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羊飼いも山羊もいない  作者: 遊舵 郁
九月、祭りのころ
42/63

【38】白薔薇の女王:第1節

 気付いたら目の前にサッカーボールがあった。

 そのことが私の人生を変えた。


 私、小海(こうみ)由乃(ゆの)暁月(あかつき)高校の先輩・後輩にあたる両親の元に生まれた。

 父は建築家、母は弁護士という共働きの夫婦である。

 父は小学校から大学までサッカー部、母は小学校から高校までバスケットボール部に所属して競技を続けていた。

 小さな頃、別々のスポーツをしていた両親が結婚したことを不思議に思って母に「一緒のスポーツじゃなくても仲良くなれたの?」と聞いたことがある。「由乃も大きくなったらきっと分かるよ」としか話してくれなかった。

 私が暁月高校に入学した際、入学式の日の夕食の場で父と母の馴れ初めを初めて教えてもらった。

 母は父よりも高校の1年先輩にあたる。だから俗に言う「姉さん女房」だ。

 父は高校1年生の時にサッカー部の練習の一環として学校の周りの歩道をランニングしている最中に、同じく練習でランニングしていた女子バスケットボール部員の母を見かけ、一目惚れをしたそうだ。

 一年後輩であるというハンデを乗り越えるために父は母に猛烈にアタックし続けた。具体的にどういう行動を取ったのかについては父が母の話を遮ってしまったので今に至るまで聞けずじまいだ。

 知り合いではあるが、所詮は単なる先輩と後輩の関係という状態が続き、なかなか距離が縮まらないまま迎えた9月の暁月祭。

 運よく母と同じブロックだった父は体育祭の間に競技で活躍して距離を縮め、文化祭最終日の後夜祭のバーニング・ナイトで一か八か玉砕覚悟の告白をし、ようやく交際を承諾されたのだそうだ。


 しかしながら、実はそれからの方が父は大変だった。父はふたりで一緒に地元の中府(なかくら)大学に通えれば良いや、とのんきに構えていた。しかし、母が高校3年生の年の夏休みになり、バスケットボール部を引退して受験モードに入った際、母は「私は絶対に京都にある有名国立大学へ進学する。受験浪人してでも必ずあの大学に行く」と宣言したそうな。

 昔から同じ中府市内の進学校でも玲成高校の優秀な生徒は東京へ、暁月高校の優秀な生徒は京都へという志向が強いようだ。恐らく、自由奔放な校風に慣れ親しんで高校時代を送った生徒は同じく自由な校風の大学へ行きたがるのだろう、と両親は推測していた。

 実際、母の方が父よりも学業成績は遥かに優れており、現役でもその大学にギリギリ合格できるかどうか、という成績だったらしい。一方、父はといえば朝から晩までサッカーに明け暮れ、勉強をほとんどせず定期試験は赤点ギリギリの成績で切り抜けていたような不勉強な生徒であった。

 母のその決意を聞いてから、父は「大好きな恋人と絶対に一緒の大学に進学する」という一念だけで勉強を始めた。


 母は残念ながら1回目の受験に失敗し、浪人生活に入った。

 父も建築学科に進学したい、という明確な目的を定め、部活を引退した高校3年生の夏から猛烈に勉強した。

 それでも、大学受験直前の大手予備校の模擬試験の結果は母が「合格圏内」という安全域の判定だったのに対し、父の方は依然として「合格圏外、志望校の再考を要す」という絶望的な判定のままであった。そもそも学生の自主性を重じて進路指導ということを全くしない高校なので父は両親の反対を振り切ってまたしても玉砕覚悟で第一志望の大学を受験した。

 結果として、「一念岩をも通す」という言葉をそのまま体現した父の執念の追い込みが実り、ふたりは一緒に第一志望の大学に合格した。父は工学部建築学科、母は法学部だった。

 一緒に合格発表を見に行った際に、父は喜びのあまり涙を流しながら、公衆の面前で「結婚して下さい」とプロポーズしたそうな。周りにいた見知らぬ学生たちから拍手喝采を浴びたらしい。ところが、母の返事は「私にはまだやることがあるから待って欲しい」というものだった。

