表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
羊飼いも山羊もいない  作者: 遊舵 郁
秋は夕暮れ
26/63

【22】杞憂は人の為ならず

 9月1日、夏休みが明けて始業式となった。

 とは言え、私、井沢景は7月下旬から8月中のお盆休み以外はほぼ毎日のように文化祭の準備のため登校していたために、「夏休み」という感覚がないので、なんとなく明日からは学業が再開するのだくらいの自覚しかない。


 朝に教室で会ったクラスの友達のほとんどは夏休みでも会っていたし、時々差し入れのジュースを持ってクラスの様子を観に来てくれていた沢野先生のことも「お久しぶり」という感覚がない。


 登校すると早速、体育館に集まって始業式が始まる。

 形通りの行事が進行し、また校長先生の訓話が始まると私は感覚器のスイッチを落とす。

 私には考えなればならないことがある。


 まずクラスの教室演劇のこと。


 私としては、素人だらけでやっているわけではあるけどそれなりに形にはなっていると思う。

 あんなに台詞も動きも多い演劇をまさかあそこまで仕上げるとは、私は単なる何でも屋のお手伝いに過ぎないが、日々の進歩を見るにつけ驚きを隠せない。

 終盤の長台詞で苦しんでいる大町くん以外はほぼ完成したと言ってもいいのではなかろうか?


 次に考えるのは文芸部の部誌「文芸・東雲」のこと。

 

 あんな高校生の文集を100部も刷ってしまって、果たしてどれだけ売れ残るやら?

 1部300円だから部員で買い取りになったら大変だ。

 須坂くんのファンがいるだろうと言っても、あれはSNS上で盛り上がっているだけで、実際にお金を出してまで買ってくれるファンはほとんどいないと思う。

 私が寄稿したミステリーは、文芸部のみんなに言わせると全く異なる文脈に読み取れるとのことだ。

 だったら、そんなもの世に出回って欲しくない。

 もっと、50部案を強く主張すべきだったか?

 否、1年生の私にはそんな発言権はない。

 後悔の念しかない。


 最後に考えたのは、ずっと気になっていた「輝く夕焼けを眺める日」のこと。


 あんなに素晴らしい戯曲を書いた佐倉真莉耶という人は誰なんだろう?

 大町くんのお姉さんの言っていた通り舞台が「ひどい出来映え」だとしたら、それはなぜだろう?


 それからもう2つ、思い出した。


 私が去年の文化祭に来たときに文芸部のブースでお話ししたあの女子生徒はどなただったのだろう?

 去年の3年生の文芸部員ではないことは昨年の卒業アルバムから判明している。

 在校生の今の2年生や3年生でほかの文化系部活動の部員さんかもしれない。

 私はほとんど2年生や3年生の教室に行かないし交流もないからそれで出会わないだけかも知れない。

 文化祭期間中に文芸部のブースで店番をしていれば再会できるかも知れない。

 是非ともまたお話ししたい素敵な方だったなあ。

 

 そして、私が文芸部に初めて参加した日に見つけた、たんぽぽのマグカップ。

 私が触ろうとしたら飯山先輩がそれを咎めてとても怖かった。

 可愛らしいデザインでとても来客用には思えなかったので、過去にいた部員さんの私物か何かだろうか?


 私にはたくさん考えないといけないことがある。


 なのに、状況はそれを許してくれない。

 暁月祭があるのもそうだが、もっと差し迫った課題は明日の実力試験だ。


 2期制で定期試験が前期・後期の中間と期末という4回しかない暁月高校だが、夏休みと冬休みが明けると実力試験がある。

 1年生は国語・英語・数学の3科目。

 理科と社会は、担当教員によって地学だったり、生物だったり、化学だったり、倫理だったり、歴史だったり、地理だったりと授業内容がばらばらだから実力試験の科目からは外れる。


 逆に言えば、今までは各クラスごとの順位しか出なかったのが、実力試験では初めて学年順位が発表される。

 暁月高校は生徒を学業で競わせて締め上げるような学校ではないので決して、好成績者を掲示して発表するようなことはしなくて、各自に成績表が配布されるのだそうだ。

 入学当初から「今までの人生で見たこともない席次を見ることになるけれど、心をしっかり保って落ち込まないように。何か相談事があれば先生に言いなさい。いつでも相談に乗りますよ」と沢野先生は最初の定期試験のホームルームで話されていた。

