きみ恋ふる涙のかゝる袖の浦は
3月中旬のある日、俺は地下鉄の中府駅を降りると、地下街を疾走し駅前の正清堂書店に向かっていた。
マズい、実にマズい。
本来ならば約束の30分以上前に目的地に到着しているはずだった。
にもかかわらず、今日という今日に限って一部のバスケ部員が練習中にトラブルを起こしたため、練習を切り上げ駒根先生を交えた長い緊急ミーティングが行われたのだ。
それが終わった時点で約束の時間を過ぎていた。
練習が終わっても1年生は後片付けや掃除があり、2年に先立って帰ることは許されない。
トイレへ行ってメールするのがやっとだった。
メールに返事はない。
待ち合わせ場所に行かなくてもわかる、姉貴は怒っている。
必要とあらば店内で土下座でもなんでもするつもりで俺は急いだ。
バレンタインデーの日に姉貴は宣言していた。
自分は受験生だが、ホワイトデーの時にはもう受験は終わって暇だと。
実際に姉貴はそれをやってのけた。
つい最近、合格発表があったそうな。
東京にあるおそらく日本で一番有名な国立大学の理科I類というというところに合格したらしい。
そういえば、センター試験が終わった時に、俺の部屋に来て、自己採点の結果を見せてもらったら、800点を超える得点だった。
「これって、1000点満点なのか?」
と尋ねたら、めちゃめちゃ不機嫌になったのを覚えている。
夏休みにも、中府大学の医学部に行けという両親と「医者にはなりたくない」と言い張る姉が随分と長い間、居間で議論していた。
両親としては娘に一生食べていくのに困らない資格を大学で取って欲しがっていたみたいだった。
「医者なんて、なりたくないのになる仕事じゃないだろう?」
と俺もちょっと口出しして両親からひどく叱られた。
実は姉貴が受験しようとしていた理科I類よりも、中府大学の医学部の方が難しいのだそうだ。
俺はそのことを初めて知った。
うちの家は別に医者の家系でもないし、ましてや両親とも別に東京のすごい大学を出ているわけではない。
どこに行こうが姉貴の勝手なのである。
結局、両親の説得は失敗したようだった。
以前から「女の子だから自宅から通え」と言われ続けていたので、てっきり中府大学の工学部や理学部を受けるのかと思っていたが、まさか東京に行ってしまうとは意外だった。
今にして思えば姉貴が2日間ほど家にいなかったことがあったが、あれは入学試験を受けに東京へ行っていたのだと姉貴の合格を聞いた後で気づいた。
東京の大学に進学することが決まったおかげで、母と一緒に東京に下宿探しに行ったり、家具や電化製品の購入をしたりなど合格発表の後しばらくは忙しかったようだったが、それでも姉貴としては入試が終わった時点でもう受かったつもりでいたらしく、合格発表までの間にも随分と準備をしていたようだった。
それにしてもすごいもんである。
3年の夏休みまでバレー部を続けていたわけだから、普段からずっと勉強して来た成果であろう。
こんな田舎町なので噂はたちまち広がり、来客が絶えずめんどくさいから、ということで今は姉貴は友達の家に避難している。
友達、と行っても同じバレー部の先輩で1年間浪人して同じ大学の理科II類に合格した方だそうだ。
そんなわけで姉貴は幸せの絶頂でもあり、未だに素直に喜んでいない両親との冷戦下でもあり、さらには地元がウザい感じになっているという微妙な状況である。
それでも、バレンタインデーにした約束を守って、俺のためにホワイトデーのお返しを一緒に選んでくれることになった。
今日がその約束の日である。
ようやく正清堂書店に到着すると、案の定姉貴は片手にスマホを持ち、片手に正清堂書店の買い物袋を下げて怒っている。
俺の顔を見ると開口一番
「私、忙しいんだけど」
ときつい一言。
ごもっともです。
でも心なしか姉貴の表情が上機嫌なのはなぜだろう?
