【43】暁の黄金(6)
暁月高校の文化祭初日の午後。
私、井沢景は文芸部の部誌「文芸・東雲」を販売するブースで2年生の岡谷先輩と一緒に店番をしていた。
筑間稜子さんの申し出により、私の所属する1年D組のクラス演劇の次の公演の前に店番を代わってもらえることになっていた。同様に文芸部の中野先輩の勧めにより、岡谷先輩も私と一緒に店番を交代してうちのクラスの公演を観に来ることになっている。
文芸部の販売ブースには待てど暮らせどお客さんは来ず、初めのうちは色々な文化祭の出し物に関してのトークに花を咲かせていたのだが、次第に有望なクラスの演劇へと話題が移って行き、岡谷先輩がクラスの演劇のために苦労して脚本を改稿したこと、その改稿が劇団に正式に認められたこと、更にはその著作権関連の契約に関して同じクラスの小海さんのお母さんが弁護士として関わっていたことなどを知らされ、驚きの連続だった。
そうして店番を続けていると、日本語ではなく英語っぽく聴こえる言語で会話しているふたりの声が聴こえてきた。文芸部のブースの周辺は閑散としているから、大声でなくても話し声がよく通るのだ。
私は英語がそんなに得意じゃないので内容は聴き取れなかった。
やがて、英語のジェイムズ先生と生徒には見えない私服の若い女性が喋りながら教員棟から繋がっている渡り廊下を通ってこちらへ歩いて来るのが見えた。
私のクラスは実際に英語の授業を受けていたからジェイムズ先生を知っているけれど、もうひとりの女性は存じ上げない。
その女性が販売ブースにいる私たちの存在に気付いて
「あっ、岡谷さん。店番ですか?」
と声をかけてくれた。この言葉は日本語だった。
岡谷先輩は座ったまま会釈をしてから
「はい。文芸部の文集を販売しています」
と答えた。その人が
「ちょっと見せてもらっても良い?」
と興味を持ってくれたようなので
「どうぞ」
と私はビニールカバーの付いた見本誌をお渡しした。
「ありがとう」
と言って、その女性は文集を開き、まずは目次らしきページをしばらく眺めた後、目指す箇所まで一気にページをめくると静かに読み始めた。
恐らくまだ20代だろうと思われるその人は、色白でハーフリムの眼鏡をかけ、髪は短く、近くで見るとノーメイクなのが分かった。それでも中々の美形で、カーキ色の無地の七分丈Tシャツに黒のスキニーパンツというラフな服装と相まって「カッコいい大人の女性」という印象を受けた。
隣りにいるジェイムズ先生はオーストラリア人の男性の先生で、恐らく20代だと思う。私でも知っている有名な映画俳優に何となく似ていてハンサムな上に気さくな人柄ということもあって男女問わず生徒から人気がある。
体育祭の借り物競争では高岡さんが「外国人の英語の先生(英語で交渉)」というお題を引いて、ジェイムズ先生を連れてゴールしていた。
ジェイムズ先生はいつも通りの軽装で今日は白い開襟シャツにデニムという装いである。連れの女性が読んでいる文集を覗き込んでから、天を仰ぎ見て両手の掌を上に向けるジェスチャーをした。
日本語で書かれた文字だらけの冊子だから、自分には手も足も出ない、とでもユーモラスに訴えていたのだろう。
ジェイムズ先生のこういうところが私は好きだ。
私のように英語の苦手な生徒に対しても非言語コミュニケーションを試みてくれるのが嬉しい。
私がただひたすらに笑顔だけで応えているその隣で、岡谷先輩はその仕草に対して何やら英語でコメントし、そこから二言三言ジェイムズ先生と英語で話していた。
岡谷先輩は数学や理科だけじゃなくて、英語も出来るんですね。カッコいいです。
私はジェイムズ先生と目が合っても「あ」とか「う」とか「えっと」といったように嘆息が漏れるだけで躓いて黙ってしまい、結局は会話に加われなかった。
私がそうして冷や汗をかきながら笑顔で座っていると
「ありがとう」
と声をかけてその女性が私に見本誌を返してくれたので、黙って受け取った。続けて
「文集は教員も買えますか?」
と尋ねられたので、私は
「もちろん大丈夫です。そうですよね?先輩」
と岡谷先輩に確認を取った。岡谷先輩は
「構いませんよ、先生」
と答えてくれた。
やはり、この女性はうちの高校の先生だったのか。
女性の先生はバッグの中から財布を取り出し
「はい、300円ね」
と代金を岡谷先輩に渡した。
私が文集を1冊お渡しすると
「ありがとう。岡谷さんの作品も載ってるから、楽しみです」
と言いながら受け取った。
店番を代わってから初めて部誌を買ってくれたお客さんなのでお礼を言おうとしたが、その先生は
「あっ、沢野先生!」
と声を上げると、足早に再び教員棟の方へ戻って行った。ジェイムズ先生もそれに続いた。
「沢野」という苗字の先生はうちのクラスの担任の沢野先生しかいないはずだが、私のいる場所からは教員棟へ通じる渡り廊下は死角に入るので、沢野先生の姿は視認出来なかった。
岡谷先輩は販売ブースに置かれた「販売部数」のリストを手に取って、そこに書かれた売れた部数を示す「正」の字の「T」に3本目の線を入れた。
やっと3冊目が売れたことになる。
わざわざ生徒の文集を買ってくれた先生のお名前を存じ上げないままなのは失礼な気もしたし、純粋にあの先生に興味があったので
「さっきの先生は何の教科の先生ですか?」
と私は岡谷先輩に尋ねると
「あ、そうか!1年生は知らなくて当然だね。化学の吉野先生、うちのクラスの担任の先生だよ」
と教えてくれた。
うちの学校では化学の授業は2年生からなので面識がないのも納得できた。
この吉野先生が2年C組の担任ならばクラスの演劇のために尽力した左京小紅先生の正体が岡谷先輩であることを当然ながらご存知だろう。岡谷先輩の新作を楽しみに思ってくれたのにも合点が入った。
「化学の先生ですか!『理系女子』って感じでカッコいい先生ですね」
と自分の受けた印象を伝えると
「うん。みんなから『まりちゃん先生』って呼ばれて人気があるよ」
と愛称まで教えてくれた。
私はいつだったか個人的な調査活動の中で佐倉真莉耶さんを探すために全校生徒の名簿を見る機会があり、現在の在校生の中に「まり」と含まれる名前を持つ生徒が多いことを私は知った。
先生にも「まり」さんがいたのね。
「吉野先生は、大学の理学部の修士課程を出ているんだよ。だから私は個人的に理系学部の講義や実習、大学院での研究の話なんかを聞かせてもらってる。こういう話をしてくれる人が身近にいるのはありがたいよね」
と嬉しそうに語り始めた。岡谷先輩はあの先生のことが好きなのだろう。
「まだ若い先生ですね」
と吉野先生の印象を伝えると
「うん。確か3年目だったかな。4月の化学の最初の授業で、最近の高校生の理系離れを残念に思っている、と仰っていてね。生徒たちに化学を好きになってもらおうと頑張ってるのがはっきり分かる。ああいう先生に教えてもらえる私たちは幸せだね。実際に、2年生に進級するまでは志望進路が未定だったり、何となく文系かなあ、と考えていた人の中で、吉野先生の授業を聞いて理系志望に変えた人もいるんだよ。凄いよね。あの先生の授業は面白くて分かりやすいから私も好きなんだ」
としみじみと話した。
先ほど、吉野先生はジェイムズ先生と親しげに話していたけど、沢野先生もその輪の中に加わえられそうだったから、この学校の先生たちは仲が良いのかな?
先生方にとってもこの高校が楽しい職場だったら私も嬉しい。
そうそう、沢野先生。
私のクラスにも自慢の担任で、数学の苦手な私を落ちこぼれにしないでいてくれる素晴らしい先生がいるのでそれを伝えようと
「うちの担任の先生は」
と話し始めたところで、岡谷先輩のスマホに着信があった。
マナーモードになっていたから、机の上に置かれてあったスマホがブルブルと震えた。
「あ、ごめん」
と私に一言詫びて、岡谷先輩は電話に出た。
通常の出校日なら校内で携帯電話の使用は禁止されている。
学校祭の期間中は諸々の電話連絡やDINEやメールを使った連絡のために使用は許可されている。正確には慣習法としてそれが定着している。
「うん。今は良いよ。あ、そうか、DINE使わないんだっけ。で、どうしたの?」
と小声で話している。盗み聞きをするつもりなんてないけれど、隣に座っているから耳に入るから仕方ない。
「ちょっと待ってね」
そう電話相手に伝えてから、私に向かって
「井沢さん、ちょっとだけブースを離れて、電話で話して来て良い?えーっと、上の踊り場にいるから何かあったら呼んで。すぐに戻るから」
とお願いした。そんな些細なことを断る理由もないので
「はい。どうぞ」
と答えると、岡谷先輩はスマホを持って階段を上がり、3階へ向かう途中の踊り場で通話を続けた。
きっとクラスの演劇関係で何かトラブルでもあったのだろう。
1年C組は明日上演するのだから、その前日に脚本の解釈とか小道具や舞台装置の確認とかそういう問い合わせは当然あるだろう。本人は「私の手を離れた」と言っているけれど「ケイは敬愛のケイ:Ver. 2」は紛れもなく岡谷先輩の著作なのだから仕方ない。
クラスの演劇の準備が大変な時にこうして文芸部で店番をしてくれているのだから、本当に優しく義理堅い人だと思う。
いや、待てよ。
一言断りを入れて私から離れたところで電話をしている、ということは、もしかしたら彼氏さんからの電話だったのかも知れない。
でも、それだと「あ、そうか、DINE使わないんだっけ」という言葉に辻褄が合わないかな。でも、いつもは「俺は奈津美の声が聴きたいんだ」と電話で連絡してくる彼氏さんだったらDINEを使わない人だということを忘れてしまっていてもおかしくはない。
こうも考えられないか?
