続きの台詞を喋る時にも助けを借りて台詞を繋ぐ時にもリズムが崩れない。こればっかりは場数を踏んだ井沢さんの方が川上よりも上手い。


 だから俺は安心して舞台に上がろうと思う。

 第一回公演では井沢さんの助けを借りつつ長台詞を乗り越えた自信もある。


 客席には、たくさんの人たちが詰めかけている。

 教え子の晴れ姿を記録に残そうとカメラマン役を買って出てくれた先生がいる。

 取材に来てくれた新聞部の生徒たちがいる。

 今日だけで2回目の来場をしてくれた生徒たちがいる。

 俺たちの舞台を観て涙を流してくれた生徒もいる。

 忙しい時間を割いて後輩の芝居を最前例で観ている伝説の先輩がいる。

 川上の憧れの先輩がいる。

 俺が頑張っていると聞いて応援に来てくれた先輩たちがいる。

 俺たちのクラスの演劇に大きな期待を込めて観に来てくれた我が校のふたりのリーダーがいる。


 それ以外にもたくさんのお客さんたちが俺たちキャストが舞台上で躍動することを待ち望んでいる。


 みんなの期待を力に変えて精一杯に芝居をして、応えたいと思う。



「行くよ」

 小海さんが俺に向けて拳を突き出した。

「ああ。頼むぞ」

 俺はグータッチした。



「それでは、始めよう」

 川上の合図で場内が暗転した。

 元々暗かった書き割りの裏側には今は全く光がない。



「『青い鳥』って、読んだことある?」

 小海さんからいきなり訊かれた。

 真っ暗だから表情は読めない。


「絵本ならあるぞ。『木の役』で出演したこともある」

 と答えると、隣から

「クスッ」

と小さな笑い声がする。


 場内に静かなクラシック音楽が流れ出したので、会話はそこで終わった。

 もうすぐ幕が上がる。




(続く)

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