【42】暁の黄金(5)
暁月高校の文化祭の初日、1年D組の教室での演劇「Round Bound Wound」の第二回公演はなんとか幕を閉じた。
冒頭から主演の上田くんがぎこちない演技を続けてお芝居が壊れてしまいそうになったけれど、共演者たちが協力して強烈なアドリブを披露し、それをきっかけとして上田くんも持ち直した。舞台袖でプロンプターをしていた演出助手の私、井沢景は安堵しつつもキャストのみんなの心意気を目の当たりにして珍しく気分が高揚していた。
舞台監督と4人の演者を交えたミーティングを行った後、私はクラスの友達たちと一緒にお昼御飯を食べた。珍しく上田くんも一緒だった。すっかりいつもの元気な上田くんに戻って自分のお弁当を美味しそうに完食していた。良かった。次の公演も大丈夫そうだね。
午後から文芸部の販売ブースで部誌の「文芸・東雲」を売る店番をするので。舞台監督の川上くんが舞台袖でプロンプターを務めてくれることになっていた。
午前の上演中はプロンプターには欠かせない自分の台本をずっと手にしていた。舞台袖ではタイムキーパーの役目も兼ねていたので時間経過の確認に使うためのiPhoneと記録に使う筆記用具もずっと手にしていた。
午後からはクラスの持ち場から離れるので大事な台本を紛失してしまわないようにロッカーの中に収め、代わりに文化祭のパンフレットを取り出した。
パンフレットの表紙には「暁月祭」という題字が毛筆で力強く書かれている。
暁月祭というのは暁月高校で9月の第2木曜日から次の週の月曜日までの5日間に渡って開催される学校祭の呼称で、体育祭と文化祭からなる。
初日に体育祭があり、それに続けて4日間の文化祭が催される。
今日は暁月祭2日目の金曜日で、文化祭の初日である。
学内の生徒のみで行われるのでそれほど混雑しないかと思っていたけれど、私の所属している1年D組の教室演劇は午前中の2公演とも満員御礼どころか会場内に入り切れないほどの生徒が詰めかけて大盛況となった。
1年生の教室演劇の他には、3年生のクラス展示や文化部の発表が行われている。
本日の催し物で、全校生徒から注目されるような大きなイベントとしてはクイズ研究部が主催するクイズ大会である「QUIZ ULTRA DAWN」があって、夕方から体育館で開催される。私はひょんなことから文芸部の1年生部員である稜子ちゃん、こと筑間稜子さんと須坂公太くんと一緒に3人でチームを結成して出場することになった。
当然、今まで競技クイズの試合になんて出たことがないから私はずっと気が重かった。午前中はクラス演劇の公演にかかりっきりで忙しかったのですっかり忘れてしまっていたのだが、文芸部のブースに向かおうと足を踏み出した途端にクイズ大会のことを思い出して急に強い不安が襲いかかってきた。
どうやら全員が解答しなければならないルールのようなので、確実にチームメイトの足を引っ張りそうな私にとってクイズ大会への参加は頭痛のタネである。
それでもなんとか逆にこう考えてみた。今からどう頑張っても急に頭が良くなることはない。開き直るしかないのだ。加えて、「役者として舞台に上がることに比べたらクイズ大会に出場することなんて大したことないよ。なんとかなるさ」と自分自身を必死に励ますことで、私は何とか平常心を保つことが出来た。
午後からの私の予定を整理すると、文芸部の販売ブースで文集を売って、夕方からQUIZ ULTRA DAWNに参加する。どんな悲惨な結果に終ろうともクイズ大会が終わったら文化祭の1日目は終了である。
とはいえ、まだ先は長い。
明日と明後日の週末の2日間は一般の来客者に公開される。
うちの高校の文化祭は一般公開日には中府市内の高校の中で一番混雑すると言われるほど一般客の来場が多いことで知られる。
中学3年生だった昨年の9月に私は志望校だった暁月高校の学校見学を兼ねて文化祭を観に来た。その時にはとにかく人の多さに辟易した。
今年はうちの学校の生徒のひとりとして、あの大勢の来客をお迎えしないといけないから大変だ。
土日の一般公開日にも1年生の教室での演劇、3年生のクラス展示、文化部の発表は今日と同様に行われる。
それに加えて、文化祭のメイン・イベントである2年生のクラス演劇が体育館で上演される。
上演する順番は公正を期すために事前に抽選によって決められており、土曜日に半分のクラス、日曜日に残り半分のクラスが上演する。
文芸部の2年生の中野律先輩のクラスと岡谷奈津美先輩のクラスの上演は文化祭2日目の土曜日にある。
一般公開日には体育館の舞台で文化部の発表もある。
文化祭2日目のお昼休みには吹奏楽部の演奏発表がある。
文化祭3日目は、お昼休みに合唱部の発表があり、全ての2年生のクラス演劇が上演し終えた後に一般公開日のトリとして演劇部による舞台の上演がある。
演劇部は部長の桑村先輩によるオリジナル脚本の舞台を上演するようなので私はとても楽しみにしている。
文化祭の2日目と3日目に上演された2年生の演劇に対しては、学内生徒と一般来客者を含め、そのクラスの舞台を観てくれたお客さんたちによる投票がそれぞれに行われる。
得票数の多かった3つのクラスが3日目の夕方に発表され、ファイナル・ステージへ進出する。
明々後日の月曜日は文化祭の4日目であり最終日となる。
この日は在校生だけが参加する。
選ばれた2年生の上位3クラスが体育館で舞台を再演するファイナル・ステージがあり、全学年が3作品を鑑賞する。
3作品の上演が終わるとすぐに全校生徒による投票が行われて、最も得票数の多かったクラスが今年のグランプリに選ばれる。
そのまま体育館で各学年の発表の上位3クラスの表彰式が行われる。
さらには、後夜祭も催される。
生徒と教員の有志のメンバーによるボーンファイアーがグラウンドで焚かれ、最後のイベントである「バーニング・ナイト」が行われる。
オープニング・アクトとして、一般公募で選ばれた生徒がオリジナルの楽曲を披露した後、生徒全員でボーンファイアーの周りに輪を作ってフォークダンスを踊る。
今日から始まっている文化祭の大まかなスケジュールはこんな感じである。
1年生の教室は教員等と特殊教室棟の間に建つ学生棟の1階にあるので、そこから建物の中央部分にある階段を上がって、2階の中央部分の通路にある文芸部のブースへと向かった。
階段の踊り場には掲示板があり、生徒会の許可を受けた掲示物が貼られている。
その中には新聞部が発行している学校新聞もあった。
学校内の行事や部活動の最新ニュースなどがメインの紙面で、私は熱心な読者ではない。普段は通りすがりに見かけてもあまり気にしていないので一体どのくらいの頻度で刊行されているメディアなのかを把握していない。ただ、文化祭のパンフレットによれば暁月祭の間は特集号を毎日発行します、と意気込みが書かれてあったと記憶している。
お昼休みということもあって、女子生徒3人からなる小グループが立ち止まって熱心に読んでいたので、私もその存在にはすぐに気付いた。
【暁月高校新聞:体育祭特集号】
そう銘打たれた学校新聞はいつも通りの地味な外見だったが、紙面には生徒たちの興味を引くような見出しが踊っていた。
トップ記事の見出しは、「F組ブロックが総合優勝!」だった。
昨日の体育祭の総合優勝チームをトップに持ってくるのは当然だろう。
記事によると、総合成績が第2位だった私たちD組ブロックとは僅差だったようだ。もしも私が自分の出場した借り物競走でもう少し早くゴールしてもっと多くのポイントを稼いでいたとしたらD組ブロックが総合優勝をしていたかも知れない。そう考えて悔しがることも出来たかも知れないけれど、どう頑張っても私は運動競技であれ以上の成果は出せなかったに違いないから悔しさは微塵もない。
生徒が発行している媒体とはいえ、やはり新聞という形態を取っているのでこの記事には2枚の写真も掲載されていた。
1枚目は満面の笑みで喜んでいるたくさんの生徒の集合写真。ひとりひとりの顔は判別しづらいけれど、F組ブロックの皆さんなのだろう。おめでとう、と素直に心の中で祝福した。
もう1枚は遠くに見える壇上の応援団長っぽい人とグラウンドに居並ぶ詰襟学生服姿の生徒たちの背中の写真。これは女子のブロック対抗応援合戦の様子だろう。
私はD組ブロックの出番が終わった後はホッとして中庭の木陰で休んでいたので、D組の後に発表をしたブロックのパフォーマンスを見ていない。D組の後に発表した、どこかのブロックの応援合戦では始まる前から突然とても大きな歓声が沸き、それが一瞬にして静まりかえった後、とても力強い女子生徒の掛け声が耳に届いたことは記憶している。
応援合戦が終わってからクラスの応援席に戻った際に、他のクラスの発表もちゃんと観ていたに違いない情報通のひかりちゃん、こと安住ひかりさんに先ほどの大歓声の正体を尋ねてみた。F組ブロックの応援合戦で女子バスケットボール部の諏訪先輩という有名人が応援団長をしていたから男子からも女子からも大きな歓声が上がって盛り上がったのだ、と教えてもらった。
その諏訪先輩はその後のミスター暁月コンテストにも出場していたので私は実際にその姿を見ることができた。凛々しい男装の麗人だったので応援合戦であれほどの大歓声を浴びていたのも当然だと思った。
次の記事の見出しは「平島毅くんが史上初となるStrong Armsの三連覇を達成!」とある。
大町くんも出場したアームレスリング大会の優勝者の先輩だね。
グラウンドで開催される競技なのに柔道着で出場していたからとても印象に残っている。
この記事にも写真が添えられている。
1枚目はガッツポーズしている平島先輩の写真。写真でその姿をはっきり見るとやはりとても強そうな人だから、準決勝で対戦した大町くんが負けちゃったのも仕方ないと思った。
2枚目の写真には、柔道着姿の平島先輩と体操着の生徒の試合シーンが写っている。背中しか写っていないけど学校指定の体操着で出場していたのは大町くんだけだからこの対戦相手は大町くんだろう。カメラマンは当然勝つだろうと予想された平島先輩が勝利した瞬間の表情を撮ろうと準備してたから大町くんの背中側からのアングルなのね。でも、この写真は大町くんの腕の方が上になってる。大町くんが1本だけ勝った試合なのかな?平島先輩の優勝を伝える記事なのだからせっかくなら平島先輩が勝ってるシーンを載せればいいのに。
私は疑問を感じたのでちゃんと記事を読んでみた。2枚目の写真については「準決勝は1年D組の大町篤くんとの対戦。大町くんは平島くんから1本を奪取して土をつける大健闘を見せた。平島くんにとっては3度のStrong Arms出場で唯一の敗北であった」と解説されている。
えっ!?大町くんと対戦するまではずっとアームレスリング大会で無敗だったの?あの先輩はそんなに強かったのね。
そんな人から1勝を挙げた大町くんはやっぱり凄い。
その次の記事には馴染みのある顔の女子生徒の写真とともに「短距離走の女王現る!」という見出しが踊っていた。
1年D組の小海由乃さんは体育祭で出場した3つの短距離走のレースの全てで優勝した。記事ではその栄光の軌跡が熱く語られている。同じクラスの子を扱った記事だから私はしっかり読んだ。
この記事を書いた記者さんはきっと小海さんの大ファンなのだろう。文章からそれが滲み出ている。
写真は3枚掲載されていた。説明文も読みながら写真を眺める。
1枚目はグラウンド上のトラックをD組ブロックの団旗をはためかせながらウィニング・ランをしている小海さん。これは100m走で優勝した後だね。
2枚目は部活対抗リレーで陸上部のアンカーとの接戦を制してゴールテープを切ったシーン。この写真はうまく撮れている。1歩か2歩の差、とにかくギリギリの勝負だったこと、そして何より彼女たちの躍動感がひしひしと伝わってくる。小海さんのとても真剣な表情を捉えている。同じクラスで新聞部の高岡泉さんが撮ったのだろうか?高岡さんはうちのクラスの舞台写真も担当してくれているのでどんな写真を撮ってくれているのかを楽しみにしていよう。
3枚目はクラス対抗リレーで優勝した時のゴールの瞬間。このレースでは勝利を確信して笑顔を見せている。応援席から観ていた私にはこのレースも接戦に見えたんだけど、走っていた本人には余裕があったのね。驚いた。
この記事には簡単に小海さんの経歴も書かれてあった。
以前にひかりちゃんが教えてくれた通り、小海さんは過去にサッカーでも陸上競技でも全国大会に出場した経験があった。まるで別の星からやって来た異星人のような気がする。
他には「今年のミス・ミスター暁月コンテストの結果」という見出しに添えて、2枚の写真と説明書きがあった。
1枚の写真は、可愛らしいアイドル風の衣装を着た女の子の写真。アイドルが写真撮影で見せるようなポーズまで決めている。
「ミス暁月二連覇の3年E組匿名希望の男子生徒さん」と解説されている。
ミス暁月コンテストは男子生徒が女装して美を競う催しなので、写真に写っているのは3年生の男子生徒なのだ。確かにこの先輩は愛くるしかった。女性アイドルのような身のこなしも完璧で「この人だけは実は女子生徒なんでしょ?」と疑うレベルだったので覚えている。
二連覇なのも肯ける。それでも匿名希望なのね。やはり恥ずかしい気持ちもあるだろうから仕方ないかな?