現状、恋人ではない間柄の男子から「一緒に文化祭を回りませんか?」というお誘いかも知れない。
毎年のように文化祭の準備中に仲良くなって誕生するカップルは多いと聞くし、文化祭期間中に親密になって付き合い始めるカップルもあると聞く。後夜祭のバーニング・ナイトなんてそのためにうってつけのイベントではないか?
今の電話も「岡谷さん、バーニング・ナイトで僕と一緒に踊って下さい」というお誘いなのかも知れない。
私はハリイ・ケメルマンの「九マイルは遠すぎる」のようにあれこれ考えてみたが、結論が出る訳もなく、あの電話が岡谷先輩にとって悪い知らせでないことを願うのみである。
お客さんが来ないのでしばらくそんなことをひとりで考えながら静かに座っていた。
10分くらい経ったであろうか?
岡谷先輩が戻って来て
「ごめん、ごめん。久しぶりに話したから近況とか進捗状況とか色々話しちゃって。井沢さん、大丈夫だった?」
と私を労ってくれた。
「大丈夫です。お客さんは来てません」
とだけ答えた。「久しぶり」とか「近況」とか「進捗状況」とか気になるワードは出て来たけれど、人様の電話の内容について尋ねるのはマナー違反だから気にしないことにした。
しかし、私のそんな気苦労をよそに岡谷先輩は
「今の電話だけど、他のクラスの友達が文芸部の文集を買いたいって」
とあっさり自ら告白した。他のクラスの生徒だから「久しぶり」で互いの「近況」やクラスの演劇の準備の「進捗状態」について情報交換されていたんですね。
「先輩のお友達の方はうちの文集の熱心な読者なんですか?」
と私が尋ねると、岡谷先輩は首を小さく左右に振ってから
「どうだろう?その子が言うには、知り合いで熱心な読者がいて昨年の文集も面白かったよ、って勧められたんだって」
と答えた。岡谷先輩自身も完全には状況を理解出来ていないようだった。それに「その子」と言っているから恐らく相手は女子生徒だろうと予想された。
「うちの文集をそんな風に周りに勧めてくれている人もいるんですね!驚きました」
「うん、驚くよね。学校の公式通販でも文集は必ず一定数は売れているみたいだから、きっとその子の知り合いはそういう熱心なOBやOGのファンなんだろうね。詳しくは訊いてないけど」
「私が取り置きした分は全員同じクラスの人たちだから文集のファンというよりは友達の私の作品が載っているから買いますね、っていう理由だと思います。でも、個人的な知り合いでもないのに買ってくれる人がいる、というのは今までの文芸部の活動を認めてくれる人がいる、ということですよね。とても嬉しいです」
閑古鳥が鳴いている文芸部の販売ブースへ急に温かい光が差し込んだような心持ちになった。
「それで、その子は文化祭の期間中は文集を買いに来れないから、私が代わりに立て替えて購入することにしたんだよ。『本当は前もってお願いするつもりが忙しくて、確実にお願いしたかったから電話した』って焦ってた。私は、『そんなに急がなくても大丈夫だよ、ちゃんと買えるよ』って言ったんだけど、『そんなことはない。その知り合いの審美眼は確かだから信じて良い。買いそびれたくないからお願いね』って念を押されたよ。だから」
そう言いながら岡谷先輩は1冊の部誌を手に取り、お財布から取り出した500円硬貨を私たちが「金庫」と呼んでいるお菓子の缶の中に入れてお釣りとして200円を取り出した。
「井沢さん、この会計の仕方は正しいよね」
と確認されたので、私は
「はい。大丈夫です。文集の代金が300円で、500円のお支払いですからお釣りが200円になりますね」
と答えた。岡谷先輩は
「ありがとう。店番がふたりで良かった」
と言いながら200円のお釣りを自分の財布に入れた。私に証人になってもらいたかったのだろう。お金のやり取りは気を使うのだな、と改めて実感した。
そして「販売部数」のリストに4本目の線を入れた。
これでやっと4冊目が売れた。
岡谷先輩はお友達用に買った文集を手にしたまま
「ちょっとこの文集を自分のロッカーに入れたいんだけど、少しだけここを空けても良いかな?」
と尋ねて来たので、当然ながら
「はい。大丈夫です」
と答えた。
文芸部の販売ブースは学生棟の2階中央部分にある。
2階にはこの中央部分から東西両側に廊下が伸びて2年生の教室がある。
文化祭期間中、特に一般公開日には2年生は教室を空けることが多いため、盗難や悪戯を防ぐ目的で中央部から伸びる教室の廊下には板張りのバリケードが築かれている。
西側に向かう廊下はバリケードが築かれているが人がひとり通行できるだけの出入り口がある。そこには検問所が設けられており、その先にあるクラスの生徒と担任の先生、それ以外には自治委員しか通れない。学生証の提示も必要である。
検問所で警備に当たっているのは自治委員の男子生徒と女子生徒のペアである。
岡谷先輩の2年C組は2階の西側にあるので教室もロッカーもあの検問所の向こう側にある。
西側の廊下は行き止まりなのでそちらにはバリケードはない。
一方、中央部分から東側に向かう廊下は完全にバリケードで封鎖されており通行出来ない。
文芸部の販売ブースはこの東側バリケードと階段の間の壁際にある。
学生棟の2階中央部分よりも東側にあるに教室に行くには学生棟の1階もしくは3階から、もしくは、渡り廊下を使って南側にある教員棟か北側にある特殊教室棟を経由して各棟の東端を繋ぐ渡り廊下を通って学生棟2階の東端に設けられた検問所を通って入るしか方法がない。
岡谷先輩が自分のロッカーへ行くのは、販売ブースから目と鼻の先にある西側の検問所を通るだけのことだから大して時間はかからない。
「じゃあ、ちょっと行ってくる」
そう言い残して、岡谷先輩は購入した文集とスマホや財布といった貴重品を持って検問所へ向かった。パンフレットは机の上に置いて行った。
検問所でクラスと名前を告げて、学生証を提示。
自治委員の女子生徒が本人の顔と学生証の写真を確認し、男子生徒の方が通過者リストに記録を残していた。
まるで映画のワンシーンのようだった。
販売ブースにひとり取り残された私は、先ほどの岡谷先輩のお友達の話を思い返していた。
その友人が誰なのかは分からないし、岡谷先輩のプライバシーに立ち入りたくないのでそれが誰なのかを訊く気もない。むしろ、それより興味深いのはそのお知り合いの、うちの文芸部の文集のファンの方の言葉だ。
その知人は信頼できる審美眼の持ち主で、うちの部誌のクオリティーを認め、今年の文化祭では売り切れになるだろう、と予想している。
過大評価だとは思うけれど、その人がこのブースに文集を買いに来ることがあれば、心から感謝を伝えたい。
あなたのおかげでひとりの新しい読者を得ることが出来ました。ありがとうございます。
それだけは是非伝えたい。
誰だか分からない岡谷先輩のご友人のそのまた知り合いだから私の知らない人に違いない。
だから、その人が私の前に現れても私は気付かないだろう。
それでも、この気持ちは絶対に伝えなければならないから、この先このブースを訪れてくれた全ての方に対して全身全霊でお礼を述べよう。
それで良いと思う。
そんなことを考えていると岡谷先輩がまたもや検問所でチェックを受けてから戻って来た。
「教室に行くのも大変ですね」
と尋ねると、岡谷先輩は小さくため息をついてから
「まあね。でもあれくらいしないと危ないんだろうね。今まで何か事件が起こったという噂は聞かないけど、教室には生徒の私物だけじゃなくて演劇に使う衣装や小道具なんかも置いてあるから、ああして警備をしてくれてると安心だよ」
と答えた。
流石に他のクラスの演劇の邪魔をするために破壊工作をする生徒はうちの学校にはいないだろうけど、何かの拍子に紛失したら困るもんね。舞台演劇での不手際を誰かの犯行として責任転嫁させないためにもこの警備体制は良いと思う。自治委員の皆さんは大変だろうけど。
須坂くんも忙しそうだもんね。
岡谷先輩は
「あ!」
と小さく嘆息してから
「そう言えば、さっき電話して来た子も1年生に」
と言いかけたところへ
「お待たせしました。時間はまだ大丈夫でしたよね」
と聞き覚えのある凛とした声が届いた。この声は稜子ちゃんだ。
声のする階段の方を見ると中野先輩と稜子ちゃんが階段を降りて来ていた。
反射的にiPhoneで時刻を確認した。
稜子ちゃんは時間を気にしていたけれど、当然ながら遅刻などしていない。
岡谷先輩は
「もちろん大丈夫だよ。こんなにも早めに戻って来てくれてありがとう」
とお礼を伝えた。
稜子ちゃんが笑顔で会釈した。
中野先輩は
「1年D組の演劇は入場待ちの行列が出来ているはずだから早めに行って並んでもらった方が良いでしょ?筑間さんも同意見だったから早めに戻って来たよ」
とその理由を教えてくれた。やはり中野先輩はしっかりしていて頼もしいし、稜子ちゃんも真面目だ。
岡谷先輩は
「松本先輩のクラスはどうだった?」
と自分が勧めた3年E組のクラス展示の評価を中野先輩に尋ねた。