 父は大学に入るとまた体育会系のサッカー部に入部してサッカーに明け暮れ、一方、母は司法試験を目指した勉強に明け暮れた。

 今度は父が先に一級建築士の資格を取り大学を卒業して建築事務所で働き始め、母は何年もかかってかなり苦労をしてようやく司法試験に合格した。母の合格の知らせを聞いた父は、当時の勤務先だった京都から中府市内の実家に戻っていた母の元へ急いで自家用車で駆けつけ、就職してから貯金をして前もって買ってあった給料3ヶ月分の婚約指輪を手に母の両親の目の前で2度目のプロポーズをした。母の返事は「ずいぶん待たせてごめんなさい。答えはもちろんイエスです。こちらこそ今後とも末長くよろしくお願いします」であった。

 母の司法修習が終わり中府市内の法律事務所に就職が決まった時には父は既に中府市内で建築事務所を開業して独立しており、晴れてふたりは結婚した。


 この話をした後、父は「俺は根性と忍耐力なら誰にも負けない」と胸を張っていた。ひとつ年下の弟は「そんなに待たされるのはめんどくせえよ」と言い捨てていたが、私は逆に、母が自分のことをこんなにも愛し続けてくれる人がずっとそばにいるのにそれに甘えてしまわず自分の信念を曲げずに困難に立ち向かい続けて自力で人生を切り開いていたことに感動した。


 私は父から「根性と忍耐力」、母から「自分の信念を貫く強さ」を受け継いでいるのだと自覚した。


 両親の結婚から程なくして、私が生まれた。

 まだ私が小さかった頃、母はお人形やおままごと道具といった女の子らしいおもちゃを与えたのだが、私は家の中にあった父のサッカーボールに夢中になった。理由は簡単。私が周りの事物に興味を持ち出した時に目の前にサッカーボールがあったから。擦り込み(インプリンティング)である。動物としての本能的な行動であった。


 幼稚園に入ると私は男の子たちに混じってボールを追いかけ続けた。

 最初のうちは一つ年下の弟も私にくっついて一緒にサッカーをしていたが、年上の私にどうしても敵わないと分かるとサッカーを諦めて、今度は母にくっついてバスケットボールを始めた。


 私は小学校に入ると中府市内の名門サッカークラブである中府(なかくら)FCに入団した。

 入団時にセレクションの試験はあったが同年の男子と比較しても私が一番上手かったとコーチたちが絶賛してくれた。

 脚も速かったので私はフォワードとして育成されることになった。

 小さな頃から父と一緒にプロのサッカーの試合を観ていたので、本当は父がいつも熱心に応援していたバルセロナの選手のように中盤でゲームを作るゲームメイカーになりたかった。「フォワードは嫌だ」と最初はぐずっていた。しかし、経験のあるコーチが適正判断をしているのだから私に向いているのはフォワードなのだろう、とサッカー経験のある父も納得していたのでとりあえずチームの方針に従った。


 私は順調にサッカーが上達して、すぐに上の学年の選手と一緒に練習するようになった。

 小学校4年生になってからは抜擢されてついに一軍のベンチ入り選手になった。

 その年の夏のN県大会の決勝戦。

 レギュラーの左ウィングの選手が準決勝で怪我をしてしまったのでまだ4年生ではあったがコーチの判断で私がその代わりに先発出場することになった。

 対戦相手は、県の東部地区の強豪チーム・羽園(はねぞの)FCだった。

 私がまだ一軍に合流する前、既に春の間に練習試合で2回対戦していたが、それぞれ、0−4、1−5で大敗していた相手だった。

 ここ5年連続で県大会優勝を成し遂げており、事実上の絶対的王者だった。


 中府FCの女子小学生チームのキャプテンは6年生の美沙希(みさき)さんで体の大きなボランチの選手だった。

 パスもシュートも上手くて、しかも運動量が多く守備でも貢献し、試合中は積極的に声を出してリーダーとしてチームを引っ張っている人だった。

 決勝戦の開始前に選手だけがロッカーで待機している間にも美沙希さんは試合に臨むチームメイトを鼓舞していた。しかし、他のスターティングメンバーの選手たちは「今度もきっとまた負けるよ」と悲観して元気がなかった。表情も陰っていた。

