【19】衣かへればなほ楽しけれ
夏休みの間でも暁月高校は平常運転どころか、むしろ授業がない分だけより集中して生徒たちは部活の練習や文化祭の準備に取り組んでいる。
さりとて、お盆休みの期間だけは学校が閉鎖されるため生徒の全ての活動が休止されている。
そんなお盆休みの間に、俺、大町篤は、高校の入学式で出会って以来ずっと憧れの存在であった諏訪遥香先輩とふたりで一緒に映画を観て、カフェで楽しいひと時を過ごした。
別れ際に諏訪先輩から「これからも、こうやってふたりで逢おうよ」とお誘いを受けたので、当然ながら俺はその嬉しい申し出を快諾した。
帰宅して家族と一緒に夕食を取り、自室に戻ると諏訪先輩からのメールが届いていた。
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件名:今日はありがとう
大町くんへ
今日はどうもありがとう。
映画もカフェも気に入ってくれてよかったです。
手を握ってくれて嬉しかったよ。
またふたりで一緒に遊びに行こうね!
じゃあね。
追伸
ふたりきりの時は、私のことを「先輩」じゃなくて、下の名前で呼んでほしいな。
これは私からのお願い。
よろしくね、篤くん!
諏訪遥香
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またしても諏訪先輩に気を使わせてしまった。
本来ならば俺の方からメールをしないといけないのに、文面を考えているうちに諏訪先輩が先にメールを書いてくれた。
映画もカフェも、、、本当に良かった。
手を握ってくれて、、、むしろ大歓迎だ。
ふたりで一緒に遊びに、、、了解した。
下の名前で呼んでね、、、え?
それはハードルが高い。
でも、諏訪先輩がそう求めるのであれば要望を叶えてあげたい。
こういう関係であれば呼び捨てにしてもいいのかも知れないが、相手は同じ高校の先輩なのだ。
やはり、ファーストネームに「さん」を付けるのが妥当だろう。
諏訪先輩の方は既に俺のことを「篤」と呼び捨てするのではなく「篤くん」と「くん」付けで呼んでくれている。
だから俺も「遥香さん」と呼ばせてもらおう。
取り急ぎ返信を書いた。
メールの方がハードルが下がるから、文頭で
「遥香さんへ」
と呼びかけた。
メールにそう書いただけで顔が火照ってしまった。
かなり照れ臭い。
続けて、デートと呼んで良い今日のイベントが楽しかったことを伝え、ふたりの関係がより親密なものへ変わったことについてのお礼をした。
これからも時間が合えば、否、なんとか時間を作ってふたりで遊びに行きましょう、と自分の気持ちも真っ直ぐに伝えた。
すると、すぐに返事が来た。
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件名:嬉しいな
篤くんへ
早速、下の名前で呼んでくれてありがとう。
嬉しいな。
私としては「遥香」でもよかったんだけど、私の方が年上だし、及第点をあげましょう。
その代わり私も「篤くん」って呼ぶね。
それでは。
遥香
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俺は少しホッとした。
流石にあの諏訪先輩を「遥香」と呼ぶのはおこがましいと思っていたからだ。
その夜はさぞや楽しい夢を見られるだろう、と俺はワクワクしながら床に就いた。
だが残念ながら、その前の晩は諏訪先輩とのお出かけが楽しみすぎて熟睡出来なかったのとデート中にずっと気を張っていた疲れが出たのとが原因で、思いの外ぐっすりと熟睡してしまい全く夢を見なかった。
次の朝、俺は目が覚めるとすぐにメールを一通りチェックし直して、昨日の諏訪先輩とのやりとりが俺の見た幻覚ではく現実であったことを確認した。
これからはふたりきりの時には「遥香さん」と呼ぼう、と再度心に刻む。
自室でひとりきりなので練習がてら
「遥香さん」
と実際に口に出して呼んでみると、俺の心の中に灯火がついて暖かくなったのを感じる。
その時、レナード・バーンスタインが作曲したあの名作ミュージカルで、愛しい女性の名前を連呼して朗々と歌い上げたトニーの気持ちがよく理解出来る。
残念ながら俺は歌うのが苦手なので、遥香さんの名前を歌詞にして歌うのはやめた。
お盆休みが明けたので、その日は午前中に高校の体育館で男子バスケ部の練習があった。
その後、午後に行われる女子バスケ部の練習の前に早めに体育館にやってきた遥香さんとふたりで練習をした。
当然ながら、遥香さんとふたりでの練習中もコートにいる間はお互いを「諏訪先輩」「大町くん」と呼び合い、今までと変わらず単なる部活の先輩と後輩の関係に見えるように振る舞った。
三々五々体育館に集まりつつあった女子バスケ部の部員たちの中には誰ひとりとして俺と遥香さんが今までよりも親しい間柄になっていたことに気付いた人はいなさそうだった。
今後も周りから悟られぬように気を付けていきたい、と心に留め置いた。
遥香さんとの練習が終わると、コンビニで買ったパンを食べて昼食を済ませ、午後からは教室でのクラスの演劇の稽古に参加する。
1年D組が文化祭で上演する舞台「Round Bound Wound」はこんなお話である。
演目を決める際に配布された梗概に、クラスで決まった役割分担を書き入れた「覚え書き」があり、上演台本と一緒に綴じてある。
キャストとスタッフのメンバーは、まず演目を選んでいる途中で川上が舞台監督に立候補して、その川上が俺と上田と井沢さんを一方的に指名した。他の役職にも立候補してくれた人がいて、そうして名前の挙がった全員がクラスのみんなから承認されて正式に主要メンバーが決定した。
<あらすじ>
日本のとある街にある井上探偵事務所。所長の井上は助手を雇おうと探偵助手を募集する旨の広告を出す。
その募集に応じて来たのが、江神と倉田のふたり。
井上の無茶な要求にも応えようと張り合うのだが、やがてその騒動は所長の井上や秘書の和久井も巻き込んでカオスな様相を呈する。
<設定>
・現代の日本のお話
・舞台は事務所っぽい雰囲気の空間
:その一室だけでお芝居が完結する。
・必要な物品
事務所の建物を表す書き割り