「良かったよ。ありがとう。松本先輩は『その他の医療トピック』のコーナーの担当だった。『海外で困っている人を助けることも大切ですが、私たちの住んでいる日本にも適切な医療を受けられない人がいることを知って下さい』って地域医療の重要性や無医村の問題について解説してたよ。お客さんの生徒の中にも同じ意見の人がいて、その場にいた何人かの生徒も交えて熱心に討論をしてたから、流石はうちの高校だなって筑間さんとふたりで感心してた」
と中野先輩が状況を伝えると
「ふ~ん。松本先輩らしいね」
と飄々としたままだったが、稜子ちゃんが
「とても頼もしかったです。松本先輩には是非とも医学部に合格して欲しいです」
とその勇姿を称えると
「うん、そうだよね」
と頷きながら同意した。
文集が売れたことも伝えなくては。
「あの後、文集が2冊売れました。1冊は岡谷先輩のお友達の方で、もう1冊はえ〜っと」
私が化学の先生の名前を失念したので、岡谷先輩が
「吉野先生だよ」
と補足してくれた。中野先輩は
「へえ〜、まりちゃん先生が買ってくれたんだ。良かったね」
と嬉しそうだった。そして「販売部数」のリストを確認しながら
「で、今日は今までに4冊売れたのね。ところでその奈津美の友達は買いに来てくれたの?それとも取り置き?」
と尋ねた。岡谷先輩は
「私が立て替えて買って、後で文集を渡すことになってる。だから既に1冊抜いてあってお会計済みだよ」
と答えた。
販売部数も会計も合ってるはずだから、これで仕事の引き継ぎが終わった。
少し間を置いてから岡谷先輩は
「じゃあ、律、筑間さん、後はお願いして良いかな?」
と店番の交代を願い出ると、稜子ちゃんが
「はい、承りました」
と元気良く返事をした。中野先輩も黙って頷いた。
続けて、稜子ちゃんは
「それで、景ちゃん。この後の『QUIZ ULTRA DAWN』は体育館に現地集合にしましょう。景ちゃんは時間に余裕がないですもんね。先ほど巡回中の須坂くんに会ったのでそう決めて来ました。販売ブースの後片付けは私たちと須坂くんでやりますから、舞台が終わったら直接会場へ向かって下さい。そこで合流しましょう。私たちが先に参加手続きもしておきますから慌てなくて大丈夫です」
と須坂くんと前もって相談しておいてくれた旨を伝えてくれたので
「それは助かるなあ。実は舞台の終演時間が遅れるんじゃないかと心配してたから。悪いけど、後片付けと手続きをよろしくね」
とお礼を伝えた。
「はい、任せて下さい」
と稜子ちゃんが答えて私の代わりに販売ブースの席についた。
中野先輩と何やら話している岡谷先輩に向かって
「じゃあ、岡谷先輩、行きましょうか?」
と私が声をかけると、岡谷先輩は
「うん。ちょっと待ってね」
とおもむろにお財布を取り出してた。
100円硬貨3枚を私たちが「金庫」と呼んでいるお菓子の缶に入れると、「販売部数」のリストに5本目の線を入れて「正」の字を完成させて、1冊の「文芸・東雲」を手に取った。
自分で代金の300円を払って1冊購入したのだ。そのことを中野先輩にも確認していたのだろう。
「弁護士の小海先生には私が文芸部で小説を書いていることをお伝えしているから、せっかくだし、小海さんに挨拶した時にお渡ししておこうかな?って思ってさ。小海さんってそういうことを頼んでも大丈夫な人だよね?」
「多分、問題ないと思います」
小海さんはああいう竹を割ったような性格の人だから、間違っても「そういうものはお母さんに直接渡して」とか言い出したりはしないと思う。
私と岡谷先輩は文芸部のブースを後にし、1階へと階段を下った。
階段の踊り場の掲示板に貼られた学校新聞に前にはまだ数人の生徒がいたが、流石に先ほどのような混雑ではないので私は岡谷先輩に小海さんの体育祭での大活躍を扱った記事を紹介した。
岡谷先輩はさっと目を通し、添えられた来歴を読んだ後で、唸りながら
「サッカーでも短距離走でも全国大会を経験しているとは、凄い子がうちの高校なんかに入って来たんだね。一度ゆっくりお話を聞いてみたいな」
と驚いていた。興味を持ってくれたようだ。
「はい、小海さんは気さくで話しやすい人だから、大丈夫だと思います」
いきなり全く面識のない文芸部の先輩を紹介しても小海さんなら気さくに接してくれるはずだ。
岡谷先輩は小海さんに用事があるのだから、開場前に入れてもらえるよう会場係に私から頼んでみようと思っていた。中野先輩と稜子ちゃんの機転のおかげで、開場を待つ人たちの列に早めに並ぶ予定なのだから、少しくらい融通してもらっても非難されるようなズルにはならないだろう。
さらに階段を降りて1階のフロアへ移動する。
私は先に自分のロッカーへ立ち寄り、パンフレットを収めて、自分の台本を取り出した。
1年D組の教室の前の廊下には既に次の公演を待っている6人の生徒たちが列を作っていたので、私たちもその列に並び、そこで一緒に待った。
先頭に並んでいたのは4人の女子生徒。上履きから察するに1年生だ。知り合いではないけれど見覚えのある子もいた。どこで会ったのだろうか?思い出せない。
その次が1年生の男子生徒ふたり。彼らと面識はない。
見ず知らずの生徒たちが開場の随分前からこうして並んで待っていてくれることをとても嬉しく思った。頑張って舞台の準備をして来て良かったと実感した。
時刻を確認すると14時15分だった。
13時10分から開演する予定だった第三回公演の終演時間が近いだろうと予想していたのだけれど、客席への入り口には「第三回公演は13時20分からです。終演時間は14時40分頃の予定です」と掲示がある。
「何かあったのかな?今やってる公演の開演予定時間が10分遅れてますね。まだ時間が結構ありますがどうますか?」
と岡谷先輩に状況を伝えて、意思を確認したところ
「すでに並んでいる人もいるし、ここで待っていようよ」
とこのまま待つことを選択した。
中野先輩と稜子ちゃんが早めに戻って店番を代わってくれたのだから当然だね。
私たちの前に並んでいるみなさんは期待に胸を膨らませているのかお喋りしながら待っていた。
岡谷先輩は文化祭のパンフレットの1年D組の紹介ページを開き、基本情報を再確認しているので私は黙って待っていた、
場内からはお客さんが爆笑する声が漏れ聞こえて来た。
岡谷先輩も思わず視線を教室の壁の方へ向けた。
ちょうどその時、後ろから男子の声で
「あれ?奈津美も観に来たのか?」
と声を掛けられた。
振り返ると男女ペアのふたり組がいた。ふたりともよく日焼けしていた。足元の上履きを確認すると2年生のようだ。当然ながら私はこの人たちには面識もないし見覚えもない。
女子生徒の方は私よりも背が高いスレンダーな体型で、あどけなさを残した可愛らしいお顔で微笑んでいた。
男子生徒の方は長身で肩幅も広くてたくましい。短く髪を刈った爽やかな印象の持ち主だった。
岡谷先輩のことを「奈津美」と呼び捨てしていることから親しい間柄なのだろう。
岡谷先輩は普段通り
「うん。坂木くんも久保ちゃんもこのクラスの演劇を観に来たの?」
と飄々と聞き返した。その名前には聞き覚えがあった。
恐らくこのふたりが岡谷先輩のクラスの舞台のキャストなのだろう。
すると「久保ちゃん」と呼ばれた女子の先輩が答えた。
「午前中にこの舞台を観た川岸くんから『凄いから絶対に観ておいてね!』って連絡があったの。川岸くんはこの作品が大好きだから観てみたらしいんだけど、終盤に神がかった渾身の熱演があったんだって」
それはきっと第二回公演の大町くんの完璧な長台詞のことだろうね。
舞台袖で観ていた私も感動した。
「俺にも仁志から連絡があったよ。このクラスには白川中出身の裕二とひかりがいるから観に来るつもりだったんだけど」
と坂木先輩も観に来た理由を伝えていた。名前の挙がった「ひとし」というのはきっと2年C組の演出担当の川岸先輩のことだろう。
そして、坂木先輩はおそらくうちの学校で一番人数が多い白川中学出身の生徒で、川上くんとひかりちゃんの知り合いなのだろう。
期せずして川上くんとひかりちゃんの名前が出て来たので、初対面のこの先輩が何故だかまるで自分と親しい人であるかのような錯覚を起こし、私は思わず
「白川中学出身の皆さんは、仲が良いんですね」
と口を挟んでしまった。
坂木先輩と久保先輩はふたりともぽかーんとした表情になった。「この人は誰ですか?」と言いたげだった。
その表情を読み取った岡谷先輩が
「ああ、ごめん。紹介が遅れたね。文芸部の後輩で1年D組の演出助手をしている井沢景さんです。私は井沢さんに誘われてこのクラスの舞台を観に来たんだよ」
と私をふたりに紹介してくれた。
「井沢です」
と私はお辞儀した。
すると、爛々と目を輝かせた久保先輩が
「いた~!『けい』さんをやっと見つけた~!」
と声を上げて喜ぶと、私の両肩を掴んで
「2年の女子にはいなかったのよ。ねえ、井沢さん。『けい』って漢字はどう書くんですか?男性から『けい』って呼ばれるとどんな気分になるの?家族から呼ばれた時はどう?女の子から呼ばれた時はどう?それから、え~っと、、、、」
とぐいぐい迫って来た。顔が近い!