 過去の練習試合での惨敗ですでに心を折られていたのだと子供心ながらに分かっていた。

 美沙希さんはそれでもひとりで必死になってみんなを叱咤激励していた。でも、みんなの暗い表情は変わらなかった。


 こんな状態で試合に臨んだところで、過去の2回の練習試合よりも酷い敗戦を喫する未来しか私には予想できなかった。最年少の私にもチームのみんなを元気付けるために何かできることはないか?と考え、虚勢を張って「大丈夫だよ!私が点を取って来るから、そしたらみんなで頑張って守って勝とうよ」と笑顔でVサインをした。

 すると美沙希さんが「4年生の由乃がこう言ってるんだから、私たち上級生も頑張らないとダメだよ」と改めてみんなに声をかけてくれた。本心ではまだ4年生で何の実績もない私がこの大一番の先発メンバーに選ばれたことに納得していない選手も多かったので、「チビのくせに生意気言うな」という怒りの感情を呼び起こすことにも繋がり、このチームはなんとかモチベーションを上げることに成功した。




 中府FCボールでのキックオフで試合が始まった。

 自陣の中央でボールを受けた美沙希さんは「由乃、走れ!」と大きく前方にパスを出した。

 まさか追いつかないだろう、と相手のボランチとセンターバックが悠長に譲り合いをしているバイタルエリアで私はボールに追いつくとワンバウンドしたそのボールをそのままダイレクトでシュートした。ドライブ回転がかかったボールは前めにポジションを取っていたゴールキーパーの頭上を超えてそのままゴールに吸い込まれた。試合開始から10秒にも満たない時間帯でのゴールだった。

 明かに相手チームは今まで出場したことのない、しかもやたらとすばしっこい背番号33の4年生選手の出現に混乱していた。

 その混乱に乗じて相手の足並みが揃わないうちにカウンター攻撃を仕掛けて私が立て続けにもう1点取り、試合を2−0とリードした。


 前半の早い時間帯に2点目を取られてからようやく羽園FCの選手たちが冷静さを取り戻し、そこから反撃が始まった。

 自力に勝る羽園FCが本来の実力を発揮し始めたので、それ以降は中府FCはボールをキープすることすら難しくなり、羽園FCの波状攻撃にゴールを脅かされてばかりになった。


 相手チームのファウルでプレーが止まった時に、美沙希さんがテクニカルエリアへ走り寄り「こうなったら由乃だけを前線に残して、それ以外の10人で守ろう!絶対にこの2点を守り切って勝とう!」とコーチに提案した。

 体がまだ小さくて守備では役に立たない私をひとりだけカウンターを仕掛けたり相手のディフェンスラインを下げさせるために前線に置き、残りの10人で守る戦術であった。羽園FCと中府FCの力の差を十二分に理解しているコーチも「背に腹は変えられない」と渋い顔でその戦術を採用し、ピッチにいる選手たちにポジショニング変更の細かい指示を出した。

 普通ならばこんな戦術は相手が意地でも点を取ろうとして前がかりになって攻めてきた試合の終盤に行う戦術である。

 前半の途中から守りを固めて相手チームの攻撃を跳ね返すことに専念する作戦を選択する。それくらい私たちは圧倒的に力の差のある羽園FCに追い込まれていたことを示していた。


 後半になっても中府FCの一方的な防戦が続き、試合時間が残り約10分になった頃にうちのチームのディフェンダーの選手がペナルティーエリアの中で相手選手を倒してしまい2枚目のイエローカードを受けて退場。羽園FCにペナルティーキックが与えられて1点を失った。

 そのタイミングで私は守備力のある別の選手と交代した。


 しかしながら、美沙希さんがその退場した選手に代わってディフェンスラインに入って懸命にチームを支え続け、最後まで集中力を切れさせず相手の猛攻を耐えて1点のリードを守り切った。

 2−1という試合結果は、見た目のスコア以上に危うい辛勝だった。


 試合終了後には、泥だらけになった美沙希さんが涙を流しながらベンチにいた私の元へ駆け寄って「やったよ!由乃のおかげだよ!本当に点を取ってくれてありがとう」と髪の毛がくしゃくしゃになるまで頭を撫でて褒めてくれた。同じように泣きながら喜んでいる他の選手たちにも囲まれてもみくちゃにされた。


