第37話 心から素晴らしい妻だと思っています
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公演が終了したのち、二人は劇場を退出すると再び馬車へと乗車し、それから十分ほどで馬車は豪奢な建物の前へと到着した。
停車後、ソフィアはジークハルトのエスコートでスムーズに下車をしたのだった。
現在は十九時を過ぎたところであり、辺りはすっかり暗くなり魔法灯が周囲を照らしている。
「それでは行こうか」
「は、はい……!」
先ほど、ジークハルトからこれからレストランで食事を摂りに行くと伝えられたのだが、目的地は想像以上に豪奢な建物であり周囲には高貴な雰囲気がより高まっているように感じソフィアは緊張感を抱いた。
加えて、ジークハルトが腕を差し出したのでソフィアは固まるが、意識をして彼の顔を見ると柔らかい表情をしているので心が少しずつほぐれてくるように感じ、遠慮がちにジークハルトの腕に自身の手を添える。
(うう、や、やっぱり緊張します……‼︎)
ぎこちない動きで動き出すが、ジークハルトはソフィアの歩く速度に合わせて動いてくれた。
(だ、旦那様。わたくしの動きに合わせてくださっているのですね……! 恐縮ですがお優しいお心遣いをしていただき、わたくしは……幸せ者です!)
そして、正面ロビーから魔力で起動するエレベータに乗り込み、三階で降りると件のレストランへと入店する。
すると、壮年の男性が二人を出迎えた。
「ようこそおいでくださいました。グラッセ公爵閣下、奥様。特別室をご用意しておりますので、こちらへどうぞ」
「ああ、頼む」
軽やかな動きで自身を支配人だと紹介した男性のあとをついて行き、店内の中央をジークハルトと二人で歩いていると、ソフィアの視界に既視感を持った人影が映った。
「なぜ我らが入れないんだ!」
「支配人を呼びなさい!」
特別室と書かれた部屋の前で騒ぎ立てている四人の男女を一目見ると、ソフィアは身体を固めた。
「エリオン男爵様。何度も申し上げているとおり、こちらは予約席となりますので、男爵様には別の個室へとご案内をさせていただきます」
「何を言っているのだ! 我らがなぜこの店で二番目の部屋になど通されなければならぬのだ‼︎」
目前の声を荒げている銀色の髪の男性のことを、ソフィアはよく知っていた。
尤も、これまでの人生で彼と会話をしたことは記憶をする限り、片手で数えられるくらいなのだが。
──父親であるのにも関わらず。
「お……とう……様……」
精一杯声を絞り出したが、消え入るような掠れた声になり、目線の先で今もなおエリオン男爵は怒声を上げているので、どうやら彼はソフィアの存在に気がついていないようだ。
ソフィアのジークハルトの腕に掴まる手が震え、力も抜けてきたので今にも離してしまいそうだった。
「ソフィア。大丈夫か?」
ジークハルトの力強い声が耳の奥に響き、パッと顔を上げると、彼の強い瞳が目に映った。
「……はい。旦那様」
ジークハルトの声を聞いたからか、不思議と心が静かな水面のように落ち着きを取り戻してきたように感じる。
深呼吸をすると、呆れたことに今もなお怒声を上げている父親の元へ意を決して近づこうと一歩を踏み出す──が、ジークハルトがソフィアを庇うようにして先に前へと進み出たので、彼女はその場に留まった。
「エリオン男爵。久しいな」
ジークハルトのよく通る低い声に反応したのか、男爵とその家族らは一斉にジークハルトの方に視線を向けた。
「グラッセ公爵閣下! なぜ閣下がこちらに⁉︎」
「私は妻と食事に来たのだ。それよりも、男爵はここには何用で来たのだ」
「わ、私も、家族と食事をと思いまして」
「そうか。だが、そちらの部屋は我々が前もって予約をしていた部屋だ。悪いが男爵は別室に移ってくれないか」
「はい! 速やかに移ります!」
そう言って、エリオン男爵は後方で様子を見守るソフィアの存在には全く気がつく様子もなく、彼の連れであるソフィアの母親らに何かを伝えてこの場を立ち去ろうとした。
(やはり、わたくしはどこまでもいない存在のように扱われるのですね。先ほど旦那様が『妻と食事に来た』と仰ったのに、お父様はわたくしが近くにいるかもしれないとお考えになることはないのですから)
分かってはいたが、それでも改めて「いないものとして扱われている」と自覚をしてしまうと辛いものがあった。
現在、ソフィアが享受することができている幸せはあくまで期間限定の仮初めのものだ。
だから、ソフィアには心の拠り所にできるようなものは本来はないのだと思った。
