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羊飼いも山羊もいない  作者: 遊舵 郁
九月、祭りのころ
45/63

【41】白薔薇の女王:第3節

 1年D組のクラス演劇「Round Bound Wound」に出演している私は文化祭1日目の第二回公演で不甲斐ない演技を続けているあいつを立ち直らせるために咄嗟のアイデアとして舞台上で空手の中段回し蹴りをお見舞いした。

 思いの外、威力の強すぎた蹴りを腹部に受けたあいつは苦しみもがきながらも懸命に芝居を続け、無事に主演としての役割を全うすることが出来た。


 私は自分の犯した罪の大きさを痛感し、あいつを傷付けてしまった後悔に苦しみ、傷付いてもなお私に優しく接してくれるあいつの姿を見て良心の呵責に苛まれた。お昼休憩に入ると居ても立っても居られなくなり、教室を飛び出して、周りに誰もいない体育倉庫の裏で声を上げて泣いた。


 自分の不器用さを憎む気持ちや、素直に自分の想いをあいつに伝えられないもどかしさなども心の中に湧き起こり、今までの人生で経験したことがないほど泣きじゃくった。

 泣けども泣けども涙は枯れず、心はますます乱れいくばかり。


 どれほどの時間が経ったかもはや分からなくなってしまうほどに溢れ出す感情をコントロールできずただただ泣き濡れた。




 やがて自分が発している嗚咽に混ざって「小海(こうみ)さん」と何度も私の名前を呼ぶ声が耳に入って来ているのに気付いた。

 こんな惨めな姿を知り合いに見られたのはとても恥ずかしいのだが、とても体裁なんて構っていられるような精神状態ではなかったので私は泣き顔を隠すこともせず、声のする方を振り返った。


 私の後ろ、10mほど離れた場所には見知ったクラスメイトが立っていた。


 クラスの衣装係が用意してくれた胸に「02」という数字と翼を広げた鳥のエンブレムの描かれたターコイズブルーのTシャツを着た茶髪の長身の男子生徒だった。

 うちのクラス演劇「Round Bound Wound」の舞台監督を務めている川上くんだ。


 小さなウレタンの塊をたくさん詰め込んだ大きな透明のビニール袋を右手で持っていた。確か体育倉庫の中には外装が破れてしまった陸上の走り高跳び用の古いマットが放置されてあったはずだからその中身のクッション材でも集めて来たのだろうか?何のためにそんなものを持って来たのだろう?

 理由はどうあれ、川上くんは文化祭期間中には誰も寄り付かないはずの体育倉庫に用事があったからここにやって来て、運の悪いことに隠れて泣いている私と遭遇してしまったのだろう。



 自分のかけた声に私が気が付いたのが分かったのでホッとしたのか川上くんは柔和な表情になって3、4歩ほど私に近づいて来た。


 そして、こう私に問いかける。


「どうしたの?」


 当然の如く投げかけられた問いに私はどう答えるべきか迷った。


 私自身にも自分の心の内をうまく説明できる自信がなかったのだ。

 それに私の心の中には秘めた想いがある。それを伝えずに今の私の精神状態を説明するのは不可能だ。

 どう答えたら良いのだろう?


 そんなことを考えている間にも涙は止まらない。


 私のその姿を見た川上くんは、さらにゆっくりと私に近づいて来て

「良いよ。無理に答えなくて良いから。とりあえずは涙を拭いて」

と手にしたビニール袋を地面に置き、肩にかけていたボディーバッグから白いハンカチを取り出し、私に差し出した。


「とりあえず、少し落ち着こうか。

 このハンカチはまだ使ってないから綺麗だよ」


 私は黙って頷きハンカチを受け取る。

 白いハンカチには「Y. K.」とイニシャルが刺繍してある。


 川上裕二(かわかみゆうじ)のイニシャルなのだろうが、私の名前も小海由乃(こうみゆの)だからイニシャルは「Y. K.」なのよね、などと実にくだらないことを考えながらハンカチで涙を拭う。

 しかし、優しさの詰まった白いハンカチで拭えども拭えども涙は止まらない。

 私はそのまま、クラスメイトの前でしばらく泣き続けた。

 川上くんは黙ったままそんな私に付き添ってくれた。



 私がハンカチを受け取ってから5分ほど経ったであろうか。

 ようやく涙が止まり、泣きじゃくって速くなっていた呼吸も落ち着いて来た。


 その様子を見て、川上くんはようやく

「少しは落ち着いた?」

と口を開く。


 私はなんとか

「うん」

と答えて頷く。


「良かった」

と呟いて安堵の表情を浮かべた川上くんが訊く。

「何があったんだ?もし差し支えなければ話してくれないか?」


 私は頷いて大きく深呼吸をしてから

「聞いてくれる?」

と答える。

「ああ。もちろんだ」

と川上くんは笑顔で請け負う。


 私は正直に話すことにした。

 無論、あいつへの想いについては黙っているつもりだった。


「私ね、上田くんをあんなにも強く蹴ってしまったことを後悔しているの。あんな痛々しい姿はもう見ていられない」

 そう端的に伝えた。

 自分の気持ちを口にすると涙がまた溢れて来た。

 川上くんに借りたハンカチで目元を押さえながらしばらく黙りこくった。


「そうだよな。小海さん、ごめんね」

 私がハンカチから目を離すと川上くんが私に向かって深々と頭を下げている姿が目に入った。そして

「よりによって小海さんにこんなに辛い役目をさせてしまって、本当に申し訳なかった」

と更なるお詫びの言葉を添えた。


 よりによって、って何よ?私は上田くんにとって舞台の共演者なのよ。あの場にいたんだからあの役目を担うのも仕方ないじゃない。

 川上くんの言葉の真意を理解しかねたので

「え?何のこと?」

と私はとぼけた。


 すると川上くんは真剣な表情になって

「周りには他に誰も人がいないのを確認してあるから、俺も正直に話すよ」

と小声で切り出した。


 私は黙って頷いた。

「小海さんの気持ちなら、もう分かってるから隠さなくて良いよ。いつだって小海さんの視線の先には上田がいるから、流石に分かるさ」

と優しい口調で切り出した。

 え?川上くんも知ってたの?私はとても驚いた。

 川上くんは続ける。

「上田は小学生の頃からいつも自分とはあまり縁のない、言うなればあいつにとっては無理めの女の子にばかり目が行ってしまって、身近にいて自分のことを密かに思ってくれている子の存在に気づかないんだ。実は俺、今までに何人かの女の子から『実は上田くんのことが好きだから力になって欲しい』って相談を受けたことがあるんだ。大抵は大人しい感じの子が多かったよ。俺だって他でもない上田の恋愛なら応援してやりたいのはやまやまだったけれど、そういうことは本人が上田に直接自分で気持ちを伝えてそれに上田がちゃんと答える、ってところから始めるのが筋だから一度も直接的な協力はしたことがないよ」


 今まで女の子に告白する度に振られてばかりだったあいつにも実はそんな嬉しい話があったんだと知らされて喜びにも近い安堵の気持ちが心に湧き上がった。世の中そんなに捨てたもんじゃない。

 別に私自身が報われたわけじゃないのに心が温かくなるから不思議だ。


 川上くんは続ける。

「普段から小海さんの様子を見ていて、『もしや?』と気付いていたんだけど夏休みの間の演劇の練習中の姿を見ていてそれが確信に変わった。驚いたよ。小海さんのような快活な体育会系の女子が上田に興味を持ってくれたのは初めてだからさ」


 クラス演劇の練習中に私からは(はた)で見ていて気付くほどあいつへの想いが漏れ出ていたのかと思う恥ずかしくて顔から火が出そうだった。

 以前、衣装係の羽村(はむら)浩美にもあっさり見抜かれていたから、私は自分の気持ちを全く隠し切れていないことを自覚していなかったのだ。これではまるで今まで私が「小海由乃はあいつのことが好きです」とタスキをかけて宣伝しながら生活していたのと同じではないか!穴があったら入りたい気分だ。


 私はなんと言葉を紡ぎ出せば良いのか、全く緒が見つからずまごまごしていたが、どうにかして話し出そうとする私を左手で制して川上くんは話を続けた。

「この状況についてはなんとか俺が誤魔化すからさあ、とりあえず一緒に教室に戻ろうよ」

 私は黙って頷く。川上くんはそれを見て

「良かった。とても小海さんをひとりにしておけないからね。

 それで、舞台の方なんだけど、もしも午後から舞台に上がるのが辛かったら代役を井沢さんに頼むよ。どうする?