 概ね、私のような田舎の中学校の出身者に向けて発したメッセージだろう。

 実際、前期の中間試験では、中学時代の学年順位よりも、高校でのクラス内の席次の方が低かったので、わかってはいたけれど結構凹んだ。



 始業式の日は、翌日がすぐに実力試験だから、という理由で部活動も文化祭も禁止されたので、そのまま帰宅となった。


 いつもより早く帰宅したところで、相手は実力試験である。

 一夜漬けが通用するテストではない。

 さて、今回はどんな結果になることやら。


 私のような平凡な田舎出身の生徒が活躍できるほど中府市の進学校は甘くないのだ。

 お隣の鯉美中学出身の岡谷先輩が京都の有名な国立大学を目指してまっしぐらな理系の優等生であるのは、純粋に岡谷先輩の頭がいいからなだけだ。

 天才が田舎に生まれただけの話だ。

 私は違う。

 中学時代に努力してようやく暁月高校に到達できた凡人だ。

 実力試験には赤点はないと聞いているが、恥ずかしくない点数だけはなんとか取ろうと思う。

 それが私の戦いだ。

 そのために私が今すべきことは?

 早く寝ることだ。


 私は夕食を取ると、早めに床に就いた。




 さて次の日、私は久しぶりに十分な睡眠を取り、さわやかな朝を迎えた。

 朝食を取り、登校する。


 教室に入ると、あまりピリピリした雰囲気はない。

 中には英語や古文の単語帳や数学の公式集をさらっている生徒もいるがごく一部だ。


「景ちゃん、おはよう」

 挨拶してきたのはひかりちゃんだ。

 彼女は夏休み前に行われた中間試験がクラスでトップだったそうだ。

 普段おしゃべりしているとさすがはクイズ戦士だけあって物知りなのはわかるけれど、勉強もできるなんて反則だ。

 でも、よく考えたら、高校生のクイズ大会の強豪校は全国レベルの進学校ばかりで、うちの県でも中府市内で一番の進学校の玲成高校が強い。

 クイズと勉強は相通じるところがあるのかも知れない。


「あっ、おはようございます、景ちゃん」

 次に私に声をかけてきたのは、高岡さん。

 高岡さんは、病気療養していたので私たちより1つ年上だ。

 入院中も勉強していたので、成績もいい。

 英語はクラスで一番の成績だ。

 詳しく訊いたわけではないけれど、彼女は英語を生かした仕事を目指しているのではないだろうか?

 英語の授業で当てられた時に彼女が話す英語の発音は実に素晴らしい。

 普段から如何に努力しているかがそこからも伺い知れる。



 大町くんとその愉快な仲間たち、川上くんと上田くんは今日も朝から歓談している。

 実力テストだから直前の暗記など必要ないとは言え、あれはあきらかにリラックスしすぎなのではないか?と思えるくらい普段通りである。


 大町くんは私より勉強ができる。

 伊那川中学は成績優秀者を貼り出したりはしないが、大町くんはほとんどの試験でトップを取っている、という噂を聞いた。

 うちの中学で主席だからといっても、中府市内の進学校で通用するかどうかは疑わしく、実際、才色兼備で知られた生ける伝説ともいえる大町佳織先輩、大町くんのお姉さん、以降に中府市内で一番の玲成高校へ進学した生徒はおらず、てっきり大町くんも玲成高校に進学するものと私は信じていた。

 しかしながら、大町くんは願書提出日に

「井沢さん、俺も暁月高校を受験するからよろしく」

と私に声をかけて来たから驚いた。

 そのまま一緒に高校まで願書を出しに行った。


 彼には彼で、バスケットボールにかける情熱とか、とかく比較されやすい伝説のお姉さんとの関係とか、校風へのこだわりとかあるのかも知れない。

 

 とにかく、同じ中学校の出身でも大町くんは私とはレベルが違うのだ。


 川上くんも上田くんも実はかなり勉強ができる人だと、安住さんに教わった。


 中府市内の高校を受験する中学3年生のほとんどが受験する予備校の主催する模擬試験があるのだが、そのランキング表を見ると、首位近くには新入生代表に選ばれた遠見咲乃さんがおり、少し下がったところに安住さんがおり、さらに下がって30番台に川上くんと上田くんが仲良く並んでいたのを見つけたときには驚いた。

 私はと言えば、、、大町くんよりも遙かに下で、、、きっとぎりぎりで暁月高校に合格できたのがよくわかった。

 ちなみに高岡さんは年齢がひとつ上なので、その模試を受けていない。


 そんな感じで、私が普段から接している人が実はすごい人だとわかり、沢野先生が以前話していた「高校に入って落ち込む生徒」が続出するのがよくわかった。


 私にはそもそも失うものはないのだから、全力を出すのみである。




 沢野先生が1限の試験問題であろうプリントの束を持って教室にいらっしゃったので、朝のホームルームが始まる。

 簡単な連絡事項だけでホームルームは終わり、そのまま1限の実力テストが始まる。



 まずは、国語だ。

 私の数少ない得意科目だ。

 現国は、河野哲也の評論「意識は実在しない」

 古文は、「吾妻鏡」(平仮名本)

