【23】霞のち明鏡止水
9月2日は始業式の次の日であるが、高校生活で最初の実力試験がある。
バスケ部の練習と文化祭の準備に追われている俺、大町篤はちょっとお祭り気分に水を差すこの日程にいささか異議を唱えている。
しかしながら、中府市の以外の田舎の高校には入学式の前に実力テストを行うような厳しいところもあるようなので、かなり暁月高校はのんびりとしている。
姉貴は、俺と違って小学生の頃から抜きん出て勉強が出来た。
そんな姉貴を中府市内にある私立の中高一貫制の女子校に進学させるかどうかを両親は話題にしていたが、姉貴は自分で勉強するから私立に行かなくていい、とそのまま地元の公立の伊那川中学校へ入学し、中学時代に自分で志望大学を決めて、その大学に多数の合格者を出している全国屈指の中高一貫高校のカリキュラムを自分で調べて取り入れて自分で選んだ参考書と通信添削教材を用いて勉強した。
中学3年間は校内トップを独走するどころか、県内でもトップクラスの学業成績を維持し、中府市内で随一の進学校である玲成高校へ進学した。
姉貴は高校に入る時点で高校2年生の勉強まで終えており、2歳下の弟である俺にも同じカリキュラムを勧めた。
俺は姉貴ほど勉強が出来るわけではないので当たり前のように地元の伊那川中学校に進学したのだが、田舎の中学校の授業に満足していた訳でもなかったので、姉貴の勧めるまま自学自習して早めに勉強を進めた。
中学2年生の頃には姉貴のお下がりの教科書と参考書を使って1年先の中学3年生の勉強を進めることができた。姉貴と同じ通信教育も中学3年生向けの教材を使っていた。
中学3年生の頃には姉貴のおさがりの高校1年生向けの参考書と同じ通信教育の高校1年生向けコースを使って勉強をしながら、中学3年生として受験勉強もしないといけなかったからとても忙しかった。
それでも、夏休みに部活を引退すると勉強時間も増し、学業成績の上では姉貴と同じ玲成高校を確実に狙えるレベルを維持できた。
だが、強豪校で高校バスケをしたいことと、自由な校風を学生が守っている気概に惹かれ、この暁月高校への進学を希望した。
両親は俺の学力ならば姉貴と同じ玲成高校に進学するように勧めてきたが、最終的には俺の強い意志に折れる形で、俺の進路は決まったのだ。
家族会議の間、姉貴は終始中立の立場を貫き、「あんたの好きにしなさい」とでも言いたげだった。
そんな訳で、姉貴ほどの進捗具合ではないが、高校1年生の勉強まですでに終えた状態で俺は暁月高校に入学したのだった。
現在、俺は自宅ではすでに高校2年生の勉強をしている。
勉強を前倒しにしている俺だが、暁月高校の実力試験には手こずった。
1限目の試験科目は国語。
現国は、河野哲也の評論「意識は実在しない」。
それなりに解けたと思うが、現国は採点者によって正解が変わるからまだわからない。
古文は、「吾妻鏡」(平仮名本)から出題。
これは難しかった。明らかに古文の勉強が足りなかったせいだと思う。
細かい文法問題や単語問題じゃなくて、長文読解問題だったからそれなりには答えられたと思うが。
漢文は、「論語」から出題。
これは比較的簡単な設問だったので解けた。
漢文はロジカルに考えれば確実に解けるから好きだ。
2限目の試験科目は数学。
問題数は4問。
いわゆる「一行問題」が4問中2問もあって驚いたが、1問は類問を知っていたので解けた。もう1問は途中までしか解けなかった。
他の問題も1問は最後まで解けたが、もう1問は時間切れで途中まで。
この難易度の高さはなんだ?