(わたくしは、誰かに頼って生きていくことは許されない身の上だと改めて気付かされました。……旦那様にご迷惑をおかけしたくありませんし、この場ではこのままいない存在のように振る舞った方が賢明なのかもしれません)
ソフィアは心に鈍い痛みを感じたが、それでも今は気にせず空気のように気配を消すことに徹した。
そう息を潜ませていると、突然高い声が響く。
「グラッセ公爵閣下。お会いすることが叶い光栄です」
髪を後頭部に綺麗に纏めて、上品な仕草でカーテシーをしたのはソフィアの姉のリナである。
ソフィアの鼓動が、嫌な音を立てて強く跳ねた。
思考はほぼ停止状態なのに、本能的な何かが「危険」を報せているように感じた。
「ああ。君のことは知っている」
「まあ、嬉しい! わたくしのことを存じていただいておりましたのですね!」
ソフィアは、そっと目を閉じた。
(お姉様は、このような表情をする方だったのですね……)
実家で、ソフィアが姉のリナにいつも向けられていたのは虚無的、もしくは拒絶の視線だった。
あのような生き生きとした瞳を姉から向けられたことなど、これまでただの一度もなかった。
(お姉様は旦那様に……好意を持っているのでしょうか……)
リナがジークハルトに対して好意を持っている理由は分からないが、その事実は彼女の様子から漠然と分かってしまうのだ。
(そうなのだとしたら……、旦那様はお姉様の好意をどのように、……お受けになるのでしょうか……)
考えると、まるで鋭利な刃物で身体中を害されたように感じ、今すぐこの場から立ち去りたい衝動に駆られた。
無意識に一歩後退ると、履いているヒールの音がカツンと周囲に響き、一同が一斉にソフィアの方に視線を移した。
(ま、まずいです。それにしても、家族の皆さんにこのように注目されることなんて生まれて初めてではないでしょうか……)
ソフィアは、ギュッと手のひらを握り締めた。
「とても綺麗ね。ドレスが」
「……ええ。あの子は、本来あのようなドレスを着れるような立場の子ではないのです」
ソフィアの母親のマヤが、静かにピシャリと言い放ったのでソフィアの胸がズキリと痛む。
「なぜ、あれがここにいるのだ」
エリオン男爵が悲鳴のような声を上げると、マヤとリナが互いに顔を見合わせて冷笑を浮かべた。
最初は意表を突かれたような表情をしていたが、次第に刺すような、まるで敵を見るかの如く鋭利な視線をソフィアは一身に受ける。
(わたくしは、これまで実家ではいない者として扱われていたはずですが、本当はこのような視線を向けるくらい悪意を持たれていたのでしょうか……)
無関心だったはずなのに、その実、家族は自分のことを心から憎んでいたのかもしれない。
もしそうなのだとしたら、むしろお互いの平穏のために自分はいない者として扱われてしまったのだろうか……。
──姉弟の中で、唯一魔力を持って生まれなかったから。
「公爵閣下は、とても慈悲深くいらっしゃるのですね。あのような者にさえ慈悲をお与えになるとは」
「流石でございますわ」
エリオン男爵とリナが次々とジークハルトを褒め称え、ソフィアは心臓を鷲掴みにされたような鈍い痛みを覚えた。
ここから、消えてなくなってしまいたい。
ネガティブな思考で支配されそうになりかけたその時、ジークハルトが真っ直ぐにソフィアの元へ歩みを寄せて彼女の手を取った。
「私は、ソフィアを心から素晴らしい妻だと思っています」
「‼︎」
そう言って、ジークハルトはソフィアの肩を自身に抱き寄せた。
「エリオン男爵。あなたのタウンハウスに伺いたいと、あなた宛に何度も書簡を差し上げたはずだ。具体的な返事をいただけないようであれば、後日あなた方のタウンハウスへと強制的に訪ねることになるが、よいな」
「……はい」
そこまでジークハルトが言い切ると、エリオン男爵は他の家族を促して「失礼する」と言い残してその場を脱兎の如く去って行った。
母親のマヤのソフィアに対して向ける瞳は虚無だったが、姉は始終悔しそうに下唇を噛み鋭い視線を投げかけているので、ソフィアは恐ろしさから全身に鳥肌が立つのを感じた。
「大丈夫か」
瞬間、ジークハルトが再び身体を引き寄せ彼の胸に埋まる形になる。
それを受けてなのか、残りの家族もエリオン男爵のあとを追うように立ち去って行った。
このようなことは、先ほどまでであれば大混乱を起こしていただろうが今はジークハルトの温もりが心地よく、ソフィアはもう少しこのままでいさせて欲しいと思ったのだった。
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