狼事件
魔道熱気球の初飛行より十日ほどが経った頃、帝国内である舌禍事件が発生した。
それがただの誹謗中傷の類であれば帝国史には残らなかったであろうが、その誹謗中傷の対象が事もあろうに皇族、そして皇帝へと連なるものとなれば不敬罪とみなされても仕方が無い。
さらにその誹謗中傷をしたのが、皇帝に近い中央貴族の子爵位を授かっている者であるとなると、さらに事は大きくなる。
事の起こりは、先の会議が発端といえば発端であった。
先の会議で、自分の派閥の伯爵二人に対して擁護もせずにだんまりを決め込んだルードシュタット侯爵の株は大きく下がった。
ルードシュタット侯爵には侯爵なりの言い分がある。その侯爵の言い分とは、自身が軍事に疎いがために、判断の付かない話に積極的に参加しなかったのだというものであったが、自派に属する伯爵二人を事実上見殺しにしたことは変わりない。
貴族は面子を重んじる。このまま求心力を失う事を恐れたルードシュタット侯爵は、大規模な晩餐会を催すことにした。
その晩餐会には、会議に参加できなかった子爵より下位の貴族たちも招かれている。
そこで改めて、先の会議での自分の言い分を自派の貴族たちに伝え、二人を擁護しなかったことについて悪意があったわけではない事を示そうというのだった。
また自身が軍事に疎い事を利用し、自派の貴族たちに軍事的な協力をもその場で取り付けてしまおうとの企みもあった。
一度協力を取り付けてしまえば、何かあった時に軍事的協力を拒否することが出来なくなるだろう。
侯爵の真の目的はそこにあった。もしも次にあのような事態に陥った場合、今度は中央貴族全体を巻き込んでしまえば、さしもの皇帝も折れるしかないのではないかとういう考えである。
さらにこの晩餐会において、自派の血判署名を行い連帯感を強めていくという目論見もあった。
ーーー
晩餐会という名を借りた決起集会的な集まりは、侯爵の私邸ではなくルードシュタット侯爵派のベルクホフマン子爵の館で行われた。
これは侯爵が自派の貴族の面子を立てた結果であった。これだけ大規模な晩餐会の会場ともなれば、選ばれた貴族の面子も立つというものである。
ベルクホフマン子爵が選ばれた理由の一つに、子爵が先の会議に参加していたことも挙げられる。
こうして先の会議に参加していた貴族を取りたててやる事で、自分は決して自派の貴族たちを軽んじてなどいないという意思表示でもある。
自身の居館が晩餐会の会場に選ばれたベルクホフマン子爵は、並み居る貴族たちの中から自分が選ばれたことで、得意の絶頂の中にあった。
自身で会場のセッティングにも細々と口を挟み、使用人たちにも来客に失礼がないようにと口を酸っぱくして言い付ける。
こうして侯爵主導の晩餐会が、帝都のベルクホフマン子爵邸にて華やかに行われた……
ーーー
「今晩は皆々様、我が家にお集まりいただきましたること、我が家末代までの名誉となりますことを厚く御礼申し上げまする。此度の晩餐会によって我々はより親密な仲となり、この後に訪れるどのような困難に対しても力を合わせて乗り越えて行こうではありませぬか!」
「然り! 我々の結束は大地の奥底に眠る金剛石よりも固く、ベスディーナ火山の溶岩よりも熱きものであると信じておる! 昨今、我ら帝国貴族の鼎の軽重を問われるがような出来事が続いておるが、ここで我らは団結し帝国貴族のなんたるかを広く世に示そうではないか!」
応と晩餐会に参じた貴族たちの声が上がる。そして給仕たちによってグラスが配られ、そのグラスの中に選りすぐりの高級ワインが注がれていく。
やがて全ての貴族に行き渡った頃合いを見て、晩餐会の会場の主であるベルクホフマンが乾杯の音頭を取る。
貴族たちは次々と酒杯を掲げながら乾杯を叫び、酒杯を傾けて高級ワインの深い味わいに舌鼓を打った。
晩餐会は帝国ではよくある立食形式で、貴族たちは料理を摘まみながら酒を飲み、互いの親睦を深めている。
当の舌禍事件は、宴も酣となった頃に起こった。
「皆さまは知っておりますかな? この度、第二皇子であるハインリッヒ殿下に小犬が送られたとか……何でも皇子に大層懐いているとか……やはり犬は犬同士気が合うのでしょうなぁ」