玄関のドア(インターホンがついている設定)
所長の豪華な机と椅子
秘書の簡素な机と椅子
4人がけのソファーとテーブル
電話機1台
<登場人物(配役)>
・井上(演・上田清志)
:井上探偵事務所の所長
ドタバタ走り回り、ギャグも連発する。
江上と倉田に次々と無理難題をふっかける。
怪我が絶えないという設定で、そこかしこに絆創膏が貼られている。
台詞がかなり多い。
・江神(演・大町篤)
:探偵助手への応募者。
体格が良いという設定。
穏やかで落ち着いた性格。
倉田にライバルとして敵視される。
台詞は少なめ。
・和久井(演・安住ひかり)
:井上探偵事務所の秘書。
中立の姿勢を貫く冷静な人物。
井上の言動に鋭く突っ込みを入れる。
・倉田(演・小海由乃)
:探偵助手への応募者。
小柄という設定。
積極的な性格で、何とか採用されるために猛アピールをする。
台詞は多い。
<スタッフ>
舞台監督:川上裕二
演出助手:井沢景
音響担当:遠見有希
衣装担当:羽村浩美
音響担当の遠見さんはアニメが好きだそうで、主にアニメ作品の劇伴音楽から舞台で使用するBGMを選んでくれるとのことだった。
この演劇はコミカルな作風で、写実的というよりはどちらかというと漫画っぽい作品なのでアニメのBGMから選ぶというのはぴったり合うと思う。
BGM以外に、チャイムの音や電話の鳴る音などの効果音も準備してくれることになっていた。
ちなみに「遠見」という苗字に何故か聞き覚えがあったので、このクラス演劇の座組みが決まった時に安住さんにそのことを尋ねたことがあった。
遠見有希さんは、俺たちの学年の入学試験の首席合格者で入学式では新入生代表を務めた遠見咲乃さんの従姉妹なのだそうだ。その人は入学式で名前を読み上げられていたから記憶に残っていたのだろう。
D組の遠見さんは赤野台中学の出身で、1年A組の遠見咲乃さんは神守中学の出身。出身中学が別で周りから何かにつけて学業成績が優秀な従姉妹と比較されるらしく、それを嫌がっているのだそうだ。だから、くれぐれも本人の前では咲乃さんの話はしないように、と安住さんから念を押された。
ちなみにうちのクラスの遠見さんの方が誕生日が先だそうだ。
本人に尋ねる前に情報通の安住さんに確認を取ったおかげで、うっかり相手を傷付けるようなことを言わなくて良かった、と俺は安堵した。
舞台衣装は、羽村さんが担当することになっていた。
「劇団:津川塾」さんの舞台では、キャストの衣装がTシャツにボトムスを合わせたシンプルかつ動きやすい衣装であったので、それを踏襲することになった。それに加えて、それぞれの登場人物がいわば記号のようなものであることも加味して、羽村さんがそれぞれのキャストの個性を表すようなTシャツを選んで文化祭のクラス予算から購入し、ボトムスは羽村さんの指示に近いものを各自が私服から選んで持参してTシャツと合わせる、という方針に決まっていた。
当然ながら、羽村さんの選んだ衣装が適切かどうかという最終チェックは舞台監督の川上が行うことになっている。
羽村さんは地味なことで有名なうちの女子の制服をいつも可愛らしく着こなしている印象があり、衣装係にぴったりだとみんなが納得していた。
羽村さんに任せておけば大丈夫だ、という安心感があった。
それにしても、どうして俺は女の子の着こなしの良し悪しなんて分かるんだろう?全くの謎であった。
Tシャツはインターネットの通販サイトで購入するので試着が出来ない。だから、夏休みに入る前に羽村さんがキャスト全員の採寸を行った。
何のためか理由は分からないが、川上と井沢さんも採寸されていた。
そのふたりから理由を訊かれた羽村さんは
「毎日のように稽古しているのだから、井沢さんも川上くんもキャストみたいなもんでしょ?」
と答えていた。
羽村さんの頭の中には何か「劇団:1年D組」の結束を固めるための秘策があったのだろう。
話をお盆休み明けの日の午後に戻す。
今日は稽古を始める前に衣装合わせを行うことになっている。
うちのクラスの場合は、「衣装合わせ」というのは先述の通り羽村さんが購入してくれたTシャツをキャストに渡して各々が私物で持って来たボトムスや靴と合わせて、舞台監督の川上の確認を取る、という作業のことを意味している。
Tシャツはいずれも羽村さんが16プラネッツというブランドのネット通販で購入したものだった。
羽村さんによると、16プラネッツというのは「アニメ・漫画・ゲーム・音楽のデザインTシャツを作っているブランド」だそうだ。
羽村さんは段ボール箱の中から1枚のTシャツを取り出して
「レディー・ファーストだから、キャストの女の子から先に渡すわね。
まずは安住さん」
と安住さんにそのTシャツを渡し、説明をした。
「昔の伝説的なクイズ番組『全米クイズトラベル』に出て来た『日本帰国』のプラカードのTシャツだよ。安住さんはクイズ研究部だし、和久井は秘書だから他の3人と区別しやすいようにインパクトのある日本語のロゴが入ったものがいいかな?と思ったの」
安住さんが受け取ったTシャツを広げてデザインを確認すると胸に「日本帰国」のロゴと飛行機を表すマークが描かれ、背中に「?」マークのエンブレムが入っていた。
羽村さんはさらに続けて
「番組内では『日本帰国』ってのはクイズ対決の敗者に告げる宣言だったから、ツッコミ役の和久井にはぴったりじゃない?」
と解説した。
このTシャツを選んだ理由付けがしっかりとなされていたのでその場にいた一同が唸らされる。
安住さんは笑顔で
「あ~!これはすごく嬉しい!クイズ研究部のクイズ大会でも『全米クイズトラベル』のTシャツを着たいから、後でこのブランドの通販サイトとか買い方とか教えてね」
とお願いしたので、羽村さんは
「うん、良いよ。別のデザインの『全米クイズトラベル』のTシャツもあったから公式サイトをチェックしてみてね」
と答えた。
羽村さんは見た目のデザインだけでなく、舞台上で際立たせるべき登場人物の特徴やそれを演じる演者の個性まで考慮してTシャツを選んでいたので、俺はとても驚いた。
他のキャストについても同様の思慮に基づいて衣装が決まっているのだろう。
舞台衣装を決める担当者はそこまで考えないといけないのか?