問題を作ったのはきっと沢野先生だな。
3限目の試験科目は英語。
問題用紙が配られた時点でわかる異常なまでの分量の多さ。
全ての回答用紙にクラスと名前を書いているだけで随分と時間がかかった。
試験が開始されて問題用紙を見ると、英作文が4問ある以外は、長文問題が延々続く。
姉貴の勧めで普段から英英辞典で勉強していたから、意外とすんなり英語の長文を読み流すことができ、それなりに最後まで解けた。
ただ、流石にこの分量だけに時間が足りなかったので、雑な回答になった感はあるので、もう少しスピードを上げていればと後悔している。
3限が終わった後で、試験監督をずっと勤めていた沢野先生が短い帰りのホームルームをしてその日は終わった。
帰り際に川上と上田と話した。
ふたりとも苦戦して疲れたようだったが、表情は明るい。
あいつらのことだ、俺よりは試験が出来ているに違いない。
胸に悔しさともやもやが残っているが、俺は「実力試験はもう終わったんだ」と頭を切り替えてバスケ部の練習へ向かう。
バスケ部の部室でも実力試験の話題で持ちきりだった。
2年生の先輩は国語・数学・英語に加えて理科2科目・社会2科目の試験を受けるので、終了時刻が遅い。
昼食を食べてから、駒根先生の指導のもと、しばらくは1年生だけで練習が行われた。
1年生のリーダー役には自然と今年のインターハイ予選で唯一ベンチ入りできた俺が選ばれ、練習中の号令係を行なった。
今までは前キャプテンの辰野先輩、現在のキャプテンの箕輪先輩がやっている役目なので、なんだか気恥ずかしいが、照れている場合じゃないので俺も声を張る。
1年生だけの練習だからといって、決して部員の集中は下がらない。
普段はなかなか3対3や5対5に参加できない1年生部員だが、今日は思う存分プレーしている。
2年生ほどではないが、みんな結構うまい。
午後まで実力試験を終えた2年生が合流したのだが、先輩たちの疲れ切った表情を見て、駒根先生は軽めの調整だけで早めに練習を終えた。
次の9月3日は午前の4限まで授業があり、昼食後から体育祭実行委員の男女2名を中心として自主的にホームルームを行う予定であった。
体育祭の各種目に出場する生徒を決めるためである。
男女2人の体育祭実行委員が前に出て議事進行を進める。誰がその役目を担ってもこなしてしまうのがすごい。
沢野先生はいつものように窓際で静観している。
まず最初に決めたのは花形種目の100m走。
入学時に行われた体力測定の記録の一番良かったものが選ばれた。
男子は川上、女子は女子サッカー部の小海さんに決まった。
陸上部の部員は出場しないのが暗黙の了解だったので、男子で最速記録保持者だった国師は辞退し、2番目だった川上が選ばれた。
小海さんはスポーツ万能で100m走の記録も最速だった。
続いて、400mリレーのメンバー。
こちらも記録の速い者から4人選ばれた。
男子は、国師、川上、俺、古賀だった。
古賀は体操部で小柄だが運動神経がいい。球技大会ではリベロとして活躍した。
体育祭の400メートルリレー走は国際大会と異なり、2走からオープンコースで走るルールである。
陸上部の国師の話では、第1走者と第3走者はコーナリングが上手い選手が適していて、2走は速い選手、4走は速くて勝負強い選手が適しているそうだ。
俺たち4人の体格と足の速さを考慮し、また難しい第1走者は本業の国師に任せることにして、国師ー俺ー古賀ー川上というオーダーを組んだ。
俺は今まではアンカーとして走ることが多かったから、次走者へバトンを渡す練習をしっかりしないといけない。
女子も、小海さんやハンド部の遠見さんが選ばれた。
女子のリレーチームについても国師が監督役を買って出て、その場でオーダーを決めていた。
次は障害物競走で、うちの学校の場合は、跳び箱とか平均台とか結構難しい障害が多いので運動神経のいい生徒を選ぶ必要があるのだが、男子は体操部の古賀が立候補してくれて、女子は体操部員がいなかったが、「それじゃあ」と遠見さんが立候補してくれた。
次は借り物競走、で男女各2名ずつ。
体力的にきつい競技ではないので、激しい運動はできない高岡さんと運動が苦手な井沢さん、別に激しい運動をしても構わない上田と剣道部の横手がなぜか立候補した。
続いて、二人三脚を決める段になると、川上と上田がほぼ同時に手を挙げた。
上田曰く
「川上、お前これで3種目になるぞ?