怒涛の質問攻めだ。一体どういう状況なの?
私はただ唖然とするだけで何も言葉が出て来なかった。
「久保ちゃん、近い、近い、近い!『けい』が困ってるでしょ」
そう言いながら坂木先輩が久保先輩の両肩を掴んで私から引き剥がした。
その光景を目の当たりにしても岡谷先輩は涼しい顔のまま
「井沢さん、ごめんね。久保ちゃんに悪気はないから許してあげて。役作りのために必死なんだよ」
と久保先輩を庇っていた。
何故こんな質問が久保先輩の役作りにつながるのか私には全く理解出来なかった。
それでも坂木先輩や岡谷先輩が私のことを気遣ってくれたのは分かったので
「いえいえ、大丈夫です。ただ、なんと言いますか、圧が凄くて少し驚いただけです」
と素直な感情を伝えた。すると久保先輩は
「『けい』さん。さっきの私の行動は『けい』さんをびっくりさせてしまったのですか?そうですか。ごめんなさい」
と頭を下げた。私が慌てて
「気にしないで下さい」
と声をかけても、その言葉が届いていないのか
「人間の心って、本当に複雑ですね。他の人間には理解出来ない部分が多いし、どれだけ考えても正解が見つかりません」
と小声で語り出して少し寂しげな表情になった。
天才には天才なりに深い悩みがあるのだろう。
私のような凡人には理解出来ない領域に違いない。
それでも、この人を暗い表情のままにしていてはいけない気がしたので
「私の『けい』は景色や背景の景です。父親以外の男性から下の名前で呼ばれたことはありません。家族や女子から呼ばれると親しみを感じます」
とまずは久保先輩からの質問に答え、そこから
「久保先輩は確か、、、『The Chosen One』と呼ばれるお方なんですよね」
と若干お世辞っぽい話題に切り替えた。
久保先輩はしばらく私の顔を見つめたまま頬を赤らめた。すると、今度は坂木先輩の方を向き
「もう!坂木くんのつけたニックネームが1年生にまで広まっちゃってるじゃない」
と言いながら坂木先輩の胸をポカポカと叩き出した。
うん。この人は怒っても可愛いね。
「The Chosen One」という異名だけでなく、「久保ちゃん」という呼称もきっと坂木先輩が発したもののだろう。
坂木先輩は親しい友人や後輩をファーストネームで呼ぶのが普通みたいだけど久保先輩だけは「久保ちゃん」と呼んでいる。
「久保ちゃん」という呼び方が気に入っているんだね。
坂木先輩にとって久保先輩はきっと特別な存在なのだろう。
坂木先輩は笑顔で
「ハハハハハ。有名人だね。良かったな、久保ちゃん」
と笑い飛ばし、久保先輩の頭を撫でながら、私に向けてウィンクして
「景はよく気が利く人だな。ありがとう。流石は奈津美の後輩なだけある」
と私にお礼を言った。きっと私が久保先輩の気分を明るくしようとしたのを汲み取ってくれたのだろう。
この坂木先輩はとても細やかな心の持ち主だと分かった。
久保先輩の可愛らしい怒りがおさまったのを確認してから坂木先輩は続けた。
「俺が生み出したキャッチフレーズは他にもある。
『監禁ドラフトから生還した歴史上唯一の男、ダイ・ハード大町』とか
『小牧優の前に歌姫なく、小牧優の後に歌姫なし』とか
『歩く不敗神話、平島毅』とか、その辺りは結構根付いたよ。
まあ、3つ目の神話は昨日の体育祭でジョン・篤・マクレーンが終わらせたけどな。流石はダイ・ハード大町だ。やっぱあいつは本物だぜ。きっと中学時代から有名人だったんだろうな。周りのみんなに訊いてもほとんど情報がないんだけど」
私は大町くんの経歴を知っているので
「大町くんは伊那川中学の出身です。中学時代はうちの学校では有名人でした。ちなみに私も同じ中学の出身です」
と答えた。
すると、坂木先輩は真剣な表情で
「そうか。その中学校は凄いな。大町と景、1学年にふたりも俺が凄いと認めた生徒を輩出しているのだから」
とうちの中学に対して意外な評価を与えた。
この先輩も「伊那川中ってどこ?聞いたことないよ」などと中府市外から通っている生徒を下に見るようなことは言わない。中府市内の有名な中学校の出身者ってみんなそうなの?もしもそうだとしたら、こうした慣習は本当に素晴らしいと思う。
ただし、今の発言に拠れば、私まで「伊那川中学出身の凄い生徒」としてカウントされいるみたいなので、それは看過できなかった。「凄いのは大町くんだけですよ」と伝えようとしたが、今度は珍しく岡谷先輩が会話に割って入り
「そういえば、さっき井沢さんから聞いたんだけど、小牧先輩はバーニング・ナイトのオープニング・アクトで歌うんだってね」
と坂木先輩に尋ねた。
それを聞いた久保先輩が破顔した。
一方、坂木先輩は驚いた表情で
「奈津美は小牧先輩のファンだろ?マジで今まで知らなかったのか?でも、景から聞いてるってことは、オープニング・アクトを担当するのが小牧先輩ひとりじゃなくて、ユニットだってことはもう知ってるよな」
と確認した、
岡谷先輩はパンフレットをめくって該当するページを開いてから
「うん。ここに『U Feat. U』書いてあるね。もしかして知り合い?」
と尋ねた。すると坂木先輩は
「奈津美、俺の名前は?フルネームで」
と確認した。
「坂木悠、あっ!」
と岡谷先輩は驚いた。
私には理解出来なかった。
私のその様子を見て取った坂木先輩は私に説明をしてくれた。
「この『U Feat. U』というユニットは小牧優先輩と俺、坂木悠が組んだユニットなんだよ。あれだけ歌える人と組める機会は俺なんかにはきっとこの先2度とない。だから、意を決して一緒に組みたいと小牧先輩にお願いしたんだ」
私はようやく理解出来た。
「先輩はラップ担当の方ですか?」
と尋ねると、サムズアップして
「そうだよ。流石だな。楽曲と歌詞とライム、、、つまり、ラップの歌詞も俺が作った」
と嬉しそうに答えた。そういえば岡谷先輩が「坂木くんは趣味で音楽をしている」と言っていた。全てがここで繋がったような衝撃を受けた。
さらには、呆然としていた私に向かって、坂木先輩は笑顔で
「でさ、さっきから俺は君のことを景って呼んでいるけど、どう感じるかな?」
と尋ねた。
この人は只者ではない。
可愛い久保先輩の相手をしつつ、初対面の私と親しくなりつつ、岡谷先輩からの質問にも意外な答えを伝えて驚かせ、最終的には久保先輩が知りたがった私への質問の回答を導き出そうとしている。
とても驚いた。
私はしばし思案した。
固唾を飲んで私のことを見つめている久保先輩の顔がまたしても近い。
「そうですね。坂木先輩なら悪い気はしません」
と答えた。すると間髪入れず
「私ならどうですか?知り合って間もない同性の私が景って呼んだらどう感じますか」
と久保先輩からも訊かれたので、迷わず答えた。
「久保先輩なら大歓迎です」
それを聞いた久保先輩は
「ありがとう!」
と喜びながら私の手を強く握った。
その様子を坂木先輩と岡谷先輩が温かい眼差しで見守っていた。
私はこの久保先輩と絶対に仲良くなれると確信した。
年上の人に対してこう表現するのは適切ではないと思えたけど、まるで急に自分のことをとても慕ってくれる可愛い妹が出来たような気分だった。
私の手をギュッと握りしめた久保先輩は
「じゃあ、これからは私も景って呼ばせてもらうね。私のことは『久保ちゃん』で良いよ」
と提案した。やはり笑顔が素敵だ。
しかし、先輩のことを「ちゃん」付けでなんて呼べない。
私が困惑していると、坂木先輩が続いた。
「先輩だからって遠慮しなくて良いぞ。大人になったら1歳、2歳の違いなんて誤差みたいなものだ。俺のことも悠って呼んでくれ。よろしくな」
私は返答に困った。
ちょうどその時、教室内から破れんばかりの拍手が聞こえた。
お客さんたちの歓声も聞こえる。今回も好評だったようだ。
しばらくして拍手と歓声が収まると、続けて「アンコール」の大合唱が始まった。盛り上がってるね。
続けて、「上田、上田、上田、上田」という上田くんコールが起こった後、またもや拍手と歓声が鳴り響いた。
その大歓声に驚いたようで岡谷先輩は
「ものすごく盛り上がってるね」
と嬉しそうだ。
「はい。毎回こんな感じですよ」
と私が伝えると
「噂に違わないね」
と頷いた。
岡谷先輩をお連れして良かった。
坂木先輩も
「この歓声は凄いな。こと演劇に関しては厳しいあの仁志が激推しする訳だ」
と嬉しそうに声を上げた。久保先輩も
「良い刺激になりそうだね」
と素敵な笑顔で言った。気持ちが昂っているようだった。
このふたりの表情を見ていて私まで高揚した。
そのまま大きな拍手が止まないうちに終演を告げるアナウンスが入ったのが漏れ聞こえてきた。
出入り口が開けられると、笑顔の生徒たちが次々に廊下へ出て来た。今回も成功だったようだ。私がいなくても公演は大成功だったみたいなのでホッとした。
久保先輩と坂木先輩はパンフレットを見ながら
「坂木くんがいつも噂しているこの大町くんって子が凄い演技を見せたんじゃない?」
「いや、仁志は『久保まゆみ伝説の再来だ!しかも4人も同時にだ!』って大絶賛してたからこの4人のキャスト全員が凄い可能性もあるぜ」
などと話していた。
岡谷先輩と同様にこのお二方にもまっさらな状態で観劇して欲しいので私は黙っていた。
お客さんたちが全て退室したようで、クラスメイトのひとりが出て来て第四回公演の開場時間が書かれた紙を入り口に貼った。
その会場係の生徒に
「忙しいところ、ごめんね。文芸部の先輩が小海さんに用事があって先に中に入れて貰いたいんだけどダメかな?」
と私は手を合わせてお願いした。
「今、川上くんとキャストがミーティングしてるからちょっと待っててもらって良い?」
とのことだったので
「うん、分かった」
と礼を言い
「岡谷先輩、今は打ち合わせ中みたいだから、もう少しだけ待ってて下さいね。ところで、小海さんのお母さんの法律事務所の名前って何でしたっけ?」
と尋ねると
「木槿の花法律事務所だよ」
と即答された。やはり1回聞いただけでは覚えられない名前だ。
私は耳から入った花の名前を
「むくげのはな、むくげのはな」
と復唱して頭に入れた。
岡谷先輩は頷いて「それで合ってるよ」という意思を私に伝えると、静かに待ってくれていた。
しばらくすると、上田くんが廊下に飛び出して来て、足早にどこかへ消えた。
まだ中に入っちゃダメかな?と待っていると、教室内から川上くんと小海さんが言い争いをしているような声が聞こえて来た。
何かトラブルでもあったのかな?