もう1枚の写真にはダークスーツに身を包んだ涼やかな長身の男子生徒、ではなく、男装した女子生徒が写っている。
「ミスター暁月二連覇の2年F組の諏訪遥香さん」と明記されている。
そうそうこの人がF組の応援団長を務めた諏訪先輩。フルネームは諏訪遥香さんというのね。
長身でスタイルも良く顔も綺麗だから、ミスター暁月コンテストの出場者の中でもひとりだけ抜きん出ていたと私にも分かった。
来年も優勝して三連覇を達成するのは固いと思う。
こうして学校新聞の気になった記事を拾い読みしている間にもだんだんと掲示板の前に人が増えて来て、特に諏訪先輩と小海さんの記事の前には女子生徒が集まって窮屈になって来た。
「あ!諏訪先輩が載ってる」
「女子サッカー部の小海さんだ」
と喜んでいる人たちもいる一方で
「さっき見に来た時にはまだ貼ってなかったのに」
「午後2時に出るんじゃなかったの?」
などと発行のタイミングについて不満を漏らす人たちもいる。
運良く私は発行したての最新号にありつけたのだろう。
ふと我に帰った。
こんなところで油を売っている場合ではない。決められた店番のシフトに遅れてしまう可能性があるので私は階段を上り2階へ向かった。
文芸部の販売ブースは静寂に包まれている。
先ほどの踊り場や、1年生が教室演劇を上演している1階、3年生がクラス展示をしている3階からは賑やかな声が多少なりとも聞こえてくるが、学生棟の2階中央部の通路だけは喧騒とは無縁だった。
階段を上り下りしたり、渡り廊下を通って他の校舎へ移動したりする生徒たちは皆、足取りも軽やかに文芸部のブースの前を通り過ぎて行く。
3年生の松本弥一先輩と同じ1年生の須坂くんが部誌の「文芸・東雲」を積んだ2つの机の奥に座っていた。
周囲の全ての事象とは隔絶したかような清閑な佇まいが、しばしば街中で見かける交通量調査の係員に似ているなあ、と思ったりもしたが、今から自分もあそこに座るのかと思うと先ほどとは別の意味で気が重くなった。
それでも、「販売ブースの当番を1年生だけにしない」「ひとりでは店番をさせない」という基本的なルールを前もって設けて実際にちゃんと守ってくれるのが分かったので安堵する気持ちもあった。文芸部の先輩が一緒ならばとても心強いからね。
先ほどまですっかり学校新聞に気を取られてしまっていたので、念のためにiPhoneで時間を確認すると、幸いにも店番を交代する時刻には遅れていなかった。早めに教室を出ておいてよかった。
私はふたりに声をかけた。
「お待たせしました。私が午後の担当だから代わりますね」
松本先輩も腕時計で時間を確認して
「あ、もうそんな時間なんだね。ありがとう。中野さんが来たら、僕たちと交代しよう」
と笑顔で答えた。
中野さん、というのは現在の文芸部の部長である2年生の中野律先輩のことである。
松本先輩は受験勉強が原因なのか今日もやつれているけどいつも通りに優しい。
この場の雰囲気からなんとなく察してはいたし、訊いていいのかどうかは迷ったけれど、これからの心構えの参考にしたいので私は松本先輩に尋ねた。
「午前中に文集は何冊売れましたか?」
すると須坂くんが嬉しそうに答えてくれた。
「2冊売れたよ。最初に買ったのは誰だったと思う?今年の新入生代表の遠見咲乃さんだったよ。僕みたいな赤点だらけの劣等生が学年でもトップクラスの優等生と話すことになるとはね。びっくりした」
文集が2冊売れた、という事実が喜ぶべきことなのかどうかはさておき、我が文芸部が部誌の販売においてとても苦戦していることだけはよく分かった。
松本先輩も笑顔のまま続けた。
「続け様に文芸部のOGの下条加奈子先輩の妹さんが買いに来てくれたよ。去年の卒業生で時代小説を書いていた先輩だけど、井沢さんは知ってるかな?」
「その先輩の作品かどうかは分かりませんが、卒業生のどなたかが書かれた時代小説は少しだけ読みました。渋い作風でした。それにしてもうちの部のOGの妹さんが今年の1年生にいるんですか?世間って意外と狭いですね」
と正直な驚きを伝えると
「うちの高校はこの校風が気に入っているOBやOGのお子さんが入学することも多いし、兄弟や姉妹が揃って通っていることも結構あるみたいだよ」
とうちの学校の特徴を説明をしてくれた。確かにこの自由奔放な学校で楽しい高校生活を送ったら家族や知り合いにも勧めたくはなるよね。
「最初に文集を買ってくれた、という新入生代表の遠見さんとは面識がなくて、話したこともないです」
流石に話したこともない人について意見を述べることは出来ないのでそう答えるに留めた。
須坂くんは腕を組んでしばらく考えてから
「そうか!遠見さんも下条さんも1年A組だから筑間さんの友達なのかも知れないね」
と情報をまとめた。
もしかしたら稜子ちゃんが同じクラスの友達に「文芸・東雲」を買ってくれるように宣伝してくれているのかも知れない。
稜子ちゃん、ありがとう。
私は心の中でお礼を言った。
松本先輩は
「中野さんが来るまでの間にざっと店番の仕事について説明しておくね」
と実際の業務内容を説明し始めた。
どうせお客さんなんて来ない、と予想してなのか、松本先輩が悠々と申し送りを始めているという点から、過去の文化祭における文芸部の実情が窺い知れた。
ブースに置かれている3つのリストについても説明してくれた。
それぞれクリップボードで留められたA4サイズの用紙であり、「販売部数」「卒業生」「来賓」と印字されている。
「販売部数」というのは「文集が何冊売れたか」を記録する用紙である。ブースにいる文芸部員が一冊売れる毎に一本ずつ線を引き「正」の字を書いて記録する。
まだ2冊しか売れていないのでそこには「T」と書かれてあった。
ちなみに今年は文集を100部印刷した。
20部は暁月高校の公式通販サイトへ納品済み。
7人の部員が原稿チェックのために手にした部誌はそのまま
買い取りとなっている。
ネット小説家のサカスコータ先生、こと須坂くんが脚本を提供した縁で、映画研究部には部誌を10部を買い取ってもらった。
1部を文芸部の保存用にした。その保存用の1冊にカバーをかけて見本誌として、文集の山の一番上に置いてある。
1部を顧問の中川先生へお渡しした。
残りは61部だ。ここまでは印刷の発注をかける前の時点で計算してあった。
実はそれ以外にも部員が知人のために購入している分もある。
須坂くんは他の高校に通っている友達のために4冊、岡谷先輩は従姉妹と地元のお友達のために3冊を購入した。
すると残りは54部となる。
私は合計6冊の取り置きをした。印刷所から届いた文集の入った重い段ボール箱を部室まで運んでくれた同じクラスの大町くん、川上くん、上田くん、深間くんの4人がその際に文集を買いたいと言ってくれたので私の自己判断で4冊の予約を入れた。それに加えて文集の購入を希望してくれていたひかりちゃんと高岡さんの分の2冊も取り置き扱いとした。
ひかりちゃんと高岡さんの分は私が本人たちからの依頼もなく取り置きしたので、その2冊についてはキャンセルしても良いと岡谷先輩から言われていたけれど、ふたりとも取り置きを希望してくれたのでキャンセルとはならなかった。
1年D組の6人の「お取り置き」分として別の箱に分けてある6冊を除けば文化祭が始まった時点での文集の残りは48冊である。
部員による買い取りや取り置きが発生する前の時点で「61冊ならば決して売れない冊数ではない」と予想する先輩もいた。でも、私はそんな風に楽観視はしていない。
万が一、サカスコータ先生によるSNSでの宣伝効果によってファンが殺到した時のために、とダウンロード販売の準備もしてある。
これに関しては全くの杞憂に終わるに違いない。
所詮はみんなが面白半分で無責任にネット上で盛り上がっているだけだろう。わざわざ地方の高校の文化祭まで足を運んで学生の文集を買いに来る物好きなどおるまい。
尤も、ダウンロード販売に関しては、卒業生が用意してくれた文芸部のウェブサイトの隠しページを使い、文集のPDFファイルをダウンロードするサイトのURLを記したプリント用紙を10枚ほど用意しただけなのでさしてコストはかかっていない。アテが外れてもさしたる損害はない。
解決すべき問題は紙に印刷して製本された文集の在庫を減らすことである。
通りすがりの人たちにどれだけ売れるかなんて、販売してみないことには分からなかった。
でも、いざ蓋を開けてみたら、文化祭初日の午前中に売れた文集はたった2冊だけだ。私の悪い予感は的中した。
先が思いやられる。
売れ残ったら7人の部員で買い取ることになるのだろうか?それは辛い。
話を他の2つのリストに戻す。
「卒業生」というリストは文芸部のOBやOG、その他にも文芸部に縁のあるうちの高校の卒業生が来訪されたら記名していただくものである。
そのリストには「下条加奈子(代理・1ーA 下条杏奈)」と書かれてある。OGの妹さんが代わりに記入してくれたのね。
私はその下条杏奈さんとも面識がない。
「来賓」というリストは他の学校の文芸部の皆さんや転勤で他の学校へ異動された先生方など、うちの文芸部とお付き合いのある学外の方々がいらっしゃった際に記名していただくものである。今日は学内の生徒だけでの開催なので当然ながらまだそこには誰の名前も書かれていなかった。
松本先輩からの申し送りが終わって、私に不明な点がないかを確認していたところへ、2年生の岡谷奈津美先輩が販売ブースに現れた。現在の副部長である。
あれ?午後から私と一緒に店番をするのは中野先輩じゃなかったっけ?
私だけでなく松本先輩や須坂くんも疑問に思ったようだった。
しかしながら、岡谷先輩は私たちが尋ねる前に平然と
「律からDINEで連絡があって相談したんだけど、律は筑間さんと一緒にお昼を食べて午後からももう少し文化祭を観て回ることになりました。律が戻ってくるまでは私が代わりに当番をします」
と予定変更を告げた。
岡谷先輩は中野先輩とは阿吽の呼吸でいつでも協力し合える関係にあるのだろう。「相棒」というのは良い響きなので憧れるけど、私には相棒と呼べる存在はいないし、仮にいたとしても機転の効かない私には到底このふたりの先輩たちのような見事な連携は出来そうにない。
岡谷先輩は松本先輩に向かって深々とお辞儀をしてから
「松本先輩、今日はクラス展示の当番があったはずなのに午前中の当番を律と急に代わってもらったそうで、すみませんでした。私には何の連絡もなかったので」
と謝った。
その言葉を聞いて私の心にも何かが引っ掛かった。
松本先輩は笑顔のまま
「気にしなくても良いよ。ちょうど体が空いていたから。様子を見がてら文芸部のブースに来てみたら筑間さんと中野さんが話してるのが耳に入ってね」
と答えた。さらに続けて
「中野さんは『是非とも自分のクラスの演劇を観に来て欲しい』って井沢さんから頼まれてたみたいだったから筑間さんと一緒に行ってもらったんだ」
と状況を説明した。
先輩たちの店番のシフトをめぐるトラブルの元凶は私だったのか。
私もすかさず
「松本先輩、すみません。私が軽はずみなお願いをしたばっかりに」
と謝った。
松本先輩は
「大丈夫だから、そんなに気にしないで。
じゃあ、岡谷さんに店番を代わってもらって僕はさっさと自分のクラスの発表に戻ろうかな」
とこれ以上この場の空気を悪くしないためにいち早く立ち去ろうとした。
その心遣いに甘えて松本先輩にはそのまま立ち去ってもらえば良かったものを、私は気になったのでつい尋ねてしまっていた。
「先輩のクラスの発表のテーマは何でしたっけ?」
1年D組の教室演劇について話題に上げてもらったので、先輩のクラスの展示についても伺うのが礼儀だとも思ったのだ。
私はクラスでの演出助手としての仕事に追われて自分のことだけで精一杯だったので、夏休み明けに配布された文化祭のパンフレットをちゃんと読んだのは今朝になってからだ。しかもほんの一部だけ。2年生の演劇や3年生のクラス展示については全く情報を得ていない。少なくとも文芸部の先輩たちのクラスの出し物くらいは前もってチェックしておくべきだったと今更ながら後悔した。
松本先輩はクラス展示のテーマとして
「国境なき医師団だよ」
と私でも知っている国際的なNGO団体の名を挙げた。
それを聞いて私は気が遠くなりそうになった。
「その内容なら展示会場から松本先輩が抜けたらダメじゃないですか。ご迷惑をかけてしまってすみません」
私は慌ててさらに謝罪を重ねた。
松本先輩は国公立大学の医学部を志望していて、その目的を果たすために必死に受験勉強をしている。
そんな風に頑張っている人が文化祭という晴れ舞台で国境なき医師団について発表する機会を私の軽はずみな言動のせいで台無しにしてしまった。
謝って済むことではないとは思ったが、とにかくしっかり頭を下げてお詫びした。泣きたくなったが、泣いて許されることではないので堪えた。
「いやいや、大丈夫だから。頭を上げてよ、井沢さん。
同じクラスに医療ボランティア活動に強い関心がある人が何人かいて、その人たちが中心になって企画と運営をしてるから僕はそんなに重要じゃないんだ。どちらかというと僕は日本の無医村をなくすことの方に興味があるから」
と松本先輩はクラス展示の実情を説明してくれた。松本先輩が中心となっている展示ではなかったのだ。おかげで少しだけ罪悪感が和らいだ気がした。
私が顔を上げるといつもの優しい笑顔の松本先輩がいた。
この人は名前からしてカッコよさそうな国際団体よりも、病院がなくて困っている日本の田舎の人たちの方に心を寄せているのだ。実に松本先輩らしい。
私が頭を上げたのでホッとしたのか
「じゃあ行ってくるね。何か困ったことがあったらいつでも連絡してよ。多少の無理は効くから」
と言い残して階段を登って行った。3階にある自分のクラスの教室へ向かったのだろう。
松本先輩を見送ると須坂くんも
「じゃあ僕も午後は自治会の当番があるから、後は井沢さんにお願いね」
と告げて、自治委員であることを示す赤い腕章をつけ、渡り廊下を通って隣の教員棟の方へと去って行った。
その場には岡谷先輩と私だけが残された。
生徒たちは次々に文芸部の販売ブースの前を通り過ぎて行く。
岡谷先輩は静かに座っていた。
店番をしている間には例えお客さんが全く来なくてもこの場でスマホを使って遊んでいたり、本を読んでいたりするのはマナー違反である。
肝心のお客さんが来ないのだから、接客業務はない。他に出来ることと言えば、ふたりで会話することくらいだろう。
じっと黙っていても間が持たないし、私は済んだことをいつまでも悔やみ続けることに何ら意義を見出せなかったので
「岡谷先輩は午前中にどこを回りましたか?」
と無難な質問を投げかけた。
岡谷先輩は
「まずは1年F組の須坂くんのクラスの『十二人の怒れる男』の初演を観て来た。あの作品は好きだからね。明日と明後日は一般公開で混み合うだろうし私も忙しくなると思うから今日のうちに観ておこう、と思って」
と意外と活動的な一面を見せてくれた。
ミステリー好きの岡谷先輩らしい行動ではあるが。
1年生の他のクラスの演劇の出来栄えも気になったので
「F組の舞台はどうでした?」
と尋ねると
「1年生のクラス演劇の初日の出来としてはまずまずなんじゃないかな?上演時間が50分くらいだったから、原作よりもだいぶ話を端折ってたよ。初見だと内容をよく理解できない人が多いんじゃないかな?とは感じたけど及第点はあげられると思う」
と率直な意見を述べてくれた。
「そうですか。私も観に行きたいなあ」
「悪くなかったから観に行くと良いよ。その後、井沢さんの1年D組の舞台を観ようと思ったんだけど、上演中だったから入れなかった。それで筑間さんの1年A組に行ってみたらちょうどお客さんが入れるタイミングだったけど、かなりたくさんの人が廊下に並んでてね。観るのは無理そうだったから諦めたよ。それで、3年B組の飯山先輩のクラスと3年E組の松本先輩のクラスの展示を観て来たよ」
岡谷先輩はうちのクラスのことも気にかけてくれていたのか。
もちろん稜子ちゃんや先輩方のクラスにも足を運んでくれている。
嬉しかった。
3年生の出し物についても話題に上がったので訊いてみた。
「クラス展示はどんな感じですか?」
「飯山先輩のクラスの前にはやたらと男子生徒がたくさん並んでたよ。まあ、あのクラスは飯山先輩と英語部の小牧先輩がいるから、男子生徒から人気なんだろうね、テーマは『世界の詩歌』で内容も面白かったよ。井沢さんはまだ3年生の展示を見たことなかったっけ?」
「はい。昨年も文化祭に見に来たんですが、すごく混み合っていて入れませんでした」
「クラスによってやり方は違うと思う。大半のクラスは期間限定の展覧会みたいに教室内がパーテーションで区切られてて、通路に沿ってポスターや模型などの展示物が並んでるんだけど、その展示内容を説明する係の生徒がその場にいて説明してくれるんだよね」
「なるほど。なんとなくイメージが掴めました」
「うん。それで、3年B組の発表では日本の詩歌のコーナーを飯山先輩が担当していて、和歌を読み上げたり詩歌を朗読したりしてたよ。自分で選んだ作品なんだろうね。言葉の響きが美しいものばかり読んでくれたからお客さんもみんな静かに聴き入っていたね」
「それは良さそうですね。私も聴きに行きたい」
「うん。シフトを確認してちゃんと先輩が会場にいる時に行ったほうが良いと思う」
早速、素敵なクラス展示の情報を得た。ありがたい。
この情報は後で飯山先輩のファンだと公言している川上くんにも伝えておこう。でも私も川上くんも自分のクラスの演劇があるからその展示を観に行ってる暇なんてないかもね。
岡谷先輩は続けた。
「で、他にも日本の童謡の歌詞、歌謡曲の歌詞、それから漢詩などを扱った色んなコーナーがあって、最後の方に小牧先輩が担当していた英語の詩のコーナーがあってね。英語の詩の朗読をしてたよ。やっぱりあの人の話す英語は綺麗だね。詳しく知らないけど帰国子女なのかな?」
小牧先輩の大ファンの上田くんなら詳しく知ってるかもしれない。体育祭でも「憧れの先輩」として借り物競走で連れて来てたくらいだから。小牧先輩が英語詩の朗読をしているという情報は後で上田くんに伝えておこう。
「実は、私も昨年の井沢さんと同じでね、一昨年、中学3年生の時に志望校だった暁月高校の文化祭の一般公開日に来たんだよ。一緒に文化祭に来た従姉妹たちがどうしても1年生のクラスで上演していた、何だっけな?有名な海外のアニメ映画のミュージカルを観たいっていうから私も一緒に観たんだけどね、凄かったよ。ひとりだけ英語の歌詞のままで歌ってた女子生徒がいたから驚いた。歌もうまかったなあ。もちろんその人が英語部の小牧先輩だってことは高校に入学してから知ったんだけどね。あれだけ目立つ人だから校内に名が知れ渡っていたよ」
岡谷先輩と小牧先輩の間に意外な接点があったことに驚いた。
「英語でミュージカルを歌っちゃうんですか?凄いですね!そういえば、小牧先輩はバーニング・ナイトでオープニング・アクトを務めるはずですよ」
そう朧げな記憶を頼りに伝えると、岡谷先輩は
「そうだっけ?パンフレットに書いてあるかな?」
と自分のパンフレットを開いて確認した。
「オープニングアクトを務める生徒については『U feat. U』というユニット名しか書いてないね。そういえばお昼休みの校内放送で最終候補の曲が流された時に英語の歌とラップが混ざった曲があったから、もしかしたらそれかな?」
「多分、それが小牧先輩の歌だと思います。クラスに小牧先輩の大ファンの男子がいて、その曲が流れる度に大はしゃぎしてたから間違いないです」
と根拠を示して仮説を補った。上田くん、ありがとう。
岡谷先輩は嬉しそうに笑顔を見せた。
「ふ~ん。じゃあ、バーニング・ナイトのオープニング・アクトは楽しみにしておくよ。
そう言えば律から聞いたんだけど、ファンといえば、飯山先輩も律も1年D組にはふたりのファンだと公言している男子生徒がいるらしいね」
「はい。飯山先輩のファンの子は体育祭で偶然に先輩の姿を見かけて『天啓を得た』らしく、その後は大活躍してましたよ」
中野先輩のファンの男子生徒が憧れの人が観に来てくれた今日の第二回公演で緊張してしまって大変だったこと、中野先輩のファンと小牧先輩のファンが同一人物であることは黙っておこう。上田くんがただの軽薄なお調子者だと思われてはいけないから。
岡谷先輩はパンフレットを閉じると
「ちなみに井沢さんは先輩でも同級生でも良いけど、そういう自分がファンになってる、気になってる男子生徒は学校内にいないの?どうしても観に行きたいクラスの発表とか文化部の出し物とかあったら遠慮せずに行って来てね」
と突然予期せぬ方向へ話を振って来た。
え?岡谷先輩からまさかの恋愛トークとは!
