敵前逃亡罪
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メリークリスマス!
戦場を勝手に離脱したルードシュタット侯爵は、三万の兵を率いて帝都を目指し、クロスヴァルト平原という場所で野営を行っていた。
このクロスヴァルト平原から帝都までは、徒歩にて凡そ十日ほどの距離である。
ここまで来れば自身の野望を食い止めることは、何人たりとももう出来まいと、侯爵は安心しきっていた。
この侯爵の気の緩みを咎めるのは、少々酷というものだろう。
一体誰が、黒竜を用いての空からの一撃強襲を予想出来たというのだろうか?
その日の晩、侯爵は自分の天幕に麾下の貴族たちを集め、今後の方針などの会議と、己の野望の成就の前祝いの祝宴を行っていた。
「ここまで来れば一安心といったところでしょうな」
「おめでとうございます閣下、ついにこの日が来ましたな。これからは閣下がこの帝国を導かれていかれるのですな」
シェイルン、ノルトハイム子爵らの言葉に、ルードシュタット侯爵は頬を緩ませる。
侯爵は気前よくいくつもの年代物のワインの封を解き、ご相伴にあずかった貴族たちは、その風味に舌鼓を打っていた。
「陛下がいけないのだよ、陛下が…………陛下は我ら貴族を蔑にして、平民にばかり肩入れする。儂は違うぞ。国というのは王侯貴族が治めるもの。平民など、所詮は搾取の対象でしかないのだ」
侯爵の言葉に、同席する貴族たちは一斉に頷いた。
「然り! 帝国はその頂点たる皇帝陛下と、我ら貴族のものである!」
「左様、その間違いを侯爵閣下が摂政となり、本来の正しい姿へと修正なされるのだ!」
侯爵が現皇帝を廃し、孫であるアルベルト皇子を皇位に就かせて摂政となれば、その麾下にいた自分たちは、国の中枢で絶大な権力を握る事が出来るという興奮に、彼らは今酔っていた。
「しかし、ラ・ロシュエル王国は如何しましょうか?」
帝都を掌握し、国璽を手に入れ、アルベルト皇子を皇位に就けたとして、侵略して来るラ・ロシュエル王国軍を追い払えなければ意味が無い。
「なに、ラ・ロシュエルなど何するものぞ。帝都にて防衛すればよいだけのこと。如何にラ・ロシュエルとて、帝都を容易く抜くことなど出来ぬ」
「それに、未だケンブデン如き小城に梃子摺っておるのだろう?」
「左様、ケンブデンを抜くにあたって、それなりの損害は出るはず。その傷付いたラ・ロシュエル如きで、帝都を陥とすことなど出来ぬ」
「膠着状態となれば、講和の機会もあろう。適当に南部の地の一部でも割譲すると言って、兵を退かせればよいではないか」
「何はともあれ、先ずは帝都を抑え、帝国全土を掌握するのが肝要」
酒の力もあるだろうが、彼らは己が野望の成就を前にして、どこまでも楽観的であった。
「それにしても、何やら外が騒がしいような?」
「放っておけ。兵たちも帝都に帰れると知り、心が浮ついておるのだろうて。はっはっは」
事実上の新たなる帝国の支配者たる侯爵がそう笑えば、麾下の貴族たちもそれに倣い笑うしかない。
「新たなる帝国の夜明けに…………」
そう言って侯爵が杯を掲げ、貴族たちがそれに追従して杯を掲げたその時である。
一瞬にして彼らは、頭上から吹き出される紅蓮の炎に捲かれ、叫び声を上げる間もなく黒焦げとなり、その直後の爆発により四散した。
当然そのような状況で生きている者はおらず、侯爵をはじめとして、天幕内にいた全員が絶命した。
ーーー
時は少し遡る。
夜になり、野営する侯爵の陣を目指して飛び立ったシンとサクラ。
二人は迷うことなく、夜の闇の中を一直線に飛んで行く。
野営地の篝火が、遠くからでも侯爵の軍の存在を示しているため、迷う心配はない。
「一際大きい天幕を探せ。それか旗だ。侯爵の旗印は、翼の生えた獅子だ」
シンは右目をそっと閉じ、竜の目である左目だけで地上を見下ろす。
この竜の目は、月明かりすらない暗夜であっても、昼のように物を見る事が出来る。
黒竜であるサクラもまた、シンの左目と同じく、闇を苦ともせず物を見る事が出来た。
(シン、あそこ!)