ずるいぞお前ばっか目立って」
川上曰く
「お前だって、借り物競争に出てんじゃねえか?
リレーはクラス代表だからカウントに入らねえよ」
これにはみんな大笑いしてしまったが、実行委員から「リレー以外は1人1種目まで」というルールを告げられ、また、背の高いこの2人だと体格の釣り合う女子生徒がいない、ということで川上と上田の立候補はあっさりと却下され、代わりに鹿田が控えめに立候補し、女子は安住さんが立候補してくれた。
鹿田の方が安住さんより背は高いが並んでみるとバランスとしては悪くない。
その姿を見て、川上と上田が悔しそうにほぞを噛んでいるのがよくわかる。
あいつら、それだけの目的で立候補したのか?
まさに漁夫の利だな、鹿田。
その他にもいくつかの種目の出場者が決まり、元々少ない女子はほぼ全員が個人種目に出場しないといけない、丁度良い感じの種目数に調整してあるのがわかる。
絶妙な運営である。
ここまでで1時間ほど経っていた。
あとは、3年D組、2年D組、1年D組という「縦割り」のチーム合同で競う競技についての議論が残っているだけであった。
そろそろ縦割り集合の時間なので、2年D組と3年D組の先輩方が1年D組の教室に集まってくるので、掃除時間のように全ての机を後方に下げた。
やがて三々五々、上級生が集まってきて、全員がどうにか教室に入り切った。
その段階で、沢野先生は教室を後にする。
生徒の自治に後は任せます、というメッセージだろう。
いつも生徒との距離の取り方が絶妙な先生だ。
ここからの仕切りは縦割りの選手団長が行う。
D組の団長は、3年の汐路先輩だ。
まず、前に出て挨拶を始める。
汐路先輩はラグビー部の元部長で、俺にとっては新入生の部活勧誘会での「監禁ドラフト」で一番長い間話した先輩だ。
後から聞くと、汐路先輩がバスケ部の前部長の辰野先輩に俺のことを話してくれたらしい。
あれだけ熱心な勧誘をして断られた相手のために顔つなぎをしてくれるなんて、なかなか出来ることではない。
おかげで今ではすっかり顔なじみで「バスケが嫌になったらいつでもラグビー部に来い」と会うたびに声をかけてくれる間柄になっている。
強面だが、懐の深い、面倒見のいい先輩だ。
汐路先輩は挨拶する。
「俺がこの縦割りのチームD組の団長を務める、汐路和樹だ。
春の球技大会でも一緒にチームを組んだから顔くらいは覚えているだろう人がいると思う。
今回は、応援だけじゃなくて、実際に力を合わせて戦うことになる。
一丸となって、戦おう!
優勝を目指すことも大事だが、俺はもっと別のものを大切にしたいと思う」
てっきりこの強面の先輩が「優勝を目指そう!エイエイオー!」と掛け声をかけるとでも思っていた俺たち1年生はほぼ全員がきょとんとする。
その空気を読み取った上で汐路先輩は続ける。
「いいか、俺たちはチームだ!
誰かが転んだら他の奴が助けろ、誰かが挫けそうだったらそばにいる奴が励ませ!
もし全力を出し切って結果を残せなかった者がいて、それを非難する大馬鹿野郎がいたら周りのみんなで守ってやれ!
それでもその大馬鹿野郎が非難するのをやめなかったら俺に言え!