かなり驚いた。
しかし、一呼吸置いてから考え直した。
岡谷先輩は京都の有名な国立大学を目指していて、実際に理数系科目の得意な優等生だそうだ。どこか達観しているようなところがあって性格もサバサバしていて、いつも淡々とした口調で言葉を飾らず端的に物を言っている。そんな人柄でありながら実は何気に女子力が高い。
ベージュのセミロングの髪はいつもお手入れが行き届いているし、うっすらナチュラルメイクもしている。制服の着こなし、というか着崩し方もこなれている。持っている小物や文房具には拘りがあるみたいだし、自分のノートパソコンにも可愛らしいステッカーが貼ってあって、スマホのカバーもお洒落なデザインのものを選んでる。
もしかして、実はすでに交際している彼氏さんとかいるのかな?よく考えたら私は岡谷先輩のプライベートについて何も知らない。
それに引き換え、私なんて如何にも田舎の中学校からなんとか無理して頑張って街中の高校に進学したお登りさんなのが丸出しで全然ダメだ。
それが率直な自己評価なので
「私なんて地味だし何の取り柄もないから、好きな男子だなんてとてもとてもおこがましいです」
と正直に伝えると、岡谷先輩は
「なんでそんな風に思うの?誰かを好きになることなんて自由じゃない?高校の3年間なんてあっという間に終わってしまうから未練を残さないほうが良いよ」
と珍しく語気を強めて言った。
高校時代に恋愛をする。
今まで考えたこともなかった。
伊那川中学時代もそんな思い出はなかったしなあ。
高校に入ってからも今のところ私と仲が良い男子生徒は、同じ中学だった大町くん、演劇仲間の川上くん、上田くん、セミナー合宿で一緒だった鹿田くんと国師くんくらいかな、あとは、文芸部の須坂くんと松本先輩だけか。
みんな大事な友達や先輩だから異性として意識したことはない。
何より一番付き合いの長い大町くんは中学時代と同様に高校でもファンクラブが出来てそうだから色んな意味で禁忌肢だ。ファンの子たちに恨まれると大変だから。
私は中学2年生の頃に決めた第一志望校だった暁月高校へ入学試験の願書を出しに行く際に大町くんも同じ高校を受験することを知った。それが真実なのに、その次の日には学校中に「井沢景は大町くん狙いで暁月高校を受験した」という噂が広まり、大町くんファンクラブの全員から「井沢景、許すまじ」と恨まれて辛かった。
私がそんな過去を思い出しながら黙り込んでしまったので、岡谷先輩は心配になったのか
「あ、ごめん。そんなに深く考え込まないでね。別に井沢さんのプライベートを詮索しようとは考えてないから」
と気遣ってくれた。
「ありがとうございます。でも、本当に何もないんで大丈夫です」
「そうなの?それでもバーニング・ナイトは楽しみにしているでしょ?」
「一応ちゃんと参加はするつもりですけど、みんなで後夜祭を楽しめたら良いかな、としか考えてないです」
「ふ~ん。まあ個人の自由だしね。ごめん。偉そうなことを言っちゃったけど、私も似たようなもんだから。それでも楽しめると思うよ」
私にしては珍しく女の子らしい会話が出来たのではないだろうか?
恋愛トークか。私にもそんな経験をする日が来るとは、、、。
ちょっと待って。そうじゃない。
私は岡谷先輩とさっきからずっとお話しているのけど、本来は部誌を販売するためにここにいるのだ。
私たちが販売ブースに来てからお客さんがひとりも来ていない。
学生棟の2階の通路は1階と3階への階段があるだけではなく、教員棟と学生棟と特殊教育棟をそれぞれ繋ぐ2階の渡り廊下へも連なる交通の要所なのでだけど、道行く人たちがみんな素通りしていく。
午前中だけで2冊しか売れなかったってことは稜子ちゃんも須坂くんもこんな状況に耐えていたのね。
そういえば去年の文化祭の一般公開の日にも文芸部の販売ブースだけは閑散としていた。静かにひとりで座っていた女子生徒さんから私は「文芸・東雲」を購入した。その時にしばらくお話したあの女子生徒には入学してからも結局のところ再会出来ていない。あの人が昨年の「劇団:津川塾」のワークショップに参加していたことは判明したけれど、「演劇部の部員ではない」と部長の桑村先輩から明言された。
あの人がどこの誰なのか?とか「輝く夕焼けを眺める日」の作者の佐倉真莉耶さんの正体は一体誰なのか?とか、私が胸の内に抱え続けている謎は未だに謎のままである。
岡谷先輩とちょうどふたりきりだからいっそのこと直接訊いてみても良いかも知れない。しかし、何となく文芸部の中には昨年の「文芸・東雲」や「輝く夕焼けを眺める日」については触れちゃいけない暗黙のルールのようなものがある気がするから、私はどうしても踏み込めない。
またしても私は黙り込んでしまったが、今度は意にも介さないようで岡谷先輩は静かに隣に座っている。
私は人混みや喧しい場所も苦手だけど、沈黙も同じくらい苦手だ。
2年生の演劇発表についても情報を得たかったので
「ところで、岡谷先輩のクラスの演劇はどんな感じですか?」
と尋ねてみた。こういうことなら単刀直入に訊ける。
岡谷先輩は
「うん。今はもう私の手を離れたから、お芝居の仕上がり具合は把握してないけど、期待してる。脚本には自信があるからね」
とその言葉通り自信ありげに答えた。
その「私の手を離れた」というのはどういう意味だろう?
ただ、岡谷先輩が「自信がある」ってことは間違いなく面白いに違いない。
確か先輩のクラスは、、、私はパンフレットを開いて確認する。
本来ならば前もってパンフレットを読んで基本情報を頭に入れてから、「クラスの演劇について詳しい話をして欲しい」とお願いしないといけない。順番が逆になってしまった。
そうそう「ケイは敬愛のケイ」という作品だった。部室で岡谷先輩が松本先輩や中野先輩と話していたことがあったからタイトルだけは何回か耳に入って来ていた。
パンフレットの紹介ページにはこう記載されてあった。
◎2年C組 演劇:「ケイは敬愛のケイ:Ver. 2」(K is for Kindness : Ver. 2)
共同脚本:栄本過客(劇団:The Arrow Swamp Company)、左京小紅
<スタッフ>
・演出:川岸仁志
・音響:坂木悠
・プロップデザイン:岡谷奈津美
<キャスト>
・鞠尾蛍役:久保まゆみ
・声:坂木悠
<概要>
2年C組は「劇団:The Arrow Swamp Company」の舞台「ケイは敬愛のケイ:Ver. 2」を上演いたします。
新生活を始める準備のために辺鄙な田舎の町を訪れた鞠尾蛍は大震災に遭遇する。
大規模な停電によって唯一の交通手段である電車も止まり、災害によるパニックが原因で通信障害も起きている状況の中、蛍は無人駅で孤独な夜を迎える。
孤立無援の蛍に迫り来る見えない敵。
過去と現在が行き交う予想不可能な物語の行き着く先は?
この結末は決して誰にも話さないで下さい。
(文:川岸仁志)
確かにこれは面白そうな内容だ。
あらすじを読むと「窮地に立たされた蛍さんが如何にそのピンチを切り抜けるか?」を描いたサスペンスっぽいけど、特殊状況下でのミステリー作品かも知れない。
この結末は決して誰にも話さないでください、なんて謳い文句から最後にどんでん返しがあるお話だと予想できる。私好みで面白そう。
とは言え、この劇作家も劇団も私が初めて目にする名前である。
これは有名な作品なのかな?
私がパンフレットを凝視しながらそんなことを考えていたので、岡谷先輩は首を傾げて
「あれ?井沢さんは『ケイは敬愛のケイ』を知らなかった?」
と意外そうに尋ねた。
「すみません。全く知りませんでした。私は伊那川町で生まれ育った田舎者で、演劇という文化に触れたのは高校に入ってからなんですよ」
と私が正直に伝えると
「私も伊那川町の隣の鯉美市で生まれ育ってるから井沢さんと一緒だよ。私だってずっと演劇とは縁がなかったから」
と返された。そうだった。岡谷先輩は私の住んでいる町のお隣の市の出身だったのを忘れていた。
「この劇団については、『湖の奥の闇』というミステリー作品の舞台が初演された頃にミステリー関連のメディアがこぞってこの舞台について特集していたから遅れて知っただけだよ」
と岡谷先輩は自分が「劇団:The Arrow Swamp Company」を知ったきっかけを教えてくれた。
私もミステリーは全般的に好きだけど、ミステリーを扱った演劇に関しては全く知識がない。まだまだだね。
岡谷先輩は続けて
「それでこの劇団の舞台、特に『湖の奥の闇』にとても興味が湧いたのだけど、残念ながら中府市で出張公演があった訳でもなかったし、大阪にある劇場まで公演を観に行くことなんて、まだ小学生だった当時の私には無理だったから絶望したよ。テレビドラマや映画での映像化やノベライズもされなかったんだよね」
と説明してくれた。大阪の劇団なのね。大阪なんて今の私でも観に行けないと思う。当時の岡谷先輩の絶望を慮ると心が痛んだ。
一方で、別の媒体での商業展開を許さない辺りにこの劇団の誇りのようなものを感じてますます興味を持った。おそらく岡谷先輩も同様だったのだろう。
「でも、作品を舞台上演だけに限定する、という姿勢に私は好感を持ちます。せっかくの世界観を壊されたら悲しいですもんね」
と私は自分の考えを正直に伝えると、岡谷先輩は大きく頷いてから
「それは私も同感。『うちの作品は舞台演劇として楽しんで下さい』という考えを持っていて戯曲の出版も基本的にはしない方針の劇団なんだよ」
と厳格な劇団の方針を教えてくれた。なるほど!ここまで徹底したポリシーを持ったクリエイター集団の作品ならば絶対に観てみたい。
私が興味を持ったことに気付いてくれたようで、嬉しそうに岡谷先輩は続けた。
「それで、『湖の奥の闇』以前に発表された『最期の誓約』という作品があって、有名な戯曲賞や芸術賞も受賞してるんだけど、これもミステリー要素があると再評価されてリバイバル公演がされたんだよ。でも、これも大阪と東京だけ。地方民は辛いよね。あっ、そうそう。『最期』は『人の死に際』の方で、『誓約』ってのは『誓い』という意味だよ。この劇団の作品には英語のタイトルも付くんだけど、『His Last Vow』っていうんだよ。Vの方の『vow』。井沢さんなら分かるよね?」
シャーロック・ホームズのシリーズにそれほど詳しくない私でも分かったので
「『最後の挨拶』、原題は『His Last Bow』でしたよね」
と答えると、岡谷先輩は嬉しそうに続けた。
「作品の内容はコナン・ドイルの『最後の挨拶』とは全然関係ないんだけどこういう言葉の選び方は面白いよね。その後、『ケイは敬愛のケイ』が上演されるんだけど上演は大阪にある劇団所有の劇場だけ。当然ながらチケットは即完売だよ。小さな劇場みたいだからね。それでも、この頃になると劇団の人気が全国に広まって、舞台を観られなかったたくさんのファンからの要望に応えて、昨年に劇団直営の物販で部数限定で特に人気のある3つの作品、『最期の誓約』『湖の奥の闇』『ケイは敬愛のケイ』を収めた戯曲集が販売される、という告知が劇団の公式サイトでされた。私は予約開始の1時間前からパソコンの前で待機して、時間になったら必死に劇団のウェブショップへアクセスしてなんとか頑張って入手したんだ。
自社出版だからきっと受注生産だったんだろうね。注文してから1ヶ月半くらい経ってようやく立派な装丁の分厚い戯曲集が家に届いたよ。すぐに『最期の誓約』から読んだんだけど作品世界にすぐに引き込まれた。読み終えた時の衝撃は今でも忘れられない。どの作品も素晴らしかったし、栄本過客先生による序文や作品解説も良かった」
と一気に話し切った。
劇団の公演を観ていないはずの岡谷先輩が「舞台『最期の誓約』の内容は『最後の挨拶』と全く関係ない」ということを知っていたのは戯曲を読んだからなのね。
こんなにも熱弁する岡谷先輩を見るのは初めてだ。さぞや強い思い入れをお持ちなのだろう。
コアなファンの間では絶大な人気があるとはいえ、世間に広く知られている訳ではない「ケイは敬愛のケイ」という作品を文化祭の舞台演劇の演目に選ぶとは!岡谷先輩のこの作品への愛がそう駆り立てたのだろう。
「この作品をクラスの演目にしたいというのは先輩が提案したんですか?」
と私が尋ねると
「うん。でも『劇団:The Arrow Swamp Company』の作品が好きな演劇ファンの男子がたまたまクラスにいて、川岸くんっていうんだけどね。ちゃんと川岸くんも戯曲集を持っていたよ。川岸くんは『最期の誓約』を上演したいと考えていたんだけど、私は『ケイは敬愛のケイ』を推していて、方針が合わなかった。でも、『ケイは敬愛のケイ』の方が文化祭での上演に適していることを論理的に理由付けて説明したら納得してくれた。それで、ふたりで一緒に『ケイは敬愛のケイ』を文化祭の演目の候補として挙げたんだよ」
と経緯を説明してくれた。
段階としてはアメリカ大統領選でいうところの予備選挙を戦ったところまでだ。
「劇団:The Arrow Swamp Company」党の予備選挙を「ケイは敬愛のケイ」候補と「最期の誓約」候補が争い、「ケイは敬愛のケイ」候補が勝利し、本選挙に出馬することになった。
それにしても同じ劇団のファンの生徒を理詰めで説得する辺りが岡谷先輩らしくてカッコいい。
その次の話題は私にも予想出来たので
「クラス内での演目選びはどうでした?」
と私は尋ねた。岡谷先輩は小さく頷いてから
「初めは10作品くらいが候補として挙げられていて、何日もかけて吟味されて最後まで残った2つの作品での決選投票になった。もうひとつの候補は去年の高校演劇の全国大会で最優秀校に選ばれた高校が上演したオリジナルの演目だよ。舞台の上演時間がうちの文化祭のルールにちょうど合うし、内容もなかなか面白そうな作品だった。私たちの方が若干優勢ではあったんだけど決選投票を2回行っても全体の3分の2以上の票を得られなかった。膠着状態になってかなり揉めたよ」
と経緯を話した。
そんな有望な対抗馬と競ったのだから、揉めるのは仕方ないね。
「大変でしたね」
と私が合いの手を入れると、岡谷先輩は少し肩を落としてから
「うん。3回目の決選投票で決まらなかったら、一旦保留にして頭を冷やしてから1週間後にもう一度話し合おう、ってことになったんだ」
確かに少し時間を置いて冷静になった方が良い場合もあるもんね。
岡谷先輩は少し嬉しそうな表情になって続けた。
「でもね、そのタイミングで意外な援軍が現れたんだ。『ケイは敬愛のケイ』の台本を読んで気に入ってくれた水泳部のふたりが『この作品が選ばれたら自分たちは是非とも出演したい。演目が決まる前から配役なんて決められないと思うけど、自分たちはこの作品に出演したいからそれだけは言わせて欲しい』と高らかに宣言してくれたんだよね。嬉しかった。それをきっかけとして議論の流れが変わってみんなが納得してくれて、最終的には全員一致で上演作品に選ばれたんだ」
紛糾したクラス会議の経過が結末まで語られた。
「その水泳部のおふたりのおかげで丸く収まって良かったですね。うちのクラスの演目選びも川上くんが舞台監督に名乗り出た途端に決着が付きました」
と似たような経過を辿った1年D組の演目選びの状況を伝えた。それを聞いてやや驚いたような表情をした岡谷先輩は
「そういう影響力のある人って、意外とどこにでもいるんだね。学校内でも顔の広い坂木くんや久保ちゃんが私たちの側に付いてくれたのは本当に嬉しかったよ。特に久保ちゃんは1年生の文化祭のクラス演劇で主演を務めていたから実績もあったしね」
とその薄氷を踏む思いで得た勝利の理由を切々と語った。
岡谷先輩は中野先輩のことを「律」とファーストネームの呼び捨てで呼んでいるので同じクラスの生徒を「久保ちゃん」と呼んでいることには少しだけ違和感を覚えた。おそらく学校内で共通した愛称なのだろう。
でもよく考えたら、私たち1年生は一貫して「井沢さん」「筑間さん」「須坂くん」と呼ばれているし、3年生の先輩も「飯山先輩」「松本先輩」と呼んでいるから、むしろ逆に中野先輩だけが特別なのかも知れない。
改めてパンフレットを見直した。
<スタッフ>
・演出:川岸仁志
・音響:坂木悠
・プロップデザイン:岡谷奈津美
<キャスト>
・鞠尾蛍役:久保まゆみ
・声:坂木悠
キャストはふたりだけなのね。
でも、そのうちのひとりは役名が「声」と書かれているから、もしかして一人芝居なの?
