ブリギッタ
日暮れ時の帝都の大通りには、家路に着く人々が溢れ、その人々を歓楽街へと呼び込む客引きが大声を張り上げている。
シンは道行く人々に乳母となってくれる人に心当たりがないか問うが、そう都合よく見つかるはずも無かった。
ある男が、それなら山羊を買ったらどうだ? と言うので詳しく聞くと、地方では母乳だけでなく山羊の乳も与えることがあると言う。
哺乳瓶はこの世界には無いが、それに近い物は存在する。
革袋の先が手袋の指の部分のような形をしていて先端に小さな穴が開いている、言わば皮製の哺乳瓶があると言うのだ。
このまま乳母を探して時間を浪費するならばと、考えを切り替えて山羊とその哺乳器具を買いに行くことにし、人の波とは逆の方向へもうすぐにでも閉まってしまうやも知れない商業区へと駈け出して行く。
幾つかの商店を慌ただしく訪れ、目的の山羊と哺乳器具を探すが扱っている店が見つからない。
だが、商人たちはシンの顔を知っており、国を救った英雄の役に立つべく商人同士の情報網を使って、山羊と哺乳器具を探してくれた。
小一時間ほどで山羊と哺乳器具は揃い、シンは商人達に感謝して相場の倍の値段でそれらを買うと、山羊を引っ張って慌ただしく帰路に着く。
歩みの遅い山羊を急かしながら家に戻ると、カイルが既に戻っており中を覗くと妙齢の夫人が赤子に乳を含ませていた。
「カイル、でかした! で、あの方はどなたか? 出来れば母親の乳が出るまで通ってもらいたいのだが……」
「師匠、その山羊は? あ、そうか母乳の代わりに……あの赤ちゃん、かなり弱っているみたいで中々お乳を吸う事が出来なかったんですよ。でももう大丈夫みたいです、お乳を飲んだら元気が出てきたみたいで」
ホッとしながら山羊を庭に連れて行くと、山羊を餌だと思ったのか厩舎から勢い良く二頭の龍馬が飛び出してくる。
怯えた山羊を背後に隠し、龍馬のサクラとシュヴァルツシャッテンの前に立ちふさがり、餌では無いことを話す。
なおもシンの後ろを覗き込もうとするサクラの頭に拳骨を落とし、叱りつけると二頭は渋々といった感じで厩舎に引き上げて行った。
龍馬の居る裏庭に山羊を離すことに一抹の不安を感じたシンは、念のためにと裏庭では無く玄関前の中庭で山羊を飼うことにし、今日の所は玄関そばの木に縄を掛けて様子をみることにした。
シンが戻ると長い時間を掛けた授乳が終わり、女性が手慣れた手つきで赤子の背をリズムよく叩いてゲップをさせている。
シンはその女性に礼を述べ、しばらくの間通ってくれないか交渉し、承諾を得るとその手に金貨を数枚握らせた。
女性は驚き、こんなには頂けないと返そうとするがシンはその手を押しとどめ、急なことであったうえに、しばらく通って貰うのだからと突っ返す。
この女性の名はベティナと言い、カイルとクラウスがよく冷やかしに行く鍛冶屋の主人の妻で、二月ほど前に男の子を出産したとのことであった。
シンは何度も礼を述べながら門外まで送り、その先は弟子二人に家まで送るように言い付けると、赤子の様子とその母親であろう少女の様子を見るために家に戻った。
少女はスープを何度もおかわりし、食べている間にエリーが爪が割れ剥がれ落ち、皮が剥けて血だらけの足に回復魔法を掛けて治療していく。
少女は腹を満たした後で我に返り、シンの姿を見ると床に這いつくばって礼を言った。
「立ちなさい、君には色々と聞きたいことがある。エリー、レオナと交代して赤ん坊を見といてくれ」
シンにしては出来る限り優しく言ったのだが、少女はなおも這いつくばり震えている。
彼方此方駆けずり回って、いささかの疲労感に包まれつつあるシンは、これ以上まどろっこしいやり取りをする気にはなれず、少女の背後に回ると脇に手を入れて持ち上げ、強引に椅子に座らせた。
レオナがお茶を煎れて配り終えると、シンは少女に自分の名前を告げた後、何処の誰なのかを問うた。
少女は何度かシンを見ては俯くを繰り返した後、ゆっくりと自分の名前と何処から来たのか話し始めた。
「わ、私の名前はブリギッタと言います。…………ルードビッヒ領から来ました………」
ルードビッヒの名が出た瞬間、レオナの顔に影が落ち目つきが一気に険しくなる。