 漢文は、「論語」


 文章のボリュームが多いが、設問自体はオーソドックスで意地悪ではない。

 論述問題が多く、個々の生徒の意思・考えを測ろうとしているこの高校らしいと思った。

 私にもかなり手応えがあった。

 国語なら、この高校でも戦える、と思った。


 2限目以降も、試験監督は担任の沢野先生が行う。

 次は、私の苦手な数学。


 問題数は4問だけ。

 すべて論述問題だった。当たり前だけど。

 えっ?これどうやったら証明できるの?という問題が2問あって相変わらず難しい。

 他の2問も答えを導くところまでは行ったけれど、自信がないなあ。

 解けない問題を相手に頭を悩ましていると時間切れ。


 誰よ、こんな問題を作ったのは!

 おそらく沢野先生だろう。

 

 中間試験の時もテスト問題の解説を聞いて「目から鱗が落ちる」思いをしたのだったけれど、沢野先生の問題は難問だけれど悪問ではない。

 気づくかどうかが重要だけれど、教科書や指定参考書から外れたような変な問題は作っていない。

 きっと今回も沢野先生の授業で解法を教わって私は驚かされるのであろう。


 今はまだ苦手科目だけど、数学が嫌いにならないですむのは沢野先生のおかげだと思う。

 


 3限目は、英語。試験監督は沢野先生のまま。

 私が得意でも苦手でもない科目。

 大学を受験するにあたって決して避けることができない科目が英語だ。


 異常さに気づいたのは問題用紙が配られた時点だ。

 何よ、この量は?


 試験が開始されて問題用紙を見ると、英作文が4問ある以外は、ひたすら長文問題。

 「( )内に当てはまる単語を選べ」みたいな問題もあるけれどそれも長文問題の一環。

 しかも、問題文まで英語。


 周りからも悲鳴が聞こえる。


 泣き言を言っていても仕方ないので、とにかく問題を解くしかない。


 そういえば、高岡さんが言っていたなあ。

 普段から英英辞典を使っていて、英語の勉強の時には英語で考えるようにしているって。

 付け焼き刃ではあるけど、とてもこの量の長文を逐語訳していたら半分も解けない。

 

 私は、スイッチを切り替えて英語で考えようとして、、、みたけど無理だった。

 そんな簡単にできるほど簡単なことではなかったのだ。

 結局、私は無理せずいつも通りに英文を読み、英作文をし、途中で時間切れだった。

 全体の3分の1は全く手つかずであった。


 これからの英語学習にむけていい教訓と指針が得られた。

 などと無理矢理にポジティブなことを考えて、泣きたくなるのをこらえた。


 実際、クラスには泣きそうになっている生徒が何人もいた。

 さすがの高岡さんも疲れた表情だ。この量は高岡さんにもきついのか。

 ちょっとほっとした。



 そうして、わたしにとって初めての高校での実力試験が終わった。




 3科目の実力試験が終わると、そのまま沢野先生が簡単な帰りのホームルームを行い、その日の予定は終了となった。

 クラスのほとんどの生徒はトボトボと帰るなり部活に向かうなりしていたが、さすがに安住さんや高岡さんの表情は明るい。

 私はとんでもない人たちとお友達になってしまったのかも知れない。

 

 大町くんは仏頂面で心が読めないが、川上くんと上田くんは明るく歓談しているので、きっと手応えがあったのだろう。


 彼らはあれほど部活動に文化祭にと忙しくしているのに、いつ勉強しているの?といつか訊いてみたいと思う。



 

 私は、安住さんと高岡さんに「じゃあ、またあした」と挨拶をして、文芸部室へ向かう。

 今日は全員で集まる日なのだ。



 ただし。2年生と3年生は実力テスト国語・英語・数学・理科2科目・社会2科目と7科目であり夕方まであるので、それまで私たち1年生は部室で待機するなり、執筆するなり、勉強するなり、自由に過ごすことになっている。


 