中の様子がますます気になったが、会場係は一向に呼びにこない。
口論が終わって、どれほど時間が経っただろうか?
先ほどの会場係の生徒が出入り口から顔を出して
「そろそろ良いかと思うけど」
と声をかけてくれたが、その子を押し除けるように小海さんが現れた。
ちょうど良かった、と思って、私は
「小海さん、ちょっと良い?」
と声をかけたけど、私の声が聞こえていなかったのか意に介さない様子で足早に去って行く。
なんだかいつもと印象が違っていた気がするが、気のせいだろうか?
小海さんのそんな様子を見た岡谷先輩が
「今の子が小海さん?」
と尋ねたので
「はい、そうです。なんか忙しそうだったから、後で改めて紹介しますね」
とフォローを入れたけど
「見た感じ、なんだか余裕がなさそうだったから無理しなくても良いよ。今は無理そうだったら、後で井沢さんから用件を伝えて文集を渡してもらえば十分だから」
と岡谷先輩は察してくれていた。
「はい。小海さんが戻って来たら様子を見て、無理そうだったらそうします。先輩、わざわざ来ていただいたのにすみません」
「文化祭の本番だからね。仕方ないよ」
いつものことながら飄々としている。
岡谷先輩が会いにきた小海さんはどこかへいなくなってしまったけど、会場係の許可を得たので、教室内で小海さんが戻って来るのを待つことにした。
廊下で並んで待っている他の生徒の皆さんたちに事情を説明すると、久保先輩と坂木先輩も含めて一緒に並んでいた皆さんは揃って「どうぞ」と快く送り出してくれた。さほど親しくない生徒に対してもみんながこんな風に優しいところもこの学校の素晴らしい点だと思う。
教室内ではそれぞれの生徒が自分のすべき仕事をやっているので、みんなの邪魔にならないように、教室の廊下側の壁際に並んで立ち、その様子を観察する。
舞台の上では大道具係や小道具係が修繕作業をしているようだ。
あれだけ動き回る演劇なので、舞台装置には毎回のようにどこかしこ傷むところが出るから公演の合間にその都度直している。担当の生徒は大変だ。
音響担当の遠見有希さんは音響プランのリストを見ながら、音量の調子をしている。
衣装係の羽村さんの姿は見当たらない。
舞台写真担当の高岡泉さんは所定の席に腰掛けたままカメラのチェックをしている。顔色も良く疲れた様子はないので良かった。
舞台監督の川上くんは教室の後ろの方の窓際の席で台本を読みながら思案中だ。
おそらくは演出プランの改善に向けて頭をフル回転させているのだろう。
キャスト陣の大町くんとひかりちゃんは当然ながら休憩していた。
ひかりちゃんは流石に3回の公演をこなした後なので疲れたのだろう。クラスメイトに団扇で風を送ってもらいながらお茶を飲んで休憩していた。表情は明るいからまだ頑張れると思う。
この後、クイズ研究部の部員としてQUIZ ULTRA DAWNにも参加しないといけないから今日は忙しいね。
大町くんは練習が厳しいことで知られるバスケ部員だからまだ体力が有り余っているのか、文庫本を読みながら水分補給をしている。
あんなに大変な長台詞を覚えているのに休憩時間に本なんか読んだら頭の中がいっぱいにならないのかな?
そうした教室内の様子を眺めながら、岡谷先輩は
「それぞれが自分の判断で役割を果たしているね。良いクラスだと思うよ」
と小声で言った。
私は自分が褒めてもらえたようで嬉しい。
しばらくするとどこからか上田くんが帰って来た。
珍しく深刻そうな表情をしているけど大丈夫かな?
すぐに川上くんに呼ばれて、川上くんのいる教室の後ろの隅で何やら内緒話を始めた。
早速、演出プランの変更を伝えているのだろうか?
小海さんはなかなか戻って来ない。
私と岡谷先輩の今の状況は、言わば「小海さんを待ちながら」といったところであろうか。
でも、サミュエル・ベケットのあのお芝居では結局のところ、待ち人は現れなかったんだったっけ?小海さんはちゃんと帰って来るはずだから、その結末はないだろうけどね。
私と岡谷先輩が手持ち無沙汰なままでいると担任の沢野先生がハンディカメラを手に教室内へ入って来られ
「お疲れ様です。どうやら大盛況のようですね。次の公演を私も観せてもらってもいいですか?」
と誰にともなく問いかけた。
クラスの全員が川上くんの方を見る。
現場の責任者である川上くんは
「もちろん、大歓迎です」
と答えた。それを聞いてにっこり微笑んだ沢野先生が
「折角だから舞台を録画したいのですが、構わないですか?」
とカメラを掲げつつ質問されたので
「ありがとうございます。もちろん大丈夫です」
と即答する。教室内にいた生徒がみんな同意して頷く。拍手する者もいた。
川上くんが
「先生、もしよろしければ、後で映像を見せてもらえますか?キャストのみんなに、自分たちの芝居をチェックしてもらいたいんです」
とお願いすると
「始めからそのつもりですよ」
と沢野先生は優しい笑顔のまま答えた。
この先生のこういうところがとても頼もしい。
川上くんは上田くんとの会話に戻り、沢野先生は舞台を撮影する場所として元より予定してあったのか下手側の窓際の真ん中よりやや後ろに位置取った。
会場係の生徒が椅子を運んで来て勧めたが
「僕は記録係のカメラマンだから立っていますよ」
と固辞した。
その一連のやり取りを見ていた岡谷先輩が小声で
「このクラスの担任は数学の沢野先生なんだね」
と尋ねてきたので、私は
「はい。生徒思いの優しい先生です」
と答えた。今までの学校生活でお世話になった先生たちの中で一番素晴らしい方だと私は思っている。
先ほど岡谷先輩に伝えそびれた私の自慢の担任の先生を紹介することが出来て良かった。
岡谷先輩は沢野先生の方を見ながら言った。
「今年の春に玲成高校から異動して来た先生なんだってね。2年生の間でも数学の授業がすごく分かりやすいっていう評判だよ。来年は沢野先生の担当クラスに当たると良いなあ」
沢野先生の授業を好きなのは私だけじゃなかった。
岡谷先輩のような数学の得意な人も、私のような数学が苦手な生徒と同様に分かりやすい授業を求めている、ということにもいささか驚いた。
そんなコソコソ話をしていると、先ほど入り口にいた会場係の生徒が
「川上くん、新聞部が取材に来てるけど入ってもらって良い?」
と確認する声がする。
川上くんは二つ返事で
「良いよ、入ってもらって」
と答える。
上田くんとの話は終わったようで、上田くんも教室内に用意されて あったスポーツドリンクを手に取って飲みながら台本をチェックし始めた。
主演の上田くんは台詞もアクションも多いから、何度でも確認が必要なのだろう。
一方、出入り口からは
「じゃあ、どうぞ」
と会場係に案内されて「新聞部」という腕章をつけた女子生徒がふたり教室内に入って来た。
上履きの色から2年生と分かる女子生徒がひとり、同じく1年生と分かる女子生徒がひとり、というふたり組だった。
2年生の部員には見覚えがある。
昨日の体育祭で高岡さんから紹介された大滝先輩だ。
高岡さんは病気のため1年遅れて高校に進学しているのだが、大滝先輩とは実は中学時代の同級生だったそうだ。
文化祭のパンフレットでは肩書きが副部長・副編集長だと記載があったけど、事実上は部長で編集長だと思う。3年生が引退した後の新体制の新聞部では1番の重鎮であろう。
その大滝先輩が自ら取材に来てくれているとは光栄である。
もうひとりの1年生の新聞部員は、細身の女子生徒だった。背は私より少し高い。ふわっとしたくせ毛のショートカットの遠目からも目立つ色白の美人だ。
教室内を見渡し、私の姿を見つけると、なぜか歩み寄ってきた。
初対面の美形の女の子の接近にドギマギしていると、そばに来てくれた高岡さんから
「同じ新聞部の生坂さんです」
と紹介された。
近くで見ると、ますますその穏やかな美しさとそばにいる人を包み込むような優しさを実感する。
新聞部にはこんな美人記者さんがいるのね。
私と同様にくせ毛なのにこんなに可愛らしく髪を整えていて羨ましい。
紹介された生坂さんは柔和な笑顔で
「初めまして、新聞部の生坂です。演出助手の井沢さんですね。今回は文化祭初日に一番注目を集めている1年D組を取材に来ました。泉さんから常々お噂は伺っています。まずは舞台監督と主演のおふたりの取材をしますが、もしよろしければ井沢さんにもお話を伺いたいと思いますがよろしいですか?」
と快活に挨拶した。
同級生でありながら年上の高岡さんのことを「泉さん」と呼んでいること、私に対する言葉遣い、何より人の懐に飛び込む素敵な笑顔に惹き付けられた。ルックスが優れているというだけじゃなくて性格の良さが伝わって来て好感が持てる。絵に描いたような「みんなの憧れの女性」だね。これは男女問わず感じる印象だろう。
何故この人が私なんかに興味を持ったのかは分からなかったけれど、その要望を断る理由が見付からなかったので、
「はい。私なんかの話で良ければどうぞ」
と答えると、生坂さんから
「開演まであまり時間がないので、終演後にお話を伺うことになるかも知れません。これにDINEのIDと新聞部員用のメールアドレスが書かれています。もしよろしれば連絡先の交換をしていただけますか?」
と名刺を渡された。
その名刺には
【暁月高校新聞部】
生坂万智/Machi Ikusaka
DINE ID:**********
E-mail : machi-ikusaka@*********.**,jp
と書かれてある。
生まれて初めて名刺を受け取ったが
「私は名刺を持ってないのですが」
と伝えると、生坂さんは小さく頷いてから
「当然、そうですよね。学内広しと言えども、名刺なんて持ってる生徒は新聞部員くらいですから。それでは、連絡先をここに書いて下さると嬉しいです」
と自分の手帳とペンを差し出した。
アナログ、というか昔気質で驚いた。
ノートパソコンやタブレット端末に入力とかじゃないのね。
手帳の開かれたページには手書きで
「井沢景さん 1年D組の演出助手(舞台の要!)」
と書かれている。
えっ?「舞台の要」って何よ!