俺が飛んで行ってそいつを黙らせてやる。
勝つことは大事だがそのために傷つく者がいてはならない。
これはうちのチームの大前提だ。
みんな、これを第一に守ってくれ!」
なんか体の中から燃え上がるものがあった。
汐路先輩はラグビー部でいつもそうやって試合前にみんなを鼓舞していたのだろう。
俺がもしもバスケをしていなかったら、ラグビー部に入っていても良かったのかもしれないな、と少しだけ思った。
そして、汐路先輩は続ける。
「体育祭では個人種目もあるし、団体種目もある。
クラスを、縦割りを代表して出場する生徒は自分のために戦ってくれ、ただし、それはチームを代表して戦っていることでもあることを忘れないでほしい。
スタンドプレー、ハッスルプレー、多いに結構。
しかし、同じチームの仲間を辱めるような行為は慎んでくれ」
この強面の先輩は、思い出したくもない「監禁ドラフト」の首謀者なのではないかと実は密かに思っているのだが、言っていることはまともだったりするので、容易には理解しがたい反面、不思議な魅力というか求心力のある人である。
伊達にあの個性派かつ無頼派集団のラグビー部をまとめ上げてきた訳ではない。
団長挨拶が終わると、3年生と2年生の体育会実行委員が前に出て、議事進行を始める。
縦割りで取り組む競技は、3つ。
・縦割りの代表者がアームレスリングで競う、Strong Arms。
・男子:騎馬戦
・女子:応援合戦
女子の応援合戦は全員参加でかくチーム毎に趣向を凝らした集団芸を見せるのが売り物だ。
最近流行った音楽に合わせて踊ったり、男子の学ランを借りて応援団をしたり、チアガールをやったりと毎年楽しい演出が期待されている種目だ。
これは教室では練習できないので、女子はCDラジオを持ったリーダーっぽい先輩について確保してある練習場所に移動した。
教室に残された男子は、Strong Armsの代表選考と騎馬戦出場者を決めて騎馬を組んみる練習を行う。
まずはStrong Armsの代表者選びから。
夏休み前に各クラスで前もって代表者を選んでおくように、とのお達しがあったようで、クラス内予選が行われていて、ハンド部の深間が上田や川上を秒殺し、決勝戦では横手と対戦して2−1と勝利して、代表の座を射止めていたらしい。
らしい、というのはその日に俺は学校にいなかったからである。
うっかり体育祭実行委員が忘れており、夏休みの出校日にその予選が開かれたらしいのだが、俺はインターハイ予選に行っていてその日は登校していなかった。
「それじゃあ、Strong Armsの代表決定戦を始めるか。
3人だから総当たりの1発勝負な。
3年の代表は俺だ」
と汐路先輩が後ろにある机をひとつ軽々と持ち運び、生徒の立っている教室の空きスペースの真ん中に置く。
2年の代表者は名前は知らないがいかにもゴツいし、身長も俺と同じくらいある。
1年代表の深間はそこまでゴツくはないが、身長は高く手がでかい。
その3人が揃うと、汐路先輩は
「ん?
あれ?
1年の代表は大町じゃねえのか?」
と怪訝そうな顔をする。
深間は「そんなこと言われても」という困り顔である。
そこで俺が
「汐路先輩。
俺はクラス内予選に出場してません。
その日は登校してなかったので」
ラグビー部は運悪くインターハイ予選の2回戦で県内最強の高校と当たってしまい、僅差で敗れたのだ。
インターハイ予選のことに触れるのは良くないだろう、と思い理由は伏せた。
すると、
「じゃあ、丁度いいや。
大町、お前も参加しろ。
4人になってトーナメントにできるから一石二鳥だ。
団長推薦特別枠ってことだ。
それでいいよな?」
すると
「異議なし!」