 部室に着くと、すでに稜子ちゃんが来ていた。

 稜子ちゃんはいつも早い。

 今日は実力試験の日だが、LAVIE noteで執筆している。


 私は出校日以外に稜子ちゃんに会っていないので、挨拶代わりに夏休みについて尋ねる。


「稜子ちゃん、こんにちは。

 夏休みはどうだった?」

 すると、ノートパソコンから視線をあげて私に答える。

「原稿を書いて、いくつか夏期講習を受けて、残りの期間は別荘に行きました」


 そうだった、この子はもう医学部受験の準備に入っているのだった。


 続けて、これも挨拶代わりに

「今日の実力試験はどうだった?」

と尋ねると

「数学が難しかったけど、国語と英語はなんとか解けたと思います」

とのこと。

 訊いた相手が悪かったわ。

 訊いてしまったからには仕方がない、

「私は、国語はそれなりにできたけど、数学は難しかったし、英語は時間が足りなかった」

と私も正直に申告する。


 きちんとした目標を持って夏休みも勉強に充てた生徒と目標もなくその日その日の雑務に追われた人間の明確な差がそこにはあった。

 お父さんがお医者さんなんだもん、生まれついての能力も違うんだろうけどね。

 めげることはない。

 わたしだってうちの両親の娘なのだ。

 めげている暇があったら努力すべきだ。

 今回は明らかに私の努力不足だ。


「今は何を書いているの?」

と尋ねると、

「はい、『残心』の続編を書いているところです。

 夏が終わり住んでいる町に戻ってきた主人公の秋の物語です」


 ほう、これは驚いた。

 もしかして、季刊・暁天の後期号に寄稿する予定なのかな?


 なんという優良進行!

 新部長の中野先輩が聞いたらさぞや喜ぶことだろう。


 私の次回作は全くの未定である。

 おそらくは「傲慢な知性と千里眼(クレヤボヤンス)」の続編になることだろうが、トリックなんてそんなに簡単に思い浮かぶものではない。

 書くジャンルを間違えた、と正直なところ思った。

 私は次々に斬新な新作を発表している岡谷先輩のような天才ではないのだ。


 目下の課題である文化祭の演劇が無事に終わったら、プロットを練ることにしよう。


 

 そんなことを考えていると、須坂くんが部室にやってきた。

「ふたりとも早いね」

と挨拶もそこそこにいつもの席につくと、ポメラを取り出す。


「いや~、やっと実力試験が終わった~!」

と伸びをすると、満面の笑みで

「今回はね、自信があるよ、国語と英語は」

と親指を立てている。


 あっ、今回も駄目だったんだね、数学は、、、。

 須坂くんは心の友だ。


 早速、ポメラに向かって書き出そうとしている須坂くんに私は尋ねる。

「須坂くん、今は何を書いているの」

 

 須坂くんは、文芸部に入る前からネット小説家として活躍しており、現在も「Run and Gun」「俺が創世した新世界に繁栄あれ!」という2作品を連載しており、読者もたくさんいる。

 何を隠そう私も今や読者の1人である。

 だから、本来ならばサカスコータ先生の進捗状況をチェックするなどファンとしてはマナー違反なのだが、そこはまあ同じ文芸部員の友人として訊いているわけだから、許して欲しい。


「今はね、『Run and Gun』を連続更新しているから、そっちを書いているよ。

 『文芸・東雲』が売れるようにブーストをかけているんだ」

と須坂くんはこともなげに答える。

 流石は印刷部数を決めるときに1人だけ「200部で行きましょう!」と息巻いていただけのことはある。

 自分の作品ならばそれだけ売れるだろう、という自信があるのだろう。


 今回、「文芸・東雲」を100部完売にすることで自分の意見の正しさを示そうとしているのだろう。

 須坂くんは強い人だし、正しい人だ。


 

