黒竜兜
「まったく、治癒魔法は本来この様な使い方はせぬのですぞ! 大体陛下は…………」
二日酔いを治癒士に文句を言われながら治してもらった二人は、朝から豪勢な食事にうんざりしていた。
「……何でこんなに豪勢なんだ?」
「昨日の祝宴の残りだ、皇帝だろうが何だろうが食べ物を粗末にしてはいかん」
「殊勝な心がけだ。しかし治癒魔法で二日酔いは治まったはずなのに食欲が湧かないんだが……」
「うむ、余も同じだ。シン、お主は肉が大好きであろう。余の分も分けてやろう」
「好きだけど今日はいらねぇよ、自分で喰え」
銀の皿に載っている何の動物かはわからない油こってりの厚切りステーキを前にして、二人の手は動きを止めた。
皿が貴金属の銀で出来ているのには理由があり、一部の毒に反応して色が変わるため毒殺を未然に防ぐことが出来るという。
だがこれは半分正解で半分間違っている。
地球の中世で毒殺に使われた毒のうちポピュラーな物にヒ素がある。
ヒ素は大量に摂取させれば即座に死に、少しずつ摂取させれば徐々に体を蝕み、病気のように見せかけて殺すことが出来るという便利な毒である。
銀の食器はこのヒ素に反応すると黒くなるので、毒を盛られているとわかるのだが、これはヒ素に反応しているのではなく、中世の精製技術では硫砒鉄鉱から純粋なヒ素を取り出すことが出来ずに、硫砒鉄鉱内の硫黄成分がヒ素に混じってしまって、この硫黄成分に反応して銀が変色していたのだ。
なので精製技術の進んだ現代の地球では、不純物の取り除かれたヒ素を盛られた料理を銀の食器では判別することは出来ない。
――――この世界はどうなのだろうか? 銀の食器を使っているのはヒ素を盛られたことがあるからだろうか? それとも俺の知らない毒で銀に反応するものがあるのだろうか?
シンが銀食器を見ながらしかめっ面をしているが、周りに控えている給仕たちは、朝からの重い食事に辟易しているのだと勘違いをしていた。
完全に勘違いというわけでは無かったが、シンはこの銀の皿を見て用心深さを見習わなくてはいけないと肝に命じていた。
「シン、明後日は近衛騎士養成学校の二次試験だが……今一度念を押させてもらうが、本当に大丈夫だろうな?」
そう問い掛ける皇帝のナイフとフォークも厚切りステーキを前にして、動きを完全に止めている。
「なにを心配することがあるんだ? 大丈夫だ、任せておけ。それよりエルも見に来るんだろ? そっちの方が心配だ、みんな緊張して試験どころじゃなくなるんじゃないかってな」
シンの握るナイフとフォークが遂にステーキに刺さり、切り分け始める。
中から湯気と共に肉汁がこれでもかと言わんばかりに溢れ、本来なら涎が止まらない状況なのだが、今日のシンは涎ではなく、胃液が喉にせり上がって来る感覚と戦い続けなければならなかった。
「その程度で緊張されても困るのだ。余や皇族、他国の使節などの重要人物の護衛も近衛の任務なのだからな」
シンが無表情に切り分けているステーキを、頬を引き攣らせながら眺めていた皇帝は意を決して自分もステーキを平らげるべく、ナイフとフォークを突き刺した。
「それもそうか。あいつ大丈夫かな……」
そう言いながらステーキを口に放り込む。
柔らかな食感と肉汁たっぷりのジューシーな味わいは、平時ならば大喜びなのだが二日酔いの頭痛を取り除かれただけの身体は、その喜びを全力で拒否しようとする。
「ああ、弟子の……確か……クラウスとか申したか……」
皇帝もステーキを口にするが、昨日の暴飲暴食で痛めつけられた身体は、治療士に吐き気を取り除かれたとはいえ回復してはおらず、肉体のみならず精神にも深いダメージを与えて来る。
「ああ、まぁいつもやっていることだし……待てよ……それじゃ試験にならないな、ハンデがいるか……」
「シン、くれぐれも冷静にな……自重してくれよ……」
二人ともペースを崩す事無くステーキを完食する。
途中で一休みでもすれば二度とステーキを口に運ぶことは出来なかったであろう。
「お代わりをご用意致しますか?」
給仕の声に二人は同時に反応した。
「要らぬ!」
「結構!」
そのあまりの勢いに給仕の女中は、ヒッと驚いて涙目になり、慌てて食器を下げ食堂を逃げるように出て行った。
「シン、お主の顔が怖いからであろう……」
「馬鹿言うな、お前の剣幕に驚いたんだろ。人のせいにするな!」
その後もしばらくの間、腹が落ち着くまで席を立つことも出来ず、不毛な言い争いを続けた。