姉貴が本を買っているのは、今まで読書を我慢して来たからだろう。
姉の買い物で正清堂書店への義理は果たしたかな、ということで重い本の入った袋を受け取るとそのまま店を出て、中府の中で一番大きいデパートの地下のお菓子売り場を目指す。
案の定、黒山の人だかりである。
少し人混みから離れたところで、
「で、あんた、ちゃんとリストを持って来た?」
「え?リスト?ああ、作って来たよ」
バレンタインデーの時に、チョコレートをもらった相手、手作りだったかどうか、既製品ならチョコのブランド、メッセージの内容、本命かどうか?などを一覧表にするように言われたのである。
最後の方の項目は割愛させていただいたが、いただいたものに見合う返礼をしないといけないので、姉貴が訊くのももっともである。
で、見せると
「ちぇ、面白いところは省略されたか、まっいいか。
まず、手作りチョコ組からね。
下条さん:1年A組
山形さん:1年B組
豊岡さん:1年C組
生坂さん:1年E組
飯島さん:1年F組
あんたさあ、ムカつくほどモテるわね。
で、あんた、この中に本命の子いる?」
と姉貴はいきなり切り込む。
「あんたは、よくもまあ簡単にそんなことを聞けるな?」
と言いたいのをぐっとこらえて、
「いない。
みんな可愛いけど。
飯島さんはどっちかというと美人だね。
そんでもって山形さんはドジっ子。
生坂さんは性格もいいみたい」
と答える。
「へ〜そんなに可愛い子達やいい子や美人さんをみんな振っちゃうんだ。
これは楽しみが増えた」
と姉貴は意地悪そうに笑う。
あ〜またやっちまったな、俺。
「だったら、可愛い子だらけの手作り1年組の全員を振っちゃうんだったらここのチョコでいいんじゃない?」
と売り場の案内図を見ながら決める。
店の名前からして俺にはわからん。
おそらくフランス語なのだろう。
「それから、1年バスケ部が2人 手作りじゃなくてブランドは・・・
2年生が2人 手作りじゃなくてブランドは・・・
そっか。
あんたに残念なお知らせがあります。
この4人は多分、義理チョコです。
多分だけどね。
もしかして、この中に好きな子がいたとか?」
とまた嬉しそうに訊いてくる。
俺はもちろん、いない、と答える。
「そうなの?
忙しい中、わざわざ来たのにつまんない!」
と子供のように姉貴はいじける。
まあ、しょうがないよね。
前もって、遥香さんの名前は抜いてあるから。
「じゃあ、この義理チョコ4人組は、こっちのお店のチョコでいいよ」
さっきの店との違いがわからんのだが、とりあえず従うしかない。
で、姉貴の機転なのか心変わりなのか売り場に行ってみると予定変更があり、例えば美人の飯島さんにはこっちかな?とかドジっ子の山形さんにはこっちかな?とかさらに細かい指定があって20分くらいで買い物が済んだ。
こんな洋菓子売り場なんて男が長居すべきところではないので、本当に姉貴に助けられた。
ありがとう姉貴。
洋菓子売り場を去る前に、
「ねえ、ところであんたさあ、そのリストの中に載っていない、1人とても大切な人を忘れていない?」
と言い出す。
遥香さんのことか?いつバレた?と思ったが俺は気づかないフリをしてごまかした。
すると、心なしか姉貴は元気のない声で
「あっそ」
とそっけなくいうと、地下鉄で避難先の友達の家へと向かった。
時間が遅いから送ると伝えたが、駅に隣接したマンションだから大丈夫、とのことで独りで帰られてしまった。
その晩は、姉貴から渡されたメッセージカードの記入に明け暮れた。
姉貴曰く、
「相手の女の子への感謝の気持ちと、自分が相手を恋人として好きかどうかをちゃんと伝えなさい。
いくら書きづらくても逃げちゃダメ。
ちゃんと正直に書きなさい」
と15枚くらいのシンプルなカードと封筒のセットを渡してくれた。
俺は時間をかけて1枚1枚を書いた。
書いたのは10枚足らずだが、書き損じもあって、残ったカードは1枚もなかった。
姉貴、ありがとう。
翌日、学校に行くと、いつもの通りの風景である。
ホワイトデーが近いからといって、別段そわそわする女子はいない。
そりゃそうだ、チョコ渡してないのにアタックしてくる男子はいないだろうからね。
チョコもらった中に意中の子がいないのを知った姉貴が
「じゃあ、あんたがお菓子持って告白して来なさいよ」
などと言わなかったので、それは間違っていないだろう。
なんか今日は静かだなあ、と思っていると朝から上田がいないのに気づく。
身内にご不幸があって、とかじゃないといいなと思う。
上田の親友、というか相方である川上のところへは他のクラスのバレー部の男子や上田の友達が絶えず集まって来ては、上田の安否を気遣っているようだが川上も知らないという様子が遠目にも見える。
川上も知らないというのなら、身内に不幸があって、ではないとホッと思い胸を撫で下ろす。
そして、昼休みについに川上が動く。
一直線に俺に向かって。
川上にしては珍しく真剣な顔で
「なあ、大町、今いいか?」
と尋ねる。
俺が頷くと、
「ちょっと顔貸せ」
と教室から連れ出された。
川上は無言のまま俺を校舎裏に連れていった。
険しい表情で切り出した。
「大町、俺たち友達だよな」
俺は答える。
「ああ、そうだ」
すると、川上は鋭く切り出す。
「お前、俺に何か隠していることはないか?」
意外な問いかけだった。
「あ〜、え〜」
遥香さんのことか。
どこかで見られたのか。
これは話すしかない。
ばれたならば仕方ない。
川上には嘘はつけない。
「お前、見たのか?」
俺は腹を括って尋ねた
「ああ、見たぞ、昨日の夕方、いや夜だな。
お前と綺麗な女性が2人仲良く、中府駅のデパートの洋菓子屋で次々と高級洋菓子を買っている様を!