 井沢さんは絶対に嫌がるだろうけど、辛い気持ちのままの小海さんを舞台に立たせる訳にはいかないもんね。出演するのが無理そうだったら我慢せずにそう言ってくれ。俺が責任を持ってなんとか井沢さんを説得するよ」


 私はすぐに返事が出来なかった。

 心の中で色々な感情が錯綜して混乱していた。


 そんな私を急かすことはなく川上くんは待ってくれた。

 しばらく時間を置いてからもう一度

「どうする?」

と川上くんは尋ねた。


 私はもう一度大きく深呼吸して、胸に手を当ててしばらく考えてから覚悟を決めた。


「大丈夫、私は舞台に立てる」

 そう答えた。


「無理してない?」

と川上くんは確認する。


 この言葉は舞台監督としての責任ある立場からではなく、ひとりの人間としての気遣いから出た言葉であろう。

 第二回公演の後に怪我をしているあいつに向かって容赦無く厳しい言葉を放っていた険しい表情とはまるで異なる優しい顔だったからだ。


 そんな川上くんの優しさに甘えてしまっても良いのかも知れないが、それでは私の信念から外れてしまう。私はそんなに弱くない。

「大丈夫、無理なんてしてない。これは私に与えられた重要な役目だからちゃんと舞台に上がるよ。サッカーの試合でも気が乗らない、調子が悪いからって先発した選手が前半早々に自らピッチから下がる訳にはいかないのは、川上くんも分かるでしょ?」

 私は人生の大半をサッカーと陸上競技に費やしてきた。ならば私はとことんそこで培ったメンタリティーで勝負するしかない。覚悟を決めた。


 川上くんはホッとした表情で

「まあ、そうだろうな。小海さんならそう言うとは思ってたよ。根性あるもんな。俺も最大限サポートするから、一緒に頑張ろう」

と私の決意に同意してくれた。


 私は黙って頷いた。


「とりあえず教室に戻ろう。小海さん、お昼御飯をまだ食べてないだろ?次の公演までに食べなきゃな」

と促された。

 この心理状態でお弁当が喉を通るかどうかなんて分からない。でも食べなきゃだめだ。空腹のままでは午後の舞台に差し障るから無理してでも食べないといけない。


 川上くんは地面に下ろしていた大きなビニール袋を右手で持つと

「じゃあ、教室に移動するか」

と一緒に教室に戻ろうとするが、何故か照れ臭そうに

「その前に上田の友人代表として一言。

 小海さん、上田のことを好きになってくれてありがとう。

 友達の俺が言うのもなんだけどさ、あいつは面白いしマジで良い奴なんだけどどうしても女の子からの受けが良くないんだ。俺とふたりでいつもバカなことばかりやってるのも原因なんだろうけど、それ以前にあいつはああいう奴だろ?『モテたい、モテたい』って言ってる割にはカッコつけたりしないで、笑いを取ってみんなを楽しませる方を優先させちゃってさ、不器用なんだよな。だから俺からもよろしく頼むよ。

 小海さんだったら俺も応援するよ。だけど、気持ちは自分で伝えてね」

と私のあいつへの想いに関して自分の考えを述べた。


 私は無言で大きく頷いた。

 とても良い人で不器用で自分のことを二の次にしてるのはあなたもでしょ、という言葉は飲み込んだ。


 その代わりに

「このハンカチ、ちゃんと洗濯して返すね」

と伝えた。

 川上くんは黙って頷いた。


 そうして、ふたりで走ってグラウンドを横切り、校舎へ向かった。

 途中で部室棟の前にある洗面台に寄り、バシャバシャと顔を洗った。こんなことをしても泣き腫らした目はごまかせないと分かっているが、気持ちを切り替えるために冷たい水でしっかり顔を洗いたかったのだ。




 教室へ戻ると、クラスメイトたちはそれぞれ午後の公演に向けて準備をしていた。

 みんなに向かって川上くんは

「遅くなって悪い。小海さんと一緒に何かクッションになるものを体育倉庫まで探しに行っていたんだ。小海さんには先に行ってもらってたからまだお昼を食べてない。まずは御飯を食べてもらおう」

 と即興で架空の状況説明をしてくれたので、私は早速お弁当を取り出して教室の隅で食べ始めた。川上くんが昼休みに突然姿を消した私に非難が及ばないようにちゃんと気を配ってくれたのがとても嬉しかった。


 続けてクラスメイトに説明する川上くんの声が聞こえる。

「倉庫の中がすごく埃っぽくてさ、小海さん、目にゴミが入ったみたいなんだ。それで目を洗いがてら顔を洗ってもらったからメイクが崩れちゃったんで、羽村さん、悪いけど小海さんがお弁当を食べてる間にメイクをまたお願いできるかな?」


 川上くんの優しい嘘に対して私は心の中で何度もお辞儀をしてお礼をした。


 すると依頼を受けた浩美が即答する。

「わかった。でも少し時間を頂戴ね」



 浩美は鞄から取り出したメイク道具を手にして、お弁当を食べている私のもとへ来てくれた。


 川上くんはさらに指示を出し続ける。

「じゃあ、小海さんの準備に時間が欲しいから、10分だけスケジュールを遅らせよう。えーっと、第三回公演は13時に開場予定だったけど、13時10分に開場で、13時20分に開演というスケジュールに変更しよう。会場係と広報係のみんな、早速だけど時間変更の伝達をよろしく」


「分かったよ」

「了解!」

「10分遅れね」

と口々に返事をした会場係と広報係が持ち場へ移動する。


 さらに

「それから、小道具係はすぐに集まってくれ。大至急作って貰いたい物がある」

と川上くんは小道具係たちを集めて何やら作ってもらうようだった。



 第三回公演を10分遅らせる。

 私のせいでみんなの貴重な時間を奪ってしまった。反省して申し訳なくて思わず俯くとメイク道具の準備ができた浩美が

「はい、由乃はそのままお昼を食べて。食べてる間にメイクをし直すからこっち向いて」

と声をかけてくれた。


 振り向いた私の顔を見ると浩美は一瞬驚いた後で優しい笑顔になり、ため息をついた。

 やはり浩美は私の真っ赤な目を見て全て悟ったようだった。

「仕方ないなあ、由乃は」

と私の頭を撫でると

「じゃあ、時間がないから早速始めるね」

とメイクを始めてくれた。

 言われるがままに顔を浩美の方へ向けながら私はよく噛んでお弁当を食べた。食欲なんて全く湧かないしこんな気分じゃ味なんて分からないけどこれは私の義務なのだ。しっかり食べてしっかりお芝居する。それが今の私がしなければならないこと。何も考えずに食べ続けた。



 浩美はクラス演劇の衣装係なのだが、舞台に上がる役者のメイク係も兼任してくれている。

 体育館のような大きな会場での舞台上ではなく教室での演劇なので基本的にお芝居用のメイクを施さなくても問題ないのだが、「女の子はちゃんと可愛くしないとね」という好意で私ともうひとりの女子の演者の安住(あすみ)ひかりさんだけはお化粧をしてもらっている。

 私の演じる倉田は強気な空手家の役なので化粧なんて要らない、と私はメイクを一旦は断ったのだが、「好きな人の前なんだから綺麗にしなきゃ」と言われてしまったので断れなくなり、結局はメイクをしてもらった。ちゃんとお化粧をするなんて生まれて初めての経験だったのでちょっとドキドキした。


 浩美は手早く作業を進める。まずは一旦きれいにメイクを落としてから、下地を作ってファンデーションを施し、チークを入れる。


「今からアイメイクするね。しばらく目を閉じててね。目を開けたい時は声かけてよ」

と浩美は私にそう伝えた。朝はしなかったアイメイクをするのは泣いて腫れ上がった目蓋を誤魔化すためだろう。浩美にまで余計な手間を取らせてしまった。申し訳なくて涙が出そうだったがまたメイクが崩れるので、グッと堪えた。

 目蓋の辺りを優しく触れられる感触があり、その後

「目を開けてみて」

と言われて、目を開けると

「そのまま目を開けてて。動かないでね」

と指示されて、細いペンのような物で上目蓋の縁をなぞって貰った。

 初めての経験だったのでとても緊張したが、時々瞬きしながらも目を開けたままの状態をなんとか必死にキープし

「よし。アイシャドウとアイラインは出来た。我ながら上手くいったよ」


 私も急いでお弁当を食べ終わった。


「由乃、もう食べ終わったの?そんなに慌てなくても良いのに。

 まだ時間があるみたいだから、ついでに」

と浩美はこれまた朝のメイクでは使わなかったリップスティックを何本か取り出した。

 先を少し出して私の肌の色と色味を比較してから

「ベージュにするね」

とルージュを塗ってくれた。


 私が口紅を塗るのは実は初めてではない。

 幼稚園に通っていた頃に一度だけ母の化粧品を勝手に使ったことがある。母がいつも楽しそうにお化粧しているのを真似してみたくなったので母の留守中に化粧台から口紅を取り出して顔中真っ赤に塗りたくったところを帰宅した母に見つかった。絶対に叱られると思ったのだが、意外にも