「もしかして、一人芝居なんですか?」
と尋ねたが、岡谷先輩は首を左右に小さく振ってから
「ノーコメント。ネタバレは良くないでしょ?」
とだけ答えた。確かにそうですね。そこで、質問を変えて
「先輩は舞台監督をされないんですね」
とこのスタッフの布陣についての素朴な疑問を尋ねると
「私は演劇そのものに詳しい訳じゃないからとても演技指導なんて出来ないよ。演劇ファンの川岸くんが演出を担当してくれた。演劇部員じゃないしね。私が担当したのは脚本の共著者とプロップデザイン。キャストでもある坂木くんは趣味で音楽をやってるから音響担当も兼任してくれた。BGMは全て彼の自作らしいよ」
とスタッフの役割分担について話してくれた。
作曲できてそれを音源として提供出来る人がクラスにいるのは凄い。楽器はピアノかな?今はパソコンでも音楽作成が出来るんだっけ?
私は音楽に疎いから、舞台音楽についてこれ以上話は広げられないけど、岡谷先輩の役割についてはもっと訊いてみたい。パンフレットには確かに「共同脚本:栄本過客、左京小紅」「プロップデザイン:岡谷奈津美」と記載されている。
左京小紅というのは岡谷先輩のペンネームだ。
舞台音楽について「坂木先輩の自作らしいよ」と言っている辺り、完成した脚本を他のスタッフやキャストに渡して、その後の舞台の製作については全くのノータッチなんだろう。岡谷先輩らしい潔さだ。
聴き慣れない専門用語が出て来たので遠慮せずに質問した。
「プロップデザインって何をする担当者ですか?」
「プロップデザインはまあ作品世界に登場する物品について決める係だよ。平たく言うと小道具係だね。実際は舞台のセットの指示も出したから舞台装置の責任者でもあるんだけど」
なるほど。
このお芝居の世界観を岡谷先輩が作り出したんですね。
岡谷先輩のもうひとつの役割についても尋ねた。
「共同脚本のところにも先輩の名前がありますが、具体的にはどういう仕事をされたんですか?そもそも原作があったはずですよね」
「うん。実際にやったことは元の戯曲を文化祭の2年生の舞台発表で許されている尺の中に収めるための圧縮だよ」
と私にもイメージ出来るところまで噛み砕いて説明してくれた。
ようやく理解できた。だが、大きな問題に気が付いた。
「脚本の圧縮って、難しい作業ですよね」
私がそう尋ねると、私から視線を外して少し離れたところにある大きな窓へ向け、そこから見える青い空をしばらく眺めてから
「まあ、大変だったよ」
と答えた。
しばらく無言だった。
大きなため息をついてから続けた。
「でも、なんとかその作業を完遂できたから文化祭で上演できるんだよ。私の持てる力を全て注ぎ込んだ作品だから自信があるんだ」
岡谷先輩がここまで言い切るからには期待が膨らむ。
「先輩が『自信がある』って仰ってるくらいですから、私はとても興味が湧きました。サスペンスっぽい作品ですしね。楽しみです」
「うん。ありがとう。でも、さっきからうちのクラスの話ばかりして、あんまり押し売りしてもよくないよね。うちも自信があるけど、律のクラスのB組の舞台も力作だからお勧めだよ」
「へえ、そうなんですね」
私はパンフレットのページをめくる。
2年B組の演劇の紹介は2年C組の前のページだ。
「『流民の轍』、ですか。初めて見るタイトルです」
紹介ページにはこう記載されてあった。
◎2年B組 演劇:「流民の轍 ~ランダの詩~」
作:牙兎巳虎(劇団:灰被り)
<スタッフ>
・製作:中野律
・舞台監督:水内克也
・音響担当:・・・・・
・衣装担当:・・・・・
・舞台装置:・・・・・
・小道具担当:・・・・・
<メインキャスト>
ランダ役:・・・・・
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
<概要>
2年B組は「劇団:灰被り」の社会派作品を上演致します。
戦禍を逃れてヨーロッパへやって来たひとりの少年に端を発する難民の家族の三世代に渡る物語である「移民の轍」のうち、移民三世となる少女の物語「ランダの詩」を上演します。
コミュニティーに根深く残る移民への差別と闘いながら強く生きる心優しい少女ランダの姿を通じて、家族の絆、戦争の残酷さ、平和の尊さ、社会の多様性のあり方などについて訴えかけます。
(文責:中野律)
私は「製作」という肩書が気になったので
「中野先輩は『製作』という役職で一番上に名前がありますね」
と尋ねたら
「うん、律が企画立案して全体を統括して仕切ってるからね。映画で言うところのプロデューサーだよ」
と教えてくれた。
なるほど、このクラスの演劇の製作指揮を執っているのか。
道理で中野先輩がいつも忙しそうだったわけである。
「難民の一家が主人公のお話で、それなりに話題になった作品だから井沢さんならタイトルくらいは知ってるかと思ったけど、知らなかったんだね」
「私は本当に演劇に疎くて、セミナー合宿でシェイクスピアの『リア王』を読むまで戯曲を読んだことすらなかったんです」
と自分の演劇に関する知識が今でもとても貧弱なことを正直に打ち明けた。
「まあ井沢さんも私と一緒でミステリーとかエンタメ小説が好きだから普通は舞台演劇を観ないよね。それにしても、セミナー合宿って今年のから始まった行事だっけ?確か1年生がクラス全員で同じ本を読んで討論会するんでしょ?そこで『リア王』を読んだの?凄いね」
「はい。文化祭で教室演劇をするからその基礎造りになればって感じで」
岡谷先輩は小さく頷いてから
「1年D組の人たちは考え方がなかなかしっかりしてるね。混んでても後でやっぱり舞台を観ておこうかな?」
と興味を持ってくれた。
「はい、是非お願いします。ドタバタコメディーだから先輩の好きなジャンルじゃないかも知れませんが、楽しんでいただけると思いますよ」
と私がアピールすると
「うん。分かった。考えとくね」
と淡々と答えた。これは口だけの返事ではなく、真剣に観劇することを検討してくれている証だと思う。岡谷先輩はそういう人だ。
依然として文集を買いに来るお客さんは全く現れない。そこへ中野先輩と稜子ちゃんが3階から階段を降りて来て現れた。
メガネをかけていて初対面の人には性格がキツそうな印象を与えるジャーナリスト志望の中野先輩は今日もポニーテールに髪を纏めている。一方、おっとりしたお嬢様のような雰囲気の稜子ちゃんは純文学が好きでサラサラの長い黒髪が特徴だ。
ふたりとも文芸部員なのだが、不思議と普段はあまり目にしない組み合わせだ。でも、私は午前中に1年D組の教室で実際に目撃していたから違和感を覚えなかった。
販売ブースまでやって来ると中野先輩は
「奈津美、店番を代わってくれてありがとう」
とまず自分の代わりにシフトに入ってくれた岡谷先輩へお礼を伝えた。岡谷先輩は黙って頷いた。大したことはしてない、という意思表示であろう。
そして、山積みにされた文集を一瞥してから
「ブースの方はどう?売れた?」
と尋ねた。同級生で友人同士なのでさすがに遠慮はない。
「午前中に松本先輩と須坂くんが2冊売ってくれたけど、私が店番を代ってからは1冊も売れてないよ」
と岡谷先輩は端的に答えた。
中野先輩は困ったような表情で
「やっぱり厳しいね。100冊も印刷したのは失敗したかな?」
と口にした。
「うん。そうかもね。明日からの一般公開で須坂くんのファンが買いに来てくれることを期待するしかないのかな?」
岡谷先輩もやはり同意見であった。
私は「やっぱり印刷部数を50冊だけにしておけばダメージが少なかったじゃない」と心の中で声をあげたが、このタイミングでこの言葉を口に出して言うことは後出しジャンケンなので卑怯だ。だから黙っていた。
岡谷先輩が話題を変えようと
「律と筑間さんは、どの出し物を観て来た?」
と尋ねると、中野先輩が
「飯山先輩のクラスの展示を見て来た。行列が出来てたから結構待たされたけど展示内容はとても良かった。『世界の詩歌』なんて地味なテーマでもしっかりとした展示をしてたらちゃんと評価されるんだね。来年の参考になったよ」
と答えた。
岡谷先輩も
「あの展示は良いよね」
と改めて絶賛した。
私もふたりの先輩が推しているその展示を観に行きたくなった。
「あっ!」
中野先輩は何かを思い出したようで、机に両手をつき、文集の山越しに岡谷先輩の方に身を乗り出して
「混雑といえば、『今日の出し物の中で一番混雑している』と評判になっている井沢さんのクラスの演劇は面白いから観たほうが良いと思うよ。私の観た回は主役の子が緊張してたのか最初はぎこちなかったけど中盤からの盛り上がりが凄かった」
と熱弁を奮い出した。珍しいこともあるもんだ。
クラスの演劇のプロデューサーを務めている中野先輩が1年D組のお芝居をこんなに褒めてくれるなんて、とても嬉しい。
岡谷先輩は平然としたまま
「律がそんなに褒めるなら、やっぱり井沢さんのクラスの演劇は観に行くべきだね」
と答えた。文字通り中野先輩のお眼鏡に適った、というだけで岡谷先輩の中でうちのクラスの演劇は評価が上がったのだと思う。
すると、稜子ちゃんも
「景ちゃんのクラスのお芝居はとても面白かったので私からもお勧めします。ただ、主役の人は大丈夫だったのかなあ?って心配しましたが」
と会話に加わった。表情が曇り、心配そうな表情になった。
その意を汲んだ岡谷先輩が
「何かトラブルがあったの?」
と稜子ちゃんに訊いたので、その場に居合わせた私が状況説明をした。
「えーっと、トラブルというか、アドリブでちょっと刺激の強いシーンがあって。でも稜子ちゃんのおかげで上田くんはもう元気になったから大丈夫だよ。さっきも一緒にお昼を食べてたから大丈夫。上田くんはとっても感謝してたよ」
それを聞いて稜子ちゃんは
「そうですか。それは良かったです」
と笑顔に戻った。
岡谷先輩は涼しい表情のまま
「まあ、生の舞台では色々あるだろうからね」
とだけ述べた。
せっかくだから先ほど話題に上がっていた2年B組のクラス演劇について中野先輩に訊いてみよう。岡谷先輩が「大作」と評するくらいだから、何か良いお話が聴けるかも知れない。
「中野先輩のクラスの演劇の出来はどうですか?私、初めてこのタイトルを知ったんですが」
中野先輩は若干呆れ顔になって
「井沢さんも知らなかったか。須坂くんは知ってたけど、筑間さんも知らなかったから、やはり一般的にはあまり知られてないんだね」
と残念がった。
「すみません」
と私が謝ると
「気にしないで。元々は移民家族の三世代に渡る物語を三部構成で描いた長い舞台なんだけど、牙先生と劇団の許可を取って第三部のランダの話だけを上演することにしたんだよ。現代に一番近い時代を描いていてメッセージ性も高いからね」
と演目について説明をしてくれた。
確かにメッセージ性の高い作品ならば中野先輩が製作に乗り出すのも合点が入った。
「中野先輩はやっぱり普段からよく演劇を観ていらっしゃるんですか?」
と尋ねると、中野先輩は首を横に小さく振ってから答えた。
「いいや、それほど観てないよ。『流民の轍』の舞台がテレビの芸術番組で放映されますよ、という番組紹介がいつも観ている報道番組であってね。ヨーロッパの移民問題を扱った作品で面白そうだったから録画して観てみたんだよ。1年くらい前の話だね。良い作品で気に入ったから何度も繰り返して観た。それで、2年生になったら文化祭で絶対にこの作品を上演しようって心に決めて、自分なりに演劇について勉強したり、題材となった移民問題について勉強したりして準備したんだよ」
「それで満を辞してクラスの演目として提案したんですね」
と私は当たり前のことを私は訊いた。
「うん。うちのクラス、2年B組には1年生の文化祭でテアトル大賞を取ったクラスの舞台監督だった水内くんがいたから彼にも声をかけてみたらその案に賛同してくれてね。演出を担当してくれたのが大きかったかな。彼は囲碁将棋部の部員で演劇部じゃないからね。クラスの会議でも大多数の賛成を集めて演目に決まったんだけど、水内くんの協力がなかったら無理だったかも知れないね」
と中野先輩はクラスでの演目決定の経緯を話してくれた。
中野先輩は1年前からそんなにしっかり準備して2年生の文化祭に臨んでいたのだ。私はその胆力に感銘を受けた。
テアトル大賞というのは、文化祭において1年生の教室演劇で最も得票数が多かったクラスに与えられる賞である。
2年生が体育館の舞台を使用して上演する舞台演劇の最優秀作品賞がグランプリと呼ばれるため、テアトル大賞はプチ・グランプリとも呼ばれる。
2年生のどのクラスもグランプリを目指して頑張っているし、1年生の教室での演劇公演もそれに向けての準備なのである。
1年生も2年生もクラス演劇で表彰されるのは作品に対してであって、最優秀演出家賞や主演女優賞といった個人賞は選ばれないそうだ。だからその水内先輩はあくまで「テアトル大賞を取ったクラスの舞台監督」なのだ。舞台監督として1番だと評価されている訳ではない。
それを受けて、岡谷先輩は
「B組は律の企画力と、水内くんの実績と、何より作品自体の素晴らしさから、前評判では今年のグランプリの最右翼と言われているんだよね」
と学内での2年B組の舞台への期待値の高さについて言及した。中野先輩は今度は首を左右に大きく振ってから
「そんなに甘くはないよ。その期待に応えるだけの準備はして来たつもりだけど、グランプリを獲れるかどうかは観てくれた人の投票で決まる訳だから、結局はお客さん次第だね」
とあくまで謙虚な姿勢を示した。
舞台の優劣を決めるための票を投じるのはその舞台を観に来てくれたお客さんたちなのである。製作者の創意工夫や努力を客観的に評価されて決まるのではない。
その大切な基本を忘れていないあたりが手堅い中野先輩らしい。
これは2年生の演劇のグランプリだけじゃなくて1年生の演劇のテアトル大賞も同じだ。私も肝に銘じた。
中野先輩は逆にこう切り返した。
「でも、別の見解もあるよ。去年のテアトル大賞をあのクラスが獲得したのは舞台監督の力量よりも主演女優の演技が凄かったことこそが勝因だ、とする説ね。水泳部の久保まゆみさん。今年は奈津美のクラスで主演するんでしょ?あの子がいるからグランプリの真の本命は2年C組だって推す人も多いみたい。彼女の存在は大きいと思う。何せ『The Chosen One』、つまり『選ばれし者』って呼ばれるくらいだからね。それに加えて、奈津美が脚本に参加しているからには何か凄い仕掛けをして来るはずだ、と私も個人的に期待してる」
中野先輩と岡谷先輩、水内先輩と久保先輩という盟友が2つの陣営に分かれて文化祭の大舞台で対決する。
これはとても滾る展開ではないか!