「賛成!」
と言う声が上がり、周りの全員が
「大町!大町!」
と囃し立ててくる。
そこまで言われて出て行かないほど俺も野暮じゃない。
覚悟を決めて、中央のステージに上がる。
最初の「異議なし!」と「賛成!」は明らかに川上と上田の声だったことは今は忘れよう。
3年生の実行委員が、いつのまにかあみだくじを作り、黒板にトーナメント表を作っていた。
またあみだくじかよ、、、。
おまけで参加した俺は選択権を辞退して、汐路先輩、2年の先輩、深間、の順で選び、残ったのが俺、ということになった。
組み合わせは、1回戦、汐路先輩 vs 深間、2年生の先輩 vs 俺 となった。
汐路先輩はルール説明をする。
「本番は公式戦でも使われるグリップバー付きのアームレスリング用競技台を使うから勝手が違うかもしれない。
それと本戦だと3本勝負だから3試合のスタミナを考えろ。
それから、この4人の中に左利きはいるか?」
全員、首か手を横に振る。
「利き手が違う選手同士の対戦の場合は、オリジナルのルールが適応される。
じゃんけんして勝った方の利き手で1本、次に反対の利き手で1本。
1−1のタイになったら、もう一度じゃんけんして、勝った方が希望した方の手で3本目を行う。
細かいことは本戦でレフェリー役の生徒から聞くといい。
今回は全員右利きだから1本勝負な。
よし、俺の試合から先にやろうぜ」
とテキパキと説明をして汐路先輩は試合を始めたがる。
この人は先陣切って突撃するタイプのリーダーだな。
いつの間にか教壇が運ばれてきて、その上に机を置き、なんとなくそれっぽい高さの競技台を作り上げている。
汐路先輩と深間の試合が始まる。
レフェリーは別の3年生が務める。
手を痛めるといけないので、手の甲が机に着く位置に黒板消しが置いてある。
よく見ると黒板消しを別のふたりの先輩が手で固定している。
手の甲にチョークの色がついたら負け、というわかりやすいルールでもある。
「お前、手がでかいな?
どこの部だ」
「はい、ハンド部です」
「そんななまっちょろいスポーツやってねえで、ビー部に来いよ」
早速のトラッシュトーク、と言うよりはド直球の勧誘だった。
「レディー、ゴー!」
その瞬間、チョークの粉が舞った。
間近で見ていた生徒はみんなむせ返った。
汐路先輩による秒殺であった。
俺は思わず、
「深間、大丈夫か?」
と駆け寄った。
あれはまずいだろ?
腕を怪我したらあいつのハンドボーラー人生が、、と思ったが、当の本人はチョークまみれの右腕をかばう様子もなく。
「ああ、大丈夫だ。
全力で叩きつけたみたいに見えたと思うけど、加減してくれたよ。
チョークついたな、負けたな、と思ったら力を抜いていた感じだな。
大町、あの人めちゃくちゃ強いぞ」
と俺にアドバイスまでしてくれる。
汐路先輩は強さに加えてそんな優しさも持ち合わせてくれたのか。
そんな先輩の抜擢に応えるためにも、俺は1回戦を勝ち抜かないといけない。
さて、俺と2年生の先輩の対戦である。
はっきり言ってこの先輩だけは俺がこの場にいることを好ましく思っていないのは間違いないだろう。
俺を特別扱いした汐路先輩とクラスメートの深間はともかく、この先輩だけは「関係ない横槍が入った」と思っていそうだ。
その証拠に明らかに気合がみなぎっているのがわかる。
さて、俺も本気出すか。
さりとて、別に秘策があるわけではないので、先ほどの深間を手本にセットアップする。
俺の身長だとこの体勢は少しキツい。
互いに右手を差し出してガッチリと握り込む。
左手は机の端を掴む。
あっ、この先輩は強いかも、と握った時点で分かったが、これならばいけるかも?