「あらあら、由乃も女の子らしいことをするのね」

と笑って済まされた。

 美容用品を使用したのはその時以来である。

 我ながら実に女性らしさがない。


 口紅を塗り終わると浩美は、

「はい、出来た。可愛くなったよ」

と笑顔でまた頭をポンっと撫でた。


 自分の顔がどう変化したのか?泣き腫らした目は目立たなくなったのか?とても気になったので鏡を借りようとしたが、浩美はヘアブラシで私の髪を整えながら

「確認しなくても大丈夫だよ。私を信じて。それにもっと自分を信じてね」

とだけ言って結局は鏡を貸してくれなかった。

 ちょうどそのタイミングで川上くんから

「そろそろ開場時間だからみんな配置についてくれ」

と教室にいる全員に向けて号令が出た。



 もうそんな時間か。私もみんなに向かって

「私も準備出来たよ。いつでも行けるから大丈夫。それと、ちょっとこのライトを借りるね」

と声をかけると、クラスの備品の懐中電灯と自分の台本を持って下手(しもて)側の舞台袖の奥の方に移動して、自分の台詞のおさらいをすることにした。

 第二回公演が終わってから私の心には激しい嵐が吹き荒れていたので、まだちゃんと頭の中に自分の台詞が入っているか自信がなかったのだ。

 今から急いで台本を読み返せば一回くらいは最後まで目を通すことが出来るだろう。開演までに間に合わなくても、開演から私の出番まではしばらく時間があるので、その時間も確認作業に使えるからきっと間に合うはずだ。



「安住さん、ごめん。私、奥で台詞の確認してるから何かあったら声をかけて」

と一言断りを入れると

「うん、分かった」

といつもの笑顔で安住さんは請け負ってくれた。



 客席のある教室の中央辺りから小道具係の生徒たちが

「こっちもOKだ。上田、ちょっとこっちに来てくれ」

とあいつを呼んでいるのも聞こえた。


 あいつの名前が耳に入る度についつい反応してしまう。

 今はだめ。自分のことに集中しないと。



 あいつが小道具係たちと一緒にいるのが遠目に見えた。

「これでどうだ?」

と小道具係の生徒から何かを渡されたようだが背中越しなので見えない。

「あ~、助かるわ。でもこんなのでタイガーショットに耐えられるかな?」

 などと言っている。

 何の相談をしているんだろう?


 ふと我に帰る。

 あいつの声にも私はついつい反応してしまう。

 でもだめ。今は自分のことに集中しないと。



 舞台の方を安住さんと共演者のもうひとりの男子生徒である大町くんも舞台の下手側の舞台袖に控えているのが見えた。薄暗い中に後ろ姿しか見えないけど、あの大きな背中は見間違えようがない。



 しばらく台本の確認に集中していると

「小海さん、なんか焦ってるみたいだけど大丈夫か?」

と後ろから声が聞こえたので振り返ると大町くんが私を心配して来てくれていた。虚勢を張って

「私は大丈夫」

と答えると、

「だよな。今回も頼むよ」

と笑顔で拳を突き出してきたので

「もちろん」

とグータッチで答えた。


 あいつの体調はもう大丈夫そうに見えたけれど念のため

「私のことより、もう大丈夫そう?」

と大町くんに訊くと、つい照れて主語を省略した疑問文に対して

「ああ、大丈夫そうだぞ。弁当もぺろっと全部食べてたしな」

と答えてくれた。本当に大町くんは察しが良いから助かる。とは言え、私の心の中のあいつへの想いについてだけは筒抜けにはなっていないことを心から願った。とっくの昔にみんなにバレていることを知らないのは当の本人だけ、というのは流石に恥ずかしすぎるので。



 あいつも下手側の舞台袖にやって来た。

 大町くんから

「さっきのアレは何だ?」

と訊かれていたが。

「俺の秘密兵器だよ。乞うご期待。所長のデスクの下に置いて来たからその時が来たらお披露目するよ」

と勿体つけて秘密にしていた。

 探偵事務所の所長である井上の机は前面が板張りになっているので実際に舞台に上がったとしても机の下に何が置かれたのかは分からないだろう。私には関係ない井上用の小道具みたいだから気にしなくて良いと思う。


 またしてもあいつの言動に意識が向いてしまっていたので、ちゃんと台本に集中しようとして手元をライトで照らすと漏れた光に照らされた足元が見えて、スニーカーの紐が右だけ解けているのが見えた。危ない、危ない。靴紐はしっかり結んでおかないと転倒や怪我の原因になる。靴紐が解けていたことに気付いてなかったとは、私はやっぱりまだ心が落ち着いていないようだ。

 サッカーの試合中も調子が悪い時にはプレーが止まった時にスパイクの紐を結び直して気を引き締めるのが私のルーティーンになっている。うん、これはお芝居にも使えるな。そう思いながら台本とライトを足元に置き、その場でしゃがみ込んで靴紐を結び直した。


 念のために左の靴紐も一旦解いてから結び直していると、誰かが後ろから近づく気配がある。私のそばに来て、しゃがみ込んでいる私の上から

「もう腹は大丈夫だから、心配しないで良いよ」

と私に伝える声が聞こえた。あいつの声だ。聞き間違えようがない。

 私のことを気遣うあいつのそんな優しさに触れて、私はまた涙ぐみそうになったが、せっかくのメイクを崩してはいけないので歯を食いしばって堪えた。

「そう?なら良かった」

 なんとか声を絞り出して答えた。

「ああ。今回も頼むね」


 あいつの足音が遠ざかって行った。




「大変お待たせしました。それでは、1年D組のクラス演劇『Round Bound Wound』、第三回公演の開場をします!

 よろしくお願いします!」

と会場係の元気な声が響くと、またしてもたくさんの生徒たちが教室内に雪崩れ込んできたようだ。たくさんの足音と客席の生徒たちのはしゃぐ声が聞こえて来る。


 良かった。

 私のせいでうちのクラスの演劇の評判が落ちたりはしていないようだ。


 私は台本の確認を続けた。

 大急ぎでざっと目を通しただけだけれど、終盤の大町くんの長台詞への導入部まで目を通すことが出来たのでホッとした。

 その後に私の台詞はないからこれで一安心だ。



 客席から女の子たちの声で

「由乃~、頑張って~」

と応援する声がしたので、私は舞台の方へ移動し、舞台袖から少しだけ顔を出して手を振った。

 やっぱり女子サッカー部のみんなだった。

 私を見つけると笑顔で手を振り返してくれた。


 今回も前の方の席は女子生徒ばかりが座っていた。

 後ろの方には立ち見のお客さんもたくさんいる。

 出入り口にいる人たちに会場係の生徒が何やら説明しているような姿まで見える。恐らく「もう満員だから入場できない」と伝えているのだろう。


 その光景を目の当たりにして、私の後ろに立っている大町くんが

「それにしても毎回、客の入りが凄いな」

と驚きの声をあげた。

 私は「きっと大町くんがこの盛況の原因だよ」と口にしようかどうか迷っていたが、私の左隣にいた安住さんが

「だって、DINEでも話題沸騰中だからね」

と別の理由を挙げた。

 今日は公演が始まってから私は一度もスマホを使っていないので

「そんなに凄いの?」

と状況を尋ねた。

「うん。暁月祭の専用連絡網に色んな生徒からの書き込みがあるんだけど、その何割かがうちのクラスの演劇についてでね。そのひとつひとつのコメントの熱量が凄いのよ」

と簡潔に説明してくれた。

 さすがは情報通の安住さん、状況把握も早い。


 


 その安住さんの後ろにいたあいつは身を乗り出して熱心に客席を観察すると、

「おおっ、今回はB組の山形さんとC組の豊岡さんが客席にいるぞ。さては巷で話題沸騰中の俺の渾身の演技を観に来てくれたに違いない。

 大町、やべえぞ!ビッグ・ウェイブが到来したみたいだ。今回も乗っていくぜ!」

とはしゃぎ出した。挙げられた女子生徒たちの名前は今まで何度もあいつの話に出てきているから私でも覚えている。同じ1年生の中で特に可愛いことで有名な女子生徒だとあいつが言っていたと記憶している。