 私はちょうど稜子ちゃんが準備してくれたお湯が沸き、3人そろったところなので、紅茶派の稜子ちゃんがいるから3人分の紅茶を入れる。

 今日はダージリン。


 お茶を入れ終わると手持ち無沙汰だ。

 ポメラを家に置いてきてしまったので、読書でもするか、と鞄から一冊の本を取り出す。

 連城三紀彦の短編集「戻り川心中」。

 父の蔵書にあったものだ。

 直木賞を受賞した表題作を含む短編集で、中学時代に読もうとしたら父から

「景にはまだ早い作品だよ」

と言われて止められた。

「なら、いつになったら読んでいい?」

と尋ねたら、

「大人になってからね」

との答えだったのだが、父があまりにも勿体つけるので余計に読んでみたくなってごねたら、

「じゃあ、高校生になったら読んでいい」

とのことだった。


 入学してから何かと忙しかったので、夏休みに入ってようやく読みかけたのだが、推理小説とはいえ、純文学のような美しい文体で描かれる「大人の世界」に私は魅了された。

 読み終えるのが惜しい、と思いつつ、読み進めている。


 こんな美しい文章を書いている作家さんに会ってみたい、サイン会とかあったら遠方でも行ってみたい、と母に話したら、

「残念なことにね、もう亡くなられているのよ」

とのことだった。

 私はとても悲しかった。


 夏目漱石や太宰治に会えないのはまだわかる。

 近年の作家さんに会えないのは辛さが増す。

 私がもっと早く生まれていれば、もっと早く大人の小説が読めるようになっていれば、と悔やまれてならない。


 まあ、悔やんでいても仕方ないので、両隣で快調に筆を進める稜子ちゃんと須坂くんを尻目に私は「戻り川心中」を読み進めた。


 途中でお昼の時間が来たので、今度は稜子ちゃんが緑茶を入れて、私と稜子ちゃんはお弁当を、須坂くんは購買で買ってきたパンを食べた。


 食後も稜子ちゃんと須坂くんの執筆は続き、私の読書も続いた。

 そして、ついに「戻り川心中」を読了してしまった。


 素晴らしかった。

 その言葉しか出てこない。


 私が読み終えて感慨にふけっていると、須坂くんが

「井沢さん、読み終わったの?」

と尋ねてくれるので、

「うん。連城三紀彦の『戻り川心中』だよ。

 ミステリーだけど文章が純文学のように綺麗で素敵でした」

と答える。

 すると、そのやりとりを聞いていた稜子ちゃんが、ノイズキャンセリングイヤホンを外すと、

「純文学みたいなミステリーですか?興味あります。」

と突然、興味を示した。

 さっきも思ったけれど、私の声は聴こえるのね。

 徹頭徹尾、純文学少女な稜子ちゃんが興味を持つとは意外だった。


「もしよければ貸しましょうか?

 父の本だけど、まあ、私の本みたいなものだから」

と文庫本を渡す。

 受け取った稜子ちゃんは、

「ありがとうございます。

 私は推理小説をほとんど読んだことがないですが大丈夫でしょうか?」

と心配している。

「大丈夫だと思う。

 そんな一部のマニア向けの作風じゃないから。

 かなり『大人の世界』を描いているから、むしろそっちに驚くかも知れないけど、ごめんね」

「大人の世界ですか、、純文学でもそういうのを読んでますから、おそらく大丈夫だと思います」

そういって「戻り川心中」を丁寧に鞄に収めていた。


 須坂くんも、

「よし、終わった!」

と一話を書き終えていた。


 正直なところを言えば、今すぐにでも「Run and Gun」の最新話を読みたい気持ちだったが、それはアンフェアだと思うし、今から推敲・改稿を経て完成した作品を読むのが読者として正しい姿勢だと思うので、なんとかこらえた。


 さて、そろそろ先輩たちの実力試験が終わる頃だと思うのだが、と思い、用意してあった次の本を読まず、ポットのお湯を用意していると、三々五々、先輩方が部室に現れた。

 1日で国語・数学・英語・理科2科目・社会2科目の試験を受けた先輩方は全員疲れ切っていた。

 来年からは私もああなるのね。


 先輩方は1年生と違って受験も近いと言うことでお互いを気遣って、試験の手応えを話題にすることはない。

 久しぶりに会った松本先輩がさらにやつれ気味なのは気のせいではないだろう。

 健全な高校3年生をここまでやつれさせる医学部受験っというのは地獄なんだな、と思った。

 稜子ちゃんならなんとかなりそうな気もするけど。


 私は松本先輩と中野先輩と岡谷先輩と須坂くんのためにインスタントコーヒーを用意し、稜子ちゃんは飯山先輩(もう部長ではない)と私と自分のためにカモミールティーを入れる。


 疲れ切った先輩たちはみんな口々に「ありがとう」と言いながら口をつける。


 しばし一服。


 