川上よりは強いだろうけど、多分勝てない相手じゃない。
遠くの方で
「大町に500」
「大町に1000」
と川上や上田の声が聞こえるのは幻聴ではないだろう。
あいつらバレるなよ。
「レディー、ゴー!」
こちらは下級生なので、あまり上級生の顔を潰すようなことはすべきじゃない。
なので、俺は右腕に少しずつ力を込めていき、ゆっくり勝利をした。
「よっしゃー!」
「勝ったー!」
1年生から地鳴りのような歓声が湧く。
先ほど深間が秒殺された分の鬱憤も晴れたということだ。
だが、恨まれるのは俺なんだ、お前ら少しは自重しろ。
俺の肩をポンと叩く先輩に、俺は黙礼で応える。
この先輩も懐深いな。
体育祭で仲良くなれるといい、そう思った。
さて、いよいよ、決勝戦。
アームレスリングは組んでみないと相手の力量がわからない。
経験豊富な選手なら組まずともわかるのかもしれないが、俺は普段からあまりアームレスリングをしないからわからないだけだろう。
だが、汐路先輩が強いのは俺にでもわかる。
太い腕、強靭な体幹、ラグビーで鍛えた足腰。
強さを求めると、人はどう進化するのであろう?というひとつの答えがここにあるような気がした。
即席競技台に向かい、互いに礼をしてセットする。
握った時点でズシッとした重みが伝わる。
完全に集中し切った状態にいるのが、表情からもわかる。
俺はよく姉貴に言われる。
「あんたはぼーっとしすぎ」
だが、俺のような人間は少し抜けているくらいで丁度良いのではないだろうか?
俺は、自分が集中した時の恐ろしさを知っている。
集中の向こう側に行ってしまっている間に、誰かを傷つけてしまっていないか?いつも俺は恐れている。
高校の入学式の時もそうだった。
ぼーっとしていたのではなく、桜の下のあの美しい姿を脳裏に焼き付けることに集中していたのかもしれない。
今もこうしてぼーっとしている間に、試合が始まり、いつのまにか試合が終わっているのかもしれない。
それならそれでいいのだ。
そもそも俺はここに立つべき人間ではない。
Strong Armsには汐路さんが出場すべきだ。
そうすれば、きっとうちのチームに優勝をもたらしてくれるだろう。
あれ?
今回は川上も上田も騒いでいないのか?
変だな?
「おい、いつまで手を握ってるんだ、大町」
と汐路先輩の声がする。
あっ、俺負けたのか。
やっぱ、ぼーっとして負けたな。
だが、それでいい。
握っていた手を離す。
変な方向に腕が抜けるので、不安になった。
あっ、俺、腕が折れたな。
アームレスリングで腕を折ることはそんなに珍しいことじゃない。
しばらくバスケができなくなるのがとても悲しいな。
せっかくレギュラーを取れたのに。
ちょっと泣けてきた。
変な方向に抜いた腕をさする。
不思議と痛くない。
本当に痛い時って、痛みを感じないっていうから、そういうことか。
ものすごい方向に腕が曲がっているだろうな。
もう一度、肘から指先まで触ってみるが、特に折れ曲がっていないし、痛みもない。
手の甲の骨くらいは折れたかと思って触ってみると特に痛くない。
あれ?
変だぞ?
俺の右手の甲にチョークがついていない。
「おい、大町。
少しは手加減しろ。
思いっきり叩きつけやがって痛えな」
えっ?
あ、そういうことか。
その後、すぐに俺は汐路さんと保健室に行った。
保健室の先生から「念のため病院に行くように」と言われたので汐路先輩に付き添って俺は近くの市民病院へ向かった。
相手は受験生なのに利き手を大怪我させてしまった可能性もあるのだ。
どうお詫びしたらいいのか分からない。
病院へ向かう途中、俺は生きた心地がしなかった。
だが、そんな俺の心配をよそに汐路さんは
「大町、お前はやっぱり見込み通りだな。
俺のStrong Arms3年連続出場を阻止しやがった。
お前とは本戦で当たりたかったぞ。
なんでお前、D組なんだよ」
と嬉しそうに笑っている。
負けてなお、自分を負かした男を讃える。
なかなかできるものではない。
本当に懐が深い。
「じゃあ、先輩はStrong Arms三連覇がかかっていたんじゃないですか!
やはり俺が出るべきじゃないです」
「いやいや、ここまで叩きのめされて本戦には出て行けねえよ。
それにな、俺はStrong Armsで一度も優勝してねえ。
まあ、何故かは本戦に出てみれば分かるさ」
それにしても病院というところは何故こんなに患者を待たせるのだろう?