 私はこの試合以降も、今後は試合前には必ず「私が点を取ってくるからみんなで勝とう!」と宣言することに決めた。多くの場合はそれは達成された。


 この試合を観に来ていた父は「カテナチオなんて久しぶりに見たぞ」といつになく興奮していた。「カテナチオ」というのが何のことか私にはさっぱり分からなかったので父に尋ねた。すると帰宅後すぐに父が昔のイタリア代表のサッカーW杯の試合の映像を見せてくれた。なるほど、サッカーの歴史の中ではこういう超守備的なサッカーもあったのかと驚いた。


 実際に、N県内の女子サッカー界ではこの決勝戦での私の連続得点と中府FCのカテナチオによる守備は伝説となった。

 


 その年以降、私は中府FCの一員として何度も全国大会に行った。

 最初の背番号は33番だったが、5年生になってレギュラーになると左ウィングということと、33がうちのチームの縁起のいい番号、有望な下級生がつける背番号として定着したことと相まって、同じくゾロ目の11番をつけることになり、それ以降も私は11番をずっとつけ続けている。


 また私はサッカーだけでなく毎年開催される地域の陸上大会にも学校の代表として出場して結果を残し、何度か全国規模の強化合宿に呼ばれた。




 地元の皆川(みながわ)中学に入学した頃の私に対する周りの評価は「サッカーと陸上の二刀流のアスリート」「文武両道の鋼鉄の女」「男勝りな女」といった類のものになった。


 別に間違ったことを言われているわけではないので私はその評価を甘んじて受け、その期待に応えるべくサッカーと陸上の両方で精進を重ね、学校の制服以外ではプライベートでスカートを履かなくなった。

 その頃から、同じ皆川中学だけでなく、他の中学校の女子生徒から告白されることが増えた。

 私にはその思いに応えることはできなかったので、その度に彼女たちの願いを断るのが辛かった。




 中学3年生の春、休日に皆川中学の体育館で行われた同じ中府市内の社山(やしろやま)中学とのうちの中学の男子バレーボール部の練習試合を観る機会があった。

 私はクラブチームでサッカーをしているので皆川中学の部活動には参加していないから、中学校の部活の事情には疎い。男子バレー部に応援すべき知り合いがいた訳ではない。女子バレーボール部に所属しているクラスメイトが社山中学のバレー部の河口という生徒のファンだったので「絶対かっこいいから由乃も観に行った方が良いよ」と誘われて連れて行かれたのだ。

 その選手はチームのエースで県の選抜メンバーにも選ばれており、県外の全国レベルのバレーボール強豪校からスカウトを受け、既にそこへ進学することが決まっているエリートだった。

 私は別に男子生徒に興味がないわけではないし、その日は他に予定もなかったので、友達がそんなに勧めるなら、とその試合の観戦に付き合うことにした。



 その日は混雑する事が予想されたので、友達と一緒に試合が始まる随分前から体育館の入り口に並んで場所取りをした。おかげで結構いい位置で試合を観られることが出来た。

 噂に聞いていた社山中バレー部の河口という選手は、背番号3で左利きだったので、ポジションはセッターと対角のオポジットであった。

 私も体育の授業でバレーボールをプレーしていたから大体のルールやポジションの知識はあった。

 ウォームアップの時点から、チームで一番背が高い河口くんは誰よりも高く跳び、鋭いスパイクを決めていた。友達の言う通り顔も悪くなかった。他校の生徒から人気が出るのも当然だろう。


 サッカーではキャプテンは腕にキャプテンマークをつけるが、バレーボールのキャプテンマークは背番号の下に横棒が入っているのだそうだ。これはその場で友達から聞いた。


 社山中学の男子バレー部のキャプテンはその河口くんではなく、背番号1をつけた丸刈りと言っていい短髪の生徒だった。今時、高校球児でもないのに丸刈りって珍しいな、と私はこのキャプテンの選手の気合いの入れ方に驚いた。