総合芸術としての演劇の奥深さを再認識させられる。
そして、羽村さんがうちのクラスにいてくれて良かった、と心から感謝した。
「じゃあ次は、小海さんね。『学園都市の電撃使い』のヒロインのTシャツだよ。かっこよくて可愛いキャラクターだから、小海さんに合っているし、芯の強いキャラだから倉田の衣装にぴったりでしょ?」
羽村さんはそう言って、ライトブルーのTシャツを小海さんに渡した。
小海さんも受け取ったTシャツをすぐに広げて確認した。
前面に「E-Master」という文字と何かの機械を表しているようなグラフィックがあり、背面には女の子の顔のイラストが描かれていた。恐らくそのキャラクターが主人公なのだろう。
「私も作品の名前とこの子の顔は知ってる。
可愛いいけど強いキャラクターなんだよね。
良いのを選んでくれてありがとう」
と小海さんも満足そうだった。
これも演出の意図と演者の特長に合っていた。
次は、俺の番かも知れないな。
心の準備をした。
羽村さんは箱から黒いTシャツを取り出して、デザインを確認してから
「え~と、次は上田くんね」
と上田の名前を呼ぶ。
上田が先か。主役だから当然だな。
「上田くんは、『SPEEDY HEDGEHOG』のTシャツだよ」
と言いながら、羽村さんはそのTシャツを上田に手渡す。
「これはゲームのキャラで、ハリネズミなんだけれど、自由気ままにとにかくじっとしていない。だけど、自らの正義に忠実なんだって。このキャラはもう井上、というより、上田くんそのものだよね」
と羽村さんが説明しているのを聞きながら上田がTシャツを胸の前に広げてみると、前面に青いハリネズミのキャラが走っているイラストと「SPEEDY HEDGEHOG」というロゴが描かれている。
上田も満面の笑みで
「このキャラクターはマジで俺っぽいわ。
羽村さん、ありがとね」
と礼を言った。
確かに、上田っぽい。
羽村さんのTシャツ選びは実に的確だ。
さて、次は俺の番か。
俺の衣装は、俺自身も江神という役も大男だから、恐らく巨大ロボットか厳つい男性キャラクターがデザインされたTシャツなのだろう、と容易に予想が出来る。
さて、羽村さんはどんなTシャツを選んだのか?
「次は、大町くんね。大町くんのTシャツを手に入れるのが一番苦労したのよ。サイズも大きくないとダメだし、このTシャツはなかなかのレア物で、ショップのスタッフさんがなんとか1枚だけ残ってた店舗在庫を見つけてくれたから買えたのよ」
と羽村さんは前置きしてから箱の中から1枚のTシャツを取り出し、それを一瞥してデザインをきちんと確認してから俺に渡す。
レア物ということだが、俺のTシャツだけ他のキャストの衣装と何か違うのか?
そうした疑念が脳裏を過ぎったが、受け取ったTシャツは普通のコットンのもので特殊な素材ではない。色もグレーで別に奇を衒っている印象はない。
「そのシャツを広げてみて」
と羽村さんから促されて、俺はそのTシャツを広げてデザインを確認した。
Tシャツの前面には大きなオートバイが描かれており、そのバイクに黒いスーツを着た可愛らしい女の子が乗っていた。
え?
一瞬、言葉を失った。
俺みたいなゴツい奴がこんな可愛いキャラクターが描かれたTシャツを着るのか!
Tシャツを裏返して背中側を見ると「SABER」というロゴが入っていた。
俺が明らかに戸惑っていたのを察して、羽村さんはこのTシャツを選んだ意図を説明する。
「それはね、『Destiny The Origin』という作品に出て来るセイバーというキャラクターよ。
見た目は可愛い女の子だけれど、実はとても強い騎士なの。
『騎士王』と言う異名も持っている騎士の中の騎士だよ。
大町くんの演じる江神にぴったりでしょ?『セイバー』だしさ」
そこまで聞いて俺は納得した。
自分が予想していたものとは全然異なる可愛らしいデザインのTシャツを渡されて驚いたのだが、羽村さんがこの演劇と江神という役柄を真に理解したからこそ俺にこのTシャツを用意してくれたのだと分かったので、俺はとても嬉しかった。
ただでさえ俺の体に合うサイズの服は少ない。
このセイバーというキャラクターはかなり人気があるに違いない。だから余計に入手するのが大変だったのだろう。
「ありがとう」
そう言って体に合わせてみる。
自分で言うのもなんだが、女性キャラは可愛いけれど乗ってるバイクがゴツいので、俺にも似合う気がして来た。
俺が納得したのを見てにっこり微笑んだ羽村さんは
「じゃあ、次は演出チームの川上くんね」
と箱からさらに1枚のTシャツを取り出した。
「え?なんで俺にもあるの?」
と川上は驚いた。
すると、羽村さんは
「川上くんだってほぼ毎日、稽古に参加しているからキャストみたいなものよ。
それに、我がクラスの舞台監督には目立って欲しいしね」
と川上が受け入れやすい理由をつけて、ターコイズブルーのTシャツを渡す。続けて
「それは、『ブルー・サブマリン』っていう漫画の中で主人公の仲間の巡洋艦のキャラクターが着ていたTシャツね。
クール素材の製品もあったからそっちにしておいたよ」
とそのTシャツについての説明を加えた。
川上がTシャツを広げると、「CRUISER」という文字と鳥のエンブレムと「02」という数字が入っている。
3年生が引退した後の新チームで川上はレギュラー入りしたのだが、ポジションがディフェンダーで背番号が2番になった。
それもあってか
「この色でこのデザインなら確かに目立つな。特に『02』って数字が入ってるのが気に入った。この素材はサラサラした肌触りで夏向きだね。ありがとう」
と川上はかなり喜んでいる。
羽村さんは川上のサッカー部での背番号まで考慮していたのか!