それに加えて2年C組の演目決めに決定的な影響力を持ち、中野先輩に「選ばれし者」とまで言わしめる久保先輩の演技を是非とも観てみたい、と私は渇望感に近い欲求を抱くようになった。
しかし、熱いエールを受けた岡谷先輩は飄々としたまま
「作品の内容についてはノー・コメントだよ。でもね、1年生の時に教室演劇でテアトル大賞を取った舞台監督が2年生の舞台演劇でグランプリを取るっていうケースが実際には多いんだよね」
と答えた。
舞台の詳細については沈黙を守ったままだった。そして、過去のデータなのかジンクスなのか判断できないけれど、2つの賞の「関連性」があることを教えてくれた。
テアトル大賞を取った舞台監督がグランプリを獲得する、という傾向があるんだね。
うちのクラスの舞台監督の川上くんの熱意と稽古の厳しさと演出プランの的確さは他の誰よりも私が一番知っているつもりだ。川上くんならきっと来年の文化祭でも舞台監督をするに違いないだろう。確かにあの勢いならばグランプリを狙うことも不可能ではないだろう。
恐らく私には関係ない話だろうけど、川上くんが作り上げた2年生のクラスの演劇は観てみたい気がする。
岡谷先輩の提唱した「演出担当者こそが重要だ」という説を受けて、中野先輩は
「でも1年生の文化祭でテアトル大賞を取ったクラスのメインキャストがいると、2年生でグランプリを獲る可能性が有意に高くなるっていうデータもあるみたい。去年の文化祭の久保さんは凄かったからね。あそこまで絶対的な実力のあるキャストはどのクラスだって欲しいはずだよ」
と演者の重要性を主張した。
岡谷先輩は相変わらず涼しい表情のまま
「ふ~ん。やっぱり久保ちゃんは大人気だね」
とだけ答えた。
実は現在の文芸部で部長・副部長として双璧をなすこのふたりの先輩はこと文化祭に関してはバチバチのライバル関係にあるのね。
今更ながら理解出来た。
そんな論戦が繰り広げられている最中も稜子ちゃんは黙ったままパンフレットを読んでいた。奥ゆかしい人なので、一歩引いてことの成り行きを見守っていたのだろう。
話が一段落ついたのを見極めてか、顔を上げて
「中野先輩のクラスのお芝居は面白そうですね。演劇に詳しくない私にも楽しめそうです。ちゃんと観に行きますね」
と中野先輩に告げた。
「ありがとう。楽しんでくれたら嬉しい」
中野先輩もそう笑顔で答えた。
私はすでに自分のパンフレットの2年B組の「流民の轍」と2年C組の「ケイは敬愛のケイ」のページに二重丸をつけていた。
この2つのクラスの舞台は絶対に見逃せない。中野先輩と岡谷先輩の会話を聞いたことでその思いは確信に近いものになっていた。
この2つ以外にも期待出来る2年生のクラスはあるかも知れない。
文集を買いに来るお客さんは一向に現れないので、せっかくだから先輩方にお勧めのクラスについても訊いてみよう。こういうことは信頼できる審美眼を持つ人から教わるに限るので。
「2年生の演劇で、他にお勧めのクラスはありますか?」
その問いに対して、まず中野先輩が
「前評判が高いのは、2年A組の『徂徠豆腐』と2年F組の『君さりし夜』かな?」
とふたつの作品を挙げ、それを受けて岡谷先輩も
「うちのクラスでもその2つは前評判が良かったよ。あとはE組の『夜のしじま』かな?」
と教えてくれた。
ふたりが推した「徂徠豆腐」と「君さりし夜」はよほどの有力作品なのだろう。
この時、私は「君さりし夜」ってタイトルをどこかで聞いたことがあることに気付いた。
稜子ちゃんがパンフレットをめくって確認してから
「その『そらいどうふ』というのは、何か特別なお豆腐の出てくるお話なのでしょうか?どんな作品ですか?」
と尋ねた。
私もパンフレットの2年A組を紹介しているページを開いて「徂徠豆腐」という漢字を確認したが、タイトルの意味するところが全く理解出来なかった。
中野先輩は私たち1年生のふたりには説明が必要だと気付いたようで
「『徂徠豆腐』は古典落語の演目をお芝居にしたお話だよ。いわゆる人情噺だから、分かりやすくいうと時代小説のドラマみたいな感じだね。この作品には『語られない大きな物語』が隠されているから面白いよ。私も初めて知った時にはとても驚いた。その空白の部分を舞台でどう表現するのかが楽しみだね」
と説明をしてくれた。なるほど、落語の演目なのか。
岡谷先輩も
「私も同感。ネタバレしない方が良いから事前に何も調べずに観ると良いと思うよ」
とおすすめの鑑賞法を教えてくれた。
稜子ちゃんから
「原作が古典落語なら須坂くんが好きそうですね」
と須坂くんの話題が出たので岡谷先輩は
「うん。須坂くんも楽しみにしてたよ。以前、部室で私と律がA組の『徂徠豆腐』の話をしていたら、須坂くんも話に加わって持論を熱く語ってたことがあるからね」
当然、私はその古典落語についても知らないので、文化祭のパンフレットでしっかり確認する。
◎2年A組 舞台:徂徠豆腐
原作:古典落語・講談・浪曲
<スタッフ>
・舞台監督・上演台本:勝沼茂一
・舞台装置:・・・・・
・音響担当:・・・・・
・衣装担当:・・・・・
<メインキャスト>
・上総屋七兵衛:・・・・・
・学者:・・・・・
・七兵衛の妻:・・・・・
<概要>
2年A組は日本の古典芸能の演目「徂徠豆腐」を舞台演劇として上演します。
江戸の町で豆腐売りをしている七兵衛は、ある日ひとりの学者へ豆腐を売る。七兵衛の豆腐をたいそう気に入ってくれた学者であったが、貧しさ故にその代金を支払うことが出来ない。その事情を聞いた七兵衛は”ある提案”をして学者を支援することに。
しかし、ひょんなことから学者は行方不明となり、七兵衛の身にも苦難が降り掛かる。
七兵衛の運命やいかに!
(文責:勝沼茂一)
落語は会話劇だからお芝居にするのも容易いだろう。
少なくとも小説を戯曲化するよりは簡単じゃないかな?
そう感じたので
「落語を演劇にするってよくあることなんですか?」
と私が尋ねると
「過去の文化祭で上演された演目を詳しく調べたことがないからよく分からない。井沢さんも筑間さんも知ってると思うけど、文化祭のクラスの演劇では1年生の教室演劇でも2年生の舞台演劇でも演劇部の部員がキャストになったり舞台監督を務めたりオリジナルの脚本を書いて提供したりするのは暗黙のルールで禁止されているでしょ?」
と岡谷先輩が答えてくれた。
稜子ちゃんは驚きの声をあげた。
「そうなんですか!知りませんでした」
私も初耳だったので
「うちのクラスにも演劇部の人がいないから私も知りませんでした」
と正直に言った。
岡谷先輩は説明を続けた。
「球技大会では、その競技の部員、例えばバレーならバレー部員、サッカーならサッカー部員は各クラスのチームにふたりまでって制限されているでしょ。確か体育祭の100m走には陸上部員は出ないよね。そういう暗黙のルールがあるから演劇部員はクラス演劇で主だった仕事をできないことになってるんだよ。だから、演技や演劇指導が出来そうな人っていうと、うちの学校は映画研究部があまり盛り上がっていないから、人前で演じるのに慣れている落語研究部の部員が演者になったり舞台監督をしたりすることは多いみたいだよ。もちろんA組の勝沼くんは落語研究部の人だね」
なるほどね。
私は須坂くんが脚本を提供した際に映画研究部の実情を知ったからなおのこと腑に落ちた。
岡谷先輩はさらに話を続けた。
「実際、噺家さんで俳優の仕事もやっている人も多いよね。プロとアマチュアを一緒にしてはいけないだろうけど。うちの高校の落語研究部でも毎年のようにキャストとして出演するのはもちろん、舞台監督を担当する部員もいるんじゃなかったかな?え~と、確か、去年も」
「奈津美!」
中野先輩が珍しく険しい表情でその言葉を制した。
どうしたのだろう?
私と稜子ちゃんは事情が飲み込めず黙っていた。
厳しく咎められたはずの岡谷先輩は涼しい表情のまま続けた。
「いや、なんでもない。私の勘違いだから忘れて」
「はあ」
どうリアクションを取ったら良いのか分からず私は間抜けな間投詞を入れるだけであった。
その後、しばらく沈黙が続いた。
中野先輩はなおも無言で岡谷先輩を見つめていた。心の中で叱責しているのだと思う。
その場の雰囲気が途端に悪くなった。
私のせいだ。
私が落語と文化祭の演劇の関連性を話題にしたのが悪かったのだ。
空気が重い。どうしよう。
私の前に立っていた稜子ちゃんには私の暗い表情が目に入ったのだろう。目が合うと優しい眼差しで見つめ返された。「大丈夫です。任せて下さい」と語りかけるような眼差しだった。
そして、小さく頷いてから
「あ!」
と小さく感嘆して
「思い出しました!『君さりし夜』って今年とても話題になったお芝居ですよね」
と話題を変えた
気まずい雰囲気を消したかったからだろう。
まさしく救う神あり、である。
上田くん風に言うならば「筑間さんマジ天使」だね。
中野先輩は穏やかな表情に戻って
「うん、そうだよ。筑間さんも知ってたね。かなりシリアスなヒューマンドラマだよ」
と答えた。
話題を変えてくれたので、きっと引っ込みがつかなくなっていた中野先輩も助けられたと思っているだろう。ありがとう稜子ちゃん。
それにしても、気になる。
「君さりし夜」という題名でシリアスなヒューマンドラマね。
なぜか引っかかるなあ。
中野先輩の言葉を受けて、稜子ちゃんは
「そうですね、『君さりし夜』はそういう風に新聞で紹介されていたと私も記憶しています」
と自分も理解したことを告げ、すかさず
「ちなみに、もうひとつの作品はどういうお芝居なのですか?岡谷先輩がお勧めされていた作品です」
とさらに「徂徠豆腐」から遠ざかる方向へ話を進めてくれた。
稜子ちゃんは中学時代まではかなり有望なテニス選手だったとのことなので、咄嗟の対応や駆け引きが上手い。不器用な私にはとても真似が出来ない芸当だ。
その質問に対して岡谷先輩は
「『夜のしじま』のこと?うん、ラブストーリーだね。ちょっと大人な感じの」
と涼しい顔でさらっと答えた。
その答えを聞いた稜子ちゃんは頬を赤らめて沈黙してしまった。
稜子ちゃんはとても純粋なので、「大人っぽいラブストーリー」と聞いて恥じらいを見せたのだ。私もそのしおらしさを少しは見習わないといけないね。
でも、ここまで雰囲気を変えてくれただけで嬉しかった。
私は心の中で稜子ちゃんに感謝を伝えた。
ここからは私が受け持とう。
私にはそんな上品な照れ臭さはないので、迷わず素直に脳裏をよぎった疑問を投げかけた。これだからいけない。
「え?文化祭でそういう系統の作品を上演してもいいんですか?」
岡谷先輩は相変わらず淡々と答えて
「別に成人向けの作品じゃないから大丈夫だよ。私たちだってもう高校生だしね。ラブストーリーを上演したからってお咎めはないよ。確か恋人の役を演じる主役のふたりは実際に付き合ってるクラス公認の間柄だとか噂に聞いたけど、そうなの?律は知ってる?」
と急に中野先輩に話を振った。
その質問を受けた中野先輩は
「私もそのふたりと親しい訳じゃないから詳しくはないけど、一緒に登下校しているところをよく見かけるから、その噂は本当なんじゃない?」
とあっさり答える。
このやりとりを見ている限り、さっきの件で岡谷先輩と中野先輩の間にギクシャクした関係性は生まれていないと思う。良かった。
ただ、会話の中に実際に男女交際している先輩たちが登場したのもあってか稜子ちゃんはさらに顔を真っ赤にして俯いてしまった。
私は続けて尋ねた。
「初めて聞くタイトルですけど、そのクラスの方が書かれたオリジナル作品なんですか?」
岡谷先輩はしばし思案してから
「確か、元々はラジオドラマか朗読劇、そういう系統の作品じゃなかったかな?ごめん、あんまり詳しくないんだよね。ただ、E組の稽古を見せてもらったうちのクラスの子が『E組の舞台はなかなか良さそうだ』って言ってただけだから」
と答えてくれた。
他のクラスのお芝居の稽古を見に行くこともあるのね。私にその発想はなかった。
私も川上くんも1年生の他のクラスや2年生のクラスの演劇の練習を見に行ったことなんてなかったし、逆にうちのクラスの稽古を他のクラスの生徒が見学に来ることもなかった。思い返せば時々、私たちが教室で稽古している様子を廊下から見ていた人たちがいたような気がするけれど、あれは正式な見学者ではないもんね。
私は後学のために訊いてみた。
「2年生のクラス演劇の稽古はお互いに見学し合うのが普通なんですか?」
その話題に触れた岡谷先輩は
「うん。まあうちのクラスは参考にならないと思うから稽古を見に来た他のクラスの人はいなかったみたいだよ。律のクラスはどう?」
と中野先輩に質問を振った。
岡谷先輩のクラスの稽古が何故参考にならないかはとても気になるけれどその理由を話せばお芝居の内容に触れることにだろうなるからきっと話してくれないだろう。
「うちの稽古を見に来た他のクラスの生徒は結構いたよ。水内くんがどんな演出プランを練っているか?とかどんな風に普段の稽古をしているのか?は気になる人が多いだろうからね」
と中野先輩は答えてくれた。
やはりテアトル大賞を取ったクラスの舞台監督は他のクラスからも一目置かれているんだろうね。
「2年B組は注目されてますね。私も稽古を見せてもらいに行けばよかったかな?」
と後悔の念をこぼすと、中野先輩は
「うん。やっぱり同じことを考える人はいるよね。実は同じブロックということもあってか、1年B組の舞台監督の子が熱心に水内くんのところへ来て色々相談してたみたいだよ。逆に何度か1年B組の稽古を見に行った水内くんも『良い舞台になりそうだ』って太鼓判を押していたのを覚えている」
と1年B組の舞台監督さんの話をしてくれた。
えっ?1年B組にはそんなにしっかりした舞台監督がいるの?