なんだ、お前のあの下僕のような振る舞いは!
残念なのが半分、羨ましいのが半分だったぞ」
そっちか!と俺はホッとした。
「何ニヤけついてんだ?
お前はそういうプレイが好きなのか?
もっと男らしいやつだっただろう!
俺はとても残念であり、そして同時に非常に羨ましくもある」
俺は思わず笑ってしまった。
いや、大爆笑してしまった。
川上は、俺が壊れたと思ったらしく、
「ごめんな大町!
俺が問い詰めすぎた。
もう訊かないから、こっちに戻っておいで」
と優しく接してくれた。
俺はなおも笑いながら
「悪い、川上。
あれ、俺の姉貴。
バレンタインのお返しを買うのを手伝ってもらってたんだ」
と事情を説明する。
それからしばらくは、なぜ今まで黙っていた!そんなことと知っていたら、いくら遠くてもお前の家に足繁く通っていたのに!と川上の後悔の念を込めた恨み言が続いた。
「でもほんと、悪かったな。
実は姉貴は受験生だったから俺が友達呼んで騒げる雰囲気じゃなかったんだ」
と謝る。
「今、『受験生だったから』、『騒げる雰囲気じゃなかったんだ』って言ったな。
イエーイ、過去形!
ってことは4月からは晴れて女子大生!!
ヒャッホー、美人の女子大生さんとお近づきになれるチャ〜ンス!
大町、川上、俺たち、友達」
なぜか韻を踏んでいるのか片言になってしまったのかわからない浮かれた川上に俺は辛い告知をする。
「ごめん、川上。
姉貴は東京の大学に進学が決まったんだ。
だから中府市近辺から離れるよ」
断腸の思いで告げた。
「大町、お前、今、確かに『東京の大学』って言ったよな。
誰も、あの最高学府だとは言ってない〜、まだセーフ。
俺も追いかけてその大学に行っちゃえばいいってことだ」
川上、なぜそっちに向かう?
お前はなぜ火の中に飛び込む?