しかも、そこに二重に下線が引いてある。
私は驚いたので
「あの、この『舞台の要』っていうメモ書きはどういう意味ですか?私はただの雑用係ですよ」
と思わず恐縮したが、生坂さんはにっこり微笑んでから
「いえいえ。とんでもない。私は何度か1年D組の稽古を拝見しました。井沢さんがいつも裏方としてキャストの皆さんを支えているからあれだけの厳しい稽古をこなせたのだと私は考えています。是非とも取材させて下さい」
と自分の考えをはっきり伝えてくれた。
自分への意外な過大評価に驚いた。
連絡先の交換のために私はiPhoneの画面を見ながらほとんど使っていないDINEのIDを記入し、少し迷ってから自分のメールアドレスを記入した。
プライベートのメールアドレスを安易に伝えて大丈夫だろうかと一瞬躊躇した。この人は高岡さんの友達だし、実際に話してみて信用できそうな人だということがひしひしと伝わっていた。取材対象に対して迷惑をかけるようなことは断じてしないだろう、と私の本能が告げたので正直に伝えた。
私が手帳を返すと
「ありがとうございます。まずは舞台監督と主演の方の取材をして来ますので、また後で。それから、そのTシャツは井沢さんの人となりをよく表していて良いですね」
と言い残して、高岡さんと一緒にすでに舞台上にいる大滝先輩と合流した。
ふと我に帰った。
午前中に舞台袖でプロンプターをしていた私は自分がクラスの衣装係の羽村さんが用意してくれた肩から袖にかけての部分が黒くその他が全体的に白いラグランTシャツを着ていた。キャストではない私のためにせっかく用意してくれたのだから、文化祭の本番ではちゃんと着るのが当然だと判断したからだ。
文芸部の販売ブースに行く前にはちゃんと着替えようと思っていたのだが、すっかり忘れてしまっていた。
そのことに気付かず、先輩方や稜子ちゃんや須坂くんも私の服装について全く言及しなかったので私は前面に「万年補欠」「代役」と書かれたTシャツを着たまま店番をしていたのだ。
もしかしたら、販売ブースの近くの検問所にいた自治委員たちが私のことを気にしていたのは私が泣いていたからではなく、面白いTシャツを着ていたからなのかも知れない。
初対面の久保先輩と坂木先輩とお話していた時にもこの服装だったのか!あのおふたりは人のファッションをとやかく言わなさそうだもんね。
穴があったら入りたい。
確か生坂さんはよく川上くんや上田くんの話に出てくる「有名な可愛い女子生徒たち」のひとりだったと微かな記憶がある。ふたりの会話にはいつもたくさんの女の子の名前が登場するからその全てを覚えることはとても出来ないけれど、「生坂」という苗字は何度か耳にした。何よりあの人ならば話題に上がって然るべきだと思う。
その噂に聞きし生坂さんと実際に話してみると、ひかりちゃんのように人当たりが優しくてとても感じの良い人だったで驚いた。私の着ているTシャツについても優しい言葉で褒めてくれる気遣いが感じられた。
そんな素敵な人が何故だか私なんかに注目してたけど、ご期待に添えられるかどうかは分からないからごめんね。
こっそり心の中で謝った。
舞台上では舞台監督の川上くんと主演の上田くんへのインタビューが始まっていた。
ノートを手にした大滝先輩が前もって用意してあったと思われる質問を投げかけ、その質疑応答を生坂さんが手にしたボイスレコーダーで録音していた。時々、生坂さんも質問をしているようで、テキパキとインタビューが進んでいるみたいだ。
やがて、取材用のノートを閉じてからも大滝先輩はおそらくその場で追加された質問をしていた。
川上くんも上田くんも真剣な表情で答え、その様子を高岡さんがカメラに収めていた。
そんな取材の様子を眺めながら、岡谷先輩はボソッと
「私と違って井沢さんは新聞で大きく紹介されることになりそうだね」
と呟いた。
おそらく文芸部のブースにいた時に「先輩はもう演劇関係のメディアから取材を受けているんですか?」と尋ねたことへの意匠返しであろう。
私は先輩をからかった訳ではなく、真面目に「ケイは敬愛のケイ」の戯曲の改稿を成し遂げた岡谷先輩の偉業を称えただけなのだ。
当然ながらその意図は伝わっていたはずなので、先輩のこの言葉には悪意はあるまい。先輩なりのウィットに富んだジョークに違いない。
「いやいや、私はおまけの雑用係ですから」
と私は否定したけど、岡谷先輩は
「いくら周りからは目立たなかろうが影の努力を人に見せないようにしていようが、見てる人はちゃんと見てくれているんだよ」
と反論した。
先ほどのコメントはジョークではなく本気だったのだ。
続けて
「さっきの子の名前は生坂さんだっけ?良い記者になれそうだね。後で律に伝えておこう」
と生坂さんのことを高く評価した。岡谷先輩がそう評価するならやはり生坂さんは優れた人なのだろう。ジャーナリスト志望だと公言しており、あれだけの論説を書いている中野先輩に紹介すると言っているくらいだから。
そんな話をしていると、お目当てだった小海さんがようやく教室に戻って来た。
その姿を見るとやはり普段と印象が違う。
小海さんって、こんな雰囲気だったっけ?