2年生のクラスの演劇の稽古を観に行って、自分のクラスの稽古も観てもらってたの?凄いよ。
私は自分のことに精一杯で、他のクラスのことまで気が回らなかった。
改めてパンフレットのページをめくり、1年B組の紹介ページを開く。
☆1年B組:舞台「或る放課後の出来事」
・脚本:鳥栖ロバ
<キャスト>
美術部
・荒川(1年生):・・・・・
・井上(2年生):・・・・・
・安達(3年生):・・・・・
・高橋(3年生):・・・・・
・萩尾(顧問) :・・・・・
サッカー部
・松井(2年生):・・・・・
<スタッフ>
・舞台監督:上里莉緒
・音響:・・・・・
・衣装:・・・・・
・舞台装置:・・・・・
・小道具:・・・・・・
・劇中の絵画:上里莉緒
<概要>
:1年B組は舞台「或る放課後の出来事」を上演致します。
ある6月の雨の日の放課後に高校の美術部のメンバーが展覧会に出展するための作品を制作しているところへ、サッカー部員の松井が現れる。
絵画の制作を通して4人の美術部員と松井は次第に打ち解けて行き、松井から美術室を訪れた理由を聞かされる。
学校の美術室という小さな空間でほんの短い間に起きたちょっとした出来事を描きます。
(文責・上里莉緒)
「上里莉緒」という名前だから、この舞台監督は女子生徒に違いない。
しかも作中に出てくる絵も描いているんだね。
残念ながらこの人とは面識がない。
「1年B組の舞台監督は女子なんですね」
とつい口に出してしまったが、中野先輩は
「舞台監督は力仕事じゃないんだから別に男子でも女子でも構わないと思うけど、うちの高校は男子生徒の方がかなり多いから確率的に女子で舞台監督をする生徒は少なくなるよね。でもこの上里さんはしっかりしてるから適任だよ」
中野先輩がそう評価するなら上里さんという人はクラスをまとめるリーダーの素養をお持ちなのだろう。私とは大違いだ。
私は別に賞レースに拘っている訳ではないからうちのクラスのお芝居とこの1年B組とどちら優れているのか?という点については興味がない。
ただ、1年B組がどれほどの舞台を見せてくれるのか、ということに純粋に興味がある。
「或る放課後の出来事」は私が全く知らないタイトルだけれど、実績のある水内先輩が出来栄えを評価しているのだから、きっと素晴らしい舞台に違いない。
この作品や鳥栖ロバという劇作家さんを私は知らない。もしかしたら、岡谷先輩のようにそのクラスの生徒、例えばその上里さんのペンネームである可能性も考えられたので
「この1年B組の演目はオリジナル作品なのですか?」
と中野先輩に尋ねてみると
「違うよ。確か、少し前に高校演劇の全国大会で最優秀校に選ばれた高校の演劇部が上演した作品だったはず。時間も短いし、技術的に無理な要素も少ないし、上演許可ももらいやすいから良い選択だと思う」
と答えた。
それを聞いた稜子ちゃんは
「オリジナルの脚本を書いて文化祭で上演するクラスもあるんですか?」
と尋ねた。ひとりの物書きとして興味が湧いたのであろう。もう頬の赤みも消えていた。
岡谷先輩は
「今年はないよ。確か演劇部は今年も桑村先輩のオリジナル作品じゃなかったっけ?あの人は凄いよね」
と答えた。当然ながら演劇部の舞台のことを知っていた。
「はい。とても楽しみにしています」
と私も賛同した。
実は既にパンフレットの演劇部の紹介ページを読んであって、二重丸をつけてあるからね。
演劇部部長の桑村直美先輩は学校内の運動部と文化部の部長たちで構成される部長連絡会議、通称・部長連の代表を務めている。
生徒会長・自治会長と並んで学校内で一番偉い3人の生徒のひとりである。
文化部の部長の身でしかも女子生徒でありながら学内の全ての部活動を統括する立場にある。
だからと言って、ただ単に政治力がある偉い先輩、という訳ではなく、本業の演劇においても文化祭の舞台発表では脚本・演出・主演をひとりで担うほどの実力者なのだ。
過去に演劇部の部室でお会いした時にはその美貌と毅然とした態度に圧倒された。午前中にうちのクラスを訪れて下さった時には周りの人を惹きつけるオーラに魅了された。
あの人が舞台上でどれだけ輝き、素晴らしいお芝居を見せてくれるのか、期待せずにはいられない。
岡谷先輩は小さく頷いてから続けた。
「桑村先輩は特別だから例外として、2年生の演劇でもオリジナルの脚本を書いたり、小説や漫画を元にして台本を作ったりするクラスもごく稀にあるみたい。でも、どちらも技術的にかなり難しいことだから大抵は既存の短めの戯曲を上演したり、うちのC組のように構成を変えたり、律のB組のように作品の一部だけ抜き出したりして上演することが多いんだよ。2年生の演劇発表には準備から撤収まで入れて90分に納めないといけないという制約があるから、一般的な商業演劇の台本のままだと時間が足りないんだよ」
それを受けて中野先輩は
「もちろん、上演に際して、著作権が切れていない作品の場合には原作者とか劇団とか権利を持っている人たちに許可を得ないといけないし、許諾料も発生する。長いお芝居の一部だけを上演するB組みたいに、作品に何らかの改変を行う場合には当然ながら許可を得ないといけない。創作物というのは大切にしないといけないからね」
と補足説明をした。
1年D組のクラス演劇の場合は劇団や劇作家の先生との交渉は全て担任の沢野先生にしてもらってしまったからその苦労を私は知らない。他のクラスはどうだったのだろうか?
2年生の文化祭の演劇には生徒が自分たちでそういう「大人との交渉」をしないといけないというハードルもあるのか。なかなか厳しい。
今回は貰い事故みたいなものだから、来年も私がクラスの演劇で重責を担うことになるとはとても思わないけれど、もしも携わることになるのだったらそうした困難に立ち向かう覚悟が必要であることだけはよく覚えておこう。
そこまで考えて、ようやく私は思い出した。
先ほど話題に上がった「君さりし夜」という作品は、確かうちのクラスの演目を決める時に「Round Bound Wound」とともに最終候補に残っていた作品だったのではなかろうか?
私は慌ててパンフレットのページをめくる。
◎2年F組 演劇:「君さりし夜」
作:さわむつみ(劇団:ジェット気流)
<スタッフ>
・舞台監督:・・・・・
・音響担当:諏訪遥香
・衣装担当:・・・・・
・舞台装置:・・・・・
<メインキャスト>
・新藤波郎役:・・・・・
・・・・・
・・・・・
・・・・・
・・・・・
<概要>
2年F組はヒューマンドラマ「君さりし夜」を上演致します。
東京で会社員としてがむしゃらに働き続ける生活に疲れた主人公・新藤波郎は、家庭の事情により故郷へ戻って実家の温泉旅館を継ぐ。
幼なじみたちからの温かい歓迎や初恋の人との再会によって、波郎が苛烈な都会での生活の中で失ってしまった人間性を取り戻していく姿を描いた作品です。
(文責:・・・・・)
間違いない。
やはり、1年D組でも最終候補に残った作品であった。
「君さりし夜」は今年初演されたシリアスなヒューマンドラマで、いくつかの戯曲賞を受賞している。
ドタバタコメディーの「Round Bound Wound」とは対照的な作風だったからかなり意見が割れた。クラスの中には楽しいお話が好きな生徒もいるし「君さりし夜」のような心に沁みる作品が好きな生徒もいるから当然だ。
川上くんの鶴の一声で不思議とクラスが一体となって穏便に演目が決まったのはとても良かったと思う。
2年F組の音響担当として名前が載っている諏訪遥香さんは昨日の体育祭で目立っていた先輩で、学校新聞に写真付きで紹介されていた。
裏方じゃなくてキャストとして舞台に上がってもらえば良いのに。
あれだけの大歓声が沸き起こるほど人気のある美人さんだから舞台映えしそうだろう。男装して出演しても評判になるだろうに。
もったいない。
「この『君さりし夜』はうちのクラスも演目を決める際に最後まで候補に残っていました。確か、東京編と帰郷編の二部構成のうちの帰郷編なんですよね」
と私が伝えると、中野先輩は驚きつつも嬉しそうに
「そうなの?井沢さんのクラスにも演劇に詳しい人がいるんだね。今年の話題作だから当然かな?
確か、、、『朝まで疾走れ』という東京でのお話の後に『君さりし夜』を上演するのが本来の形だったよね。東京のお話の方は厳しい労働環境で主人公の神経がすり減っていく暗い話だよ。
社会人経験のない私たちには理解の範疇を超えるし『君さりし夜』への導入部分のような話だから、上演時間に制限があるなら普通は『君さりし夜』の方の上演を選ぶよね」
と説明してくれた。
中野先輩の話を聞いているうちに、だんだんと1年D組で議論されていた内容が明確に思い出されて来た。
「うちのクラスで『君さりし夜』を支持していた人たちも同じように説明していました。ただ、『新しい作品だから上演の許可が降りないだろう』というマイナスポイントも指摘されていました。そこが決定的な欠点だとうちのクラスでは問題視されていたのですが、2年F組はよく許可が取れましたね。驚きました」
と私はうちのクラスでの議論について話した。
中野先輩は小さく頷いてから
「私もF組が『君さりし夜』を上演するって聞いたから驚いたよ。F組の知り合いに聞いてみたんだけど、文化祭での上演なんて許可が降りないだろうけどダメで元々と劇団の広報の方にコンタクトを取ったら、『基本的には上演の許諾は全てお断りしていますが、とりあえずはさわむつみさんに確認します』という返事だったみたい」
そうした逆境から交渉を始まっていたことは予想できたけれど、私は困難に立ち向かった先輩たちの道行きについてもっと知りたかった。
「やっぱりそうなりますよね。2年F組の先輩たちはそんなに厳しい状況から交渉したんですか!」
中野先輩は続けた。
「劇団に問い合わせた子も『先生に確認します』なんてのは社交辞令だろうね、ってほぼ諦めていたみたい。でも、違ったんだよ。
劇団の広報担当の方がうちの高校の文化祭のことを調べてくれて、その上で実際にさわむつみ先生へ確認を取ってくれてね、『営利目的ではなく、高校生による文化祭での上演なら良いですよ』と許可が降りたんだって。上演許諾料も常識の範囲内だったらしいよ」
「そんな奇跡が起こるんですね」
と私は思わず口に出していた。中野先輩は小さく頷いてから
「うん、凄いよね。でもこの話には続きがあって、さわむつみ先生からお手紙が来たんだよ。ちょっと待ってね」
中野先輩はスマホを取り出すと操作してから
「あった、これだ。写真を撮らせてもらったんだよ。要点だけ読むね。『私も地方の高校の演劇部でお芝居を始めたおかげでこの世界に進むことが出来ました。皆さんのご活躍を願っております』という激励のお手紙だった。F組のみんなは『絶対にグランプリを取ってさわ先生に報告しよう』ってさらに結束したらしいよ」
とことの顛末を話し終えた。
稜子ちゃんは瞳を輝かせながら
「素敵なお話ですね。私はそのお芝居を観たくなりました」
と興味津々だ。
「私はクラスで配布された梗概しか読んでないけど、稜子ちゃんの好きそうなお話だからきっと楽しめると思う。どういう物語かは観てのお楽しみ」
と私からもこの作品をお勧めした。
私は「君さりし夜」というお話がかなり切なく悲しい終わりを迎えることを知っていた。でも、そのことは伏せた。せっかく名作との呼び声も高いお芝居だし、物語の結末を明かすことは絶対に避けるべきだもんね。
「ありがとうございます。2年F組の演劇の上演はいつでしょうか」
早速、稜子ちゃんはパンフレットで上演スケジュールを調べた。
「文化祭の3日目、日曜日の午後のお昼休み明けですね。ちょうどその日はお昼に合唱部の発表を観に行く予定なので、それに続けて観ることにします。もちろん先輩たちのクラスも観に行きますよ」
岡谷先輩は嬉しそうに
「ありがとう。うちのクラスの演劇はお客さんをハラハラドキドキさせるお話だから筑間さんが気に入ってくれるか分からないけど、律のクラスの『流民の轍』は文学的だから楽しめると思うよ」
と稜子ちゃんを気遣って自らの自信作のジャンルについて念を押し、その上で中野先輩のクラスの演劇を推した。
稜子ちゃんも笑顔で
「いえいえ、先輩たちが心を込めて作り上げた舞台ですから、私好みの作風かどうかには関係なく、どちらのクラスのお芝居もしっかり観させていただきます」
と明言した。
稜子ちゃんらしいコメントだ。
優しいなあ。
私もそれに続いた。
「私は土日はクラスの演劇があるから観に行けるかどうか分からないので、絶対に文化祭4日目のファイナル・ステージに残って下さいね」
絶対に観に行きます、と約束を出来ないのが辛い。
自分のクラスで演出助手やプロンプター係を引き受けたんだから仕方ないんだけどね。
中野先輩は
「そればっかりは自分で決められることではないから、最終選考に選んでもらえるように最善を尽くすしかないね」
と先ほどと変わらぬ謙虚な姿勢を続けた。
一方、岡谷先輩は
「私は出来たら、ミステリー好きの井沢さんにうちのクラスの舞台を2回とも観て欲しいけど、忙しそうだもんね。もしも観られなかったら後で教えて。クラスで両方の舞台を録画することになってるからそれを見せてあげるよ」
とファイナル・ステージに残ることを念頭に置いていた。
文芸部が誇る部長と副部長の名コンビだけど、考え方は好対照だ。
「それは嬉しいです。是非観せて下さい。お願いします」
と私は即座にお礼を伝え、顔の前で手を合わせてお願いした。
うちのクラスの舞台は2回とも観た方が良い、と岡谷先輩が言うのなら、その言葉の裏には何か根拠があるのだろう。
とても楽しみだ。
ワクワクして来た。
私の心はそんな状態だから
「それで、私からその忙しい景ちゃんに提案があるのですが」
と稜子ちゃんから切り出された時には反射的に
「何?」
とだけ答えた。我ながら素っ気ない。可愛げがない。
稜子ちゃんは間髪入れずに
「私は1年A組の演劇で特に役割があるわけではないので、可能な限り景ちゃんの代わりにこのブースの当番をしようと思ってます」
と自分が私の代わりに文芸部の店番をすると言い出した。
1年生は3人でほぼ均等になるようにシフトを決めたはずだから私には稜子ちゃんに代わってもらう理由がない。
「そんな、そんな。気にしなくても良いよ。私がいなくても川上くんがプロンプターをしてくれるから大丈夫」
と断った。私だけ特別扱いされるのは良くない。
しかし、稜子ちゃんは引かない。
「そんなことはありません。私は先ほどD組の舞台を観ました。やはり景ちゃんが会場にいないと大変だと思います。景ちゃんがここで店番をしていて舞台袖にはいないから、今もお芝居に携わっている皆さんはきっとお困りだと思います。だから今日の次の公演ではクラスに戻って下さい。私が当番を代わります」
「そんなの悪いよ」
とやんわりと断ると、稜子ちゃんは
「私なら大丈夫です。代わります」
と真剣な眼差しで私を見返した。私はすっかり忘れてた。いつも穏やかで優しい稜子ちゃんは心が強く、意思も堅い人なのだった。
こんな表情をする稜子ちゃんは初めて見た。
いや、先ほどの第二回公演が終わってからD組の教室の舞台の前にやって来て、上田くんに薬を渡したい、渡す薬が上田くんにとって安全かどうかを確認したい、と言い出した時にはもっと思い詰めたような顔だったなあ。あの時は心の底から上田くんのことが心配で、自分が救いたい、役に立ちたいっていう使命感があったのだろう。
この人は自分が開業医の娘として生まれたから、という理由ではなく、純粋に自分の前にいる困っている人、弱っている人を助けたいという信念があって医者になる覚悟を持っていると思う。私にはとても真似が出来ない。
実際に怪我をした上田くんのピンチと違って、私が舞台袖にいないことはそれほどのダメージではないと思う。だから敢えて稜子ちゃんに店番を代わってもらう必要はないとは思う。
とはいえ、もしも私がどんなに言葉を尽くして説得を試みたとしても、とてもじゃないけど稜子ちゃんのこの決心を揺るがすことは出来ないだろう。諦めた方がお互いのためではなかろうかと思い始めた。
静観していた中野先輩が間に入った。
「良いんじゃない?代わって貰えば。私たち2年生も公演の本番がある明日と、ファイナル・ステージに残ると信じて準備する明後日はあまり文芸部の方に来られないと思うからお互い様だと思う。協力し合って助け合えば良いよ。ねえ、筑間さん」
岡谷先輩も無言で頷く。同意見だということだろう。
稜子ちゃんはふたりも心強い味方を得て、笑顔で答える。
「はい」
仕方ない。
私は稜子ちゃんの優しさに甘えることにした。
「じゃあ、お言葉に甘えて。今日の第四回公演は午後2時半くらいからだと思うからそれくらいの時間に交代してくれる?」
稜子ちゃんは満面の笑みで
「はい、承知いたしました」
と快諾した。
少し、間を置いてから今度は一転して気まずそうに
「ただ、私も先輩方のクラスのお芝居や『君さりし夜』や合唱部の発表など観たい出し物がありますので、景ちゃんの全てのシフトを交代する、ということは出来ません。あのように偉そうなことを言っておきながら、自分でも言っていることが矛盾していることは分かるのですが、、、。ちゃんと整理できないまま提案をしてしまってごめんなさい」
とお願いされ、頭を下げられた。
私も自分の当番を全部代わってもらおうなどとは考えていないので
「稜子ちゃんが観たい演目がある時には無理して代わってくれなくていいからね。絶対に我慢しないでね」
と伝えた。それを聞いて稜子ちゃんはホッとした表情になった。
後でふたりで明日からのスケジュール調整をすることにした。
「その代わり、と言っては何ですが、景ちゃんには私と一緒に行って欲しいところがあるんです」
と稜子ちゃんはおずおずと切り出した。
断る理由はないので承諾した。
「もちろん良いよ。どこなの?」
「茶道部のお茶会に行ってみたいんです。クラスの友達を誘ったんだけど、どうしても無理なようなので」
「うん、分かった。実は私は去年も茶道部のお茶会に行ったんだけど、今年も行こうと思ってたからちょうど良かった。お昼休みの時間か須坂くんが店番をしてくれている時にでも一緒に行こうか」
「ありがとうございます。忙しい身なのに私に付き合わせてしまってすみません。お茶会は何となくひとりでは行き辛くて」
「うん。私も去年はひとりで参加して肩身の狭い思いをしたから気持ちは分かるよ。実はちゃんとしたお茶のいただき方を知らないの。正しい作法を教えてくれると助かるんだけど、稜子ちゃんは詳しい?」
「はい、私も本格的に茶道を習ったことはありませんが、一通りのお作法は心得ています。任せて下さい」
美しい所作でお茶をいただく稜子ちゃん。
実に絵になる光景だろうと容易に想像できた。
今年は稜子ちゃんに作法を教えてもらいながら参加できるから恥をかかずに済みそうだ。
そんな私たちの会話がひと段落ついたのを確認してから、中野先輩が
「じゃあ、私も筑間さんと一緒のタイミングで奈津美と交代して店番するよ。奈津美にも1年D組の舞台は観て来て欲しいから。筑間さん、この後、交代までの時間にもう少しどこかを回ってくる?」
と声をかけてくれた。
「そうですね、まだ少し時間がありますね。どこかの部活の発表かクラス展示を観に行きましょうか?」
「そうだね。良さそうな出し物はどこかなあ?」
中野先輩と稜子ちゃんは文化祭のパンフレットをパラパラとめくりながら面白そうな発表を探していた。
そんなふたりに岡谷先輩が提案した。
「3年E組のクラス展示はもう観た?松本先輩のクラスだけど」
「まだです。どういうテーマの展示ですか?」
と稜子ちゃんが反応した。
中野先輩はパンフレットをめくって該当するページを探している。
「国境なき医師団についてだよ。筑間さんは医学部志望だし、律はそういう国際的な人道支援活動に興味があるでしょ?ちょうど松本先輩も会場にいると思うから行ってきたら?」
掲載されているページを見つけた中野先輩がさっと目を通してから尋ねた。
「奈津美はもう見てきたの?」
「うん、見て来たよ。私は理系だけど医療とか医学とかには興味がないから、どちらかというと世界の紛争地帯の実情についての解説が面白かったかな?かなり詳しく調べてあったし、クラスの人が実際に国境なき医師団に所属している日本人のお医者さんに取材してあって現地の裏話なんかも結構詳しく話してくれたよ。その辺の内容は律も楽しめるんじゃないかな?」
なるほど、当事者から実情を聞いているのは確かに説得力がある。
3年生は受験勉強で忙しいから、文化祭のクラス展示はてっきり既存のメディアにある情報をまとめただけかと思ってた。
「私は医療ボランティア活動にも興味があります。その展示は見てみたいです」
予想通り稜子ちゃんは興味を持ってくれた。
たくさん勉強をしてお医者さんになることだけでも大変なのに、その上ボランティア活動にも意欲を見せるって、本当にこの人は前向きだ。
「そうだね。私も国境なき医師団や紛争地帯の現状について興味があるからちょうど良さそうだね。筑間さん、行ってみようか。奈津美、ありがとう」
と中野先輩も同様に関心を示した。
岡谷先輩は中野先輩の嗜好をしっかりと把握しているのだろう。
岡谷先輩が
「うん、楽しんで来てね。私も井沢さんのクラスの次の公演を観に行くことに決めたからそれまでにはちゃんと戻って来てよ」
と念を押したのに対して、中野先輩は大きく頷くと
「了解。じゃあ早速行って来るね」
と言い残して稜子ちゃんを連れて文芸部の販売ブースから離れ、階段を登って3年生の教室のある3階へ向かった。
気のせいかふたりが通り過ぎた後、振り返って視線で追っている男子生徒たちが散見された。あのふたりが一緒に歩いていたらやっぱり目立つよね。
上田くんの言葉を借りれば、ツンデレの先輩と清楚系お嬢様だそうだ。
さて、肝心の店番であるが、相変わらず誰ひとりとしてお客さんが来ていない。
こんなの調子で果たして残りの文集を売り切ることが出来るんだろうか?