「川上、あんま自慢とかしたくないからここだけの話にしておいて欲しいのだがな。
姉貴の進学する大学って、その最高学府なんだわ」
川上には真実を告げよう。
「そうか、大町。
それはきっと学問の神様・菅原道真公が俺に勉強しろと言っている天啓だと思う。
ちょっと沢野先生に、飛び級の仕方と某東京の大学に合格する方法を聞いてくる。
時間がないから、俺はこれで。
姉上様にはよろしくお伝えください」
そう言い残すと、そそくさとその場を立ち去った。
その後、川上は本当に職員室へ向かい、沢野先生に進路相談室へ連れて行かれたらしく、「私の合格体験記」とか「〇〇大学への英語」とか借りてきていて、クラス中がどよめいた。
ホワイトデーの当日。
予想通り、というか当然ながら、学校生活は平常運転、特にそわそわした様子もない。
だが、異変がある。
上田がいない。
問題なのは、誰1人として上田の欠席に関する情報を持っていないということ。
そんな中、沢野先生がやってきて朝のホームルームが始まる。
今日は特にこれといって予定はないようだ。
「最後に」
と沢野先生が付け加えた。
「上田君ですが、一昨日から熱が下がらず昨日、病院に行ったところ、インフルエンザと診断されたそうです。
しばらく出校停止です。
もう流行は過ぎたはずですが、クラスメイトにうちの子がインフルエンザをうつしていたらすみません、と上田君のお母様が心配されておりました。
皆さんも熱が出たらちゃんと病院に行ってください」
上田は季節外れのインフルエンザだったか。
ならお見舞いにも行きづらいし、さぞやしんどいだろうからメールとかも迷惑だろう。
学校に出てくるまでそっとしておこう。
今日は学校行事はないが、俺には配らなきゃならないお返しが山ほどある。
学校まで来る途中、両手にお菓子の袋を持った俺はいろんな人からジロジロ見られた。
すでに罰ゲームである。
まずは、午前中に、1年生の女の子のところに渡して回った。
体育とか特殊教室での授業とかですれ違うこともあったが、他のクラスの生徒から「チョコの大町」と後ろ指を刺されながら全員に面と向かって渡すことができた。
案の定、野次馬が多かった。
女子に恥をかかせてはいけないので、1人ずつに礼を言ってお菓子を渡し、
「ありがとうございました。
手紙を添えたので読んでください」
それだけを伝えた。
正直、精神的にキツかった。
「お礼です。
お付き合いはできません」
という酷いことを伝えて回るのは辛いが、言われる方がもっと悲しいだろうと思い、最後まで回った。
何人かが俺の表情を読み取ってその場で泣き崩れた。
俺には深々と頭を下げて謝ることしかできなかった。
せめて姉貴の選んだお菓子が少しでも癒しになってくれればいいのだが。
そうやって、俺が凹んでいると、川上が俺を呼んでいる。
きっと明らかに参っている俺を労ってくれるのだろう。
「なんだ?」
と川上に問いかけると、
「ここじゃダメだ」
とまたもや、校舎裏に移動する。
また姉貴の話か?
そう思ってややうんざりしながら
「時間がないから手短に頼む」
と言おうとすると、早速、川上の方から
「俺がお前のお姉様に出会ったのは紛れもない、あのデパートの洋菓子売り場だ。
なぜ俺があそこにいたと思う?」
という問いが投げかけられた。
「それは、お前が洋菓子を食べたかったからだろ?」
と俺は答える。
川上の目が点になる。
「大町、お前、頭大丈夫か?
もう少し考えてくれ!
時間がもったいないからもう答えを言うけど、あの日は俺もホワイトデーのお菓子を買いに行っていたんだ!」
なるほど!
川上も俺と一緒だったか。
「実はな、俺は今年のバレンタインデーに1個だけチョコレートをもらったんだ。
放課後にロッカーに入っていた。
それが誰なのかはまだ言えないが、俺より一つ年上の女子生徒だ。
彼女が俺のことを本当に好きなのかただの義理チョコなのかわからんが、俺は彼女のことがずーっと気になっているし、はっきり言えば彼女のことが好きだ。
どうしたらいいと思うか?」
それが川上の相談内容だった。
続けて言う。
「上田はチョコ0男なので恋愛相談はとてもできない。
だが、あいつのことだから、きっと心で泣きながらでも俺を応援してくれるだろう。
運の悪いことに今はインフルエンザで学校にいない。
だからこそ、今はお前だけが頼りだ。
お前の意見が聞きたい。
俺が気になっている、いや、俺が好きな女の子が俺に仮に義理チョコであったとしても、
バレンタインデーにチョコをくれたのであれば、
やっぱり、俺の方から告白すべきだと思うんだ。
たとえ、相手が年上だとしてもだ。
お前だったらどうする?」
熱い、熱いぞ、川上。
この場に上田がいないのが実に惜しい。
上田がいればもっと川上を勇気付けるアドバイスをしただろう。
俺は、現に告白もしないままで年上の遥香さんと付き合っているわけだが、色々あってそれは内緒だ。
だが、俺はきっぱり答える。
「俺だったら絶対に告白する。相手が年上とか関係ない」
「そうか!やっぱりお前でもそうか!