それはシンも同様で、心中穏やかならず、目の前のブリギッタと名乗る少女に警戒心を抱いた。
「それで、ブリギッタさん。まず聞きたいのはあの赤ん坊はあなたのお子さんですか?」
自分の問いに頷くのを見て、シンはやるせない気持ちになった。
目の前にいるブリギッタは薄汚れてはいるが顔つきを見るに、カイルやクラウスよりも年下であると思われた。
――――この世界ではこれが普通なのだろうか? どうしても日本の常識と比べてしまい、そのギャップに慣れることが出来ない。先程持ち上げた時も驚くほど軽かったが、この身長と身体つきでよく子供を産めたものだ。
「単刀直入に聞こう。父親の名は?」
シンとレオナの目つきが変わったのを見て、ブリギッタは怯え俯き震えだす。
しばらく待つと意を決したように、小さな声で父親の名を告げた。
「る、ルードビッヒ男爵です……」
想像通りの答えが返って来てシンは大きなため息をついた。
横に座っているレオナは怒りのせいで顔に朱が差し、机の下で握られている両の拳は力の込め過ぎで真っ白になっている。
シンはレオナの背を優しく撫でて、宥め落ち着かせようとする。
「あの赤ん坊は男児か、女児か? どっちだ? 答えによってはかなり拙いことになるな」
「女児でした……」
力なく項垂れながらレオナが呟く。
その答えを聞き、ホッと胸を撫で下ろしたシンは更に詳しい話を聞きだそうとする。
「まず何があったか、どうして帝都に来たのか、どうしてレオナを探していたのか。全部隠さず話してくれ。大丈夫だ、悪いようにはしないから安心していい」
シンがそう言ってぎこちない笑顔を浮かべて見るが、少女は俯いたままゆっくりと事の最初から話し出した。
「わ、私は孤児で、教団の運営する孤児院で育ちました……」
ブリギッタはルードビッヒ男爵領を通る街道沿いの街、ミッセンの教団の運営する孤児院の前に産れたままの姿で捨てられていたと言う。
孤児院に拾われてそこで育ち、十三歳の時に偶々視察に訪れた男爵の目に留まって侍女として屋敷に奉公に行くことになった。
侍女とは名目であり、男爵は最初からブリギッタの身体目当てで屋敷に連れ帰ったのだ。
同じような境遇の少女が屋敷には幾人もいて、夜な夜な男爵の慰み者にされていたが、その中でブリギッタだけが身籠り、子を産んだ。
そこまでの話を聞いたシンとレオナは怒りに顔をゆがませ、奥歯をギリギリと噛みしめ堪える。
子を孕んだ後は男爵の興味は一気に薄れ、屋敷から追い出されて傍に立つ狭い小屋のような所で生活をさせられたと言う。
以前に聞いたレオナの話と同じだと気付き、更なる怒りが込み上げて来るが、男爵は先の戦で討ち取られ首を晒されており、怒りのぶつけ場所はもうどこにもない。
そしていくらかの月日が流れ、先の戦で男爵が死ぬと領地に残った家来たちは、男爵の家族を残して我先にと逃げ出した。
男爵はその行動からわかるように、悪徳貴族そのものを体現したかのような統治を行っており、民衆の深い恨みを買っていた。
男爵家に仕えていた者たちは、民衆による復讐を恐れて蜘蛛の子を散らすように逃げるしかない。
のうのうと残っていれば、民衆の復讐に巻き込まれて命を落とす事は目に見えている。
ブリギッタも逃げざるを得ない。しかもブリギッタは男爵の子を産み育てている。
好きで仕え、好きで子を産んだわけではないが、復讐に猛り狂う民衆はブリギッタの言に耳を貸すことはないだろう。
身の危険を感じると、着の身着のまま僅かな金を持って、与えられていた小屋を飛び出した。
そこまでの話を聞くと、シンは一度手でブリギッタの話を遮った。
「おい、お前たち! 盗み聞きとは失礼にも程があるぞ、出て来い!」
シンが扉の外に向かって怒りを孕んだ大声を上げると、バツの悪そうな顔をした三人が部屋の中に入って来た。
「お前たちも座れ、この家に居てあの赤子を見てしまったからには、隠し通すことは出来ん。いいかよく聞け、今日の事は他言無用。迂闊に喋ればそこのブリギッタも赤ん坊も、そしてレオナも危険に晒されると思え。いいな?」
戦いの場で見せるような真剣な表情のシンを見た三人は、ゴクリと生唾を飲み込んだ後、首を縦に振った。
強烈な寒さに震えております。




