わだかまりと引っ掛かり
「そろそろか?」
「予定通りであれば、そろそろ国境に至る頃合いでしょう……変事を知らせる報は入っておりませんので、順調なのでしょう」
午前の政務を終えたガラント帝国皇帝ヴィルヘルム七世は、第二のプライベートルームと化している第二応接室で、宰相エドアルドと軽食を摘まんでいた。
「ロップ族が新たに説き伏せた、コール族の者の案内で山沿いを進むというが、本当に大丈夫であろうか?」
大丈夫かどうかと問われたエドアルドは、何をいまさらという顔をしながら、熱いお茶の入ったカップを手に取った。
そして、ふぅふぅと息を吹きかけて冷ましながら一口飲んでから、皇帝の下問に渋々ながら答える。
「大丈夫かどうかと申されましても、臣にはわかりかねますれば……第一、この計画自体が相当のリスクを承知の上でのものだったのでは? 臣はそれよりも、シン殿に全てをお話せずに送り出してしまった事の方が、気が狩りで御座いますが」
冬の弱々しい日差しが窓から差し込み、椅子に座った二人の影を長く伸ばす。
その陰を見るように皇帝は俯き、呟いた。
「……仕方がないではないか……全てを話せば、シンは行ってはくれぬかも知れない以上、ある程度の事を伏すのはやむを得ないではないか。大体、この計画はシンの発案によるもの。敵の正面兵力を一兵でも減らす為にとの策、そのためには側面からの亜人たちの支援が効果的なのだ」
「ですが、向こうに着いてみてから全てを知るのと、事前に知らされてしっかりと心構えをしてから赴いたのでは、大きく違いましょう」
エドアルドの言葉は皇帝の心に出来てしまった後ろめたさという傷口に、塩をすり込んだように沁みる。
その目に見えぬ痛みに耐えかねて、皇帝はそっと床へと視線を降ろす。
「余は国家の長であるぞ。であれば、私情よりも優先せねばならぬこともある。それにだ……余は行くなと、止めたのだぞ!」
「あれでは遠まわし過ぎて伝わらないでしょうな」
エドアルドの首を横に振りながらの間髪入れぬ言葉に、皇帝はぐっと呻いて押し黙る。
そんな皇帝の姿を見てエドアルドが懸念することはただ一つ。これが切っ掛けとなって、皇帝とシンとの間に亀裂が生じてしまうのではないのか? そしてそれは今、自分の目の前で不安げな表情で押し黙る主も、同様の不安を抱えていることであった。
「怒るだろうか?」
「怒りますとも。当然で御座いましょう」
元々色白な皇帝の顔は、今や透けてしまうのではないかと思うほどに青白く頼りない。
誠心誠意謝罪をすれば、きっと赦してくれますなどという、ありきたりな答えを皇帝は望んでいないことだけは、今ならば誰が見てもわかるだろう。
最近の政務にも精彩を欠くほどに、気に病んでいる姿を哀れに思わぬでもない。
だがこれは皇帝とシンの極めて個人的な繋がりにも関する問題であり、余人が決して立ち入る事が出来ない問題でもある。
「個人の友誼よりも、国家の大事をお取りになられたその姿は正しいかと……たとえこの一件で愛想を尽かされたとしても、戦が終わるまではシン殿の身を、帝国に繋ぎとめておかねばなりますまい」
押し黙り続ける皇帝を見て、これ以上の言葉は不要であると、エドアルドは少し冷めてしまったお茶に再び手を伸ばす。
第二応接室に訪れた長い静寂は、口に含んだ茶の味に一層の苦みを与え続けるのであった。
ーーー
帝国南西部から亜人地区へと向かったシンたちは、亜人地区側の国境沿いの小さな村で以降の道案内を務めるコール族の者たちと合流を果たした。
この五十家族ほどが暮らす小さな村で、シンたちは熱烈な歓迎を受けていた。
それもそのはず、この小さな村を襲った人攫いによって連れ去られた子供が、ラ・ロシュエル王国北部辺境区最北端の街であるル・ケルワの街で、奴隷として売られていたところを、シンが救い出し一時帝国内へ避難させ、後に帝国が無事に村へと送り届けていたのである。
辺境の寒村ゆえ、決して豪勢なもてなしではないが、真心こもったもてなしを受けて、シンたちは旅の疲れを心身ともに癒すことが出来た。