ちょっと気が楽になったわ。
じゃあ俺、今日のうちに、玉砕して来る」
と川上は胸を張り、ポンっと右手で叩く。
「お前、フラれるのが前提かよ!」
と俺が突っ込むと、
「だってさあ、その子、可愛いし、いい子だし、一緒にいて楽しいし」
と照れながら応じる。
「なんだ、お前すでにその子とめちゃめちゃ仲良いんじゃないか?
うまくいくんじゃないか?」
と背中を押すと、
「やっぱそうだよな、大丈夫だよな。
俺さ、もし失敗したら次の日からクラスで気まずいだろうなってちょっとビビってたんだよ」
とつい本音が漏れる。
川上よ、お前のその一言で告白する相手が特定できたぞ。
だが、それを聞いて余計に応援したくなった。
頑張れ、川上!
燃えろ、川上!
そして、そのついでに、俺の姉貴の件も消えてなくなれ!
その休み時間は予鈴が鳴っても話が終わらず、次に授業に遅れて英語の先生に叱られた。
まあ、仕方がない。
男が全てを捨てて勝負に出るという決心をしたんだから多少の遅刻は見逃してくれ。
女の子にキツい話をし続ける心労があったり、川上と彼女がいつからそんな仲に?という想像をしたり、昼休みもお菓子を持って教室巡りかという気の重さがあったり、俺が疲れているのはもしかしたら上田のようにインフルエンザだからじゃないか?という不安があったり、と頭の中で色々考えていたら、授業内容は全く頭に入らずであっという間に昼休みになった。
姉貴はよく言う。
「あんたは、ぼーっとしすぎ」
おっしゃる通りである。
姉貴と俺は昔から全然似ていないのはわかっていたが、大学入試で俺との間に圧倒的な差を見せつけられて今でもまだぼーっとしている。
俺もシャキッとしないと、、俺は頬を張って気合いを入れると、昼休みに予定していた2年生と女子バスケ部の子の分を配りに行く。
教室から出て行こうとすると、川上が
「俺をひとりにしないでくれ」
と泣きついてきたが、
「俺は忙しい。
応援はする。
だが、悪いが俺も忙しい。
お前もひとりで頑張ってくれ」
そう言い残して、2年F組を目指して出発した。
2年生と女子バスケ部の子の分は遥香さんにまとめて渡して、本人にも渡せばいいかな?と当初は思っていた、
だが、午前中にお礼を渡して回っていてそれではいけない、と思った。
まず、2年F組へ行き、出入り口付近にいた女子の先輩に
「すみません。
1年D組の大町と申します。
諏訪遥香先輩はいらっしゃいますでしょうか?」
と案内をお願いすると、すでに視界に入っていた遥香さんが廊下に出てきてくれた。
周りに人がいないのを確認して、
「これとこれとこれは諏訪先輩宛です」
とさりげなく本とCDと和菓子を渡した。
嘘は言ってない。
3人からの贈り物だなんて言ってない。
そう言って渡したのは、ディック・フランシスのミステリーの本、バッハ「マタイ受難曲」のCD、俺の好きな豆菓子、の3点セット。
遥香さんがバレンタインデーに俺にくれたのが、本4冊(タイトルがキリスト教関連用語っぽい小説)と和三盆だから、それに呼応する形にしてみた。
ミステリーはきっと気に入ってくれると思っているが、おそらく今日の俺の姿が遥香さんに与えているであろう不安感を消し去るだけのインパクトはあるだろう。
バッハの「マタイ受難曲」は中府駅の府島線の駅のターミナルビルに入っている大きなCDショップで購入してラッピングしてもらったもので、名盤と名高いカール・リヒター指揮ミュンヘン・バッハ管弦楽団による演奏のもの。
豆菓子はそろそろ受験の準備で夜遅くまで勉強しているであろう遥香さんの夜食用にと、少しでも体にいいものを食べて欲しいから中府駅のデパートで売ってるお店のものを選んだ。
遥香さんのお返しにもちゃんとメッセージカードを入れた。
ここに至るまでバレンタインデーの日に体育館でチョコをくれた1年生の女の子にお礼と辛いお返事をすることが続き、それが実に精神的負担の大きいものだと知った。
だから、残りの2年生と女子バスケ部の子の分のお礼を遥香さんに頼んではいけない、自分で渡してお話しないといけないと思った。
遥香さんに、
「バレンタインデーのお返しは自分で渡します」
と伝えて各女子生徒のクラスを教えてもらい、それぞれの教室へ赴いて返礼をお渡ししてお話をした。
意外にも、当初、遥香さんにバレンタインデーのチョコ渡しを頼もうとしていた女の子の中にも実は本命チョコだった子たちがいたことがわかり、さらに何人かの女の子を泣かせてしまった。
心が痛い。
やはり直接、俺がお礼をしに行ってよかった。
俺が振った女の子たちのあんな姿を遥香さんに見せる訳にはいかない。
全員に渡し終えてトボトボと2年F組の前を通りかかると、遥香さんは優しい笑顔で疲れた俺を癒してくれた。
「よく頑張りました」
とそう言っているようだった。
そうして、重い足取りで教室に戻ると、神妙な顔をした川上が俺を待っていた。
多分、例の件だな、とわかっていたので、
「で、どうだった?」
と小声で尋ねると
「大町〜どうしたらいいんだ、俺?