 あいつのその言葉を聞いた大町くんは

「小海さん、お客さんたちは上田の体を張った『渾身の演技』を御所望だそうだ。俺らもスタンバイしておこう」

と私に声をかけてきたので

「オッス!」

とお腹から声を出して答えた。


 私が気合を入れたその声を聞いてあいつは私の方を見て一瞬怯んだそぶりを見せたが、

「あれ?」

と首を傾げてからあいつは私の顔をまじまじと見つめる。

 さらには客席の誰かと私の顔を交互に見比べ始めた。

 何よ、人の顔をじろじろ見るなんて失礼ね、それに誰と見比べているのよ!と私はちょっと不機嫌になった。それでも、もうすぐ開演なので今は怒っている場合ではない、と私は自重した。


 あいつはしばらく腕組みしながら何やら思案し、うーんと唸ってから大町くんに向かって

「大町、メーテルリンクの『青い鳥』って知ってるか?」

と謎の問いを投げかけた。

「ああ、知ってるぞ。有名な童話だからな。でも、元々は戯曲だったんじゃないかな。『青い鳥』がどうした?もしかしてうちクラスの芝居と何か関係あるのか?」

と大町くんは当然のごとく知っていると答え、逆に質問を返した。あのお話って元は戯曲だったのね。初めて知った。

 あいつは大町くんからのその問いに対して

「いや、個人的なことだから気にするな」

とだけ素っ気なく答えるとしばらく黙り込んだ。

 あいつにしては珍しくとても真剣な表情で考え事をしているようなので邪魔しないことにした。


 

 上手(かみて)側の舞台袖を見ると、そこに今までプロンプターを務めてくれていた井沢景さんの姿はない。

 その代わりに今までは教室の後方で舞台を見守っていた川上くんが台本を手にして控えていた。


「あれ?井沢さんはいないの?」

 そう誰にともなくつい尋ねてみたら、

「景ちゃんは文芸部の方に行ってるよ。文集販売のシフトがあるんだって」

と安住さんが答えてくれた。流石は情報通。


 それを聞いたあいつは

「え?井沢さんがいないの?どうしよう!あの天の声がないとひとりで舞台上で生きていけない体になっちゃったのに。やべえ、急に緊張してきた」

と急に奥に引っ込むと深呼吸やら屈伸運動やらをせわしなくし始めた。前回も目にした光景なのでおかしくて笑いがこみ上げてきた。



 プロンプターの交代があり、今までと勝手が違うから緊張するのは私も同じだけれど、むしろ私にとっては私の抱えた個人的な事情を理解してくれている川上くんが舞台袖に控えていてくれるのがとても頼もしく感じられた。


 私の視線を感じたのか、私と目が合うと川上くんは左手の人差し指を立てて頷いた。「俺がついているから安心して舞台に上がれ」ということだろう。

 ああいう性格の人が後ろにいるのは実に頼もしい。

 

 チームがどんな劣勢に立たされた時でも私が後ろを気にする度にサムズアップして「後ろは任せて!由乃は心配しなくていいから前を向いてプレーして!」と声をかけ続けてくれた中府(なかくら)FC時代のキャプテンの美沙希(みさき)さんの頼もしい姿を思い出したりした。




 結局、第三回公演も満員御礼で、入場し切れない生徒もいたようだが、大きな混乱もなく開演を迎えた。


 私と大町くんは自分たちが登場するドアの書き割りの裏側へ移動した。


 上手側の舞台袖にいるはずの川上くんが

「それでは、始めようか」

と声をかけると教室内が暗転した。




 長閑なティータイムに似合いそうなクラシックの室内楽のような優雅な音楽が流れ出す。

「おっ、オープニングの音楽が変わった。遠見(とおみ)さん、なかなか気が効くなあ」

と大町くんが小声で私に囁く

 確かに、オープニングの音楽がさっきまでと違う。

 午後の部だから変えてくれているのかな?音響係の遠見有希(ゆき)さんはなかなか芸が細かい。



 あいつの演じる所長の井上の台詞でお芝居が始まる。

「求人雑誌で募集をしてもう1週間だよ、和久井くん。

 世のため人のために働きたいと志す者はひとりもいないのかなあ」


 今回は、ちゃんと台詞を言えてる。少し声が上擦っているけどまあ仕方ないかな。あいつが好きな女の子たち、しかも特にお気に入りの子たちが客席にいるのだから。


「焦っても仕方ありませんよ、所長。

 この不景気ですから、なんでもやります!って気合いの入った人がきっと来てくれますよ」

と安住さんの演じる秘書の和久井が答える。

 今回もスムーズに会話が始まった。


 そうして舞台上にいる井上と和久井とふたりでの演技が続く。

 やはり安住さんがいるとお芝居が安定する。彼女の安定感はとても貴重だ。うちのクラス演劇の支柱になっているのは間違いなく彼女に違いない。


 時々、あいつは台詞に詰まるがその都度プロンプターの川上くんがちゃんと支えているようで芝居は続く。


 メンタルが強くて安定感が抜群で、しかも適応能力がとても高い安住さん。

 多少のことでは決して動じない堅牢な大町くん。

 お調子者で不安定さはあるけど抜群の状況判断力と咄嗟の機転で生の舞台での起爆剤となるあいつ。

 常に陰で舞台を支えてくれている井沢さん。

 そうした全員を統率して前へ前へと押し上げてくれる川上くん。


 素晴らしい仲間に囲まれて私のような不器用な人間でもどうにか舞台に立てている。

 本当に頼もしい。


 今回の公演前に私を大いにサポートしてくれた浩美、気分を変えようとしてかBGMを変えてくれた遠見さん、何やら急ごしらえで作ってくれた小道具係のみんな、本当にありがとう。


 みんなのためにも私は負けない。

 絶対に舞台上で結果を出してくるから見ていてね。


 私はそう心の中で高らかに宣言して舞台に上がる覚悟を決めた。




 やがて、探偵助手に応募してきた江神(えがみ)役の大町くんの出番が近づいて来た。

 有名なB組の山形さんにC組の豊岡さん、その他にも会場内にいる何人かの女の子たちがは君の勇姿を観に来てくれているのよ。だから、カッコいいところを見せられるように頑張って来い。

 そういうエールを込めて大町くんの大きな背中を強めに叩いて舞台に送り出した。

「行ってくる」

 私の方を振り返らずにそう呟くと大町くんはドアを開けて舞台上へ出て行った。


 場内に子供向けのアニメで流れるような愉快な感じのゆったりした曲が流れる。

 演者の登場シーンのBGMは変えてないのね。

 少しだけ安心した。


 スポーツ同様に芝居にもルーティーンのようなものはあると思う。

 私はいつも「倉田登場のテーマ」とキャスト陣が勝手に呼んでいるハイテンポなBGMが流れると小海由乃から井上探偵事務所の探偵助手に募集して来た倉田という人物に変わることが出来る。逆に言えば、このきっかけがないと私は演技に入れない。

 きっと舞台監督も音響係もそういう役者の特性は理解しているはずだから、演出の重要なポイントとなる音楽は変えていないのだろう。



 大町くんが演じる江神が舞台に上がると、ファンと思しき女子生徒たちの

「きゃっ」

という歓声だけでなく、今回は

「大町くん!」

という掛け声までかかる。


 本来ならば、歌舞伎でもあるまいし上演中の舞台に上がっているキャストに声を掛けるのはマナー違反だとは思うけど、騒がしくて公演の邪魔になるほどでもないし、所詮は文化祭の学生演劇なのだ。それくらいの声援はむしろ演者のテンションを上げる効果があるだろうから構わないと思う。

 サッカーと同様にバスケットボールの試合でも応援があればきっと選手に力を与えてくれるだろうから、きっと舞台においてもあの可愛い掛け声は大町くんを後押しする力になってくれるに違いない。



 それにしても大町くんはつくづく不思議な人だ。

 どう考えても女の子からモテそうなのに決して誰かさんみたいにのぼせ上がったりしない。その上、彼女がいるとか誰かと付き合っているとかいうような浮いた話も全く聞かない。


 堅物なのは分かるが、それにしても程度があるだろうに。

 心に鍵をかけて他人との交流を避けているようには感じられない。むしろ誰に対しても等しく優しく接する人だ。かと言って八方美人という訳ではない。彼が周りに合わせることを優先して自分の信念を曲げるようなことをしないのは私だってよく分かっている。


 大町くんの恋愛観や信条についてこの場で考えても仕方ないし、ましてや本人にそんな深い内容について尋ねる気もさらさらない。

 何より現実問題として、私の出番はもう直ぐなのだ。

 気持ちを入れ替えないと、と頬をはたこうとしたが、浩美が心を込めてメイクしてくれたことを思い出したので、その代わりに硬く握った拳で太腿を叩いてほぐした。


 倉田は台詞も多いが舞台上でのアクションも多い。

 アスリートたるもの、舞台上で足が攣ったなどという失態は避けねばならない。


 そう考えたので書き割りの裏で屈伸運動や小刻みなジャンプを繰り返して体をほぐす。

 よく考えたら今の私の姿は開演前に舞台裏で見た誰かさんのおかしな様子に似ているな、と気付いたので、思わず笑みが溢れた。

 よし、私はリラックスしている。これなら良い状態で舞台に上がれる。そう確信した。




 やがて倉田が押したことになっている事務所の呼び鈴の音が鳴り、私の出番が来た。


 秘書の和久井の

「はい。井上探偵事務所です」

というインターホン越しの台詞に続けて

「井上探偵事務所さんで雇っていただきたく参りました。

 倉田と申します。

 お電話では自分の熱い情熱をお伝えしきれないと判断し、直接お邪魔しました。

 まだ探偵助手の募集には間に合っておりますでしょうか?