えーっと、文化祭が始まった時点で残りは私が取り置きした6冊を除けば48冊で、午前中に2冊売れたから残りは46冊。
これをあと2日半で全て売るのか!
うん、絶対に無理だと思う。
ついつい私は愚痴った。
「先輩、文集が全然売れませんね」
「まあ、毎年こんなもんだよ。だから須坂くんが『200部刷りましょう』とか言い出した時に止めたんだよね」
岡谷先輩は「そんなことは想定の範囲内だよ」とでも言いたげに平然としている。
確かに200冊も印刷してたら泣きを見てたなあ。
今でも十分泣きたいけど。
そんな私の心中を察してか
「ところで、井沢さんってクラスの演劇のタイトルってなんだっけ?長い英語のタイトルだったよね」
と岡谷先輩は話題を変えた。
「長くて覚えにくいですよね。『Round Bound Wound』です」
「直訳すると『回って、弾んで、傷ついて』って意味なのかな?タイトルからドタバタコメディーって分かると思う。韻を踏んでいるから記憶に残り易いよね」
「確かにそうですね。シリアスな内容には思われ難いし、言い易いです」
「うん、その舞台の演出助手なんだよね」
「はい。文芸部員だからってなし崩しに決まっちゃって」
「そうだよね。文芸部の人間だからといって全てのジャンルの文学先品に長けている訳じゃないのに頼られるのは辛いよね」
そうなのよ!
岡谷先輩は私が演出助手に選ばれた時に感じたモヤモヤした感情をいとも簡単に言語化してくれた。やはりこの人は頭の回転が早い。
実際には私は演出の根幹に関わるような仕事をしていないので
「でも、実際には劇作家の先生から台詞の変更や省略といった改変は認めない、って言われてるから脚本をいじるようなあんまり難しいことはしてなくて、実際は稽古のお手伝いや参加できないキャストの代役や、舞台袖でプロンプターをやったりするだけの雑用係なんです」
と伝えた。
岡谷先輩はしばらく間を置いてから
「上演に際してのその条件は劇作家の先生の優しさだろうね。もちろん自分の作品を大切にすることも重要だろうけど、脚本を構成し直す作業は高校生には無理だろう、って考えているんじゃない?だから『脚本を改変するな』という大前提を設けたんじゃないかな?」
と舞台「Round Bound Wound」の原作者の津川マモル先生の意図を推察した。
「そうなんですか?確かにそう言われてみればそうかも」
自分の作品を上演してくれる人たちに無理はさせない。その発想はなかった。
「上演時間はどれくらいの長さなの?大体1時間くらい?」
と訊かれたので
「もう少し長くて、1時間15分くらいです。でもその設定された時間内に収めるのがなかなか難しくて毎回、5分から10分くらい長くなります」
と答えた。
「え!元々の長さが1時間15分もあるの?だったら1日に公演できる回数は少なくならない?」
「はい。午前2回、午後2回の4回だけです」
「そうなのね。だからさっき観に行ったらまだ上演中だったのか。公演の回数が少ないからお客さんが殺到して混雑しちゃうんだね。律が『今日の出し物の中で一番混雑している』と言っていたのも納得かな。短くできないなら仕方ないよね」
「ドタバタコメディーだから、うちのクラスは舞台の面積も他のクラスよりも広く取ってあるから客席数が少なくてあんまりお客さんが入れないんです。だからダメなのかなあ」
正直なところ、この演目を選んだおかげで上演時間と教室内のレイアウトにおいて他のクラスよりも不利な条件が重なったことを私は残念に思っていたのだ。
しかしながら、岡谷先輩は
「逆だと思うよ。むしろ好感が持てる。だってクオリティーを重視してオリジナルの脚本のままで、舞台を広く取ってのびのびと上演してるんでしょ?観客にとっては好ましいことだね。そういうところをみんなはちゃんと見てくれているはず。それは良い。観るのがますます楽しみになった」
と予想に反して褒めてくれた。嬉しい。
「ありがとうございます。2年生の演劇って準備や後片付けも含めて90分なんですね。短くないですか?」
と2年生の舞台の規定についても確認してみた。
他のクラスや文化部も使用する体育館で上演するのだから1年生の教室での演劇発表よりも制約は厳しいはずだ。
「うん。短いよね。本当ならば原作通りに2時間以上かけてじっくり上演できたらいいんだろうけど、所詮は文化祭の出し物だし、土日の二日間で全クラスが上演しないといけないし、あんまり長いとお客さんも疲れちゃうから仕方ないよ。実際のところ、素人の私たちにとっても1時間くらいの長さの芝居を集中力を途切れさせずにお見せするだけでも精一杯だしね」
「先輩のクラスの『ケイは敬愛のケイ』という原作はどれくらいの長さの舞台なんですか?」
「元々は2時間半くらい。それを70分にしたんだ」
「そんなに圧縮したんですか?それにそんな改変をよく許してくれましたね」
先ほど中野先輩が言っていたように著作物というものは大切にしないといけないし、上演するにせよ改変するにせよ、著作権を持っている人たちの許可が必要なはずだ。
「うん。上演を許可してもらうための交渉をする際に、うちの文化祭では上演時間の上限が70分くらいだということも伝えたんだ。栄本先生からは『この作品はかなり練り込まれた脚本で構成されていますから、更なる圧縮はおそらく無理でしょう』と厳しいコメントを頂いた。でもね、『あなたがやれると思ったのならばやってみなさい。協力はいたします。ただし、あなたにその実力がないと私が判断した場合にはその時点でこの話はなかったことにします』とも言ってくれたんだよ」
「それは『無理です』って言われているようなものですね。でも、そんな無茶な挑戦をしようとする先輩にその栄本先生は協力してくれたんですね。厳しいようで優しいですね」
「うん。門前払いされなかったのは嬉しかったよ」
「やっぱりシナリオの圧縮作業は大変でしたか?」
私がそう問いかけると、岡谷先輩はまたもや窓から見える青空をしばらく眺めてからため息をついた。
「あのね、現実世界でもさ、タイムマシンって出来てないよね。時間をどうにかするのって現代の科学では無理じゃない?とっくの昔に人類は月面へ到達したってのにさ」
なんだか壮大な物語が始まろうとしていた。物理学には全く詳しくないのでとりあえず私は
「はい」
と合いの手を入れた。
「最初は、好きな作品だから構成の仕事を引き受けたんだけど、やっぱり考えが甘かったよ。実際に改稿作業を始めてからそれを痛感して、戯曲なんて書いたことがない私が脚本の再構成をするなんて無理があると何度も諦めかけたんだよね。サスペンス系の作品って臨場感が重要だから物語の構成が最初からカッチリして無駄がないことが多いんだ。特に『ケイは敬愛のケイ』はそういう作品なんだよ。ネタバレしたくないから詳しくは言えないけど」
私がびっくりするようなトリックの推理小説を普段から書いてる岡谷先輩でも弱音を吐くことがあるのね。
「でもさ、このお芝居を文化祭で上演したい、みんなに観てもらいたい、って気持ちが全くぶれなかったから、めげずに頑張ってみたんだ。考えうる手段を全て試してみて、『これが一番良い出来だ』と思った草案を栄本先生に送ってチェックをしてもらうことにしたんだよ。全部で5パターンくらい書いたかな?」
「え?5種類も改稿案を思い付いたんですか?」
「うん。で、『考えついた5種類のアイデアのうち、一番良いと思ったものをお送りします』って添えて送ったら、栄本先生から『どれが最も優れているのかはあなたひとりだけでは決められませんよ。戯曲は単なる読み物ではありません。生きた役者が演じてこそ命を与えられます。あなたの思いついたその5つの改稿案の全てを私に送って下さい。劇団員たちと一緒にこちらでも検討します』って返事が来たんだよね」
「凄いですね!栄本先生が優しいのか厳しいのか私にはますます分からなくなりました」
おそらく演劇や戯曲に対してとても厳格な人だとは思うけれど、岡谷先輩に無理難題へ挑戦する機会を与え、それを受け止める度量の広さがとても素敵に感じられた。
ここまで指導していただけるとは、栄本先生は岡谷先輩にかなり期待していたのだろう。
岡谷先輩は小さく頷いてから続ける。
「うん、厳しいと思うよ。でも嬉しかった。それで5個の草案を全部送ったら、2週間後に全部の草案に対してコメントがあって、3つは全くダメ、2つは『この方向で考えてみて下さい』っていうコメントがもらえた。添削もされてあったし、ダメじゃなかった2つについては実際に読み合わせをしてくれた役者さんたちからの意見ももらえた」
「そんなに丁寧に対応してくれたんですか?」
劇団の皆さんへも岡谷先輩の熱意が伝わったんだね。さもなければ演劇のプロたちが無償で見ず知らずの高校生のためにそこまで労力を割いてはくれないはずだ。
「うん。でも実は自分ではベストだと思って最初に送った草案は『こんなものは戯曲と呼べません』って却下されて、自信がなかったものが2つ残ったんだよね。自分ひとりで脚本の再構成をしていたら確実に失敗していたと思う」
そんなにも難しい作業だったのか!
その結果、岡谷先輩による改稿が何とか形になって文化祭で上演される、という事実を私は知っているので
「その2つのうちのひとつが結果的に上演台本になったんですか?」
と焦って結論を急いだ。
岡谷先輩は首を小さく左右に振ってから
「そんな単純な話じゃないよ。『この方向性で考えてみて下さい』ってことは『それが正解という訳ではない』ってことでしょ?残ったそれぞれについて、また3パターンずつ考えて」
と更なる苦難の過程を話し始めた。途方もない長い道のりが予想出来たので、合いの手を入れるつもりで私はうっかり
「そこからさらに考えるんですね!」
と話の腰を折るようなことをしてしまった。
岡谷先輩は小さく嘆息してから続けた。
「もう端折って話すけど、そういうやりとりが何回も繰り返されて、それに私がどうしても試してみたかった幾つかのアイデアを加えたりして改稿を重ねたんだよ。最終的に3つの改稿案を送ったら、そのうちのひとつについてこんな返事が来たんだ。ちょっと待ってね」
岡谷先輩はお洒落なカバーのついたスマホを取り出すと写真フォルダを開き、目的の写真を探してから
「うん、これだ。『このシナリオは原作者の私でも今まで思いつかなかった改稿になりました。私の書いた戯曲が持っていた新しい可能性も示してくれました。ありがとう。この改作は、あなたと私、そしてうちの劇団員全員で作り上げた脚本です。どうか胸を張って上演して下さい。この脚本に命を吹き込んで下さい』ってお手紙に書いてあったんだよ」
と栄本先生からのありがたいお言葉を私に伝えてくれた。
確かにこんなお手紙だったら写真を撮って手元に置きたいと思う。
凄い。
打ち切りに合わず、何度ダメ出し出されてもアイデアを出し続けた岡谷先輩が頑張ったのは当たり前だけど、無事に改稿作業を完遂するところまで導いた栄本先生も素晴らしい。
なんだか泣けてきた。
ダメだ、堪えきれない。
「でね、え?井沢さん、なんで泣いてるの?まあ私もこのお返事を頂いた時には嬉しくて自分の部屋で泣いたんだけどね。驚いたのがその後で、って井沢さん、聞いてる」
と岡谷先輩が私の様子を気にしているので、私はハンカチで涙を拭いながら
「はい、聞いてます」
と答えた。
傍目には先輩から説教されて泣いている後輩みたいに見えてしまったかも知れない。
2年生の教室の出入り口の検問所が近くにあるので、そこで門番をしている自治委員のふたりの生徒が私のことを気にしているようだ。
岡谷先輩は声を荒げたりせず静かに話しているだけだから、まさか後輩を叱っているというような誤解はされないだろう、とは思う。
岡谷先輩は淡々と話を続ける。
「栄本先生は今まで、自分の作品をテレビドラマや映画にしたいとか、他の劇団が上演したいっていうオファーを全部断ってたんだって。自分の劇団が作り出す舞台に誇りを持っていらっしゃるから当然だと思う。だって戯曲の出版にしたって、商業出版にしたらそれなりに売れるだろうと予想されるのに、『読み物』としては出版せず、ごく少ない部数を自社出版しただけなんだよね。だから私だってたかが高校の文化祭での上演許可が下りるなんて考えてなかったし、『この作品が好きなので』って熱く主張しところで全く意味がないのは明白だった。
あっ、井沢さん、この話は誰にも話さないでくれる?『劇団:The Arrow Swamp Company』さんから上演許可を取るための攻略法みたいなものとして広められたら先方に迷惑がかかっちゃうし、私は自分が努力した話をするのが嫌いだから」
「もちろん誰にも話しません」
と私は約束した。当然である。
「井沢さんは文化祭で舞台の制作に関わってる同志だし、口が堅いから話したんだけどね。それで、どこまで話したっけ?」
「原作者が上演のオファーを全部断ってる、ってところまでです」
少し、話の流れを思い出してから岡谷先輩は
「うん、そうだったね。たかが文化祭のクラス演劇のためにとはいえ、どうしても上演許可をいただきたかったから、まず私は自分が何者であるかをお伝えしようと思ったんだよ」
「自分が何者であるかを伝える?」
「うん。どうしたか分かる?」
「え?自己証明ですよね」
自分という人間を見ず知らずの、それも目上の方に理解していただくためにどうしたいいだろうか?