めっちゃ緊張してきた。
あと、どうしても安住さんと井沢さんのマークが外れないんだ」
もう、こいつ隠す気ないだろ?
川上がそれくらい追い詰められているのは、青ざめた顔を見ているだけでわかる。
「もう無理!捨てた!」
と投げ出した美術の筆記試験の後ですらこんな顔色ではなかった。(見事に赤点だった)
そんな川上をこれ以上は見ていられないので
「仕方がない、俺がなんとか言って来る」
と俺が提案し、席を立つ。
もうこういう時には率直かつ誠実に話すしかない。
こっちは自分の用件を済ませた達成感というか気軽さもあるので軽く請負い、女子3人のところへ行き、話をつけた。
「川上、話はつけてきたぞ、どこで2人きりになりたい?
校舎裏?渡り廊下?」
「お前、そうじゃないだろ!
お前にして欲しかったのは安住さんと井沢さんを引きつけて、俺が自由に動けるにスペースを作る役目だ」
川上、お前はディフェンダーだろ?
それから、もう意中の女性が誰だか判明したから隠さなくていいぞ。
「ともかく、話してきたから、場所を指定してくれ。
そこにお前が先に行き後で俺と安住さんが一緒について行くから」
と諭す。
「まあいい。じゃあ、武道場の裏でお願いします、って伝えてくれ。
でも、なんでお前と安住さんがついてくんの?
話しにくいじゃん」
と提案に乗ってから当然の質問が出た。
正直なところ、どちらかが傷ついたときのための救護要員なのだが、実は先方も1人で大丈夫と言ってくれていたのだ。
お前、脈ありまくりだぞ、川上。
だがそういうことは本人から聞いたほうがいいよな。
「まあ、立会人みたいなもんだ、もちろん、盗み聞きとかしないから安心してくれ」
そういうと、川上は席を立ち、少し経ってから俺たち3人も席を立った。
井沢さんは目を爛々と輝かせながら笑顔で俺たちを見送った。
次は清い男女の恋愛小説を期待しているぞ、井沢さん、もとい、佐藤美禰子先生。
幸いにも、その場所は人気がなかったので、俺と安住さんは2人を残して武道場の表側で待機した。
4〜5分くらい経過し、涙を流した彼女と顔を真っ赤にした川上が現れた。
慌てた安住さんが
「大丈夫?」
と尋ねると、彼女は涙を拭って
「大丈夫です。
嬉しくて、つい」
と笑顔で答える。
川上はといえば、
「大町〜!」
と俺に抱きついて喜んでいる。
ああ、この光景を井沢さんに見られなくてよかった。
遥香さんにも見られたくないな。
安住さんたちは彼女の涙が引くのを待ってから教室に戻る、ということだったので、俺たちは先に教室に戻った。
部活が終わって帰宅すると、姉貴が待ち構えていたようにドアをノックして部屋に入ってきた。
もう家に戻ってきたんだ。
開口一番
「で、どうだった?」
と姉貴は尋ねる。
1人1人へちゃんと手紙を添えて渡したこと、2年生や女子バスケ部からはまとめて受け取ったが、その担当だった先輩に任せずちゃんと1人1人のところをへ渡しに行ったこと、それから友達がバレンタインデーのチョコをくれた女の子に告白して成功したこと、などを伝えた。
「へぇ〜、人任せにしないでちゃんと1人1人のところを訪ねたなんて、あんたいいとこあるじゃない。
それにそのお友達の件もあんたがお膳立てしたんでしょ?偉いね」
姉貴は人の幸せを素直に喜べる人間なのだ。
「そういえば、まだ渡してなかったな」
と俺は本棚の上の方から包みを取り出して姉貴に渡す。
箱のような包装物だ。
「姉貴へのホワイトデーのプレゼントだよ。
きんつばのお礼」
と手渡す。
「なにこれ、重〜い!何かな〜」
と鼻歌交じりで姉貴は包装紙を取る。
包装紙を開けて出てきたのは、1冊の本。
アリスター・E・マクグラス著「キリスト教神学入門」
「入門」と銘打っているけれど、実際はハードカバーで850ページを越す大著である。
バッハの宗教音楽を聞くようになった姉貴ならば調べ物に役立つかもしれない。
あの大学に行くんだから教養部で必要になるかもしれない、
俺にキリスト教入門のムックを貸してくれたお礼と「マタイ受難曲」を教えてくれたお礼と新生活に向かおうとする姉貴への俺からのエールである。
「なにこの本!