 よろしくお願いします」

という最初の台詞がちゃんと言えた。


 今回は少し不安だったので、書き割りの裏側に貼ってある最初のドア越しの台詞の部分の台本のコピーを見ながら喋った。やってみると実際は目で台本の文字を追うよりも先に口から台詞が出ていたので大丈夫だった。よし、行ける。


「では開けますね」

と和久井がオートロックを解除する音がしたので私は書き割りのドアを思いっ切り開け放って舞台上に飛び出した。


そのタイミングで「倉田登場のテーマ」が流れ出す。


すると客席から

「きゃあ~」

という歓声と

「由乃!」

「小海さん!」

という掛け声が掛かった。


 暗い書き割りの裏から明るい舞台に上がった瞬間に脚光を浴びて客席から掛け声が掛かる。

 これは嬉しい。


 サッカーで一番嬉しいのは当然ながらチームが勝った時だが、次に嬉しいのは自分でゴールを決めた瞬間だ。そのために私は絶え間ない努力を続けて来た。


 それは演劇でも同じだ。

 今日の第一回公演の終演後に初めてお客さんたちから拍手喝采を受けた時の感激はまだ記憶に新しいが、その次に心を動かされたのは自分が舞台に登場した時に上がる歓声だ。私のようなお芝居の初心者でも期待してくれている人がいる、応援してくれている人がいる。夏休みに仲間と共に乗り越えて来た厳しい稽古の日々は無駄じゃなかったんだと実感できて心が震えた。


 ミニスカート姿の私を見て驚いている客席の生徒たちの表情が目に入った。

 大丈夫、私は落ち着いている。周りがよく見えている。


 舞台上にいる和久井は今回は穏やかな表情でいるし、江神はいつもの仏頂面だ。

 井上の表情は、、、あれ?何だかそわそわして落ち着きがない。


 何より優先すべきは芝居を続けることなので、私はその違和感を気にしないようにした。


 一目散に井上に向かっていきその手をしっかり握ると

「自分は倉田と言います。

 なんでもやります!

 是非とも、井上先生のもとで働かせて下さい!

 お願いします」

と猛烈なアピールを始めた。


 倉田という人物の真っ直ぐな性格と熱意をうまく表現できたと思う。


 ところが、井上は何故か頬を赤らめて私の視線から目を逸らす。もう一度強く手を握って念を押したがどうしても私と目を合わせようとしない。

 そのまま斜め上を向いたまま黙ってしまっている。

 額には玉の汗が光っている。


 もしかしたら、本当はまだ私の放った中段回し蹴りのダメージがお腹に残っていたのではないだろうか?

 私は井上にだけ聞こえるように小声で

「まだ痛いの?」

と尋ねた。ずっと井上の顔を見つめ続けていたが私から目を逸らしたままの井上は何も答えずただ黙って小刻みに首を横に振るばかりである。


 だめだ、芝居がまた壊れる、そう思った瞬間に上手の舞台袖からプロンプターの声が聞こえる。川上くんは初めてにしてはタイミングと声量の調節がなかなか上手い。


 井上はそのサポートを受けて照れ臭そうに、なんとか

「井上先生かあ、、、いい響きだ」

と台詞を吐き出す。

 実際になぜか照れているようなのでこの場面にぴったりではあるが、やはり井上の様子がおかしい。


 大丈夫なの?

 お腹が痛い訳ではないと伝えてくれたけれど、だったら何なの?

 ついさっきまではちゃんと演技できてたじゃない。

 もしかして私の顔を見た拍子に、舞台上で強烈な蹴りを受けた辛い記憶が蘇っちゃったの?私はあいつにそんなトラウマを植え付けちゃったの?

 私はまた心の中で泣き出しそうになった。



 私と井上が膠着状態に入ってしまったのを見兼ねた和久井がふたりの間に割って入り、私の手を井上から離させると

「立ち話もなんですから、江神さんも倉田さんも所長も、まずはいったん座りましょう」

と言って3人を舞台の真ん中よりやや下手側にあるソファーに座るように促す。


そして、私はようやく江神の存在に気がついた、というリアクションをしてから

「この方も探偵の先生ですか。

 初めまして。自分は倉田と申します。

 なんでもやりますので、よろしくお願いします」

と江神に挨拶をし、小声で

「あいつ、大丈夫なの?」

と尋ねた


 すると、江神は

「いえいえ、どうでしょう、僕は、、、」

とアドリブで「俺にも分からない」という意図を伝えてくれた。頭の中には疑念がいっぱいだったけれど、それに構わず江神の言葉を遮って

「先輩のためならたとえ火の中、水の中、自分、体張りますんでよろしくお願いします」

と笑顔でVサインをした。


 ちゃんと笑顔だったのかなあ?と不安もあったけど

「きゃっ」

という可愛い歓声が客席から上がったので、いつもの私の笑顔が出せていたのだろう。



 その流れで4人の演者全員がソファーに座った。


 私と江神が来客用の上座のふたりがけソファーに腰を下ろし、井上と和久井が私たちと向かい合わせにそれぞれひとりがけ用のソファーに座る。

 私の正面に座っている井上はまたしても頬を赤らめて気のせいかもじもじしている。


 本来ならば探偵事務所の先輩のはずなのに私の隣に座っている江神を不思議そうに見て違和感を覚えるシーンなのに、私はついつい正面に座っている明らかに様子のおかしい井上を見つめてしまっていた。

 プロンプターの助けを借りて井上がなんとか

「江神さん、倉田ちゃん、あっ、いや、倉田さん、我が井上探偵事務所の~、求人、に応じてくださってありがとうございます」

とぎこちなく挨拶をする。


 え?「倉田ちゃん」って何よ?

 空手の達人の倉田のことをそんな風に呼ぶ要素なんてこのお芝居のどこにもないはずでしょ?

 私の頭の中には次々に疑問が湧いていたけれど、とりあえず江神とともに頭を下げた。


 井上は次の台詞にも詰まってしまったけれど川上くんのサポートを受けて

「それで、せ、せっかく御二方に事務所まで足を運んでいただいたのですが、ぼ、募集広告にもありました通り、今回のきゅ、求人はおひとりだけです。

 ですので、おふたりの両方を採用するわけにはいきません」

 井上は相変わらず照れ臭そうな表情で事実を伝える。

 言いにくいことを伝えなくてはならないから、本来ならば苦しげな表情をしていないといけない。今の井上の表情は台詞の内容と合ってない。少なくとも気まずそうな雰囲気だけは出ているから完全にだめという訳ではないと思うけど。



 あれほど前回の公演で痛い目にあったのに、今回も好みの女子生徒が観に来てくれているから舞い上がっちゃってるの?

 そろそろ私も覚悟を決めないといけないのかな、もう辛いから嫌なんだけど、などと考えていたので次の台詞が出て来なかった。人の心配よりもまずはしっかりと自分の演技をしないとだめね。

 プロンプターに促されて

 

「え?この人は探偵の先輩じゃないんですか?

 探偵助手の候補者なんですか?

 じゃあもう決まりじゃないですか!

 自分にしましょう、井上先生。

 さっきから何も喋らないこんな『ウドの大木』なんかよりも自分の方がずっとお役に立ちますよ。

 こう見えて、自分は空手三段なんです。

 荒事だってこなして見せます!オッス!