去り際にシンは、村長にもてなしの礼として金子を渡そうとするが、村長は頑としてそれを受取ろうとはしない。
「手厚い歓待に対する感謝のしるしとして受け取って欲しい。公務中ゆえに金子にて返礼をする無礼をお許し願いたい」
「とんでもございません。村の者たちを救って頂いた、あなたさまからお金を受け取ることは出来ません」
首を振って受け取りを拒否する村長の手をシンは取って、助け出してからも、すぐには親元に帰してやる事が出来ずに、不憫な思いをさせてしまった詫びもあるのだと、半ば無理やりに金子を押し付けた。
「それとな……自分がこの村に来た事は暫くの間は、内緒にして貰いたい。極秘の任務を授かっていてな……その口止め料でもあるのだ。この村での手厚いもてなしに感謝を。では、我々は先を急がねばならぬので、これにて失礼する」
シンたちは道案内役を務めるコール族の若者たちと共に、村を後にした。
「我々が普段使っている行商路を行きますが、なにぶん山間を通りますので上り下りが多くなります。それと道自体が、なるべく平坦なところを選んで作られたものでして、そのせいでここから一直線に獅子族の元へと向かう事が出来ません。少し遠回りになってしまうことをお許し下さい」
コール族の若者の説明に、シンはわかったと頷く。
コール族は山羊の瞳を持ち、頭頂部に一対の螺旋を描く角を持つ山岳少数民族である。
彼らは大陸を縦に走る巨大な山脈である通称、神々の屋根と呼ばれる山脈の麓で生活している。
その過酷な環境のせいか、コール族の者たちは皆健脚であり、山間を縫うようにして亜人地区のあちこちへと行商をすることで有名であった。
そんなコール族の案内の元、シンたちは山を登り降りし、時には巨大な渓谷の底を歩き、途中で村やコール族が設けた休憩地点で休みながら、獅子族の領地を目指して進んで行く。
帝国の国境を越えてから十日が過ぎ、やっと山道から平野部へと抜ける事が出来たシンたちは、道中に何事も無かったことを素直に喜んだ。
「あの一件以来どうも峡谷を通るのが嫌になっちまったぜ……」
ハーベイがそう呟くあの一件とは、ラ・ロシュエル王国北部辺境区にあるヴェルドーン峡谷でのキマイラとの遭遇戦のことであった。
「あそことは違い今回通った峡谷は、行商路として日々使われているから、ああいった化け物は生息していないだろう。だが、油断は禁物だぞ……」
そのキマイラに死の寸前まで追い込まれたシンもまた、峡谷というものに対しての苦手意識が芽生えていた。
もっとも、もう一度キマイラが現れたとしても、キマイラの弱点もわかっているので前回よりは上手く戦う自信はある。
「あんなお伽話や神話に出てくるような魔物が、そこいらにポンポンといるわけなかろうが。じゃが、シンの言う通り油断は禁物じゃな」
ゾルターンの言葉に一同は頷く。そのゾルターンを除いて、シンたちは見た目こそ若いものの、各地を旅して数々の強敵や戦場で戦い抜いてきた熟練冒険者である。
各自いまさら口に出さずとも十分に承知しているが、それでもなお注意を喚起し合うのが、ベテランのベテランたるゆえんであろう。
「ここからは平野部ですからご安心を。ここから、そうですねぇ……おそらくは皆さんの足を考えると三日ほどで着くと思います」
とうとうかと、シンの身体に気合いが漲り始める。
力比べに自分を名指しで指名した、獅子族の族長であるガンフーとは一体どのような男なのだろうか?
噂話を聞く限り、尋常の者ではなさそうである。
力比べねぇ……まぁ、下手な駆け引きで神経使うよりかは、俺向きではあるな……けど、何かが引っかかるんだよなぁ……
この時シンは、第六感ともいうべき何かに引っかかりのようなものを感じていた。
それが何であるのかまでは分からないまま、シンは三日後、ついに獅子族の族長と対面を果たした。
ご指摘、ブックマークありがとうございます! 感謝です!
急に人が辞めてしまい、仕事が……それと家の鍵を紛失してしまい、かなり凹んでおります。




