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帝国の剣  作者: 0343
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死闘、ヴェルドーン峡谷の魔獣


 峡谷に乾いた夏の風が吹き込み、砂埃を巻き上げる。

 その風には、微かではあるが滅多に訪れぬ人の匂いが含まれていた。

 峡谷の奥まで届いた風を受けた黒い影は、鼻先を風上へと向けてヒクヒクと動かすと、首を持ち上げて唸り声を上げた。

 その唸り声を聞いた、峡谷に住み着いている全ての生き物たちは、竦み、怯え、慌ててその姿を隠し、これから吹き荒れるであろう虐殺の嵐が過ぎ去るのを、息を潜め震えながらながら待ち続けた。

 風に含まれている人の匂い、更に龍馬と馬の匂いを嗅ぎつけた黒い影は、巨体を揺すりながら立ち上がる。

 一歩、また一歩と歩くたびに、過去の犠牲者の遺骨が踏み砕かれ、乾いた音を峡谷に響かせていく。

 黒い影は、巣穴の出入り口から頭を出すと、大きな雄叫びを上げ、一気に獲物の匂いのする方向へと駈け出した。

 巨体に似合わぬ俊敏さで、時には壁を蹴り、背に生えた蝙蝠のような翼を広げて、高所から地に向かって滑空する。

 久々の獲物の味を想像し、口元から涎が溢れて糸を引く。

 段々と峡谷に吹き荒ぶ風の中に含まれている獲物の匂いが強くなっていくと、黒い巨大な影は歓喜の雄叫びを上げた。

 その雄叫びは不思議な事に、三つの異なる生き物が発していた。だが、地を走り、空を駆ける影は、ただ一つのみ。

 鼻を鳴らし匂いを辿り、やがて少し開けた場所で休息している人間と馬たちを見つけると、恐れを知らぬ王者のように堂々と高みから翼を広げて空を駆け、退路を塞ぐように後ろに回り込みながら着地する。

 ブレーキ代わりに爪を地面に突き刺すと、派手な土埃を上げながら、大地を抉るような引っ掻き傷が強く残った。


「て、敵襲!」


 交代で休息していたシンたちに、馬車の後ろを見張っていたカイルの緊迫した声が届く。

 それとほぼ同時に、馬車の上を巨大な影が通り過ぎて、それは空中で器用に身を翻したかと思うと、轟音と土埃を巻き上げながら退路を塞ぐように着地した。


「エリーは馬車を、ハーベイとマーヤは龍馬を頼む! ゾルターンは後方より魔法で援護、ハンクはその護衛! レオナ、俺の援護を頼む!」


 矢継ぎ早の指示に対して、パーティのメンバーは口では無く、一分の無駄も無い動きで答える。

 シンは背の大剣を引き抜くと、馬車の後ろへと躍り出た。

 その左にレオナ、右にカイルが展開し、続いて後方にゾルターンとその援護をするハンクが武器を構え布陣する。

 

「エリー、何をもたもたしている! さっさと馬車を動かせ!」


 シンの怒声に、エリーの悲痛な叫びが上がった。


「駄目! この子たち怯えて足が竦んでいるのか、この場から一歩も動こうとしないの!」


 シンは大きく舌打ちすると、自分が囮になって敵を引き付けて馬車から引き離すように動くと告げ、土埃の中に居る巨大な影に向かって注意を引くべく雄叫びを上げた。

 派手に巻き上がっていた土埃が収まり、巨大な影の正体が陽の光に晒されると、全員がその異形に瞬きや呼吸を忘れる程に驚き、その身を固まらせた。

 人を丸呑みにするほどに大きな口を持つ獅子の右肩には竜の頭が、反対の左肩には山羊の頭が生えている。

 獅子はシンと同じアイスブルーの瞳を輝かせ、竜は血に染まったような真っ赤な瞳を燃え上がらせ、山羊は金の瞳を気怠そうに瞬かせていた。


「何だこいつは!」


 シンの首筋がチリチリとした違和感を発し、目の前の魔獣が強敵であることを告げた。


「い、いかん! キマイラじゃ! その強さは成竜に匹敵するとも言われておる強大な魔獣じゃ! シン、これは勝てぬ、退くぞ!」


 ゾルターンは、皺に埋もれがちな目を、今まで誰も見た事も無い程に大きく開きながら叫ぶ。

 その声に焦燥感と、若干の絶望感を感じ取ったシンは、背筋に冷たい汗が吹き出した。


「退きたいのは山々だが、そうはさせてくれないみたいだぜ。全員、覚悟を決めろ、奴をぶっ倒すぞ!」


 「応」とカイルとレオナの声を聞いたゾルターンは、一度目を瞑り、再び大きく見開き、助言する。


「シン、キマイラの頭は四つある。尻尾には毒蛇の頭部がある、噛まれると即座に死に至る程に強い毒だと聞き及んでおる。重々気を付けよ!」


 キマイラは獲物たちが、慌てふためき逃げ出さした所を嬲るつもりであったのだが、武器を構え立ち向かう姿勢を見せると、鼻を鳴らし苛立ちの声を上げた。

 それを見たシンは、いつぞやに迷宮で会った若い地竜の姿を思い出す。

 負けなし敵なしの、強者ゆえの驕りを感じたシンは、相手が本気になる前に一気に勝負を付けるべきと考え、ブーストの魔法を唱え、大剣の死の旋風を肩に担ぎ、右手にマナを集めながら、雄叫びと共にキマイラの向かって左わきを通り抜けるように駈け出した。