「お疲れ様でした」

と須坂くんが声をかける。 

 いかにも彼らしい。


「いや、まじで本当に疲れるよ。

 来年経験するだろうから覚悟しておいた方がいい。

 本番のセンター試験や二次試験でもこんな強行日程はないよ」

と見るからに一番疲弊している松本先輩が答える。


「大丈夫です。

 僕は私立文系志望ですから、多くても3科目です」

とあっけらかんと答える。


 中野先輩の眼光が鋭くなったのは気のせいではないだろう。


「私も私立文系志望ですがセンター試験は受けます。

 センター試験を導入している私立大学は多いですから、数学や理科をおろそかにしてはいけませんよ」

と飯山先輩からたしなめられる。


 これには思わず須坂くんも肩をすくめて頭をポリポリと掻いている。


 さすがです、飯山先輩。


「松本先輩から見て、うちの高校の実力テストの難易度は国公立大学医学部の入試問題の難易度と比べていかがでしょうか?」

と、今度は稜子ちゃんから質問が飛ぶ。


「国公立大学ならば、医学部にだけ特別難しい問題が出るわけじゃない。

 科目数が多かったり、合格ラインが他の理系の学部よりも上がるだけの話だよ。

 ただ、うちの高校の実力試験は非常に難しいし問題量も多いよ。

 旧帝大の国立大学を志望している生徒や難関私大を志望している生徒でも苦労していたくらいだから。

 これで答えになっているかな?」

と丁寧に松本先輩は答える。


 うちの高校はなんて難しい試験をしているんだ!と私は心の中で怒った。

 怒ったところで所詮は負け犬の遠吠えであるので口にはしなかったけど。




 試験が終わった先輩方が少し落ち着いてから本日の議題について話し合いが決まった。


 議事進行は、夏休み明けから正式に部長になった中野先輩が行った。

 副部長の岡谷先輩は議事録を取っている。


「まずは、文化祭の1日目から3日目に設置される文芸部のブースについてです。

 これは例年通りだから、議事録に載せなくていいと思います。


 文化祭期間中は2年生が留守がちになるから防犯のため教室棟の2階の教室部分を封鎖します。

 西側の廊下側はバリケードと検問所を作って封鎖しますが、それに対面した反対側の壁側に文芸部のブースを設営します。

 

 机2台、椅子2脚を用意して、それぞれの机に『文芸部』『文芸・東雲 定価300円』という2枚のA4用紙を貼ります。

 『文芸部』と書かれた方の机側の生徒が接客をして、お客さんからお金を受け取り、『文芸・東雲』を渡します。

 記名表を用意しますので、もしも他校の文芸部の方やうちのOBやOGが来訪されたら記名をお願いしてください。


 『文芸・東雲』と書かれた方の机には実際に、部誌を並べておきます。

 だいたい20部くらい並べて置いて、残りはダンボール箱に入れて下に置いておいてください。

 売れたらその分を補充する形でお願いします。

 金庫、と言ってもお菓子の空き缶ですが、は部誌の置いてある机の中に置いておいて、適宜、接客係から渡されるお金を受け取ったり、接客係にお釣りを渡したりして下さい。

 お釣りは部費からある程度の額をお借りして、前もって私が100円玉と500円玉に両替して準備しておきます。

 ブースにいるのが1人にならないようにしますし、できるだけ1年生2人にならないように配慮します。

 学年が上の者が接客するようにしましょう。1年生は基本的にサポート役です。

 他校の部員や卒業生との関係もありますからね。


 さて、ここまでで何か質問はありますか?」

 流石は、中野先輩である。

 テキパキと説明されると、すらすらと頭に入ってくる。

 当然、特に質問は出ない。


 文化祭は全部で4日間だが、最終日は一般公開されず、全学年で2年生の演劇の中から投票で選ばれた3クラスの上演を観ることになっているため、各部活動の発表は行われない。

 故に、学内だけで行われる1日目と一般公開される2日目と3日目の3日間だけ文芸部のブースも設置されるのである。


「では、文化祭の3日間のシフトを決めたいと思います」

各部員のクラスの発表の都合を考えつつ、文化祭の期間に店番をするシフトが組まれた。

2年生の先輩はB組の中野部長とC組の岡谷先輩が、ともに2日目にクラスの演劇があり、来場者の多い一般公開日に1年生頼みになってしまうのではないか?と心配していたが、3年生の飯山先輩と松本先輩がクラスに前もって話をつけてくれて予定を空けておいてくれたようで、それぞれ午前と午後に分かれて店番に入ってくれることになった。

シフトの方も問題なさそうだった。


「それでは、あとは印刷が上がったら『文芸・東雲』をみんなで確認して、当日に備えるだけだと思います。

 何か質問のある人はいますか?」


 ないですね、と皆が思いかけた時に手を挙げた者がいた。

 須坂くんだ。

 もう放課後だからいいだろうということで、自分のiPhoneを取り出して見せたい画面を出すと、中野部長に渡すと

「僕はSNSで『文芸・東雲』の告知をしてますが、見ていただければ分かる通り、反響がすごいです。

 もし、文化祭の早いうちに61部が売り切れてしまったらどうしますか?」

と質問した。


 須坂くんはネット小説家・サカスコータ先生として人気がある。

 『文芸・東雲』にもサカスコータ名義で新作小説と映画研究部用に書いた新作戯曲を寄稿している。

 戯曲の方は現在もネットで連載中の小説のスピンオフだ。

 飯山先輩からの許可を受けてそれをSNS上で宣伝しているのだ。

 それが予想以上の反響を呼んでいるようだ。


 その画面を見た中野先輩は、

「えっ?」

と戸惑いを見せ、他の人たちへ須坂くんのiPhoneを閲覧した。

 