 よろしくお願いします」

と身を乗り出して井上に迫る。


 すると、井上は

「ひゃっ!」

と情けない声を上げて私が身を乗り出した分だけ後ろに身を逸らして離れる。

 もう、何なのよ!


 江神は依然として黙っている。

 演じている大町くんが元よりポーカーフェイスなので、これが大町くんの素の表情なのか江神役の演技なのかどうなのか未だに境界線がよく分からないのだけど、きっと彼もこの予期せぬ事態について思案を巡らせていると願いたい。一緒にこの事態を打開しましょう。私はその思いを込めて江神の顔を一瞥した。

 江神は無言で頷く。よし、伝わってる。本当に察しがいいから助かる。



 そして、井上から台詞が出てこないのでプロンプターの声に支えられてなんとか芝居は続く。

 井上は相変わらず目が泳いだまま

「倉田ちゃんは空手の有段者なのかね!

 へえ~、人は見た目で判断できないね。

 実はね、私もこう見えて空手を嗜んでいるんだよ。

 とうー!やー!」

と空手の突きや手刀をするマネをする。

 だが依然として視線が斜め上を向いているため上体が後ろへ傾いている。だから突きや手刀は空を切り続け、テーブルに手をぶつけることがない。

 自分の姿勢が間違っているに気付かないせいか井上は

「あれ?とうー!やー!」

などと延々とテーブルには決して当たらない方向へ向けて突きや手刀を繰り出し続けている。


 井上の空回りっぷりに客席から笑いが起こる。

 この舞台を初めて観るお客さんたちには「こういう演技をするシーン」だと思ってもらえているのかも知れない。


 この情けない空回りに加えて井上は相変わらず「倉田ちゃん」という呼び方を続けている。井上は初対面の相手を「ちゃん」付けで呼ぶような馴れ馴れしい男じゃないと思う。でも、江神の体を実際に触って確認して強靭な肉体を持っていることを確認するようなシーンがあったから、まあそういった初対面の人との距離の近さもあながち間違いではないのかも知れない。

 あいつなりの「井上という役の解釈」なのかもしれないのでとりあえず今はこの点については流すことにしよう。




 井上が空手の真似事をしてテーブルに手をぶつけて怪我しないとお話が進まないのだけど、どうしよう。

 私と江神は上座、つまり上手側を背にして座っているから川上くんの様子が見えないので身振り手振りでの指示は私たちふたりには届かない。


 そうなると、やはり頼りになるのは下座に座っている和久井だけとなる。彼女なら位置的に川上くんが見えるから何がしかの指示を受け取ることが出来るだろう。


 するとやはり川上くんから指令を受けたようで、和久井は小さく頷いてから

「所長が習ってるのは通信制空手じゃないですか。

 本物の有段者の倉田さんを自分と一緒にしちゃ失礼ですよ」

と芝居を続けた。その台詞を聞いてようやく壊れたロボットのような井上の動きが止まった。


 和久井はホッとした表情を浮かべてから、「あっ、良いこと思いついた」という感じで胸の前でパンっと手を打ってから

「それでは、やはり『物は試し』ですよ!

 井上に、倉田さんの空手の腕前を観せていただきますか?

 すみません、倉田さん、一度お立ちいただけますか?

 もちろん所長もですよ」

とアドリブで台詞を喋り出した。



 このアドリブは第二回公演で井上に回し蹴りをするために立たせようと私が即興で喋った台詞が元で、さらにそれを和久井の言葉にアレンジしてあった。

 相変わらずの高い対応力に思わず息を呑んだ。


 演劇について全くの素人だった私は「少しでも参考になれば」と思って、演劇がテーマの少女漫画を夏休みに友達から借りて読んだ。

 その作品の主人公は一度観た芝居の台詞を全て覚えてしまう天才なのだけど、その天才少女のような適応能力を実際に自分の立っている舞台で目の当たりにして私はかなりの衝撃を受けていた。


 それでも私は観客じゃなくて演者なのだから驚いてばかりもいられないので、その言葉に従って

「了解しました。オッス」

と立ち上がって舞台の中央に移動した。



 井上は小声で囁いている和久井に手を引かれて自分の机に向かうと、布でできた大きな塊を両手でしっかり抱きかかえて私の前に立った。

 その謎の物体は弾力性があるようで、井上が手で押さえて力を加えた部分が凹んでいた。

 井上がしっかり抱きかかえていた手を離すとそこにはハートマークが描かれており、その上に「KICK ME!」というロゴが書かれていていた。井上はそのロゴを前にして「秘密兵器」を胴体の前に固定して構えた。

 先ほど小道具係のみんなが急いで作ってくれたそれは、恐らくは舞台装置を作るのに使った布の残りを袋状に仕立て上げてその中に先ほど川上くんが体育倉庫から持ち出して来たウレタン片を詰めた簡易のクッションなのだろう。

 


 どことなく挙動不審な井上がおかしなクッションを体の前に保持して構えている姿が余りにコミカルだったので客席からは笑いが起こった。



 あんなものを使って私の蹴りを受けようというのね。

 だから、開演前にあいつは「タイガーショットに耐えられるかな?」とか言ってたのね。

 誰がタイガーショットよ!


 分かったわ。

 今回もお望み通りに渾身の中段回し蹴りをお見舞いしてあげましょう。

 舞台に上がってからの私に対するつれない態度と言い、もう何なのよ!

 私の気持ちなんて全く知らないくせに!


 私はね、空手道場でもっとしっかりしたキックミットに打ち込み練習をして来たの。同じ日に体験入門した男の人たちが引いちゃうくらい良い音を響かせたてたのよ!

 そんな有り合わせで作ったクッションなんかじゃ私の蹴りの衝撃を防げないわよ。

 またさっきみたいに崩れ落ちそうになっても知らないから!


 私の心の中では突如として湧き上がった激しい怒りの炎によって全ての繊細な感情が全て焼き消されて灰と化し、激情に飲み込まれた私は完全に吹っ切れてしまった。


 舞台中央の下手側に立つ私は上手側に立って対峙する井上の正面で構えると、井上は前回公演で回し蹴りを受けた時と同様に左斜め45度くらいの姿勢に角度を調整した。


「それじゃ、自分の必殺技・中段回し蹴りを御披露いたします。

 オッス」

と気合を入れた。


 利き足の右脚を少し引いて構えると、井上の立っている上手の奥の舞台袖で必死な形相の川上くんが頭の上で両腕を交差させてバツ印を作っている。


 えっ、何よ?蹴ってくれって言ってるんじゃないの?

 私の動作が止まったのを確認してホッとした様子の川上くんは、自分の胸の前に指を真っ直ぐ伸ばした右手掌を固定すると、そこに左の拳を近づけて止めた。

 カンフー映画や格闘漫画で武道家が挨拶する時のようなポーズだ。


 武道家らしくちゃんと挨拶しなさい、ってこと?


 よく分からないのでとりあえず、また

「オッス!」

と気合を入れてからしっかりとお辞儀をして、私は再び中段回し蹴りの構えに入った。


 するとまたもや川上くんが全力でバツ印を作って止める。

 もう、何なのよ!私は一体どうした良いの?


 一体どうしたら良いのか分からず、構えたまま止まっている私に向かって大町くんの囁く声が届いた。


 ああ、そういうことね。

 了解!



 迷いがなくなった私は 

「よし!

 それでは行きます!