小海さんは何故か真剣な表情で考え事をしているようだけど、不機嫌だとか何か忙しそうにしているとかではないので
「小海さん、ちょっと良いかな?」
と声をかけてみた。
今度も反応が良くなかったら、今はこれ以上は声をかけるのは止めよう。
本番前のキャストなのだ、無理強いしてはいけない。
私に気付いた小海さんがすぐに笑顔になった。
いつもの小海さんの笑顔だ。話しかけても大丈夫だったみたいなので良かった。
「良いよ。何?」
私はホッとしつつ、用件を告げた。
「木槿の花法律事務所、って小海さんのお母さんが働いている弁護士事務所なの?」
小海さんは驚いて
「え?何で知ってるの?井沢さんに話したっけ?」
と逆に尋ねて来た。私が
「ううん、小海さんからは聞いてないよ」
と答えると小海さんは今度は一転して怪訝そうな顔をしたので、間髪入れずに
「実は、私の部活の先輩がお母さんにお世話になってて、是非とも小海さんに挨拶したい、って来てくれてるの」
と自分の用件を伝えた。私の隣にいる岡谷先輩はちょうどそのタイミングで黙ってお辞儀をした。
小海さんも慌ててお辞儀をしてから
「初めまして、私が小海です。井沢さんの先輩なのですね」
と挨拶をする。
「私は文芸部の2年の岡谷です。実は小海さんのお母さんにお世話になっていますので、挨拶に伺いました」
「母と知り合いなんですね」
「はい。夏休みに事務所を訪れて、自分の書いた作品の権利関係の契約についての依頼をしたんですが、その際にお嬢さんが暁月高校の1年に在籍していると教えていただいたんです。それで部活の後輩の井沢さんに小海さんのことを尋ねたら同じクラスということでしたので紹介していただきました」
「せっかく来ていただいたのにすみません。私は母からは何も聞いてないんです」
「弁護士さんには守秘義務がありますから当然ですよね。もし宜しければ、この文集を小海先生にお渡しいただけますか?私の作品も載っています。先生には既に私のペンネームをお伝えしてあるのでそのままお渡しいただければ結構です」
岡谷先輩は茜色の「文芸・東雲」を小海さんに差し出した。
大きく頷いてから小海さんは
「はい。分かりました。確かにお受けします。母にも岡谷さんが挨拶に来てくれたことを伝えておきます」
と言って文集を受け取った。
「よろしくお伝え下さい。それから、私は次の公演を観ます。頑張って下さい」
そう岡谷先輩から励まされた小海さんは
「はい、ありがとうございます」
といつもの笑顔で応えた。
小海さんはもう一度お辞儀をしてから教室から足早に出て行った。
おそらく受け取った文集をロッカーに収めるためなのだろう。
その後ろ姿を眺めながら岡谷先輩は
「小海さんってお母さん似だね」
とボソッと小声で言った。
「そうなんですか?小海さんに似たかっこいい女性弁護士さんかあ、なんだか想像できるなあ。私も小海さんのお母さんに会ってみたいです」
小海さんはお母さん似なのね。それならば、お母さんは間違いなくさぞやかっこいい女性弁護士さんなのだろう。容易に想像がついた。
「私は正確には『綺麗でかっこいい女性弁護士さん』って言ったんだよ。一般公開の日にいらっしゃるかもね」
と岡谷先輩は珍しく、細かい表現の違いを指摘した。
そんなことを話していると新聞部の取材を終えた川上くんが戻って来た。
このクラスの演劇の責任者である川上くんに
「こちらは2年C組の演劇の『ケイは敬愛のケイ』のプロップデザインを担当した文芸部の岡谷先輩です。うちのクラスの演劇を観に来てくれました。小海さんに用事があって先に入れてもらったんだけど、せっかくだしこのまま席についてもらっても良いかな?」
と岡谷先輩を紹介し、開演まで会場内で待たせてもらえないかとお願いした。
本当は「脚本の再構成を担当した方です」と大々的に紹介したかったけれど、左京小紅というペンネームでクレジットされているから名前は出せない。少し口惜しかった。
川上くんは少し驚いた表情で答えた。
「あの伝説の『ケイは敬愛のケイ』を上演されるんですね。観たくても大阪の劇場でしか観られないから、文化祭で観るのを楽しみにしています。うちのクラスの舞台を観に来ていただけるとは光栄です。もちろん、席についてもらって良いですよ」
川上くんも「ケイは敬愛のケイ」のことを知っている。流石だね。
「会場係、誰かお願いできる?」
と川上くんは教室内にいた別の会場係の生徒に声をかけると
「お客さんの席に貼る紙を準備してもらえるかな?」
と頼んでくれた。
私は1枚の紙とセロハンテープを受け取った。
その紙には「来賓席」と書かれてある。
「お好きな席にこの紙を貼って座って下さい。取材に来てくれた新聞部のおふたりにもそうして席を確保して貰っているから大丈夫です」
そう岡谷先輩に伝えると、その紙を私に渡した。
改めて教室内を見渡すと確かに4列目の上手側の端の2つの椅子の背中には「取材者席」と貼ってあり、新聞部のふたりのための席が用意されてあった。
こういう貼り紙をいつの間に準備していたのだろう?
きっと会場係のみんなのアイデアだろう。本当にありがたい。
新聞部の大滝先輩と生坂さんは引き続き、舞台上で助演のひかりちゃん、小海さん、そして大町くんにインタビューをしている。
気のせいか、遠目にも生坂さんの表情が先ほどよりも生き生きしているように見える。なんでかな?きっと顔の広いひかりちゃんの知り合いか小海さんのファンか、まあ、そんなところだろう。
さて、私が今決めるべきことは、岡谷先輩の席をどこにするか?である。
「せっかくなので最前列で観たい!」などと言い出すようなタイプではないだろうから、どうしようか?
散々思案した挙句
「じゃあ、高岡さんの隣の席とかどうですか?」
と提案した。
高岡さんは下手側の端の真ん中あたりの席に第一回公演からずっと座っているのだが、その椅子には「関係者席」という紙が貼られてある。体に負担がかからないように座席を確保しておかないといけないからだ。
引っ込み思案の高岡さんだけど、物静かな岡谷先輩ならば隣に座っても困らないだろう、と思う。
「高岡さん、ちょっと良い?」
と声をかけつつ彼女の元へ向かう。
インタビューを受ける演者たちの写真を撮り終えたようで、高岡さんは舞台から降りていてこちらを向き既にお辞儀をして待っている。話を聞いていたのだろう。
ふたりで高岡さんのそばまで行き、私は岡谷先輩を紹介した。
「文芸部の岡谷先輩です。2年C組の舞台『ケイは敬愛のケイ』のプロップデザインを担当されています。うちの舞台に興味を持って観に来てくれたんだけど、高岡さんの隣の席に座ってもらっても良いかな?」
「あの舞台を上演されるクラスの方ですか!もちろん構いません。ただ、次の公演は新聞部の部員として上演中に写真を撮らせてもらうことになりますから、いつもよりシャッター音が多くなりますが、それでも構いませんか?」
と高岡さんは自分の隣に座ることのデメリットを真っ先に伝えた。
岡谷先輩はいつも通りの飄々とした口調で
「別に構いません」
と即答した。
岡谷先輩は部室で数学の問題集を解いていて、イヤホンで激しい音楽を聴きながらだったとはいえ、アルバムの再生が終わるまで私が部室に来ていたことに全く気付かなかったほどの集中力の持ち主だから観劇中に隣で生じるシャッター音なんて気にならない、という自信があるのだと思う。
もちろん「写真撮影のせいでうるさいのは嫌です。別の席にして下さい」などと言ったら間違いなく私や高岡さんを傷付けてしまうから、そういう気遣いもあってキッパリ言い切ってくれたのもあると思う。
本当に優しい。
高岡さんは岡谷先輩のその言葉を聞いてホッとした表情になった。
「それでは、よろしくお願いします。『劇団:The Arrow Swamp Company』の舞台は以前から是非観てみたかったんです。今回の2年C組の舞台は楽しみにしています。一般公開の日には観に行けないかも知れませんから、ファイナル・ステージに残ることを願ってます」
高岡さんもやはりあの劇団をやっぱり知っていた。
流石はうちのクラスの演目に選ばれた「Round Bound Wound」という作品を推挙してくれた人なだけある。
「ファイナル・ステージに選ばれるように最善を尽くします。自信作だから楽しみにしていて下さい」
と岡谷先輩はまたしても断言する。かっこいいなあ。
私は高岡さんの隣の椅子の背に『来賓席』の紙を貼って、岡谷先輩に座ってもらった。ふたりは早速話し始めた。
「ケイは敬愛のケイ」について高岡さんがあれこれと尋ねているようだ。
引っ込み思案な高岡さんは初対面でも岡谷先輩とならお話をすることが出来るようだ。高岡さんは話題も豊富だから岡谷先輩も話して楽しいと思う。
岡谷先輩に高岡さんの隣の席に座ってもらって良かった。
ふたりが仲良さそうなのを確認出来たので
「それではどうかお芝居を楽しんで下さい。高岡さん、よろしくお願いします」
と声をかけてその場から離れてホッと一息ついた。
舞台の様子を見るともう全てのインタビューが終わったようで、川上くんが大道具と小道具の修復具合をチェックしていた。私と目が合うと
「井沢さん、文芸部の方には行かなくて良いの?」
と尋ねて来たので
「うん。友達が当番を代わってくれたの。次の公演はプロンプターを出来るよ」
と答えた。すると
「じゃあ、ちょっとこっちに来てよ。第三回公演での変更点を申し送るね」
と呼ばれて、私は舞台に上がった。
早速、第三回公演の状況と細かい演出上の変更点を教えてもらった。
第二回公演と同様に危うかった第三回公演をそんな咄嗟の起点で乗り切ったことにまずは驚いた。もしもプロンプターとして上手側の舞台袖にいたのが川上くんじゃなくて私だったとしたらきっと大惨事になっていたに違いない。想像するだけで恐ろしかった。
台本にシャープペンで書き込みをしながら川上くんの指示を受けていると開場時間となったようだ。
廊下へ向けて会場係の生徒がアナウンスをした。
「1年D組のクラス演劇『Round Bound Wound』、本日の第四回公演の開場をします。本日の最終公演となります。
おひとりずつ、ゆっくりとご入場下さい。
ご協力よろしくお願いします」
開場したということは、あと10分ほどで開演するのね。
まだ脚本の途中までしか確認が済んでいないから私はかなり焦ったけれど、川上くんは落ち着いてひとつずつ丁寧に伝達を続けた。
楽しそうにお喋りしながら次々に入場してくるお客さんたちの声や足音が聞こえて来た。
そちらを見遣ると、先ほど先頭に並んでいた1年生の女子生徒の4人組が最初に入って来ていた。
そして、当然のように仲良く最前列の中央に座った。
そのグループの中に一際見栄えの良い長身の女子生徒がいて、その顔、特に特徴のある綺麗な目をもう一度見て、ようやく私は思い出した。
この子たちは第一回公演を最前列で観てくれていたお客さんだった。
今日だけで2回も観に来てくれたなんて!うちのクラスのお芝居をそこまで気に入ってもらえたならとても嬉しい。
ただ、4人の中にひとりだけ雰囲気の違う小柄な子がいるのに違和感を覚えた。
私だって飯山先輩と中野先輩と稜子ちゃんと連れ立って行動することがあるから、グループの構成メンバーが均一ではないことなんて別に珍しいことでもないんだろうね。
そんなことを考えていると、その小柄な子が自分の席を確保してから高岡さんのもとへ向かい、何かを話している。あの腰の辺りまで達した長い黒髪を可愛らしいバレッタで纏めた後ろ姿にはなぜか見覚えがある。
彼女は私の知り合いではないのに。はて、どこで会ったのだろうか?