羽村さんは箱からもう1枚Tシャツを取り出して
「最後に、井沢さんね」
と井沢さんに差し出す。井沢さんは
「私にもあるの?私なんて川上くんの補佐役でしかないのに」
と言いつつも、促されるままにTシャツを受け取る。
広げてみると、肩から袖にかけての部分が黒くその他が全体的に白いラグランTシャツであったが、それよりも目を引いたのが白いボディーの前面に「万年補欠」、その下に「代役」と大きく書かれた黒い文字だ。
それを見た全員が大爆笑した。
そのTシャツを選んだ張本人である羽村さんも笑いながら
「ごめんね。他意はないの。なんとなく演出チームは揃えたくてね」
そのTシャツも『ブルー・サブマリン』の作品内で潜水艦のキャラクターが着ていたTシャツなのよ。Tシャツの背中側に川上くんのTシャツと同じで鳥のエンブレムが描かれているのよ」
と説明する。
井沢さんがTシャツの背中側を前に向けると確かに鳥のエンブレムが描かれてある。
「井沢さんは川上くんを補佐する役割をずーっと果たしていて、キャストが稽古に来られないと代役で立ち稽古にも出てるでしょ。だからそのTシャツを見付けた瞬間に『これしかない』と思ったの」
と羽村さんは真意を伝える。
笑ってしまっていては説得力に欠けるが、気遣いはよく分かる。
だから、井沢さんも笑いながら
「ありがとう」
と羽村さんにお礼を言い、そのTシャツを体に合わせてみんなに見せてくれた。
妙に似合ってたので、みんなで笑ってしまった。
続けて、羽村さんによる衣装のコーディネート案を実際に確認することになり、キャスト陣は更衣室で着替えて来ることになった。
俺は受け取ったセイバーのTシャツに着替えたが、事前に採寸してあっただけあって、サイズがぴったりだった。
隣で着替えていた上田も同じく
「ちょうど良いサイズだな」
と言っていた。
着替え終わったキャストの衣装を、ひとりずつ羽村さんと川上がチェックする。
主演である井上役の上田は黒い「SPEEDY HEDGEHOG」のTシャツと七分丈のグリーンの迷彩柄のカーゴパンツの姿で白いデッキシューズを裸足履きしている。
設定では所狭しと暴れまわって生傷の絶えない男ということになるので、上演時には脛や肘などに絆創膏を貼る予定だ。
江神役の俺はグレーの「Destiny The Origin』の騎士王のTシャツにデニム、そして俺の敬愛するレブラム・ジョーンズが契約しているブランドの黒いバスケット・シューズというコーディネートだ。
江神がどっしり構えた人物であることを表すために重厚感のあるスニーカーを履いて欲しいと羽村さんから指示されていたのだが、ぴったりのがあって良かった。
和久井役の安住さんは「全米クイズトラベル」の白い「日本帰国」Tシャツとスキニーな黒いパンツに白いシンプルなスニーカーを履いている。
和久井は秘書なので日本語のロゴの入ったTシャツで他のキャストとは差別化を図り、動きやすいパンツスタイルにしつつ一歩引いた印象を与えるコーディネートにしよう、と工夫されていたようだ。
倉田役の小海さんは「学園都市の電撃使い」のTシャツを着てグレーの短いスカートを履いていた。スカートの下にはクリーム色の短パンを履いているそうだ。足元は白いソックスとブラウンのスニーカーというコーディネートである。
羽村さんがこのアイデアを提案した際、小海さんは「私もパンツスタイルがいい」と難色を示していたそうだが、羽村さんがなんとか説得したのだそうだ。
小海さんは入学時には黒髪でショートカットだったのだが、髪を伸ばし初め、夏休み中には髪の色をベージュに変え、髪が肩にかかる位まで伸びていたので、羽村さんの用意した髪留めを付けると、なんとなくどこかで見たことあるような感じに仕上がっている。
羽村さんの補足説明によると、本当は足元はルーズソックスとローファーにしたかったそうだが、ローファーでは動きにくいだろうという理由でスニーカーに変更し、それととともにソックスも普通の短いものになったらしい。
その辺の拘りは俺にはよく分からなかった。
羽村さんが説明しているのをそっちのけで小海さんの生足をガン見している奴がふたりいるのが気になったが、そのうち井沢さんにでも叱られるだろうから放っておこう。
ともかく、そんな感じで衣装合わせは無事に済んだ。
キャストはもう一度更衣室へ行き、いつもの練習着に着替え直した。
稽古のたびにいつも感じるのだが、台詞が多い上田と小海さんは本当に大変そうだった。
しかし、ふたりとも練習を重ねるほどに台詞を間違えなくなって来ていた。
見る見る上達していくのが分かった。
一方、俺は台詞も少なめでアクションも控えめなのだが、芝居の間の取り方が難しかった。
普段からよくつるんで話している上田との間の取り方はいいのだが、安住さんと小海さんとは日頃はそれほど話をしないので呼吸が合わないことが多かった。
俺は「芝居の間が悪い」と何度も川上からダメ出しを食らっていた。
舞台監督としてみんなを引っ張っている川上とて、特に演劇経験があるわけではない。恐らく何度も繰り返して「劇団:津川塾」の舞台「Round Bound Wound」のDVDを観て研究を重ねているのだろう。
それが証拠にあいつの上演台本は書き込みだらけだ。
サッカー選手が一流プレイヤーのフリーキックを見て反復練習するように、良い見本から多くのものを吸収して俺たちにそれを再現させようという高い望みを持って日々の稽古に臨んでいるに違いない。
羽村さんはファッションが好きで、しかも漫画やアニメも好きなのでその知識を生かしつつ、キャストの個性や演じている登場人物が見せるべきビジュアルをうまく汲み取って衣装を決めてくれた。
役名が苗字だけであり設定もシンプルなので、脚本を読み込んで登場人物の本質というものを掴んで衣装に反映さえてくれたのだ。
そういうセンスを持っている人がクラスにいてくれて助かった。川上も喜んでいた。
羽村さんの上演台本も書き込みが多く、独自に設定資料まで作って川上に提案していた、とのことだ。
まさしく縁の下の力持ちである。
音響担当の遠見さんはかなり脚本を読み込んだ上で何日か稽古を見学して各シーンに適した音楽のイメージをメモに書き留め、それを元にBGMを編集し、それをイヤホンで聴きながら稽古を見学して修正する、という地道な仕事を続けてくれた。
今日は遠見さんがついに自分で編集した舞台用の音源を持って来てくれた。遠見さんは
「遅くなってごめん」
と俺たちに謝っていたが、川上は責めるどころか
「いや、夏休みの間に完成させてくれたのは嬉しい誤算だよ。むしろ予想以上に早かったから助かる」
と喜んでいる。
俺たちキャストも口々に感謝を伝えたが、今までの稽古で全ての効果音を自分の声で表現してくれていた井沢さんは
「これで、私は『ピンポーン』とか『トゥルルルル』とか言わなくて済むね。ありがとう」
と一番嬉しそうだ。
誰ひとりとして「音響効果の完成が遅い」などと責めることはなかったので遠見さんは安堵している。
その日は川上の前でキャスト陣が読み合わせをし、その進行に合わせて遠見さんがBGMを流して、ちゃんと音楽が芝居に合っているかを確認することとなった。
教室の机を6つくっつけて並べて、会議室のテーブルのようにした。
一方に遠見さん、川上、俺が並んで座り、向かい側に上田、小海さん、安住さんが座る。川上の隣には今回最も確認すべき事項が多いであろう遠見さんを配置し、台詞の多い3人のキャストは川上と対峙する。俺は台詞が終盤までほとんどないから川上の隣の席だ。
井沢さんはこの6人のいる机から少し離れたところに座ってタイムキーパーを担当する。
川上が
「じゃあ、始めるぞ。はい!」
と声をかけると、デジタル・オーディオ機器から開幕を告げる音楽が流れた。
この作品はドタバタコメディーなのでもっと賑やかな音楽で始まるかと思ったら、朝の始まりを示すような静かな楽曲だった。
そういう感じで来たか、と意外な選曲に俺は驚いた。
その曲がフェードアウトして演者の芝居が始まる。
中々良い感じで物語の世界に入れたのではないだろうか?
