姫巫女
神官や司祭たちが未だざわめく中、シンは本堂へと招かれて、そこの一室で姫巫女と称する教団幹部と会談することになった。
出された茶を啜りながらしばらく待つと、扉が開いて一人の老婆が入って来た。
姫巫女の御付の女官か何かだろうと思ったが、シンは立ち上がって名乗り、深く頭を下げる。
だが部屋には老婆一人が入って来ただけで、姫巫女とやらは一向に姿を現さない。
嫌な予感を感じながら恐る恐る面を上げると、シンの胸中を見透かしたかのような笑いを携えた老婆の顔があった。
「ひぇっひぇっひぇ、初めましてシン……あたしの名はエマ。そうさ坊や、察しの通り私が姫巫女さね。さぞ期待していたのだろうが、残念だったねぇ」
シンも男である。姫だの巫女だのと言う言葉に、期待していなかったと言えば嘘になる。
その期待を裏切られて目の前に突き付けられた現実の非情さに、シンは落胆の色を隠しきれずにいた。
「ひぇっひぇっひぇ、あたしは先々代皇帝フリードリヒ二世の姉さね。それに神に仕える前もその後も、一度たりとも男に体を預けたことのない未通女さね。何なら調べてみるかえ? ひぇっひぇっひぇ」
そう言いながらエマはローブの裾を捲ってみせる。
ついうっかりとその中身を想像してしまったシンは、顔を青ざめさせながら眉を顰め頬を痙攣させた。
確かに姫であり、純潔の巫女である。だが、姫と言うには気品よりも文字通り老獪さが表に現れすぎている気がしなくもない。
「大体のことはエル坊から聞いとるよ。それにしても神託ねぇ……神の御言葉を聞けるなんて長生きはするもんだねぇ。それで、創生教とラ・ロシュエルが仕掛けて来るんだろう? 力信教はハイメリクリウスとあたしで何とかしようじゃないか。あたしだってこの帝国で生まれ育ったんだ、帝国が他国に踏みにじられるのは見たかないからねぇ」
シンはその言葉に深く頭を下げる。
「一つ聞きたいが、よそ者のあんたが何故、ここまで帝国に肩入れするのさ? 根なし草の冒険者なんだろう? 一介の冒険者がここまで国に力添えをする理由は一体何さ?」
口元には相も変わらず微笑を浮かべているが、皺の奥から覗く鋭い眼光がシンを捕えて離さない。
この老婆には下手に言い繕うのは、更なる懐疑を抱かせるだけかも知れないと思ったシンは、一つ大きな深呼吸の後、己の思いを素直に話した。
「確かに俺は、根なし草の冒険者だ。だがこの国には、拾ってもらった義理がある」
「あんたは二度も帝国を救った。義理は果たしたんじゃないかい?」
「確かに義理は果たしたかも知れない。けれども帝国に深くかかわって、今度は情が湧いた」
「ほぅ、それは国に対してかえ? それともエル坊に対してかえ?」
「両方だ。この帝国は、今は無き俺の祖国に比べて粗野で野蛮で危険極まりない国だ。だが、人々の目には活力に満ちている。俺の祖国の人たちが失ってしまった強い生への渇望、未来を切り開こうとする強い意志。そんな人々を俺は出来る限り守りたい。まぁ、俺が出来る事なんてたかが知れてはいるんだが……」
「あの子は幸せ者さね。先々代や先代にもしあんたのような男が傍に居たならば、この国はもっと変わっていただろうねぇ……」
そう言ってエマはテーブルの上のお茶に口を付けた。
「で、具体的にはどうするんだい? 力信教と星導教が帝国に組してもまだ足りないだろう?」
シンはこの老婆を信に足ると感じて、計画の一部を話した。
「ひぇっひぇっひぇ、あんた、創生教に真っ向から喧嘩を売る気かい? こりゃ愉快痛快、やっぱり男はこうでなくっちゃねぇ……あたしがもう少し若けりゃ惚れちまってたかもねぇ、ひぇっひぇっひぇ」
美男子のエルの顔を思い出し、血筋が一緒なら若いころはさぞ美しかったんだろうなと、目の前で笑い転げる老婆を見てシンは思った。
咽る程に笑い転げたあと、お茶を含んで息を整えたエマは、懐から鈴を取り出して左右に振った。
ちりんちりんと涼しい音色が響き渡り、しばらくすると扉が開いて一人の少女が入って来た。
その少女の姿を見たシンは、思わず絶句する。
頭頂部に本来あるはずの無い器官がそびえ立ち、その背後にも本来無いものがゆらゆらと揺れている。