 ちなみに友達にこの社山中学のキャプテンのことを何か知らないかと尋ねたら、「河口くん以外に興味ないから全く知らない」とのことだった。それも当然だと思った。



 いよいよ試合が始まった。

 開始当初から河口くんにボールを集めて次々と社山中学が得点を挙げ、リードを広げていった。

 友達を含めたくさんの河口くんファンの女子生徒が喜んで声をあげていた。

 私は別に河口くんのファンではないので黙って戦況を見つめていた。


 確かにエースの河口くんのスパイクは凄いのだが、私は知らず知らずのうちに別の選手を目で追っていた。

 河口くんがスパイクを打つ時に必ずカバーに入って、万が一相手にブロックされた時に備えている選手がいる。彼はまた味方の得点が決まった後も厳しい表情のままキャプテンとして「絶対に油断するな」と声をかけて浮き立つチームメイトたちを引き締めて続けている。

 決して目立たないがチームプレーに徹して得点に絡んで貢献し、このチームを躍動させる原動力となっているのはエースの河口くんではなく短髪のキャプテンの選手の方なのだ、と分かった。

 派手さは全くないがコート上を駆け巡って必死にチームへ貢献し、声を出してチームを引っ張り、地味なプレーにも全力を尽くしていた。

 彼のその献身ぶりは、試合中に誰よりも一番多く走り、いつも大きな声を出してチームを引っ張っていた、中府FCのキャプテンをしていた頃の美沙希さんの姿と重なった。


 サッカーでもああいう縁の下の力持ちでリーダーシップのある選手がいるチームは強い。

 私自身はストライカーとしてプレーしているのだが、中学生になってサッカーの戦術についてさらに理解ができるようになると、ポルトガル代表のあの選手やアルゼンチン代表のあの選手のようなフォワードだけでなく、攻守に渡って貢献してチームをコントロールして勝利に導くミッドフィールダーの選手のプレーがますます好きになった。

 しかし、実際に今までの競技人生を見返すと、私は自分自身を磨き上げることは出来るが、キャプテンやリーダーとしてチームをまとめ上げることは不向きな人間だと分かっていた。クラブチームで私をチームの中心のゲームメイカーとしてではなくストライカーとして育成することを決めたコーチたちには先見の明があったと改めて痛感していた。


 サッカーが上手いこととリーダーシップがあることとは全く別の素質なのだと、名前も知らない他校のバレーボール部員のプレーを観て再認識させられた。




 中学2年生の秋くらいから私の元には県内外のたくさんの強豪校からスカウトが訪ねて来るようになった。

 初めのうちは覚え切れないほどのたくさんの高校のスカウトが中府FCの練習や陸上の練習の見学に来ていたが、最終的に私を自分の学校の選手として獲得すると正式に申し出てくれたのは、サッカー選手として5つ、陸上選手として3つの強豪高校であった。各校のスカウトやコーチが挨拶に来るとその都度、サッカーの場合は両親と中府FCのコーチ、陸上の場合は両親と中学の担任と陸上担当の体育教員が同席して一緒に面談を受けた。

 私は進路先には競技環境以外の高校生活についても重視していたので必ず各校の校風と学業レベルについて確認した。その結果、スカウトされた学校はいずれもその当時の私の学業成績と比較してフィットしないところばかりだったので、スポーツ選手としての勧誘は全て断ることにした。私は決してサッカーや陸上をするだけのためにこの世に生まれてきた訳ではないし、自分の可能性を競技人生だけに留めたくなかったのだ。


 結局、私は地元に残り、両親の出身校である暁月高校に進学することに決めた。私の学業成績ならば中府市内で1番の進学校である玲成高校への進学も可能であったが、玲成高校には女子サッカー部がないので、迷わず女子サッカー部のある暁月高校を選んだ。私を育ててくれた中府FCは一般の生徒が所属できるのは中学生までで、高校生からは通信制高校で学業を修めながら競技生活に専念するプロサッカー選手予備軍の強化選手しか所属できない方針になっていたからだ。2年先輩の美沙希さんは既にそのカテゴリーで活躍していた。そこまでの選手ではない私はクラブチームを辞めることになるので、高校生活の中にサッカーを求めれば暁月高校を志望するのは当然の選択であった。