誰なのか名前さえ知らない人だけれど、とりあえず高岡さんのお友達なのだろうということだけは分かった。
坂木先輩と久保先輩は仲良く並んで下手側の最前列に座った。
うちのクラスの舞台は開演前でも幕が引かれていないので、客席から舞台の様子が丸見えだ。
久保先輩は興味深げに舞台装置を観察している。坂木先輩と言葉を交わしながらじっくり吟味しているようだ。
私はそんな風によそ見をしていたので
「井沢さん、ちゃんと聞いてる?」
と川上くんから注意された。真剣にアドバイスをしてくれているのだから叱られて当然である。
「あ、ごめん。集中するね」
私が台本に意識を戻すと、今度は逆に川上くんが
「あそこにいるのは水泳部の悠さんと久保先輩だね。『The Chosen One』がうちの舞台を観に来てくれるとは光栄だな」
と客席を注視してしまっていた。
坂木先輩がつけた「The Chosen One」という呼称は私が今まで知らなかっただけで意外と浸透しているのね。私が久保先輩と知り合ったのはつい先ほどだからその呼び名を知らなくても仕方ないかな?
川上くんはすぐに我に帰って
「ダメだな。俺もしっかりしなきゃ。それで、次は倉田が採用決定を知らされるシーンなんだけど」
と次のシーンの変更点へと移った
「うん」
倉田、というのは小海さんが演じる、探偵助手候補のひとりである。
その後の言葉が聞こえて来なかった。
客席からの話し声や雑音もちゃんと聞こえるから私の耳が急に聞こえなくなったわけではないようだ。
台本から目を離して川上くんの方を見ると、一点を凝視して固まっていた。
川上くんの視線の先を私も目で追う。
やはり、そこに”その人”はいた。
文芸部の飯山先輩が会場の出入り口に立っていた。
飯山先輩は岡谷先輩の姿を見つけると静かに会場の中を進み、その隣に座った。
その一挙手一投足を私と川上くんが一緒に見つめていた。
飯山先輩は「うちのクラスの舞台を観に来て欲しい」という私の願いに応えてくれたのだろう。
明日と明後日は2年生の先輩たちがクラスの演劇のために忙しいから3年生の飯山先輩と松本先輩が率先して文集の販売ブースの店番に入ってくれることになっている。
だから、自由時間を比較的取りやすい今日、1年D組の教室を訪れてくれたのだろう。
私と目が合うとその涼し気な目元に笑みがこぼれる。
視線を川上くんに戻すと、川上くんも同じく我に帰ったようで
「あ、ごめん。俺の方こそ集中しないとな。で、採用されることを聞いた倉田が、、、」
と演出プランの変更について伝達を再開する。
目に力が漲っているのがはっきり分かる。
川上くんにとっての「勝利の女神」が微笑んだのだから、発する言葉からは如実に自信が溢れ、今までよりも確かな説得力を伴った指示が私へ伝えられた。
私の心にも熱いものが激って来た。
会場係から
「川上くん、もうすぐ開演時間だけど」
と声がかかっても、川上くんはそちらを全く見もせずに
「もう少しだけ待ってくれ」
と返事をして、自分の持てる全てのアイデアを私へ伝え続けた。
川上くんがこの舞台にかける意気込みが私にはわかっていたので、一言たりとも聞き漏らすまい、と私も全力でそれに応えたい。
「それで、最後に、江神の長台詞のシーンだけど」
と終盤の最大の見せ場の演出についての申し送りが始まった。
江神は探偵助手候補のもうひとりの人物である。演じている大町くんが一番苦労している難しい場面で、圧巻だった第二回公演を除けばまだ完成と呼ぶには程遠い。
そのタイミングで客席から
「大町~!頑張れよ」
と男子生徒の大きな声援が聞こえて来た。
教室の後ろの壁際に立っていた背の高い4人組だった。足元は見えないから学年は分からないけど、きっとバスケ部の部員たちなのだろう。
大きなビニール袋をひとりの生徒が掲げて
「差し入れを持ってきたぞ」
と言っていたので、大町くんが下手側の舞台袖から出て来て川上くんにアイコンタクトで許可を取ると、客席を通って教室の後方の壁の前に立ち並んでいるその4人組の男子生徒たちの方へ向かった。
しばらく話した後、そのビニール袋を受け取ってお辞儀をしていた。
「井沢さん」
と川上くんに諭されて、私は台本と川上くんの言葉に意識を戻した。
どうも私は集中力が続かないようで、ついつい客席の方に気を取られてしまう。伝説の久保先輩や憧れの飯山先輩の姿に目を奪われた川上くんとは全く事情が異なるから言い訳は出来ない。
文字通り今回の公演に全てを賭けている川上くんの強い意志を受け止めるだけの資質が私にはないのかも知れない。
悔しくて下唇を噛んだ。
「続けるよ」
との言葉に私は黙って頷いた。
川上くんの指示が次々に伝えられた。
頭の中がいっぱいで、川上くんから託された想いが今にも溢れ出しそうだけど、もう少しだから頑張れ!
そう自分を鼓舞した。
そうして、全ての演出上の変更点を私に伝え終えた川上くんから
「何か分からないこととかある?」
と訊かれた。
立ち位置の変更について一点だけ質問した。自分で舞台に上がって
「次の公演からは、最後のシーンで倉田はこの位置に立つことになるんだよね?」
と実際にその場所に立って確認した。
うちのクラスではプロンプターは台詞だけでなく、キャストの立ち位置や所作についてもサポートすることになっているからだ。
舞台上の倉田の立ち位置で客席の方を向くと、下手側の後方に大町くんの大きな背中が見えた。
バスケ部員と思しき人たちからの差し入れを受け取ったらすぐに戻ってくるかと思ったんだけど、まだ客席にいるみたいだった。
誰かと話しているみたいだけど、大町くんの背中が大きくて席についている話し相手が誰なのかは視認できない。
「それで合ってるよ」
という川上くんの声で我に帰る。
「ありがとう」
そう答えてから、私はもう一度パラパラと台本をめくりながら変更点を確認する。
もう大丈夫。行けると思う。
その私の表情を読んで
「じゃあ、開演するよ」
と声をかけて舞台から降り、川上くんは午前中と同じく下手側の後方へ向かった。
下手側の後ろの方で立ち止まり、その近くの席に座っている相手に対して深々とお辞儀をしていた。私にはその相手が誰なのかは判別出来なかった。
そして教室の後ろの壁の前の定位置についた。
私も上手側の舞台袖の定位置に身を潜めた。
下手側の舞台袖には上田くんとひかりちゃんが控えていた。場内が暗転したら舞台に上がるのだ。大町くんと小海さんの姿は見えなかったが、おそらくふたりはすでに書き割りのドアの裏側へ移動したのだろう。
静かでほとんど人の寄り付かない文芸部のブースから一転して、舞台監督の情熱やキャストやスタッフたちの意気込み、そして満員のお客さんたちの期待に満ち満ちた1年D組の教室へ戻って来た。
まるで正反対の環境なのでその温度差に戸惑ってはいるけれど、私の心にも火は点っている。
2年生の先輩方が文化祭の舞台演劇にかける情熱を十分過ぎるほど知ることも出来た。
「忙しい。疲れた。大変だ」などと愚痴を溢してばかりだった私とは違い、いつも平静を装い涼しい顔で学校生活を送っていた先輩たちは実際には私なんかより遥かに大変な努力を重ねてこの文化祭を迎えていたのだ。
いつまでも弱音を吐いてばかりいてはダメだ。
私はつい先ほど自らに誓いを立てた。
「岡谷先輩にただ憧れるのはもう止めよう。
私はこの人のように強くなろう。
自分の出来る範囲で良い、少しでも前へ進もう」
だからもう迷わない。
ちっぽけな自分の弱さを認め、その上でそんな小さな自分に出来る範囲で良いから前を向いて歩もう。一歩ずつで良い。
今の自分がすべきことは裏方としてこの舞台を支えること。これくらいのことしか出来ないならそれを全力でやれば良い。
数多ある出し物の中からこの舞台を選んでわざわざ観に来てくれた人たちに楽しんでいただけるように演者たちを精一杯支えよう。
間も無く開演だ。
この公演は強くなろうと決めた新しい私が踏み出す第一歩なのだ。
自分を信じて頑張ろう。
「それでは、始めよう」
と川上くんから声がかかると場内が暗転し、舞台の上も真っ暗になった。
私の目には何も見えていないはずなのに、その暗闇の中には私が進むべき一筋の道が延びているのが分かった。
(続く)