 隣の松本先輩、飯山先輩、お向かいの稜子ちゃん、みんな驚きの表情をしている。


 私のところにも須坂くんのiPhoneが回ってきた。

「【拡散希望】サカスコータはN県立暁月高校の文化祭で発売される部誌『文芸・東雲』に新作小説1作、新作戯曲1作を寄稿いたしました。通販でも販売いたします。戯曲はクエン・タランのスピンオフです。文化祭の一般公開日は・・、公式通販は(リンク先)」

という書き込みは、3000人以上の人が拡散しており、ハートマークを押してくれていた。

 確かにすごい反響だ。

 尤も、こうした反応は気軽にポチッとするだけなので、実際に「文芸・東雲」を買ってくれる人なんてほとんどいないだろうと思う。


 須坂くんが「増刷しましょう」と言わんとしているのは顔を見ていれば手に取るようにわかる。


 すると、察した飯山先輩がすかさず

「売り切れた場合には、完売の札を出して終わりです。

 第一、もうそれ以上は印刷していませんし、仕方ありません」


 しかし、相変わらず須坂くんは折れない。

「それでも、なんとか『文芸・東雲』を書いたい、売ってくれないか?と言う方が会場にいらっしゃったらどうしますか?」


 松本先輩が答える。

「『すみません、売り切れです』とただただお詫びするしかないな」


 そうだ、松本先輩は受験においてもシビアな現実を直視している人なのだ。


 すると、隣の稜子ちゃんが

「それは寂しすぎます」

とまさかの感情論。

 彼女はとても優しい子なのだ。


 希望的観測と現実主義と感情論という3つがないまぜになりつつも全く噛み合わない議論になってしまった。


 中野先輩は苦虫を噛み潰したような表情で

「かと言って今更、印刷部数は増やせないよ。

 追加発注を出しても文化祭に間に合わない」

と現実を告げる。

 これが結論だろう。


 私は何も言わない。

 お願いだからこれ以上は部数を増やさないでほしい。

 私の小説は、ミステリーなのに、、、色々言われて、恥ずかしいからあまり世に出回らないでほしい。



 一同が、中野先輩の言った厳しい現実を受け入れ、黙って諦めることに決まりかけたその時、今まで書記役に徹していた副部長の岡谷先輩が口を開いた。


「ダウンロード販売というのはどうでしょう?」

という提案だった。


 え?

 何それ?

 聞いてないよ。


 みんながきょとんとしたが、いち早く我に返った飯山先輩が尋ねた。

「ダウンロード販売というのはどういうことですか?」


 岡谷先輩が答える。

「季刊・暁天をダウンロード配信しているのですから、それに準じた方法をとればいいと思います」


 そういえば、確かに季刊・暁天の方は無料でダウンロード配信だった。


 まだ合点がいかない松本先輩は

「ダウンロード販売かあ。

 でも具体的にどうやるの?

 そんなに急にシステムはできないでしょう?」

と質問する。


 私もその疑問は頭に浮かんだ。


 岡谷先輩はそれに答えて、

「例えば、代金をいただいた方に文芸部のホームページの隠しページのURLが書かれた用紙をお渡しして、そこからPDFファイルにした『文芸・東雲』をダウンロードしてもらうことにしてはいかがでしょう?」

 と提案する。


 誰もが引っかかったキーワードがあった。


「隠しページなんてあるのですか?」

と飯山先輩が尋ねる。

 当然の質問である。


 岡谷先輩は得意げに答える。

「はい。そんなこともあろうことかと、だいぶ前の代の先輩が用意してくれていたようです。

 実際に使うのは今回が初めてですが。

 試しに見てみましょうか?」


 飯山先輩も松本先輩も知らなかった様子だった。

 ふたりともことさらパソコンに詳しい訳ではなさそうな雰囲気だから仕方がない。



 岡谷先輩は、共用パソコンのブラウザを立ち上げて、URLを打ち込むと確かに、「有料ダウンロード専用ページ」という画面が現れた。

 見る限り、現段階では何のコンテンツも置かれていない。

 ここへ普通にPDFファイルをアップロードしておけば、ダウンロードできるようになっているそうだ。

 

 中野先輩は半ば呆れ顔で

「わかった。

 その方法ならファイルをPDFにまとめる作業だけでお金はかからないね。

 やってみてもいいかも。

 でも通販は無理かな?」


 岡谷先輩はこともなげに

「高校の公式通販サイトで買い物をすると注文確認メールを送ることになってるんだけど、そのメールに同じURLを示してリンク付けしておけばいいんじゃないかなあ」

と提案する。


「なるほど、その手があるか」

と意外にも松本先輩まで乗る気である。


 以前から思っているのだけど、松本先輩と岡谷先輩はかなりお似合いなんじゃないだろうか?