 キマイラはその六つの瞳を動かしただけでその巨体を大きく動かそうとはせず、ただ竜の頭がシンに対峙するようにスッと伸びて来た。

 竜は口を大きく開けて深くく息を吸い込む。喉元が膨れ上がり、膨れた喉の中が薄っすらと透け赤く色付いていく。

 その仕草を見たシンは、反射的に右手を上げ、まだ十分に集まっていないマナで炎弾を作り上げて竜の顎先へと放つ。

 咄嗟の事であったので、目測を誤った炎弾は竜の顎に当たる前に爆発し、竜に直接的な傷を負わせることが出来ない。だが、その爆風により竜の顎が持ち上がりその頭はあらぬ方向へと向けられた。

 爆風により持ち上がった竜の口から、勢いよく炎が吹き出し峡谷の空に炎のアーチを描いていく。

 頭上を走る竜の吐息ドラゴンブレスを見た全員に、未だかつてない戦慄が走った。

 直撃すれば骨すら残さず燃え尽きる事必定。傍を掠めるだけでも皮膚が焼け、熱せられた空気を吸えば肺が焼かれてしまうであろう。

 首から上だけとはいえ、紛れもない竜の強さを見せつけられたシンは、竦み震えて力が抜けそうになる両脚を激しく叱咤しながら、気合いと共にキマイラに斬りかかった。

 そのシンの気合いの声に、正気を取り戻したカイルたちは、慌てて武器を構えなおしシンを援護するべくそれぞれ行動を開始した。

 渾身の力を込めて振り下ろされた大剣を、キマイラはあざ笑うかのようにネコ科特有のしなやかな動きで躱し、おかえしとばかりに鋭い爪を出した前足で、じゃれつくように右に左にと薙ぎ払う。

 シンは額から吹き出す汗を撒き散らしながら、必死に避けつつ反撃の隙を伺うが、時折混ざる竜の噛みつきにより、隙を伺うどころか必死の防戦を強いられていく。

 カイルは援護するべく、キマイラの背後に回り込もうとするも、異様に長い尻尾の大蛇がとぐろを巻いて待ち構えており、鞭のように鋭い動きで牽制し、その動きを妨害されてしまう。

 レオナもまた、シンを援護しようとするたびに、竜の頭によってその動きを封じられていた。

 竜の首の動きは意外と大雑把で、隙を突いて愛剣の月光の刀身を叩き込むが、固い鱗に阻まれて弾かれてしまい、有効打を与えることが出来ずにいた。

 更には度々、竜の口の端から覗く炎の舌を見てドラゴンブレスを警戒しなければならず、レオナはシンが猛攻を受け続けている様を見守る他に手立てが無く、焦りのあまり噛みしめた唇から、血が滲み出し顎を伝っていった。

 シンと敵の距離が近いため、ゾルターンも魔法を迂闊に打つことが出来ない。

 それに先程からキマイラの動きを見るに、ただ普通に魔法を唱えただけであれば、軽やかな身のこなしで躱されてしまう可能性が大であった。

 ハンクも魔法に集中するゾルターンを放り出すわけには行かず、歯を食いしばりながらシンの奮闘を見守っている。 


「こ、こいつ、遊んでやがるな! こなくそが!」


 大剣に爪が掠る度に激しい火花が散り、その衝撃が腕に響いてその手を痺れさせていく。

 剣を取り落さないように力を込めるが、痺れが抜けきる前に次の攻撃が襲い掛かって来ては、痺れと疲労を蓄積させていく。

 不意にシンとキマイラの獅子の瞳が合う。獅子は、すぅと目を細め大きな口を緩ませた。

 ――――まるでネズミを嬲る猫そのものだな。すると、俺はネズミってわけか……見てろよ、追い詰められたネズミの強さを、その顔から余裕を吹き飛ばしてやるぜ!

 

 シンは痺れる両手に一層の力を込めると、ブーストの魔法の限界リミットをカットした。

 一気に体中を襲う負荷に、顔を顰めながら薙ぎ払って来た爪に合わせて大剣を振るった。

 今までにない大きな火花、そして弾かれたキマイラの左足。

 獅子の顔から余裕の笑みは消え、大きく見開いた青い目は驚愕に染まった。

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