聖戦 其の八 敗走
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ちょっと仕事で色々ありまして、次の更新はおそらくまた土日になってしまうと思います。
申し訳ありません。
「フェンブレン男爵、討ち死にの模様!」
「マーガン子爵、手負いにて後退!」
凶報が次々と本陣に届けられる。
いよいよこれはいかぬと、青ざめた顔で固まっている皇帝の元へと、老ハーゼが近付いたその時、
「陛下、シン将軍からの御言葉をお伝えいたします」
息を切らせながら本陣の天幕の中に転がり込んで来たのは、逃げ惑う味方と、それを追う敵の中を駆け抜けて来たヨハンであった。
髪を振り乱し、体のあちらこちらに手傷を負っているが、その両目は、必ずや果たさねばならない使命に燃えていた。
「此度の戦は、負け。しかしながら先の戦いでは帝国が勝ち、ここで退いても一勝一敗の五分。ここは速やかにケンブデン城まで退き、ケンブデン城に籠って敵を引き付け、敵が堪えきれずに退くのを待つべし、とのことです」
「陛下、御決断を! こうしている間にも、敵が目前へと迫って参りましょうぞ。ここはシンの言う通り、一度ケンブデン城まで退き、兵力の再編し、同城にてラ・ロシュエルと再戦なさいませ」
今まで半ば呆け気味だった皇帝の耳が、シンという名を聞いた途端に覚醒した。
そうだ、まだ余にはシンが居る。
それだけで、この逆境をも覆すことが出来るのだという気になって来る。
「…………あいわかった。このような事態、つまりは野戦で負けた時のことも、シンと幾度となく話し合い、対策を練っていたのに、余は…………」
これ以上の議論も感傷の時間も惜しいと、老ハーゼは皇帝の前に進み出て跪くと、改めて即時撤退を進言する。
「陛下、これにて臣はお別れに御座います。後の指揮は、ザンドロック卿が執りますゆえ…………最後に、一つだけ…………この本陣にある皇帝旗を賜りとうございまする」
「爺、何を言っておる? 爺も余と共にケンブデン城まで撤退せよ」
だが、その皇帝の言葉に対して、老ハーゼは目を瞑りながら首を横に振った。
「このままただ逃げては、後ろから敵に喰い付かれ、下手をすれば全滅の憂き目となりましょう。ここは臣が殿を務めますゆえ、陛下は速やかにお下がりくださいませ」
「馬鹿な! 爺、そなたを残して行けようか!」
皇帝が腰をかがめ、老ハーゼの肩に手を触れようとしたその時である。
老ハーゼの目が、くわと大きく見開いたかと思うと、天幕の外にまで聞こえるような大きな声で、皇帝を一喝した。
「この馬鹿ものめが!」
何年かぶりに聞く、老ハーゼの雷声。
皇帝の傳役だった老ハーゼは、出来が良いにも関わらず、斜に構える癖がある皇帝に対し、幾度となくこのような雷を落としたものである。
「よいですかな? これが最後の忠言となりましょう。よく耳をかっぽじってお聞き下され。陛下の双肩には、帝国臣民全ての命がかかっておりまする。ここで万が一にも、陛下が命を御落としにでもなれば、それは即ち、帝国の死に相違ありませぬ。聡明なる陛下ならば、後はもうすべておわかりで御座いましょう。ささ、いつまでも愚図愚図している間はありませぬ。陛下、この老臣に殿を御命じ下され」
「爺、余は、余は……………………わかった…………卿に殿を任せる……………………」
皇帝の目から、途切れることなく涙があふれ続ける。
帝室に生まれてより、実の親よりも長く共に過ごした傳役のヴァルター・フォン・ハーゼこそが、皇帝エルム・ヴィルヘルム・フォン・エルバーハルトの親といってもよい関係であった。
その親に向かって、死んで来いと命じなければならない、皇帝という業の深い立場に、胸は張り裂けんばかりであった。
「ザンドロック卿、後のことは卿に任せる。陛下を無事、ケンブデン城まで御守り参らせよ」
「お任せを! このザンドロック、身命に代えても陛下を無事に城まで御守り参らせまする」
ザンドロックが自らの胸を拳で叩いて誓うと、老ハーゼは齢七十を越えた老人とは思えぬような、機敏な身のこなしで立ち上がると、皇帝に一礼し、天幕を後にした。