初めてBGMが加わったこともあって、席についたままの読み合わせとはいえ、キャスト全員がいつもよりも気分良く演技をしているのが分かる。
ライトモチーフではないが、それぞれの登場人物にはコンセプトにあった曲調のBGMが用意されていて、そのおかげでいつもより役に入り込めるような気がする。
川上から告げられていた演出プランのニュアンスが芝居に添えられた音楽を通じてより明確に観る者へ伝えられている印象もある。
これはいいぞ!
こうして音響を加えた初めての読み合わせが最後まで終わって、全員でひと息ついた。
嘆息する間もなく、川上が井沢さんに
「どれだけ時間がかかった?」
と尋ねると、井沢さんは肩をすくめつつ
「うん。1時間35分もかかってる」
と大幅な時間オーバーをしていることを伝えた。
本来ならば1時間15分で上演できる舞台だからだ。
だが、川上は
「いや、今回は途中で何度も俺が止めて遠見さんに説明を求めたから、その時間を差し引けばむしろ良いペースだったんじゃないかな?」
と今回の芝居のテンポに好印象を持っているようだ。
遠見さんはスポーツ飲料を一口飲んでから
「私の用意したBGMはどうだった?」
とみんなの感想を求める。
心なしか不安そうな表情だ。
川上は読み合わせをしている間に遠見さんへ確認すべき事項はクリアにしていたからか腕組みをして黙ったままだ。
それを見た上田が
「良かったよ。井上の元気さとか三枚目っぽさが上手く伝わると思うし、俺も音楽に乗って演技出来るから助かる」
と真っ先にコメントした。上田らしい。
コメントを待っている遠見さんの心中を察すれば、ああやってすぐにでも感想を伝えるのが優しさだと思う。
遠見さんは柔和な表情になって頷く。
それじゃ、次は俺がコメントをしよう、と思い
「俺は」
と言いかけたところへ、小海さんの
「私も」
という言葉が重なった。
芝居の中でことごとく江神の発言を遮る倉田の姿と重なった。
それを見た川上が
「大町と小海さんは段々と呼吸が合って来たな」
と茶化すが、確かにその実感はある。
「どうぞ」
と俺が譲ったので、小海さんは小さく頷いてから
「私も良かったと思う。倉田がアクションを起こす時にテンポの良い音楽が流れるから私も乗っていける。井上と倉田がドタバタと動き回るシーンも毎回音楽を変えてくれるからそれを指標としてそれぞれのシーンの区別がしやすいから助かる。時々、どのシーンだったか頭の中が混乱しちゃうことがあったんだよね」
と伝える。
遠見さんのBGMは小海さんの演技も支えてくれるようだ。
小海さんが俺の方を見てアイコンタクトで「どうぞ」と伝えてくれたのを確認して
「俺は江神が登場するシーンや江神が注目を浴びるシーンではもっと重々しい音楽が流れると勝手に予想していたので、ああいうほのぼのした曲が流れた時には驚いた。でも、あの音楽に合わせてゆったりと演じていれば川上に指示された『江神の演じ方』に近づけるだろうと気付いた。ありがとう」
と俺は正直な意見と感謝の意を伝える。
小海さんと俺からも高評価をもらえたので、遠見さんは嬉しそうな表情になり、スポーツ飲料を少し飲む。
安住さんは
「シーンとシーンの合間に流れる曲の選び方も次の展開を予想させる効果があるんだよね」
と意外な着目点について指摘した。遠見さんは
「うん、そのつもりで編集したんだけど、気付いてくれて嬉しい」
と笑顔になった。
その場にいた者たちの視線がまだ発言していない井沢さんに向けられたので
「え?私も?」
と井沢さんは驚いていたが、川上から
「そこでタイムキーパーをしてくれていた井沢さんだけは芝居の中に没入していなかっただろ? 客観的な意見を出してくれると助かる」
と促されたので、予期せぬ重責を担わされて頭を抱え出した。
井沢さんが考える間を繋ぐために川上が
「基本的な質問なんだけど、どんなところから音源を持って来たの?色々な曲調があったけど全部がアニメのサウンドトラックの曲なのか?」
と尋ねると、遠見さんは何人かの作曲家の名前を挙げた。その作曲家たちの携わったサウンドトラックの中からこの舞台に適した音楽を集めて来たのだった。
川上と上田と安住さんは知っている作曲家がいたようで
「なるほどね」
と納得していたが、いずれも俺が知らない名前ばかりだ。
どうやら遠見さんが選んだ作曲家の方々はアニメ以外の日本の映像作品の劇伴音楽の分野でもとても有名なのだそうだ。
数人の作曲家の作品だけでこんなにバラエティーに富んだ楽曲が集められるとは驚きだ。
ちなみに、文化祭での上演に既製の劇伴音楽を使うことは著作権侵害には当たらないらしい。営利目的での使用ではないし学校の文化祭は授業扱いだから、ということだった。俺は初めて知った。
そんな話題で盛り上がっていると、ようやく井沢さんが右手を軽く上げて
「待たせてごめんね。良いかな?」
と自分の意見を述べたいという意思表示をしたので、川上が
「どうぞ」
と発言を促す。みんなからの視線を一身に集めた井沢さんは気まずそうに
「みんなが言っているように個々のシーンのBGMやシーンを繋ぐ曲はすごく良いと思う。ただ、気になった点がひとつだけあって。こんなところを気にするのは私だけなのかも知れないけど、それでも、どうしても気になって」
と話し始めた。
すると、遠見さんの表情が曇って俯く。
その姿を見て井沢さんが口を噤む。発言したことを後悔しているように見えた。
しばらく沈黙が続いた。
川上は腕組みを解いてから
「井沢さん、話を続けて」
と穏やかに言った。
井沢さんは川上の方を見て、その次に遠見さんの顔色を伺った。
遠見さんは黙って頷いた。
それに後押しされて井沢さんは話を続けた。
「最後のシーンなんだけど。最後の台詞を言った後、井上がお辞儀をした状態でみんなの動きが止まって、しばらくBGMが流れて、段々と音量を落として静かになっておしまい、というのが遠見さんの用意してくれた音響のプランだったよね」
そこまで言って、もう一度遠見さんの方を見た。遠見さんが頷いたのを確認して、徐に自分の台本を開き、目を通してから
「でも、台本には、台詞があって、最後のト書きがあって、すぐに『終幕』と書かれている。台本の、文字と行間から伝わって来るテンポだと、トン、トン、トンという感じで幕を下ろした方が良いんじゃないかな?って私には思えたの」
と言い切った。
井沢さんの苦しげな表情から、その心の中に依然として「この発言をして良かったのかどうか?」という懊悩の残滓が残っているのが分かる。
井沢さんの指摘を受けて俺も含めた6人が一斉に台本の最後のページを確認する。
しばらく黙って考え込む。
台本のラストにはこう書かれていた。
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井上:(最後の台詞)
「(承前)
ぜひここで働いてください!」
井上、深々とお辞儀をする。
ー終幕ー
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この部分をどう解釈するか、というのが問題となっているのだろう。