これ、と窘める声も上がるが、ベルクホフマン子爵の口は止まらない。
その後も第二皇子だけでなく、その生母である第二皇妃まで貶め始めた。
これは何ら深い意味があったわけではない。単に第一皇子であるアルベルト皇子の祖父であるルードシュタット侯爵に阿るものであった。
ベルクホフマンの阿諛追従について侯爵はさしたる感慨を抱くことはなく、寧ろそれを当然と受け止めて賛辞や同意を口にも態度にも表さなかった。
その事がベルクホフマンをさらにヒートアップさせる。彼は次々に第二皇子と第二皇妃を悪しざまに貶め、そしてついにはあろうことかその伴侶である皇帝までもを貶めたのだった。
流石に周囲の貴族も、調子に乗り過ぎたベルクホフマンに対し鼻白始め、次第に距離を置いて行くようになる。
だがそれでもベルクホフマンの口は止まらない。現皇帝であるヴィルヘルム七世は自分を、いや帝国貴族全体を軽んじているなどとのたまい始めた。
ここまで来ると最早、不敬罪と取られても言い逃れが出来ない。
だがベルクホフマンは、この晩餐会に参加している貴族は全てルードシュタット侯爵派であると疑っていなかったので、たとえこの場でどのような言葉を吐こうとも問題は無いと信じ切っていた。
やがて晩餐会は、ベルクホフマンの興奮とは逆に貴族たちの酔いと興奮は冷め切り、お開きとなる。
ーーー
翌日、この晩餐会の話の内容が皇帝へと伝わる。
ルードシュタット侯爵派の貴族たちしか参加していないはずの晩餐会の内容が何故漏れたのか?
それは、先の会議に先立って行ったシンたちとの会議において提案されたルードシュタット侯爵派の下位貴族をこちら側に寝変えさせるという工作が功を奏した結果がもたらしたものであった。
ルードシュタット侯爵の先の会議での不甲斐なさにより見切りを付けた貴族は二人。
一人はアルトーレ男爵、今一人はラムスデン準男爵という。彼らは最初はどちらの派閥にも付かない日和見主義者であったが、侯爵派の圧力が強まった事で止むを得ず加わっただけであり、特に侯爵に対して忠誠を誓うような間柄では無かった。
それが先の会議の話を聞いて、侯爵派のあまりのお粗末さに動揺を示したところを、皇帝は見逃さずに自派へと寝返らせたのであった。
「両名とも早速役にたったようだな……今後も侯爵に与する振りをし続けて、余に情報を提供するようにと伝えよ」
「はっ、直ちに……」
そう返答して面を上げた近臣が見たのは、怒気によって真っ赤に染まった恐るべき皇帝の顔であった。
その後、皇帝はその晩餐会に参加した複数の貴族と個別に面談した。
「ほぅ、すると卿はベルクホフマン子爵が催した晩餐会には出席したが、直ぐに帰ったので知らぬと申すのだな?」
「はっ、左様で御座います」
「なるほどなるほど……では、シャルム子爵の言っている事は嘘ということになるな。シャルム奴が申すには、卿は最後まで晩餐会の会場に残っていたと……」
「そ、それは、しゃ、シャルム卿のみ、見間違いでは……」
「だがグレーブスバッハ卿もジルバウアー卿も、卿が最後までいたと申して居るぞ」
追い詰められ進退窮まったハラー子爵は観念して全てを話す。
実のところ、レーブスバッハ男爵とジルバウアー準男爵もこの件について宮殿へと呼ばれてはいるが、この時はまだ別室にて待ち惚けを喰らわされたままであった。
つまりは皇帝のブラフであったのだが、ハラー子爵はそれにあっさりと引っかかったのであった。
ハラー子爵自身も、流石に先日の晩餐会のベルクホフマン子爵の言葉は行き過ぎていると思っていたし、あからさまな皇室批判に危うさを覚えた貴族が居ても、何らおかしくは無いとも思っていたのだ。
ハラー子爵は全てを諦め、せめてベルクホフマン家の巻き添えを食わないようにと自己保身に走る他なかった。
同じような手口で複数の貴族から証言を得た皇帝は、ベルクホフマン子爵の拘束を近臣へと命じた。
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