そう、それは紛うことなき耳と尻尾であった。
「シン、この子の名はマーヤ、あたしの護衛を務めてくれている。マーヤ」
エマがマーヤの名を呼び、首元に指を当てる仕草をすると、マーヤは首元に巻いていたスカーフを取り払った。
すらりとした美しい首には、不釣合いな傷がある。
その傷の意味を察してしまったシンは、悲しげに眼を伏せた。
「そうさ、この子は奴隷だった幼いころに声帯を切られてしまって喋ることが出来ない」
「奴隷にそのような酷い仕打ちをするのは、この帝国では違法なはずでは?」
「そうさ、帝国ではね。まぁ帝国でも例外はあるが、マーヤは南方の出で幼いころに人狩りによってラ・ロシュエルへと連れ去られて奴隷とされたのさね。あの国は帝国よりも亜人差別が酷くてね、他にも多数の亜人たちが無理やり奴隷とされているのさ。ラ・ロシュエルにあたしが赴いた際に、偶然にもマーヤのことが目に留まって半ば強引に買い取ったのさ。まぁ……偽善だわね」
そう自嘲気味に笑うエマに対して、マーヤは違うとばかりに激しく首を横に振った。
そんなマーヤを優しげに見るエマの目には主従ではなく、親子の情のようなものが見て取れる。
「マーヤ、良くお聞き……今からあたしの護衛の任を解きます。そしてこちらにいるシンに仕えなさい」
「え? ちょっと待ってくれ! 急に言われても困るんだが……それに、これから先は荒事続きで危険だ。彼女では足手まといに……おわっ!」
足手纏いと言われて激昂したのか、マーヤは猛然とシンに殴りかかって来た。
その初撃をのけぞりながらも辛うじて躱したシンは、そのパンチのスピードが尋常でないことに気付く。
シンは即座にブーストを発動させ、目にマナを集めて魔眼の力でマーヤの全身を視界に収めつつ、相手のマナの動きを読み取って行く。
――――やはりな……尋常じゃない速さの拳の秘密は、俺と同じブーストの魔法か!
種がわかれば落ち着いて対処するのみ。次々に繰り出される拳や蹴りを、シンは冷静に躱し、打ち払っていく。
自分の攻撃を易々といなされ続けたマーヤに焦りの表情が浮かび始め、それに伴って攻撃は無駄な力が入った大雑把なものへと変わっていく。
そんな二人をエマは、まるでじゃれ合っている子供たちを見るような眼差しでお茶を飲みながら静かに決着の時を待った。
攻撃を躱し続けたシンは、頃合いを見て腹部に掌底を叩き込む。
硬い鋼の様な筋肉の上に、女性特有の柔らかな感触を感じたシンは僅かではあるが気を緩ませてしまう。
その一瞬の隙をマーヤの目は見逃さなかった。最短距離で打ち込まれた拳は、シンの顎を捉えるかに思えた。
だが、シンによってその拳は打ち払われ体勢を崩して地面に倒れ込むと、力尽きたのか再び起き上がっては来なかった。
パチパチパチと拍手の音が室内に鳴り響く。
「お見事。まさかマーヤをこれほどまで簡単にあしらうとはねぇ……マーヤ、わかっただろう? この世にはお前さんより強い奴なんざ腐るほどにいるのさ。あたしにこのまま仕えていたって、お前さんは強くはなれないよ。お前さんはその力を使って仲間を助けたいんだろう? そこのシンがその道を示してくれる。さぁ、わかったらお行き」
マーヤはシンとエマを何度も見比べた後、美しい金の双眸から大粒の涙を溢しながら、エマに向かって跪いて拝礼する。
「シン、この子を連れて行ってあげてくれないかい? そんじょそこらの男どもより、よっぽど役に立つのは今のでわかっただろう? ラ・ロシュエルと喧嘩するなら尚更のことね……拳闘奴隷とされた恨みを晴らさせてやって欲しい」
――――拳闘奴隷……なるほど、あの鋭い拳打に合点がいった。未熟で持久力は無いが、ブーストの魔法が使えたために生き抜いて来れたのだろうな。
「わかった。マーヤ、だっけ? 本当にいいんだな? 俺と来るってことは血塗られた道を歩き続けることになるぞ?」
マーヤは袖で涙を拭う。赤く腫らした目には、シンの好きな強い決意の力に満ち溢れていた。
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