 私の決断を両親は喜んでくれた。

 両親の話すところでは、暁月高校のOBやOGの子供で暁月高校に進学する人は多いそうだ。

 やはり自分の子供には「自由すぎる」とも表現できる校風に触れて自立心を身につけて欲しい、とどこの親御さんたちも望んでいるのだろう。もちろん、うちの両親もそうした希望を持っていた。



 その後、私は無事に入学試験に合格し、暁月高校に入学することが決まった。

 両親も双方の祖父母もとても喜んでくれた。弟だけは「また姉ちゃんと一緒かよ」とよく分からないことを言っていた。




 そして、4月が来て私は暁月高校の入学式に出席した。

 両親と弟と一緒に暁月高校にやってくると、両親は「全然変わってないなあ」と懐かしそうに感慨に耽っていた。どう見ても皆川中学と代わり映えのしない、全く味気ない校舎が並んでいるだけのこの学校の雰囲気を懐かしがっているのだから両親にとって高校生活はさぞや素晴らしいものだったのに違いない。ふたりとも生涯の伴侶を見つけたのだから当然だろう。



 入学式が行われる体育館へ入ると、父兄席へと向かう家族と別れて、入り口付近に掲示された新入生のクラス分け一覧へ向かった。

 他の多くの生徒たちの流れに乗ってA組から順番に自分の名前を探した。1年D組の名簿の中に自分の名前を見つけた。ざっと見た感じ、私の知っている生徒の名前はD組にはなかった。

 皆川中学からも何人か暁月高校に進学しているはずだったが、D組の名簿にもなかったし、周囲を見回しても生憎と見当たらなかった。

 その一方、私の知らない女子生徒たちが「あれって、皆川中学の小海さんじゃない?」とか「嘘、なんで暁月にいるの?」とか「小海さんと一緒の高校だ、やったー!嬉しい」などと話している声が時々耳に入った。

 周りで囁き合っているみんなの噂を統合すると、どうやら皆川中学出身の小海由乃という生徒はスポーツ推薦で、全国的にも有名な県外の強豪校に進学していることになっていたらしい。初めて知った。

 


 体育館の前方半分が新入生の席で、後方半分が参列された父兄用の席である。

 新入生の席としてたくさんの椅子が並べられているが、クラスごとに分かれて前から順番にA組、B組、C組といった具合に横一列に椅子が並んでいるだけで、席の指定はなく自由席であった。「本当にこの高校は自由なのだな」と感心した。

 共学とはいえ女子生徒が男子生徒の半分くらいしかいないので驚いた。

 特に席の指定もなかったのだが、少ない女子生徒たちはどのクラスも横に並べられた椅子の左端に固まって座っていたのでそれに倣って私もD組の列の左端側の空いている席に着いた。


 定刻になると入学式が執り行われた。

 入学式の開始直前に一際体の大きな生徒がよろよろとした頼りない足取りで入って来て、D組の列の席の右端に座り、目を引いていた。「あの人、入学式から遅刻しかけてて、大丈夫なの?」と周りの女子生徒たちがクスクスと笑っていた。早速、自由すぎる生徒を見かけて、これが暁月高校なのだ、と実感が湧いた。



 入学式が終わるとクラスの担任の先生がD組の生徒たちを引率して教室へ向かった。

 教室に入ると、窓側の席の前方から男女混合で苗字の五十音順に席が割り当てられてるようだった。机に生徒の氏名が書かれた紙が貼られていた。さすがに教室の席まで自由席ではなかったので些か安心した。

 私は苗字が「こうみ」なので一番窓側の一番後ろの席だった。教室後方の出入り口から入ったので比較的すぐに自分の席が見つかった。


 入学早々だというのに、前の方の席で生徒たちが楽しそうに大声で話す声が聞こえてきた。概ねこの高校にたくさんの進学者がいる有名中学の生徒たちだろう。

 しかし、その刹那、私は違和感を覚えた。そのうちのひとりの男子生徒の大きな声に何故か聞き覚えがあったのだ。

 声の主を探そうと前方を見ると、歓談している生徒たちの中に私は見知った顔を見つけた。


 皆川中学で行われたバレーボールの練習試合で見かけた社山中学の男子バレー部のキャプテンだった。高校生になったというのに相変わらずの丸刈りのような短髪だったので見間違えようがなかった。




(続く)

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