丁寧に自己紹介する?履歴書を送る?いや違うだろう。
珍しく岡谷先輩が饒舌に自分の経験を語ってくれて私に尋ねているんだ。
考えろ、考えろ、、、。
しばらく思案を巡らせてから私は答えた。
「私が先輩の立場なら、自分の書いたミステリー作品を添付してメールを送ります。いや、お手紙に添えて、紙に印刷した自分の作品を送ります」
岡谷先輩は私の返事を聞いて小さく頷いてから
「うん、ミステリー書きの端くれだったらやっぱりそうするよね。自分がいかに相手の作品を好きか?ではなく、自分がどれくらいミステリーを理解し、実際に書けるか、つまり、物語の構成を組み立てることができるか、ということを伝えるべきだと考えたんだ。私には演劇関連の実績が全くないからね。それで、お手紙を書いて、過去の私の短編ミステリーを3作同封して劇団宛に郵送したんだよ」
と答えた。
私の出した答えは正解だったのでホッとした。
安堵の表情を浮かべていたであろう私の顔を一瞥してから
「しばらくしたら劇団の広報の方ではなくて栄本先生ご本人からメールをいただいた。私の作品を読んで私に興味を持ってもらえたんだ。でも、そんなのは序の口で、コンタクトが取れた、ごくごく細い線が繋がったってだけの話だよ。私のことを『推理小説をそれなりに書ける人』だとは思ったもらえた。でも戯曲に関しては全くの素人だから、そんな私が実際にどれくらい頑張れるか?って確認しようということで試しに改稿案を書かせてもらえた。出来が悪かったら、いつでも『あなたには無理です』と判断されて上演を断られるのが前提でね」
と説明を続けた。
そんなわずかなチャンスを掴んで、逆境の中、たったひとりでもがき続け戦い続けた岡谷先輩の小さな体が、私の目には大きく映るようになって来た。
「そしたら期待以上に私が頑張ったから先生もさらに真剣に私の原稿と向き合って修正点や方向性を示してくれて、という相乗効果が生まれて、結果的に栄本先生の想像すら超える改稿が出来上がったってことなんだ。最初にコンタクトを取ったのがゴールデンウィークの前で、改稿が終わったのが夏休みの直前だからその間の2ヶ月間は大変だったよ。今となっては『良い経験だった』って言えるけど」
そこまで言い切ると、またもや窓に映る青空に視線を向けた。
2ヶ月間ずっと難しい改稿作業にかかりっきりだったのか!
道理で岡谷先輩がいつも忙しそうにしてた訳だ。
私にはその偉業を褒め称える言葉を見つけられなかった。
だから、その代わりに
「努力が報われて良かったですね」
と素直な感想を述べた。もっと他に口にすべき言葉はあるはずなのに、私には見つけられなかった。もどかしい。
栄本先生との共同作業とはいえ、2ヶ月間もたったひとりでそんな無理難題に挑み続けていたとは、この人は本当にたくましい。私と同じく県内でもかなりの田舎の土地に生まれ育ちながら「京都の有名な国立大学を目指す」という大志を抱いてひたすらに努力を重ねて続けている人なのだ。
私もこの人のように強くなりたい。心から願った。願ったところで敵わないだろう。しかし、私は岡谷先輩にただ憧れるのはもう止めようと誓った。私はこの人のように強くなろう。自分の出来る範囲で良い。少しでも前へ進もう。
意図せず先ほどとは違う熱い涙が込み上げて来た。
岡谷先輩は涙ぐむ私に構わず話を続けた。
「うん、でも絶対に人に話さないでね。結果的に改稿出来たこの台本での上演許可が下りたんだけど、今度は逆に栄本先生の方から私の改稿した脚本を劇団で正式に『ケイは敬愛のケイ:Ver. 2』として採用して良いですか?という提案までいただいたんだよ。もちろん共著者として私の名前も入れるってことでね」
「凄いじゃないですか!ダメだ、涙が止まらない」
私はまたしても涙を拭った。
岡谷先輩は涙を拭っている私の肩をポンっと軽く叩いてから
「ちょっと待っててね。『劇団:The Arrow Swamp Company』の公式サイトを見せてあげるから」
私がハンカチから目を離して見てみると、岡谷先輩はスマホをしばらく操作してから
「ほら、この栄本過客先生の紹介ページを見てよ」
と私に手渡した。
画面を見る。
どれどれ。
知的で気難しそうな印象を与える髪の長い女性のポートレートが表示されている。
栄本先生って女性だったの?
年齢は30代後半から40代前半くらいだろうか?
【主宰(President)】
栄本過客(Kakaku Eimoto)
:劇作家・演出家(Playwright・Director)
<来歴(Career)>
19**年 〇〇大学文学部英文学科卒業
(Graduated from Dept. of English Literature, Univ. of 〇〇)
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20**年 劇団:The Arrow Swamp Companyを設立
(Established The Arrow Swamp Company)
<受賞歴(Awards)>
20**年 □□戯曲賞:「最期の誓約」
(The □□ Prize of Drama:”His Last Vow”)
同年 △△芸術賞:「最期の誓約」
(The Art Prize of △△:”His Last Vow”)
20**年 ●●ミステリー作家クラブ特別賞:「湖の奥の闇」
(The Special Award of the ●● Mystery Writers Club:”Dark Side of The Lake”)
20**年 ■■演劇賞:「ケイは敬愛のケイ」
(The ■■ Theater Prize:”K is for Kindness”)
<上演作品リスト(Performances)>
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20**年 「最期の誓約」(His Last Vow)
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20**年 「湖の奥の闇」(Dark Side of The Lake)
20**年 「ケイは敬愛のケイ」(K is for Kindness)
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<著作(Writings)>
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20XX年 栄本過客戯曲集【自社出版】
(”The collected plays of Kakaku Eimoto”【Self-publishing】)
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<共作(Collaboration)>
20XY年 戯曲「ケイは敬愛のケイ:Ver. 2」【未発表、共著者:左京小紅】
(Drama “K is for Kindness : Ver. 2” 【Unpublished, Co-author : Kobeni Sakyo】)
公式サイトにも「ケイは敬愛のケイ:Ver. 2」が紹介されていた。
「共著者:左京小紅」と岡谷先輩のペンネームがちゃんとクレジットされてあった。
私はスマホをお返してから
「凄いですね。ちゃんと共著者として先輩の名前を表記してくれているなんて、栄本先生は誠実な方ですね。でも、劇団の公式サイトに名前を出されても大丈夫なんですか?もしかして既に演劇関係のメディアから取材とか受けていたりするんですか?」
ついつい逸る気持ちを抑えられるずにそう尋ねてしまった。
岡谷先輩は急に頬を赤らめて
「井沢さん、照れるから止めてよ。自慢したい訳じゃなくて、私が話した内容の証拠として見せただけだからね」
と念を押した。
「わかってますよ。先輩は自慢するような人じゃないですもんね」
私がおだて続けないことを確認して、岡谷先輩は話を続けた。
「私もこれを見たときは驚いたよ。演劇のプロが見ず知らずのただの高校生に対してこんなに誠意ある対応をしてくれる。栄本先生は凄い人だよ。ネット上では劇団のファンの間で『左京小紅って誰だ?』ってちょっとだけ話題になっていたけど、所詮は小さなコミュニティーの中で盛り上がっただけだから私のところには問い合わせは来てない。栄本先生や劇団の皆さんが口を噤んでくれているんじゃないかな?」
「やっぱりファンの皆さんは左京小紅先生に注目していたんですね。でも箝口令が敷かれていて良かったです」
「うん。その点についてはホッとしてる。それで実際に劇団から私宛にこの『Ver. 2』の著作権や原稿料や上演に伴う使用料に関する契約書が送られて来たんだけどね。流石に私にはさっぱり分からないから父親に応対してもらったよ」
「既に印税が入って来ているんですか?」
「まだ出版もされてないし、この『Ver. 2』は今のところ上演予定もないから私には1円も入ってきてないよ」
「それにしても契約書ですか!契約書なんて私は見たことがないです」
「著作権関連の契約なんて、会社勤めの父親にもよく分からなかったみたいだから、知り合いのツテを辿って弁護士さんを紹介してもらって代理人になってもらうことにしたんだよ」
「鯉美市には弁護士さんの事務所があるんですね。伊那川町にはそんなのあったかなあ?」
我が家は弁護士さんのお世話になったことがないから、推理小説に登場する以外では全く馴染みのない業界である。
「鯉美市内にも弁護士さんの事務所はあるみたいだけど、うちが紹介されたのは中府市内で開業している弁護士さんだよ。木槿の花法律事務所ってところ。弁護士さんって実は中府市内にもたくさんいるんだよ。でも、自分が相談したい案件について、どの弁護士さんに依頼したら良いのかなんて普通は分からないもんね。それなら、知り合いに信頼できる弁護士さんを紹介してもらう方が安心だよ」
「中府市内なら私たちが通学しているくらいだからそんなに遠くないですしね。『むくげ』ってお花の名前なんですか?事務所のネーミングって推理小説によく出てくる『井沢&岡谷法律事務所』とか『中府法律事務所』みたい弁護士の苗字や地名をつけるのが普通だと思ってましたが、そういう可愛らしい名前もあるんですね」
「うん。事務所の公式サイトによると、木槿の花言葉が『信念』だからってのが由来らしいよ。所長の先生のモットーなんだって」
私はお部屋の中にたくさんのお花が咲いているようなほのぼのした事務所を勝手に想像してしまっていたので、その理由に驚いた。
「なんか芯の強そうな弁護士さんですね」
「うん。夏休みの間に父親と一緒にその弁護士さんの事務所に行って相談して来たんだけど、綺麗でかっこいい女性の弁護士さんだったよ」
綺麗でかっこいい女性の弁護士さんか。
法廷モノのミステリーの主人公のようだ。
「お会いした時にまずはご挨拶をして自己紹介をしたら、すごく喜んでくれた。どうやらその先生は暁月学校の卒業生で、しかもお嬢さんもうちの高校の在校生で1年生にいるんだって。それから本題について相談して、契約関連の手続きをその先生にお願いすることに決めたんだ。そうしたら、『外でもない暁月高校の後輩でうちの娘の先輩ですから今後ともよろしくお願いします』って弁護士費用を安くしてくれたよ」
「凄いですね。そんな剛気な弁護士の先生がいらっしゃるんですね」
「うん、かっこいいよね」
岡谷先輩は嬉しそうだった。
依頼料を安くしてもらったことではなくて、その素敵なOGの弁護士さんとの邂逅を喜んでいるのは間違いない。
あれ?
今の話の中には心に引っかかる点があった。何か大事なことを言われた気がするのだけど。
私が思案を巡らせていると
「あっ、そうか!井沢さんなら同じ学年だからお嬢さんのことを知ってるかもしれないね。ちょっと待ってて。え~っと、その弁護士さんの名前は、、、確認するね」
と岡谷先輩は私が気になったポイントにすぐに気付いた。流石である。
すぐさまスマホを操作して、連絡先一覧をチェックしていた。
「あったあった。『こうみ』さんって知ってる?『小さい海』って漢字で『小海』さん。1年の女子だけど」
「小海さんですか?小海由乃さんなら同じクラスですよ。他に『小海』っていう苗字の子は1年生にいないと思うから間違いないと思います。小海さんからはお母さんのお仕事について聞いたことはないけど、弁護士さんだったのか!凄いなあ。知りませんでした」
思わぬところで同じクラスの女子生徒の名前が出たのでとても驚いた。
「先生のお嬢さんが井沢さんのクラスの子だったとは世間って狭いね。機会があったら是非ともその『小海さん』を紹介してよ。私も挨拶しておきたいから」
岡谷先輩は律儀な人だ。お世話になっている方の娘さんとはいえ、面識のない下級生に挨拶に行くと言っているのだから。
「挨拶も何も、小海さんはうちの高校の有名人ですよ。昨日の体育祭の短距離走で三冠を達成した女王だから学校新聞にも記事と写真が載ってます。それに小海さんはうちのクラスの演劇に出演してますよ」
と私が伝えると
「え?そうなの?なんか短距離走で大活躍していた1年生の女子がいたのは見てたけど、あの子なのね。ふ~ん。文化祭でもキャストとして出てるならちょうど良いね」
と驚いていた。あれだけ目立って何度も名前がアナウンスされた「体育祭の女王」の名前を知らなかったことは意外だった。
小海さんはクラス演劇のキャストなので舞台を観に行けば会えるからちょうど良かった。
「舞台では、それはもう、小海さんが大活躍しますから楽しみにしてて下さい」
「へえ~、そうなんだね。楽しみが増えたよ」
嬉しそうな表情のまま、岡谷先輩はパンフレットをパラパラとめくった。
うちのクラスの紹介ページを開いて読んでいる。
☆1年D組:喜劇「Round Bound Wound」
<概要>
「劇団:津川塾」のドタバタコメディー「Round Bound Wound」を暁月祭にて上演します。
会場が抱腹絶倒、爆笑の渦に包まれること必至!!
ぜひご覧ください。
<キャスト>
・井上役:上田清志
・江神役:大町篤
・和久井役:安住ひかり
・倉田役:小海由乃
<スタッフ>
・舞台監督:川上裕二
・演出助手:井沢景
・音響担当:遠見有希
・衣装担当:羽村浩美
(文責:川上裕二)
パンフレットを読んでいる岡谷先輩から
「キャストってここに載っている4人だけ?」
と訊かれたので
「はい。その4人だけです。小海さんの名前もありますよね」
と私は答えた。
少し驚いた表情をしてからボソっと呟いた。
「キャスト4人だけで1時間を超える芝居をするんだ!キャストは大変だね」
岡谷先輩は実際に戯曲の改稿作業をしているから、1時間15分のお芝居がどれほど大変なものかを理解されているのだろう。
2年C組の舞台はキャストがふたりしかいないみたいだったから1年D組のキャスト陣よりも大変そうだけど、岡谷先輩が「内容についてはノー・コメント」と言及を避けていたのでその点については目を瞑ろう。
文化祭のクラス演劇については酸いも甘いも分かっている先輩だからこそ私は殊更に
「はい、台詞も動きも多いから大変だと思います。でも、みんな一所懸命に稽古を積んでこの日に備えていますから、期待していて下さい」
と自信を示した。
「うん、そうだね」
と答えてから、岡谷先輩はしばらく紹介ページを眺めている。心なしか嬉しそうな表情である。
ついつい「期待していて下さい」なんて大見得を切ってしまったけど、キャストのみんなはきっとその期待に応えてくれると信じている。
女に二言はないよ!
岡谷先輩は再度、慎重にうちのクラスの演劇の概要説明に目を通してからパンフレットを閉じた。うちのお芝居についての情報の確認は終わったようなので
「ところで、岡谷先輩はその栄本先生とお会いになったことがあるのですか?」
と尋ねた。私はその代表作を読んで大ファンになった近年活躍されたミステリー作家さんがいて、サイン会があれば遠くても駆け付けるつもりだったのだが、母からその作家さんがすでに亡くなっていてもう会えないことを知らされ、悲しい思いをした経験を思い出したのだ。
岡谷先輩はこんなにも思い入れの作品の劇作家さんとお会いすることが出来たのだろうか?
「もちろん一度もないよ。文章のやり取りだけ。向こうは大阪にスタジオがあって、国内だけじゃなくて世界各地で公演しているような劇団の主宰者だからね。でも、私が京都の大学を目指しているということを伝えたら『あなたがその大学に進学したら大阪のスタジオを訪ねて来て下さい。うちの劇団の全員があなたに会いたがってます』って言ってくれてね、嬉しかった」
「そんな風に言ってもらえたら嬉しいですね」
「うん。それだけじゃなくて、『もし良かったら劇団でインターンをしませんか?』っていうお誘いも受けたんだよ」
「それは脚本家として劇団からスカウトされたってことですか?」
急展開に驚いた。
岡谷先輩は表情ひとつ崩さずに
「そんな大したことじゃないと思うよ。なかなか骨のある人材だから鍛えてみようかな?とでも思って貰えたんじゃないかな?」
と答えた。
「先輩はどうされるおつもりですか?」
と尋ねると
「いやいや、私はまだ大学に合格すらしてないから、まずは大学に入るところからだよ。今は一所懸命勉強することに専念しないと。大学のミステリー研究会にも入りたいし、劇団に所属するってなったら両親にも相談しないといけない。そんな先のことなんてまだ決められないよ」
と自分の歩むべき道のりを述べた。
岡谷先輩は真面目で堅実だということを私は改めて実感した。
私だったら舞い上がって大学に行かずに劇作家を目指しちゃうかも知れないのになあ。
誰も寄り付かない文芸部の販売ブースで、私はしばらくの間、岡谷先輩から今回の創作秘話を聞かせてもらった。苦労話ではなく、改稿作業で得られた知識や経験のエッセンスのような貴重なお話だった。
岡谷先輩はネタバレを避けるために当然ながら「ケイは敬愛のケイ」の物語の核心部分は伏せてくれた。
(続く)