 しかし、中野先輩は問題を提起する。

「でも、問題点があります。

 文芸部のブースからであれ、公式通販であれ、『文芸・東雲』をダウンロード購入してこの有料サイトのURLを知ってる人が一人いたら、そのURLを他の人に教えてしまったら、購入者以外は全員がフリーライダーですね。

 どうします?」


 フリーライダーというのは、おそらく「タダ乗り」という意味なのだろう。

 中野先輩は時々難しい言葉を使う。


「私たちの活動は営利目的ではありませんですから、無料で入手されてしまうことよりも、欲しいのに手にできない人がいなくなることを優先しましょう。

 買っていただくお客さんを信用しないでどうします?」

と飯山先輩は毅然として答える。

 いつもながら、飯山先輩のこのまっすぐな姿勢に私は憧れる。

 とても真似できそうにないけれど。


 中野先輩はバツが悪そうに

「確かにそうですね」

と答える。


 飯山先輩も笑顔で頷く。



 中野先輩の

「この案でよろしいでしょうか?」

という問いかけに対し、


 そもそもの発起人とも言える須坂くんは、

「お金とかただ読みとかそういう問題は別にいいと思います。

 読者は1人でも多い方がいいので」

と発言した。

 他の者も全員が賛同した。



 中野先輩がその場でPDFファイル化した『文芸・東雲』を作り、岡谷先輩がそれを文芸部のホームページの隠しページに貼り付けている間に、松本先輩が文化祭での販売物の追加と公式通販への商品追加の申請書を書いてすぐに生徒会へ提出しに行った。

 

 その間に、飯山先輩と私たち1年生の3人とダウンロード版の値段設定について考えた。

 製本された部誌とダウンロード版が同じ値段というのも不公平なので、ダウンロード版は200円に値段設定され、申請書に記入された。


 学祭での活動に関する申請は学祭の1週間前までなので、まさにギリギリのタイミングでの申請書の提出であった。



 結果的に「文芸・東雲」のダウンロード販売は認められた。

 だが、実際に認可が下りたのは学祭直前であった。

 前例のない申請であるため、生徒サイドだけではなく、学校側とも協議された上での決断だったそうだ。



 話を実力試験の日に戻す。

 疲れ切って帰宅すると早速、公式通販サイトを覗いてみた。


 今年の学祭向けの商品一覧が出てくる。

 全て、「Coming Soon!」だが、今年度版に一新されている。


・<暁月高校公式通販:商品一覧>

◯20XY年暁月祭記念グッズ

・Tシャツ

・ミニタオル

・うちわ

・パンフレット


◯部活動グッズ

 吹奏楽部:演奏CD

 合唱部:合唱CD

 演劇部:演劇DVD

 落語研究部:オリジナル手拭い

 クイズ研究部:オリジナルクイズ集

 文芸部:文集「文芸・東雲」


 全体的に地味だが、やはり文芸部だけが飛び抜けて地味だ。


 公式通販サイトでは過去の売れ残り、もとい、在庫も取り扱っている。

 過去の商品を確認して見ると昨年の在庫も売れ残っているようだ。

「在庫あります」と表記されている。


 あれ?

 昨年?

 あ!


 私は気づいた。


 私が無くしてしまった、昨年の「文芸・東雲」がまだ売っているかもしれない。

 戯曲「輝く夕焼けを眺める日」や2、3年生の先輩たちの素晴らしい作品の載った昨年の部誌だ。

 昨年のも確か300円だったからそれくらいの値段ならまた買い直せばいい。

 夏休みの間にも通販サイトを見ていたはずなのに、なぜ私は気づかなかったのだろう。


 過去の商品の一覧のページを開く。

 「20XX年」の文字をクリックして昨年の暁月祭のグッズ紹介のページへ移る。

 そして、「文芸・東雲」のところをクリックすると、出てきたこの表示。


 「在庫 0」


 あ~!売り切れちゃっている。


 やはり、OBやOGが買ってくれているのね。

 夏休みの時に気づいていたらどうだっただろう、、、やっぱり「在庫 0」だったかな?

 いや、そうだったと信じたい。そうじゃないと悔しすぎる。


 


(続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