その老ハーゼの後に続いたのは、本陣付きとして待機していたシュライッヒャー準男爵であった。
老ハーゼは、彼を見やり、その目を見て頷いた。
どういう魂胆かはわからぬが、その目には決死の覚悟を見出したからである。
シュライッヒャーとしては、この生還の見込みのない殿に志願することで、皇帝に対するシュライッヒャー準男爵家の忠誠を見せるつもりであった。
さらには、ここで自身が戦死すれば、遺された息子は皇帝に手厚く遇されるであろうとの計算もある。
他にも数家、殿を申し出る者たちが続き、急ぎ兵力の再編成が行われた。
その間にも、老ハーゼより後を託されたザンドロック子爵は、皇帝を伴い、自身が鍛え上げた自慢の魔法騎士団に直接皇帝を護らせつつ、本陣付きの遊兵として待機させていた、ヴァイツゼッカー子爵及び、ラングカイト男爵を基幹として残存兵力と、ヨハン、フェリスらを始めとする敗走して来た兵力を即座に再編成、秩序を保ちつつ速やかに撤退を開始した。
タイロンの丘の上の本陣には、未だ皇帝旗が風に靡いている。
そのタイロンの丘のの本陣を護るような形で、殿を務める老ハーゼ以下の将兵は防御陣を敷いた。
ーーー
一方、最前線で敵に囲まれながらも、何とか踏みとどまり続けていたシンはというと……
「将軍、最早限界は近いです。こちらはヨハン、フェリスの両将を欠き、さらには左右両翼とも総崩れ。我が前衛も敵に囲まれ身動き一つとれぬありさま。しかしながら、敵の攻勢が鈍いのは、将軍の武勇を恐れてのことでしょうなぁ。それがなければ、我ら前衛もとっくの昔に全面敗走しております」
前線で大剣を振り、敵に睨みを利かせるシンに、アロイスが現状を報告する。
最早限界は近いどころか、いつ崩壊してもおかしくは無い状況である。
「…………アロイス、すまんな…………貧乏くじを引かせちまって…………それで、いま現在どの程度、兵は生き残っている?」
アロイスは、このような状況であっても取り乱さず、それどころか、見た誰もが安心するような穏やかな笑顔さえ浮かべている。
「なんの、なんの。そうですなぁ、現在生き残っているの兵の数は、凡そ五千ほどでありましょうか」
シンが最初に預かった前衛軍の兵数は二万。
ヨハンとフェリスを撤退させたとしても、残った兵力は一万はいた。
それが二時間もせずに半減である。
倒しても倒しても、降って湧いたかのように次々と現れる敵兵を相手にするのは、シンであっても堪えるもの。
麾下の将兵たちは、帝国の敗北をその肌で感じ、援軍も望めぬ中で、一人、また一人、力尽き死んでいく。
それでもなお、秩序を維持し、戦続けているのは、シンが健在だからである。
数々の伝説じみた活躍をしてきた、帝国の若き英雄が倒れぬ限り、帝国は必ずや最後に勝利するだろうと信じているのだ。
「よーし、ここまでだな。アロイス、撤退の準備を」
「はっ、直ちに…………しかしながら、この状況からの撤退こそ至難の技かと…………」
シン率いる前衛軍は、その四方を敵に囲まれてしまっている。
その囲みを破り、背を見せながら後ろに下がるのは、どんな名将であっても不可能かと思われた。
「いいか、良く聞け。背中を見せながら後ろに下がれば、万が一にも生き残れはしないだろう。ここは、前面の敵を突破して、敵の本陣の目の前で左に進路を変えて離脱。今、敵の大多数は、崩れた左右両翼の兵を追うのと、本陣を攻める方に力を注いでいるはず。つまり今、正面こそが敵の兵力の最も少ない部分なのだ。そこを全力で突破するぞ!」
破天荒な命令。
普通は退却といえば後ろに下がるものである。
それを、シンは正面の敵を討ち破り、堂々と敵本陣の前を通過して退却すると言うのだ。
しかしながらこの状況で、冷静に考えると、この退却の仕方は理に適っている。
というよりも、最早、このシンの閃きに、全てを賭けざるを得ない状況であった。
こうしてシン率いる前衛軍の生き残りたちは、正面の敵に全ての力を注ぎこみ、包囲網を脱することに成功した。