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アルベルト皇子に会い散々戯れて皇子が疲れ眠ると、皇帝は政務に就き、シンは自宅に戻るため宮殿を後にする。
帰りは行きと同じくヨハンたち三人が護衛をするが、シンの脇に抱えられた兜を目にした途端、目つきが変わり鬼気迫るような様子で、シンを取り囲むようにして厳重に守りながら帰路に着く。
いつもお茶らけているフェリスでさえ、額に汗を滲ませ眼光鋭く道行く人々に気を付けている。
寡黙で実直な性格のアロイスは、見た目は普段とあまり変わりが無いが、良く見ればその肩が微かに震えていた。
ヨハンだけは冷静かと思えば、話す言葉がうわずっていて動揺しているのが丸わかりであった。
「へぇ、この兜そんなに凄い物なのか……」
シンの何気ない一言に、三人は噛みつくように反応した。
「こ、国宝ですぞ! だ、団長はこれがどれほどの価値を御持ちかご存じないのですか!」
「ヨハン……こ、声が高い……それに団長ではなく剣術指南殿だ」
アロイスがヨハンのわき腹を肘で叩きつつ窘めると、ヨハンも幾らか落ち着きを取り戻した。
「ふ、二人ともそんなことはどうでもいいから早く家に帰ろう。もう俺この緊張感に耐えられない」
フェリスが血走った目で周囲を見回しながら言うと、ヨハンとアロイスも無言で頷いた。
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「ただいま」
自宅の門扉をくぐり、玄関に向かう。
玄関の側では放し飼いにしている山羊がのんびりと草を食んでいた。
「ただいま帰ったぞ」
玄関の扉を開けると真っ先に出迎えて来たのは、ローザを抱いたハイデマリーだった。
「お、お帰りなさいませ、ご主人様」
ご主人様と言われたシンは一瞬何のことだかわからずに暫しの間、棒立ちになった。
「ハイデマリー、俺のことはシンと呼び捨てでいい。それより体の方はどうだ? ローザはどうだ? どれ、ローザおいで」
無造作に床に置こうとした兜を慌ててヨハンが受け止める。
フェリスとアロイスも呼吸を忘れて、食い入る様にヨハンが受け止めた兜に視線を注いだ。
「もう大丈夫です。ろ、ローザも元気になりました。ありがとうございます。で、ではこれからはシン様とお、お呼びさせて頂きます……」
「おう、そうしてくれ。ローザ、げんきでちゅか~」
ハイデマリーからローザを取り上げて、身体を揺らしてあやす。
頬に傷のある厳つい顔をした大男に、誰もが腕に抱いた赤ん坊が泣きだすと思うだろうが、何故かシンは赤ん坊に人気があり、抱かれた赤ん坊は皆きゃっきゃと全身で喜びを表すのだった。
笑い疲れて眠ってしまったローザをハイデマリーに返すと、いつの間にか玄関には全員が集まっていた。
弟子のカイルとクラウスはニヤニヤと笑っており、レオナとエリーは懸命に笑いを堪え震えていた。
「ちっ、ただいま帰ったぞ!」
「お、おかえりなさい……ぷっ、くくく」
レオナが必死に堪えながら返事をするのを、シンは頬を引き攣らせながら睨む。
「だ、団長、こ、これを!」
先程アロイスに注意されたにも関わらず、再びシンを団長と呼んだヨハンは、両手を震わせながら黒竜兜を差し出す。
これまたひょいと無造作に受け取った兜を見て、レオナがその精巧な作りを褒めだした。
「ああ、被り心地も良くて気に入った」
「業物と御見受けしますが、銘はあるのですか?」
「ああ、黒竜兜と言うらしい。陛下に先の戦の恩賞として頂いた」
「は? 今何とおっしゃいましたか?」
「ん? だからこの兜の銘は黒竜兜だと……」
その銘を聞いたレオナの顔色は見る見るうちに青くなり、持っていた陶器製の水差しを落としてしまう。
床に落ちる前にエリーが飛び込み、見事ダイビングキャッチをしたために割れずに済んだが、お気に入りの水差しを割られそうになったエリーは床に転がったまま、レオナに文句を言う。
「ちょっとレオナ! これ高かったんだからね、もうちょっと丁寧に扱ってよ!……レオナ? おーい、レオナ?」
レオナの異変にカイルとクラウスも気が付き、どうしようかと二人は目を見合わせた。
「こ、こ、こここここここ」
「なんだレオナ、鶏の真似か?」
シンが茶化すが、その言葉はレオナの耳に届いていない。
次の瞬間、レオナの絶叫が家の中を駆け巡った。
「こここ、こ、国宝じゃないですかーーーーーーーーーーーーーーー!」
やばい、もう寝ないと……ついつい夜更かしちゃったんだぜ。