 セイヤッ!」

と掛け声とともに井上の腹部に右脚で中段回し蹴りをお見舞いした。

 今回もミニスカートの下に短パンを履いているから遠慮はない。


 後ろで身体を支えてくれる江神はいないので

「うぁ~~~~!」

という絶叫とともに井上は後方へ吹っ飛んだ。


 観客の女子生徒たちが一斉に上げる声が教室内に轟いた。

「きゃ~」


 間違いなくその全てが蹴られた井上を気遣う悲鳴だろう。


 蹴りを放った後、瞬時に元の構えに戻った私はしばらくその姿勢を保った。余韻に浸っていたのもあったが、倉田の空手家としての矜恃のようなものを表現したかったのだ。

 悲鳴が収まるのを待ってから姿勢を楽にした。



 舞台上では井上が腹部を押さえて床の上でのたうち回っている。

 その様子を見た観客たちから今度は笑いが起こる。


 井上のその姿を見た和久井が駆け寄りながら

「所長、大丈夫ですか?」

とアドリブで台詞を喋って芝居を続ける。


 毎度のことながら素晴らしい対応だ。


 それに応えて今度は泣きべそをかきながらお腹を抑えた井上が歯を食いしばりながらなんとか必死に立ち上がると、衣装のTシャツをめくって自分のお腹を見せる。

 蹴られた跡が明らかに赤く腫れ上がっている。

 

 客席からはまたもや悲鳴が上がった。


 そのお腹を抑えながら井上は

「いてててて。血が出ちゃった。

 和久井くん、絆創膏をちょうだい」

と苦悶の表情で和久井に頼む。



 和久井は自分の机に行き、絆創膏を取って来て、井上の腹部に貼ると、痛めた井上のお腹の前で両手の人差し指をくるくるっと回しながら

「痛いの痛いの、飛んでけ~」

と言うと、回していた両手の人差し指を同時に天に向けておまじないをかける。


 そして、もう一度

「さあ、皆さんも是非ご一緒に!」

と客席に声をかけると、客席の生徒たちと声を合わせて、両手の人差し指をくるくる回して

「痛いの痛いの、飛んでけ~」

とおまじないをかけて井上を励ます。


 それに応えて井上は

「和久井くん、腹はめっちゃ痛いんだけど、お客さんの前では、って言うか、お客さんと一緒にとか、流石に、やめてくれないか。

 恥ずかしいよ」

と少しずつ声のトーンを落として行きながら愚痴る。

 今回も「お客さんと一緒にとか」とうまくアドリブを加えて返した。


 客席から爆笑が起こる。



 その様子を上手側の舞台袖で見ていた川上くんはサムズアップして私の方を見ている。


 良かった。

 危なかった。

 大町くんが気付いていなかったら、またもやあいつを思いっ切り蹴り倒すところだった。


 回し蹴りをするために構えたままで身動きが取れなくなっていた私に届いた声。

「小海さん、寸止めだよ」

 その一言に救われた。


 右手掌の前に左手の拳を近づけて止める、というゼスチャーは「寸止めしてくれ」という意味だったのだ。


 バレーボール選手で身のこなしの軽いあいつのことだから、寸止めしても自分で勝手に吹っ飛んでいって、前回の公演で実際に中段回し蹴りを受けた体験を基に渾身の演技を見せてくれるだろう。

 それをきっかけに芝居が繋がるし、あいつの妙な態度が直るかもしれない。もしも態度が変わらなかったとしても、あれだけの蹴りを受けた後だから倉田のことを「倉田ちゃん」などと呼ぶことはなくなるだろうし、倉田に対して恐怖を感じて目線を合わせない、という心理的背景を追加することで、あの不自然さを必然に変えることが出来る。


 川上くんがどこまで予測していたのか、あのヘンテコなクッションを準備した時に全てを予想していたのかは分からない。

 何にせよ、演者全員と舞台監督が力を合わせて危機をひとつ乗り越えることが出来た。


 演劇って本当に凄い。舞台上では何が起こるか分からないから怖いけど、とても楽しい。

 私は高揚した。



 あいつが観客に見せた腹部は別に特殊メイクでも何でもなく、先ほど私に実際に蹴られた跡がまだ残っていただけだ。

 それを改めて目にするとやはり心がチクチクと痛んだ。


 それでも何より、私にもう二度とあいつを蹴らせないために川上くんが必死になって止めてくれたことは本当に嬉しかった。

 私の心のうちを知っている人が舞台袖に控えていてくれて良かったと安堵した。



 でも、まだ舞台は序盤。

 これから中盤の私と江神の三番勝負と終盤の江神の長台詞がある。

 気は抜けない。

 私は心の中で自分の頬を張り、気を引き締め直した。




 それから小一時間ほど経った後、私は舞台上で客席からの割れんばかりの拍手と歓声を浴びながらカーテンコールをしていた。


「良かったよ~」

「面白かった」

「小海さ~ん!」

「安住さ~ん!」

「大町くん!」

「上田~!大丈夫か~!」

「また見に来るね~」


 たくさんの声が教室内にこだました。

 その全てが心地よかった。



 拍手が一旦収まって、一旦、下手側の舞台袖に下がると、私はあいつのそばへ行き、

「お腹大丈夫?痛くない?」

と尋ねた。それに対するあいつの態度は

「いや、ええ、まあ、大丈夫です。

 はい、大丈夫ですから、気にしないで下さい。

 あの~。もうすぐアンコールだから、準備しないとね」

と舞台上の様子と変わらずで、実によそよそしい。



 私は完全にあいつから嫌われちゃったのだな。

 前回の公演で思いっ切り回し蹴りをお見舞いしたのだから仕方ないね。

 私の心は急に曇ってきた。涙がこみ上げて来そうなのをなんとか堪えた。もう泣かない、と心を強く保とうとした。




 やがて教室内には客席からの

「アンコール、アンコール、アンコール」

という大合唱が始まったので、安住さんを先頭に手を繋いでもう一度舞台に上がることになった。


 先頭の安住さんの右手を私が左手で握り、私の右手で大町くんの左手を、あれ、順番が違うよ?


 珍しく笑顔の大町くんから背中を押されてあいつは私に続いて舞台に上がらされた。

 私が右手であいつの左手を握ろうとしたら、一瞬で手を引っ込められた。

 そこまで嫌がらなくても良いでしょ?

 私があいつの顔を睨みつけると、またあいつは視線を逸らした。


 客席の生徒たちから

「上田、上田、上田、上田」

と上田コールがかかると、所在なさげにしていた左手を客席に向けて大きく振っていた。

 上田コールが止むと手を振るのを止めて

「失礼します」

と小声で断りを入れてから私の右手をそっと握った。


 先ほどから一貫した他人行儀な態度とはまるで異なる、優しくて温かい手の温もりが伝わって来て私は心が和んだ。



 時間が押していたので、拍手が鳴り止まない中で教室内に灯りがつき、第三回公演が終了したというアナウンスが会場係から伝えられた。


 私たちキャスト陣もそのまま下手側へ掃けて、舞台袖で観客の生徒たちが退出するまで待っていた。


 舞台から降りてもあいつは私の手を握ったまま離さなかった。

 なんだか急にあいつとの絆が強くなったように感じられたので、とても嬉しかった。




 教室内から観客がいなくなると、川上くんが舞台上に演者を呼び、そこでミーティングが始まった。

 川上くんから呼ばれた拍子にあいつは

「あっ、小海さん、ごめん」

と慌てて手を離した。

 結局、目は合わせてもらえなかった。


 この素っ気ない態度は一体何なの?

 私はまた不安になった。




 川上くんは笑顔で演者を迎え入れた。


「今回の出来は、まあまあだな。でも少しずつ良くなっていると思う。この調子で行こうぜ」

と総評と述べた後。各キャストに向けてアドバイスを伝えた。


「小海さん、俺の合図に気付いてくれてありがとう。

 またしても舞台を救ってもらったよ」

と私はまたしてもお礼を言われた。

「違うよ。合図に気付いたのは大町くん。

 私は危うくまた全力で回し蹴りをするところだったの」

と正直に申告した。

 それでも川上くんは

「それは第二回公演の後にも伝えた通り、演者同士のコミュニケーションで解決してくれたんだろ?結果的に寸止めしてくれて、おかげで芝居が修正されたのから気にしなくて良いよ。ありがとう」

と笑顔で答えた。

 私はなおも言い訳を続けようとしたが、矢継ぎ早に

「それに引き換え、大町!お前は一体どうした?前回は長台詞が完璧だったじゃないか?」

と大町くんへの演技指導が始まったので黙った。

確かに今回の第三回公演の大町くんの長台詞は圧巻だった第二回公演はおろか、初演時よりもたどたどしかった。やはり難しいシーンだから出来栄えにばらつきがあるのだろう。

 大町くんは眉間に皺を寄せながら苦しげな表情で

「ああ、すまない。前回が出来過ぎなだけで実情はあんな程度の完成度なのかも知れないな。助けてくれてありがとう。次もよろしく頼むよ」

とその厳しい評価を受け入れていた。


「安住さん、いつもありがとう。安住さんが舞台上にいてくれるだけでずいぶん助かっている。今後もよろしく頼むよ」

と安住さんにはお礼を伝えた。彼女にはそれ以外伝えることはないだろう。

「いえいえ、私もいっぱいいっぱいだから。小海さんへの『寸止め』の合図に気付かなかったし」

とまたもや謙虚に答えていた。

 あんなゼスチャーに気付かなくても当然だよ。気付いた大町くんを褒めるべきであって、安住さんは気付かなかった自分を責めるべきではない。

 ただし、自分自身に向けて出されていた寸止めの指示なのにそれに全く気付かなかった私は反省するべきだ。私は自分の不器用さを再認識させられた。


「そして、最後に、上田。言わなくても分かってるよな」

とあいつに対してはまたしてもこの言葉を伝えた。

 かけた言葉は同じだが、第二回公演での失態の後とは違い、川上くんの表情は優しい。

 このふたりは長年の友達だから言葉を解さなくても相通じるところがあるのだろう。

 でも、今回の上田くんの妙な態度は何だったのだろう?同じ舞台に上がるキャストとしてその点についてはきちんとはっきりさせておいて欲しい。

 そう発言しようと思っていたが、あいつはすぐさま

「ああ、分かってるよ。お前に言われなくても痛いほど分かってる。

 これは俺個人の問題だから、俺が自分で解決しないといけない。

 役者として舞台に上がらないといけないのに、俺は所長の井上ではなく上田清志(きよし)のままだった。本当に恥ずかしい。せっかく観に来てくれたお客さんたちにも申し訳が立たない。

