【21】桜の佳人
4月のある日、私は妹の入学式へ出席するために自分の通っている高校へやって来た。
校門を通り、桜の木々が美しく花を散らす様を眺めながら体育館へ向かう途中で私は彼に出会った。
散る桜を眺める後ろ姿に惹かれ、小さな桜の幼木へ向けるあたたかい眼差しとその優しい横顔に見惚れてしまい、私は声をかけずにはいられなかった。
振り向いた彼と目が合うと照れ臭くて、誰かから呼ばれたフリをしてその場を立ち去った。
その後、幸運にも彼は男子バスケットボール部に入部してくれた。
練習中に、時々目が合った。
その度に胸が高鳴った。
夏休みのインターハイ予選が終わると、私は女子バスケットボール部の部長になった。
私は自分の練習時間を確保するために他の部員よりも早く体育館に来るようになった。
そんなある日、ひとりで居残り練習をしている彼を見かけた。
体育館には他の生徒はいなかった。
私は勇気を出して「練習に付き合って欲しい」と彼に頼んだ。
彼は素敵な笑顔で快諾してくれた。
その後もふたりで練習する機会が何度もあった。
しかし、私にはそれ以上踏み出す勇気がなかった。
ある日、彼は私でも名前くらいは知っているNBL(北米バスケットボールリーグ)のチームのTシャツを着ていた。
尋ねてみると、彼はそのチームのスター選手の大ファンなのだと答えた。
私は無理を承知で、NBLの試合の映像を貸してもらえないか?とお願いした。
彼はふたつ返事で承諾した。
次にふたりで練習した時に、私は12枚のBlu-ray Discを渡された。
1枚毎に丁寧な手書きの解説書と呼べる手紙が添えられていて、彼の優しさが伝わって来て嬉しかった。
私がそれを大切に受け取ったのを確認すると、彼がそのまま練習を始めようとするので私は引き止めた。
自分でも驚いた。
だが、勇気を振り絞って彼の連絡先を尋ねた。
幸いにも笑顔で了解してくれた。
彼はどこまでも優しい。
緊張して震える手で、私は自分のスマホのアドレス帳に彼の名前と電話番号を入力する。
続けて、彼はメールアドレスも口頭で伝えるが、私はとても緊張しているのが自分でもわかったので、打ち間違えて登録しかねない。
そこで、私は彼にスマホを渡し、入力してくれるようにお願いした。
彼も緊張しているようだった。
自分のことは棚に上げて、可愛いな、と感じた。
彼は自分のスマホを部室に置いてあるということなので、後で私からメールすることになった。
帰宅後、早速パソコンに向かうが、メールの文面がなかなか決まらない。
困った。
今日中にメールしないと彼は気を悪くするだろう。
ならばNBLの試合を観て感想を伝えれば、共通の話題があっていいのではないだろうか?
私は早速、ひとつの試合を観た。
彼が感動したというファイナルの初戦を選んだ。
大差のついた試合だったけれど、観てて飽きないどころかとても感動した。
ここで行われれているのは、自分のやっている競技とは別次元だと痛感した。
試合を観終えると何とかその感動を伝えようと文を綴った。
後で見返すと我ながら冗長な文章だと呆れた。
彼からすぐに返信があった。
文面から彼の緊張が伝わってきた。
私も人のことを言えないけれど。
その後、彼とメールのやり取りが毎日あり、都合が合えば一緒に練習をした。
そして、入学式の日の私の直感は正しかったことがわかった。
彼の誠実さ、優しさ、繊細な感性、私との相性の良さ、全てに惹かれた。
彼が私より背が高いのも嬉しかったが、そんなことは些細なことだ。
彼のルックスがいいことなんて、周りの女子バスケ部員たちが噂しているのを聞くまでは気にも留めなかった。
彼のことをもっと知りたい、そう思ってお盆休み中にチャットに誘った。
女の私、しかも彼よりも年上の自分からぐいぐいと迫って行くのは憚れるように感じたので、友達から教わった思考ゲームを使って暗に想いを伝えることに決めていた。
すると、意外なことにチャットの冒頭で彼の方からデートのお誘いがあった。
嬉しすぎて照れて茶化してしまったので、危うく彼が取り消しかけた時には焦った。
ちょうどその時期に観に行きたかった映画があったので、彼と一緒に行くことになった。
そして、私の思いを込めた思考ゲームの問題を提示して質問を受け、回答は翌日にメールでしてもらう、ということにし、その日のチャットは終わった。
翌日、彼からの返答を受け取った。
繊細な彼は、私が思考ゲームの問題に込めた想いを理解してくれた。
私は嬉しくて、ひとり泣いた。
初めてのデートはうまくいった。
私の選んだ映画も私の行きつけのカフェも彼は気に入ってくれた。
とても幸せだ。
それでも、その後も人前では私と彼はあくまで先輩と後輩として振る舞い続けた。
色々なしがらみを取り払ってしまって、私たちが恋人であることが周知の事実になれば良いのにと願わない日はない。
だが、そうなってしまうと何かと支障が出るのはふたりともわかっているから、私たちは互いに言い出せない。
夏休みの終わりに、私がうっかりチケットを取り損なった劇団の公演の当日券が追加発売されるという情報をSNSで見つけたので、私は迷わず彼に電話した。
うちには妹がおり、両親も厳しいので長電話をしにくいのだが、すでに公演の前日だったからメールで悠長にやり取りをしている場合ではない。
呼び出し音が鳴っている間に話の切り出し方を考えようと思っていたが、意外にも彼はすぐに電話に出た。
慌てた私が何とか用件を伝えると、彼はふたつ返事で了解してくれた。
チケットが取れるかどうかもわからないというのに彼は迷わない。
私は嬉しくて思わず涙ぐんでしまい、彼を心配させた。
待ち合わせの場所は公演会場の当日券売り場だった。
当日券の販売開始は開演の1時間前。
私は絶対にその公演を観たかったので、当日券の販売開始時間の1時間前から並ぼう、と提案した。
彼は「わかりました」と即答した。
当日、約束の時間の15分前に現地に行くとチケット売り場の前には長蛇の列が出来ていた。
これでは当日券は買えないかも知れない、と落ち込みながら、列の最後尾に並ぼうとすると、行列の先頭で彼が手を振っている。
私は彼の後ろに並んでいる人たちにお詫びを言いながら彼の元に行く。
どうやら彼は販売開始の2時間も前から並んでいた、とのこと。
私がどうしても観たい舞台だというので、家や近くの書店で時間調整するくらいならばここで並んでいた方が確実で落ち着くから、と理由を説明していた。
来る途中で買って来たその演劇の原作の戯曲を読んで予習していたから待ち時間なんて気にしなくて大丈夫ですよ、とあっけらかんとしている。
私は彼に惚れて正解だった、と実感した。
彼は私のためにした努力や苦労を全く誇ったりしない。
私が観たいと願った舞台は自分にとっても素晴らしいものに違いない、という大前提を信じて疑わない。
出来ることなら、こうしてふたりで並んでいるところを、知り合いの誰かに見せてあげたい。
私の恋人はこんなに素敵な人なんだとみんなに見せ付けてやりたい。
そう心の底から思ったが、生憎とその場所には見知った顔はなかった。
(続く)