脚本には何も細かい説明書きがないのだから、このシーンをどのように舞台上で具現化するかは演出家の力量にかかってくる。
いくら考えたところで絶対的な正解は得られないだろうが、それでもどう表現すべきかを自分で決めることは出来るはずだ。
そんな重々しい沈黙を川上が破った。
「なるほど!その発想はなかった。脚本そのものが自ずと表している芝居のテンポね!」
他のメンバーも口々に「なるほど!」とつぶやいた。
川上は左の拳で自分の左腿を軽く叩きながら
「あ~、盲点だった。脚本を読み込むことの重要性は十分理解していたつもりなのに、俺は『劇団・津川塾』の舞台の映像とみんなの演技ばかり見てて、肝心の脚本に対しての重心の置き方が足りていなかったんだな。ありがとう。井沢さんみたいにちゃんとテキストを読める人がチームにいてくれて良かった」
と言うと井沢さんに頭を下げた。井沢さんは
「私なんて、、、そんなそんな」
と謙遜している。
川上は続けて
「井沢さんはラストシーンの音響演出をどう変えれば脚本の持つリズムを生かせると思う?」
と改善案を井沢さんに求めた。
遠見さんも顔を上げて井沢さんの方を注視している。
遠慮しないで教えて欲しい、と目で訴えているようだ。
井沢さんは右手を額に当てて考え始めた。
考えるというよりも脚本に書かれているシーンを自分の頭の中で舞台の上にイメージしてそこに音を入れる、という作業をしているのだろう。
今度は井沢さんの考えがまとまるまで、全員が黙って待っていた。
5分以上経ってから、井沢さんは顔の前で手を合わせて
「ごめん。私はあまり音楽を聴かないから適した音響効果のイメージが何も湧かない」
と詫びて、その後でこう続けた。
「でも、私だったら、井上がお辞儀をした瞬間に暗転させて舞台を終わらせるかな」
俺は井沢さんが提案したそのラストシーンの情景を思い浮かべた。
恐らく他のみんなも同じだっただろう。
やがて、川上が
「台詞、お辞儀、終幕」
と独り言を言ってから自分の台本を机の上に置く。
該当する箇所を左手の人差し指で弾き始めた。
トン、トン、トン。
トン、トン、トン。
トン、トン、トン。
トン、トン、トン。
川上の発するリズムはメトロノームのように続く。
1分ほどでその音も止み、沈黙が訪れる。
それぞれが長考に入った。
やがて、その沈黙も川上が自ら破った。
「確かにそっちの方がテンポが良いと思う。俺は井沢さんの案に賛成だけど、遠見さんはどう?」
尋ねられた遠見さんは
「私も井沢さんのアイデアの方が良いと思う。私もラストに関してはどんな音楽をあてれば良いのかずっと分からなくて、お芝居が始まる前に流す前奏曲と呼応するような楽曲を選んだんだけど、違ったね。『何も音を入れない』という音響演出もあるんだと今更ながら気付いたよ。ありがとう、井沢さん」
と井沢案に賛成した。
それを聞いてホッとした川上は
「キャストのみんなはどうかな?」
と尋ねてくれたが、みんなは黙って頷いている。
俺も井沢さんのアイデアに賛成だ。
きっと川上が台本を弾いて刻んだリズムがみんなの耳に残っていて井沢さんのアイデアに従おうという一体感が生まれていたのだろう。
ホッとして胸を撫で下ろす井沢さんに対して、安住さんが
「景ちゃんが小さな違和感に気付いて、頭を抱えたりおでこを手で押さえたりしながら必死に考えて思わぬ解決策を導き出した姿は、まるでアメリカのテレビドラマに登場する『よれよれのレインコートを着た刑事さん』みたいだったよ」
と評したので、上田は
「あ~、あれね。母ちゃんがあのドラマが好きで俺もよく観てたよ。『うちのカミさんがね』ってのが口癖の警部さんだよね」
と物真似しながら話に乗る。その物真似が結構似ていたのでみんなで笑った。
笑いがおさまると安住さんが
「実はね、あの人の正式な階級は”Lieutenant”だから、日本語に訳すと『警部補』なのよ」
と情報を付け加えた。相変わらずの博覧強記である。
この日はここまでで解散となった。
上田と川上から帰りにファミレスに寄って行こうと誘われたが、俺は午前中の部活の練習と午後の稽古で疲れていたので、そのまま帰途についた。井沢さんも一緒だった。帰り道ではお互いに気分転換をしたかったので、クラスの演劇の話題は避け、最近読んで面白かった本を勧め合った。
井沢さんは文芸部の部誌に投稿する小説の執筆とクラスの演劇の稽古で忙しく、夏休みなのに読みたい本を全然読めないのが不満だと言っていた。俺も部活や演劇で忙しかったが、俺の場合は遥香さんとの楽しい思い出があるのでとても幸せだった。井沢さんにも何か良いことがあると良いな?と余計なお世話ながら願った。
中府駅で地下鉄から私鉄の府島線に乗り換えた頃になると意図せず話題はだんだんとクラスの演劇の方へ戻って行き、「お互いによく頑張ってるよね」という感慨に耽っていたところで電車が伊那川駅に着いた。
伊那川駅で井沢さんと別れたのだが、その時に
「また芝居のことで何か気付いたことがあったら、少なくとも俺には遠慮せずに言ってくれよ」
とお願いした。
「うん、分かった」
と井沢さんは快諾してくれた。
舞台監督の川上もそうだが、忌憚の無い意見を言ってくれる仲間というのは有り難い。暁月高校に入って本当に良かった。
帰宅してシャワーを浴び、自室でカレンダーを眺めながら考える。
もう8月の中旬なのでもうすぐ夏休みが終わる。文化祭が近くなってきたので、残された時間は短く、通し稽古が出来る機会も限られて来ている。
そろそろ舞台を仕上げないといけない段階のはずなのに、今日の読み合わせでも、やはり俺の演技の拙さが目立っていた。
俺の演じる江神は舞台において短い台詞でのやりとりが多く、間の取り方や、最小限の動き、更に言えばレスポンスの悪さを生かして笑いを取らないといけない。
その一方で、舞台の終幕直前に、怒涛の長台詞がある。
しかも、そのシーンがうまく決まらないと、この舞台は終われない。
だから、俺には失敗が許されない。
そのプレッシャーもあって、自分の出番が来て舞台に上がった瞬間から俺はこの終盤の長台詞のことを考えながら演技をしてしまっている自覚がある。
俺のような大根役者がよそ事を考えながら芝居をする。それは良くないことだ。
だが、先に待ち受ける難しい上に需要なシーンのことを考えずにはいられない。
サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」の怒涛の長台詞ほどではないにしろ、このシーンは骨が折れる一人芝居と長台詞なのだ。
長台詞が出てくるシーンはこんな感じだ。
江神はずっと寡黙で堂々としていたものの、積極的な倉田に先を越されて探偵助手の座を奪われてしまう。
江神が井上探偵事務所を去ろうとすると、事務所に1本の電話がかかってくる。
ここから長台詞の一人芝居が始まるのだった。
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和久井が電話に出ようとするが、すぐそばにいた江神が受話器を取る。
江神:
「はい、井上探偵事務所です。
え?