 でも、気持ちの整理がつくまでもう少し時間が欲しい。

 だから、しばらくみんなに迷惑をかけると思うけど、どうか力を貸してくれ」

と自らの非を認めて深々と頭を下げた。


 こういう殊勝な態度を取られると私にはもう何も言えない。

 ずるいよ。


 でも仕方ない。あいつが自分で解決しないといけない大きな悩みを抱えているのならば、それが何であれ、その問題が解決される時までは私たちキャストや舞台監督が支えていくしかない。それがチームというものだから、今は黙ってあいつを支えていくことに専念しよう。そう自分を納得させるしかない。

 しかしながら本心では、やはり釈然としなかった。




 そうして短いミーティングは終わり、次の第四回公演の開場時間まで少しだけ休憩時間があった。


 大町くんは鞄から取り出した文庫本を読みながら穏やかな表情で水分補給をしている。

 試合前にロッカールームで読書をして集中力を高めるプロのアスリートは少なくない。自分の好きな本を読むというのは彼なりのルーティーンなのかも知れない。本好きな彼らしいと思う。

 

 キャストの中でひとりだけ運動部ではなく文化系のクイズ研究部に所属している安住さんは流石に疲れたのか、クラスメイトたちに団扇で扇いでもらいながらお茶を飲んで休憩している。

 安住さんの不安要素は体力だけだろう。彼女の代役は誰にも務まらないからなんとか上手に休息を取って次の舞台に備えて欲しい。

 今日はもう1公演あるだけだから頑張って!


 面と向かって色々と言いたいことがあるあいつの姿は教室内にはすでに見当たらなかった。

 一体どこへ行ってしまったのだろう。

 舞台上での度重なる失態があったとはいえ、お芝居が嫌になって逃げ出すような弱い人ではないと思うのだが。



 川上くんは今回もひとり離れたところに座って台本を読みながら何やら思案している。きっと演出プランについて考えを巡らせているのだろう。


 舞台監督の大切な仕事を邪魔するのは申し訳ない気もしたが、私は心の中にあるモヤモヤをすっきりさせたくて声をかけずにいられなかった。

「川上くん。上田くんの様子がさっきからおかしいんだけど、本当に大丈夫なの?私で何か役に立てることがあったら教えて欲しい」

 そう単刀直入に切り出した。


 すると、驚いた顔をした川上くんは

「え?マジで訊いてるの?

 参ったなあ。俺は応援はするけど、直接的な関与はしないポリシーだからね。まあ今は上田のことはそっとしておいてやれよ」

と意味の分からないことを言い出した。

「何のこと?上田くんは今とても困ってるんでしょ?私だって同じ舞台に上がっている仲間じゃない。どうして助けようとしたらだめなの?」

と私は食い下がった。

 困っているあいつの助けになりたい。

 これは私のあいつへの想いとは別で、私にとっての「償い」だと思う。

 第二回公演の舞台上であいつは心の中で「償いならなんでもするから倒れないで」と願った私の心に応えるかのように立ち上がってくれた。

 今度は私があいつのために動く番だ。

 だから譲れない。


 川上くんは大きくため息をつくと台本を脇に置いてから

「あのね、小海さん。これは上田の気持ちの問題。あいつは今めちゃくちゃ心が乱れていると思う。あいつ自身も自分の心と向き合うべきかどうかとても迷っている。今はそういう段階なんだよ。こういう時には誰が何を言っても根本的な解決には繋がらないんだ」

と強い口調で言い返して来た。

 私だってあいつのことを心配しているのに何で助けちゃだめなの?ここまで頭ごなしに強く言われたら私もついつい意地を張ってしまう。

「どうして?ひとりで悩んでても解決しない問題だってあるでしょう。川上くんが上田くんの力にならないというなら私が代わりに力になりたい。私では助けてあげることが出来なくても、せめて話を聞いてあげることくらいはできると思う。だから今から上田くんを探しに行く」

 そう言い捨てて走り出そうとした。


 すると間髪入れずに

「待って、小海さん。今は行くな。頼むから」

という声がしたので振り返ると川上くんが頭を下げていた。

 顔を上げると、なんとも言えない悲しげな表情をしていた。


 私には川上くんのその表情の意味するところは分からなかったけど、私があいつを追いかけて行ってはいけない理由があるのは伝わったので

「分かった。私が上田くんのところへ行くと良くないことが起こるのね。だから行っちゃだめなんでしょ?」

となおも問い詰めると

「そんなことは言ってない。良くないことなんて起こらない。でも、今は駄目だ。お願いだから行かないでくれ」

と更に訳の分からないことを言って来る。


「一体、何なの?私に出来ることは何もないの?」

と何とか言葉を絞り出して言い返す。


 すると川上くんはしばらく考え込んだ後で、まるで言葉を選びながら話すように

「小海さん、まずは冷静になってくれ。少し頭を冷やしてから鏡で自分の顔をよく見てみてよ。俺からはそれしか言えない」

と言い切ると台本を手にして私から離れて行き、台本を開いて自分の仕事に戻った。

 これ以上は私と議論する気はない、という意思がありありと伺えた。

 川上くんのこの態度に対して言いたいことは山ほどあったのだが、これ以上は口論を続けたところできっと何も得られないだろうと察したので私は口を噤んだ。



 何よ、「冷静になれ」「頭を冷やせ」「鏡を見ろ」って。


 私は正直なところ川上くんの言い分に全く納得が行かなかったし、腹を立てていた。

 それでも、体育館裏で私のことをあんなにも気遣って優しくしてくれた彼ほどの人がどうしても私を引き留めようとしていることは十分伝わっていたので、その思いを踏みにじってまであいつのところへ走ることはしなかった。


 私は憤懣やるかたない心境であったが、サッカーの試合中にフラストレーションを表に出して警告をもらったりしないようにと自分の心をなだめて折り合いをつけることには慣れていたので、怒りをあらわにする代わりにクラスメイトが用意してくれた冷たいスポーツ飲料のペットボトルを1本、乱暴に掴み取るとキャップを開けて一気に半分ほど飲んだ。



 冷たい飲み物を飲むと身体が内側から冷える。カーッと血が上っていた頭も自然と冷えた。

 そうして我に帰ると、周りのクラスメイトたちが心配そうに私のことを見ているのも分かった。

 だめだな。こういう時には無理にでも笑顔を作って、落ち着かないと。

 私はなんとか笑顔を振りまいて「私は大丈夫だから」とみんなにアピールした。



 作り笑顔が功を奏したのか、どうやらみんなが安心してくれたようなのでホッとした。

 その自己暗示のおかげで川上くんと言い合いをしていた時よりは幾分か冷静になれた気がする。

 でも、まだ合点がいかない。


 言われた通りの行動をするのは癪に障ったが、川上くんのことだからちゃんと何か意図があって私にそのアドバイスをしたに違いないと思う。

 冷静さを取り戻し、頭も冷やしたのだから、と次は鏡で自分の顔を見ることにした。


 生憎とその場にメイクをしてくれた浩美はいなかったし、私は自分で鏡を持って来てなかったので校内で鏡の設置してある場所、ということで校舎内の洗面台へと向かった。


 廊下ですれ違う生徒たちが私を見て口々に何やら話しているようだったが、どうせいつもの「あっ、女子サッカー部の小海さんだ」というようなたわいもない内容だろうから気にも留めなかった。舞台衣装でミニスカートを履いていたから物珍しかったのだろう。




 洗面台に辿り着くと幸いにも周りに人はいなかった。

 恐る恐る鏡を覗き込んでみて驚いた。

 そこに映っていたのは長い間ずっと見慣れて来た私の顔にどことなく似てはいるが、印象の全く異なる女の子の顔であった。

 この子は誰?

 いや、私がこの子なの?




(続く)

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