立派すぎるじゃない!
でも、読めば役に立ちそうね。
ふふふ、、もし私が大学の進振りで文学部の宗教史専攻に進んだり、それで偉い先生になったりしたら、いろんなところで『私がこの道に進んだのは弟のおかげです』って言ってあげるわ。
早速、読もうかな?4月まではまだ時間があるし。
ありがとうね」
そう言って、姉貴は分厚い「キリスト教神学入門」を大事そうに抱えて部屋から出て言った。
確かに、将来的に宗教史を専攻してもそれなりになっちゃいそうなのが姉貴の恐ろしいところである。
正直、あまりに固すぎるプレゼントなので叱られるのを覚悟していたが、それなりに値段のするしっかりした書物だけあって気にいてもらえてよかった。
ホワイトデーのおかげで俺の財布は随分と軽くなった。
俺が泣かせてしまった女の子たちへの贖罪だと思えば高くはない出費だったと思う。
むしろ安すぎるか。
姉貴に買った本は高かったが、プレゼント選びを助けてもらったのお礼でもあるので良しとしよう。
1人になったので、メールをチェックすると遥香さんからメールが届いていた。
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件名:いっぱいありがとう。
篤くんへ
今日はいっぱいお返しして回って大変だったでしょう。
篤くんがあれだけたくさんの女の子からバレンタインデーにチョコレートをもらっているのを見て、私はちょっと不安になりました。
でもね、篤くんからのプレゼントを見て、安心したよ。
○ディック・フランシス「本命」
私を安心させてくれてありがとう。
そういう意味なのよね。
おすすめ小説なんだからもちろん面白いんだろうけど。
でも、自分から「本命です」っていう男の子を見たのは初めてかな?
○カール・リヒター指揮「マタイ受難曲」
こういう音楽も聴くのね。
聴いたことないから楽しみかも。
篤くんが初めて聴いた時にすぐに寝ちゃったという話、面白かったです。
私も寝ないように頑張って聴くね。
○豆菓子
駄菓子じゃなくて、贈答用の豆菓子というのは知りませんでした。
美味しくいただきますね。
篤くんからの”想い”が伝わりました。
今は私の心に不安はないから安心してね。
それでは。
遥香
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俺はホッとした。
今日の俺の姿はどう考えても女性にだらしのない男にしか見えないものだったと我ながら思う。
今日、学校で話をした女の子の中には涙を流した子もいた。
正直に話すのことで人を傷つけてしまうこともある。
だが、俺は嘘をつきたくないし、女の子を騙すくらいならば「大町篤なんて、最低の男よ!」と嫌われた方がマシだ。
しかし、女の子たちは誰もそんな態度は取らずに口を揃えて「ありがとう」と言ってくれた。
「ありがとう」は俺の方から言うべき言葉なのに。
みんないい子ばかりだ。
そんな女の子達に好かれた俺はなんて幸せなんだろう。
みんなが好きになってくれた男がそれに恥ずべき行動をしてはならない。
俺はもっとしっかりしなくてはいけない。
そう決めた。
今日は川上が高岡さんに告白して、成功した。
きっと両想いだったのだろう。
川上に念願の彼女ができてよかった。
そんな川上のことをずっと想ってくれていた高岡さんの気持ちが通じてよかった。
そして、最後に俺は願う。
上田のインフルエンザが早く治ることを。
(続く)