はい?
すると、そちら様に当事務所がご迷惑をおかけしたということでございますか。
つきましては、お金を包んでお詫びに来ていただきたいと。
え?お金ですか!
はい、しかしながら、そう申されましても。
はい。
ですから、当事務所としてはそういう記録はないと思われますが。
ええ、そうはおっしゃいますが、え?
おたく様の関係者の方にご迷惑をかけたなどと申されましても、
はい、井上が、でございますか?」
一同、井上を見る。井上は手を横に振って否定する。
江神はそれを見てから受話器に向かって話を続ける。
江神:
「残念ながら、本日はお休みをいただいております。
ええ、確かに井上へはお伝えいたしますが、それでよろしいでしょうか?
え?今日、詫びに来て欲しい、ですか?
これは参りました。
実は井上の親族に不幸がありまして、昨夜から連絡が取れない状態でして。
はい、ならば、お前が来い、でございますか?
いや、私ではとても井上の代役は務まらないと思いますが。
はい、それでもいいから、早く金持って来い、ですか。
いや、事務所のお金を管理しているのは所長の井上でして。
え?別に事務所の金じゃなくてもいい?
と、申されますと?
はい、はい、え!
私がですか?
しかも、100万円ですか?
そんな大金を持っておりませんし、
井上の許可なく行動することは私には許されておりません。
はい?お前に脳みそは入っているのか、ですか?
はい、一応ですが、入っております」
江神は受話器を耳から外し、受話器を指差し、うるさく言われているような仕草をする。
江神:
「もしもし、あなた様の要望は理解致しましたが、今は当の井上が不在でございます。
ですから、後日、改めてご連絡を差し上げるということで、
はい、え?
それじゃあ、誠意がない、ですか。
そう仰られても、井上個人のことですから当の本人不在で所員が対応することはできかねます」
江神は再び受話器を耳から外し、受話器を指差し、うるさく言われているような仕草をする。
江神:(低くドスの効いた声で)
「おい、いい加減にしろ。
黙って聞いてりゃ、いい気になりやがって!
お前、誰にものを言ってんだ?
俺は、泣く子も黙る『仏の江神』だぞ?
あ~ん?
仏っていうけどな、『地獄に仏』の『仏』だ!
俺がどれだけの修羅場をくぐって来てると思うか?
お前、3年前に恋良海岸で起きた高波、知ってるか?
ああ、そうだ。あの近くの住宅まで水没した高波のことだ。
俺はあそこで波が荒れ狂う中、波に飲み込まれた小さな子供を見つけたから、
海に飛び込んで助けに行ったんだ
それが証拠に訊いてみたらええ、
あの辺りで『江神の兄ちゃん知ってるか?』ってちびっ子たちに訊いてみろ。
みんな知ってるぞ。
はあ?
まだ金とか誠意とかそんなこと言ってるのか?
お前、誰に向かって偉そうな口を聞いてやがる?
じゃあ、お前、これ知ってるか?
去年、大雨で増水した時に、百上川の中州に取り残された小学生を通りすがりの男が助けたって話。
あれもなあ、俺だ。
なあ、おい、人間なんて自然に比べればほんのちっぽけなもんだ。
そんな人間風情がそんなイキがったところで何にも意味はないぞ。
わかったか!
ま~だ、ごちゃごちゃ言ってるのか!
ちょっと待て、お前じゃ埒があかん。
お前んところの頭と電話を代わってくれ。
はあ?
早く代われよ。
優しく言っているうちに代わっておいた方が身のためだぞ?」
江神:(声色が元の穏やかなものに戻る)
「はい、もしもし、あなた様がそちらの上司の方ですか。
どうもすみません。
私は井上探偵事務所のしがない見習いでございます。
どうもそちらのお方にうちの井上がご迷惑をおかけしたようで。
ただ、あいにくと井上の身内に不幸がございまして、しばらくお休みをいただいております。
どうかそこのところをお含みいただければ幸いなのですが、なかなかご理解いただけなくて。
それで、上司のあなた様と直接お話をさせていただいた次第です。
はい、私ですか?
当事務所の見習い探偵の江神でございます。
はい、さんずいに工場の工と書いて江、神は神様の神です。
前の仕事でございますか?
はい、つい最前まで、虹浜海水浴場でライフセイバーをしておりました。
ええ、運悪く災害に遭遇した時にはそこでも人命救助をしております。
人として当たり前ですから。
ですから、何とかおたく様とも円満にお付き合いして行きたいと思っております。
はい。
そうですか。
ありがとうございます。
ご理解いただけて何よりです。
では井上が戻り次第、折り返しお電話を、、、え?結構ですか?