サクラが首でクイッっと指し示した所に目をやると、そこには周囲の天幕よりも一際大きく、そして無駄に装飾が施された天幕があった。
「おそらくはあれだな…………いや、あれだ! 翼の生えた獅子の旗! 侯爵の旗だ。後は侯爵が中にいるかどうかだが…………迷っていてもしょうがない。ここは一気に行くぞ! サクラ、旋回しながら高度を下げてくれ。ブレスで一撃強襲を仕掛けるぞ!」
了解とサクラがゆっくりと身体を右へ傾ける。
その頃になると、サクラの姿や影を見た兵たちが、騒ぎ始める。
シンを振り落とさないようにと、ゆっくりと旋回しつつ高度を下げるサクラ。
その背に跨るシンの心臓が、早鐘のように鼓動する。
(失敗したらどうする? 馬鹿か俺は! 失敗したときのことなど今考えてそうする? 今はただ、心を鎮めて出来る事をただ確実にこなせばいいんだ)
サクラは高度を下げつつ、大きく息を吸い込み、喉を膨らませる。
(シン、いくよ!)
「おう、いけ! サクラ!」
シンの掛け声と共にサクラは急降下、ブレスの射程距離に入るとサクラは大きく口を開き、地上に瞬く篝火とは比べものにならない明るさの、真っ赤な炎の塊を吐き出した。
サクラの口から全力で放たれた炎の塊は、天幕を焼き、地上にぶつかると大きく弾け、大爆発を起こす。
夜の闇を切り裂く爆音。そして下から猛烈に吹き上げる熱を伴った爆風に煽られ、サクラの身体はふらつき、態勢を崩しかけた。
シンも四肢に力を籠め、しばらくは必死にそのサクラの背にしがみ付く事しか出来ない。
「ぶわっ、な、なんて威力だ! これで亜成体だと? あらためて竜とは恐ろしい生き物だな…………」
必死に羽ばたき、体勢を立て直したサクラの背から、シンは地上を見下ろした。
つい先ほどまで、侯爵の天幕があった場所には、爆発跡があるのみであった。
「こりゃ、中に居た奴らはひとたまりもねぇな…………問題は、中に侯爵がいたかどうかだが…………兎に角、居たことを前提にして次の仕事に取り掛かるとするか。サクラ、あの爆発跡に降りてくれ」
サクラは命じられたとおり、爆発跡の中心に着陸した。
夜半に起きた突然の大爆発。そしてそれが巨大な黒竜の来襲によるものだと知った将兵らは、混乱の極みにあった。
戦うのか、それとも逃げるのか? その判断を下すはずの貴族たちは、もうすでにこの世にはいない。
「サクラ、吼えろ! 全力でだ!」
サクラは吼えた。シンはサクラの背から降りながら、手で耳を塞いだ。
野営地中に響き渡るサクラの咆哮。
将兵らの戦意は、その咆哮に掻き消された。
竜の全力の咆哮を受けた将兵らは、戦意を失っただけではなく、その身体の自由すら奪われてしまった。
「威圧? それとも咆哮自体に金縛りの効果でもあるのか? どっちにしろ便利だな。御苦労、サクラ。後は俺がやる」
シンはサクラを背にして前へと進み出た。
そして肺や腹筋、横隔膜、声帯など、大声を出すのに必要な器官を魔法で強化した。
「聞け! 我が名はシン! ルードシュタット侯爵は、敵前逃亡の罪により処刑した! ここに皇帝陛下の命令書がある」
シンはそう言って懐から羊皮紙を取出し、広げた。
「今言ったとおり、ルードシュタット侯爵は、敵前逃亡罪により死刑。また、その麾下の将兵に関しても、敵前逃亡の嫌疑がかけられている。だが、喜ぶがいい! この嫌疑を晴らす術が一つだけある。それは、この俺…………将軍に任じられているこのシンの指揮下に入り、もう一度、侵略者であるラ・ロシュエル王国と戦う事だ!」
魔法により強化されたシンの言葉は、サクラの咆哮に勝るとも劣らない音量で、野営地中に響き渡った。
(さぁ、どうなるか? サクラの強さを目の当たりにして、侯爵の仇をとろうと、襲い掛かって来るとは思えんが…………逃げ散られてしまっても困る…………というか、逃げられてしまったら失敗だ)
しばしの沈黙のあと、シンは今一度声を張り上げた。
「この場から逃げたきゃ逃げるがいい。だが、覚えて置け! 逃げた者は敵前逃亡罪として、侯爵のように何処に隠れようとも必ず処刑する!」