汐路さんは病院で待ち合わせたお母さんと一緒に受付をして、整形外科の外来へ行き、診察室に入って、今度はレントゲン写真を撮りに行って、もう一回診察室に戻って、骨には異常がないことがわかった。
経過観察のためしばらくは通院が必要だそうだ。
汐路先輩の診察が終わるのを待っている間、俺は針のむしろに座らされているような気分だった。
病院で汐路さんのお母さんとお会いした時にはすぐさまお詫びをしようと構えたのだが、その前に
「母さん、こいつがさっき話した1年の大町。
どうだ、ゴツいだろ」
と汐路さんに言われてしまった。
「何言ってんのよ、あんたと違って大町くんはかっこいいじゃない。
大町くん、うちの和樹は昔からわんぱくだからこういうのは慣れっこです。
私はうちの子がよそのお子さんを怪我させるのが心配でね。
だから、怪我をしたのが大町くんじゃなくて良かった。
あなたは余計な心配をしないでちょうだいね」
俺の方も当然ながら、市民病院に行く途中に自分の母親に電話をして、ことの次第を告げてあったので、慌ててやって来た母がひとしきりお詫びをし、逆に汐路さん親子が恐縮する一幕もあったが、とりあえず大怪我ではなかったので、その場は収まった。
別れ際に、汐路さんから「D」のマークの入った野球帽を差し出された。
日本の球団じゃなくてアメリカのプロ野球チームのものだった。
「Strong Armsの本戦では各縦割りの代表が、そのクラス名のついた野球帽を被って試合することになってんだ。
ABCD・・日本かアメリカかを探せばそんなエンブレムの野球帽はあるからな。
野球帽をゼッケンがわりに使うのは、昔のアームレスリング映画の影響だとさ。
自分が出るつもりだったからもう用意しちまったんだ。
もし良かったら、俺の代わりにこれを被って試合に出てくれないか?」
俺はその言葉に涙が出そうになったが、それをこらえて、
「はい、喜んで」
と首肯し、野球帽を受け取る。
「いいか、大町。
試合時にはツバを後ろにしろ。
願掛けみたいなもんだ」
と謎のアドバイスを受けた。
帰り道、母は無言だった。
普段はよく喋る母なので、それが何より怖かった。
帰宅後は、職場から早退して来た父と母から長々とお説教を受けた。
そんな野蛮な学校と知っていればもっと諦めずに玲成高校へ進学するように説得したのに、と母を泣かせてしまった。
あまり遅くなるといけないからと言って、父が汐路さんの家にお詫びの電話をかけていた。
向こうのお父さんはなんとも思っていなかったようだが、週末に両親と俺とで汐路さんのお宅へお詫びとお見舞いに伺うことになった。
とりあえず今日のところは説教はここまで、ということになりようやく部屋に戻った。
シャワーを浴びて戻ってくると、ドアがノックされて姉貴が入って来た。
「あんた、自分を拉致った先輩をシメたんだって。
やるね~」
今は姉貴の軽口に乗れる気分じゃない。
「あんたさあ、またぼーっとしてたんでしょ?」
またその話か。
「ああ、そうだよ、ぼーっとしてたら、ものすごく強い先輩にアームレスリングで勝ってた」
それしか覚えがない。
負けたと思ってたけど、掌が下を向いていたから腕が折れたかと思った。
そう姉貴に話した。
「だから、あんたはぼーっとしすぎだって言ってんのよ!」
ああ、確かに俺は抜けている。
仕方ない。そういう性格なのだ。
「あんたは勘違いしてるかもしれないけど、これは褒め言葉だよ」
はいはい、褒め言葉ね。
え?
「なんで、私があんたの部屋に来る時にノックしてそのまま入ってくると思う?」
それは姉貴が自由人だからだろう?
「まあ、今日は色々大変だっただろうから、早く寝なさいよ。
それじゃあ、私は忙しいからこれで」
姉貴は部屋から出て行った。
俺は姉貴が言っていた言葉の意味を掴みかけていた。
確かに俺はぼーっとしすぎている。
(続く)