それでしたら、井上に伝えておきますので、せめてお名前だけでも。
はい、鈴木様、あのう、失礼ですが、下のお名前もお願いできますでしょうか?
一郎様、 一に、朗らかな方の、
失礼いたしました、そうじゃなくて桃太郎さんの郎でございますね。
鈴木一郎様からご連絡があった旨、しかと、井上にお伝えさせていただきます。
それでは、何かのご用命の際には当探偵事務所をくれぐれもご贔屓にお願いいたします。
失礼いたします」
江神、そっと受話器を置く。
それだけ言い終えて他の3人に会釈して事務所を後にしようとする。
江神が出口のドアノブに手をかけた瞬間。
井上:
「ちょっと、待って!、ください、江神く、、、さん。
鈴木一郎って、、、それ、絶対に、、偽名だし、
謝れとか金払えとか、、詐欺だし、
相手、絶対、、マジで怖い人だし。
そんなの撃退しちゃうとか、、、俺よりすげえし!
はい、わかりました。
あなたも採用です!
いや、お願いします。
ぜひここで働いてください!」
井上、深々とお辞儀をする。
ー終幕ー
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こうして舞台は幕を閉じる。
終盤は江神の長台詞を井上が受けてすぐに終幕となる。
これは今日の稽古中に決まった井沢さんによるアイデアであった。
長かったお芝居を小気味よく終える、という演出は気が利いてて俺も大賛成だ。
舞台の終わり方が改良されたとはいえ、結局は俺が長台詞を失敗したら綺麗に終われないどころか、目も当てられない惨状に陥ることが確定しているような脚本である。
自室で台本を読み返しながらため息をつく。
「ゴドーを待ちながら」のあの長台詞であれば「俺にはあんな台詞は言えない。不可能だ」とはっきり言えるのだが、この「Round Bound Wound」の江神の長台詞には脈絡もあって、演じるのが決して不可能ではないはずだった。
だから、余計にプレッシャーになっていて、家でもひとりで稽古するのである。
隣の部屋には受験勉強をしている姉貴がいるので、自室では小声で台詞を読まざるを得ない。
それでも「うるさい」と苦情を受けたことがあった。
逆に姉貴の部屋から物音が響いて来て俺がうるさいと感じたことはないので、いつも姉貴は俺に気を使っているのだろうな、と常々思っている。
だから、俺は騒音を出さないよう、姉貴以上に気をつけないといけない。姉貴は受験生なのだから当然だ。
その後、声量に細心の注意を払いながら、この長台詞の練習をしていると、ドアがノックされて姉貴が入って来た。
無意識につい声のボリュームが上がってしまって迷惑をかけたかな?と反省して謝ろうとしたが、どうやら姉貴の突撃の目的は苦情を言うためではなさそうだ。
姉貴の表情が穏やかだったからだ。
案の定、姉貴は機嫌良さそうに話し出した。
「気分転換に自分の部屋の掃除をしていたらこんなのが出て来た。
昨年の暁月祭で買った文芸部の文集よ」
姉貴が昨年の暁月高校の文化祭に行ったのは知っている。
自分の通っている玲成高校の同級生の友達が通っていたんだったな。
当時は中学3年生だった俺も自分の志望校の文化祭には行きたかったのだが、運悪く季節外れの夏風邪を引いて高熱で寝込んでいた。
姉貴は続けて
「なんかさあ、校内でも人通りの多い場所なのに文芸部の売り場だけは閑散としててね。おとなしそうな物静かな女の子が独りで店番していたの。『1部300円』って表示が出てたから可哀想でつい買っちゃったのよ」
と文集を買った経緯を語った。寂しそうにしている文芸部員の女子生徒を放っておかなかったあたりが姉貴らしい。
「それで、なんでその文集を持って来たんだ?」
と俺が尋ねると、姉貴は嬉しそうに
「その日に家に帰ってパラパラ見てみたんだけど、あんたにこの前話したでしょ、ひどかった2年生のクラスの演劇、その『輝く夕焼けを眺める日』の戯曲が載っててね、試しに読んでみたら、、」
と話し出したので、俺が
「どうだった?」
と食い気味に尋ねると、姉貴は一転して厳しい表情になり
「それはあんたが自分で読んで判断しなさい。はい、これ」
とだけ言って、俺にその文集を渡した。
表紙には「文芸・東雲」と標題が印字されてある。
続けて
「他の作品も読み応えあるよ。クルド民族問題について書かれた論説とか自殺志願の女の子を描いた小説とか、筆者の気迫が伝わってきて良かったよ。あんたのところの文芸部はレベルが高いね」
とその文集の総評を述べた。
姉貴がちゃんと読んでそう評価したのだから、この文集には読む価値があるのだろう。
「ありがとう。ちゃんと読むよ」
と俺が礼を言うと、姉貴は気まずそうに
「実は高校受験が終わったらあんたに渡そうと思っていたんだけど、どっか行っちゃって、文化祭のパンフレットしか渡せなくて、ごめん。お詫びにその本はあげるよ」
と答えた。
もしかしたら受験勉強の合間にずっと探してくれていたのかも知れないな。
俺に文集を渡したので用事が済んだのだろう。
「じゃあね」
と言い残して、姉貴は俺の部屋から出て行った。
姉貴が去年の文化祭で観た2年生のクラス演劇を酷評していたことは覚えていた。自分自身にはとても厳しい反面、他人にはとても寛容な姉貴が見ず知らずの人たちを非難することなんて今まで一度もなかったから印象に残っていたのだ。
長台詞の反復練習にも疲れていたので、俺は気分転換するため、「Round Bound Wound」の台本を脇に置き、渡された「文芸・東雲」を開いた。
まずは目次を確認した。
・佐倉真莉耶「輝く夕焼けを眺める日」
このタイトルは覚えていた。
佐倉真莉耶という名前も去年の文化祭のパンフレットにも作者として載っていた記憶もあった。
「これは『さくらまりか』と読むのか?」
と思わず独り言を言いながら思案した。
こういう時こそちゃんと調べるべきだろう、と考えたので、本棚にあった漢和辞典で「耶」という漢字について調べた。
「耶」という漢字は、音読みが「ヤ、シャ、ジャ」で、訓読みが「か」であった。
「さくらまりや」もしくは「さくらまりか」さんは女子生徒で、これはペンネームなのだろうと結論付けた。
そして、「輝く夕焼けを眺める日」を読み始めた。
最後の「ー幕ー」まで読み終えて一息ついた。
俺の口からは
「良いぞ、これ」
という言葉しか出て来なかった。
(続く)




