第34話 お飾り妻からの解放
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ソフィアの手を取ったジークハルトが仕立て屋「マーガレット・クーチュリエ」の扉を開くと、途端に心地のよいドアベルの音が鳴り響いた。
ソフィアは、仕立て屋に足を踏み入れるのは初めてなので緊張と期待で胸がいっぱいになるが、自分の手を握るジークハルトの手の温もりが現実と感じさせてくれ気をしっかりと保つことができた。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました、グラッセ公爵閣下、奥様」
「ああ、今日はよろしく頼む」
「はい。公爵閣下におかれましては、弊店をご指名いただきまして誠にありがとうございます。すでに準備は万端でございます」
壮年の男性は、ジークハルトに対して辞儀をしたあと、改めてソフィアに向き直った。
「初めまして、奥様。私は弊店の支配人を務めております、ケリー・ジョーンズと申します。以後お見知り置きを」
今までこのような丁寧な挨拶を先んじてされたことはほとんどなかったので、ソフィアは胸が熱くなり身体を震わせるが、何とか感動で裏返りそうになった声を必死に抑えた。
「初めまして、ジョーンズ支配人。わたくしはソフィア・グラッセと申します。こちらこそよろしくお願いいたします」
ソフィアがスカートの両方の裾を握ってカーテシーをすると、次いでケリーも辞儀をして返した。
そして、挨拶が終わったことで安堵し少し心に余裕ができたので、ソフィアは店内を見渡すことができたのだった。
すると、店内には店員と思しき男女が合計五名いることが確認できたが、客は誰一人いないことが分かった。
(たまたま、今の時間はお客様はいらっしゃらないのでしょうか?)
そう疑問を抱いていると、ハツラツとした表情の女性がソフィアの目前まで近づきスッと辞儀をする。
「グラッセ公爵夫人。こちらは弊店の筆頭デザイナーのアン・フォードでございます。本日、夫人の担当をさせていただきます」
ケリーが紹介をした女性は、綺麗な仕草で辞儀をした。
なぜ顔を上げないのだろうと疑問に思っていると、ふとソフィアが指示を出すまで待っているのだと思い当たる。
お飾りとはいえ、現状ではソフィアは公爵家の夫人である。
階級制度がある以上、労働者階級の彼らが先に声を掛けることは許されていないのだ。
「お顔を上げてください、フォードさん。本日はよろしくお願いいたします」
そう声を掛けると、アンはゆっくりと優雅な仕草で身体を起こし、ニッコリと微笑んだ。
「グラッセ夫人。本日はどうぞよろしくお願いいたします」
「はい。こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」
それから、ソフィアとジークハルトは二階の特別室へと案内され、ドレスの選定が始まった。
ソフィアはすぐに試着室に通され手際よく採寸をされると、早速ドレス選びの過程に入る。
まず、完全特注のドレスを季節や用途に合わせて三着仕立てることになったのだが、アンの質問に答えていると思いのほかスムーズにことが進んでいった。
「それでは、こちらのデザインで制作させていただきます。現在は社交界シーズンではありますが、弊店は生地などの在庫は充分にありますので問題はございません」
「そうか」
「はい。少なくともシーズン中の二ヶ月以内にはいずれも仕立て終わることが可能かと思います」
「了解した。それならば安心だな」
ジークハルトは口元を緩めて目を細め、その表情にソフィアはドキリとする。
(長時間付き合わせてしまい申し訳ないと思っていたのですが、も、もしや旦那様。今ほ、微笑まれたのでは……⁉︎)
思わぬジークハルトの表情にドキリとしていると、ソフィアの様子に気がついたのかジークハルトがこちらの方に視線を向けてコホンと咳払いをした。
すると、これまで傍に控えていたアンやテレサが辞儀をして退室していく。
何かの準備のために退室したのだろうか。
「それでは、次は君の普段使いのドレスの選定を行うつもりだが、疲れていないか?」
「? ふ、普段使いですか?」
「現在、君が屋敷で着ているドレスは私の姉が着ていたものを直したものだ。それをこれからも着てもらうのは流石に申し訳ない。ただ、直ぐに使用するためには特注したものでなく、既製品を直すことになるのだが、構わないか?」
「‼︎ い、いえいえいえ、そ、そんな、お飾り妻の、わ、わたくしなどが、そんな滅相もありません‼︎」
もの凄く目を泳がせて取り乱すソフィアを気にせず、ジークハルトは彼女の方へと一歩踏み出した。
「君は、普段から我が家のために尽力してくれている。それに、以前に報酬を支払うと言ったはずだ」
「! そ、そうでございました! ですが、やはりわたくしはお飾り妻の身ですし、お仕立ていただく三着のドレスのみでも、わたくしには過分で身に余りますので……!」
ソフィアは、これまでリサイクル品のドレスしか着たことがなかったので、新品の、それも特別に自分のために仕立てたドレスなどこれまでの人生で初めてであった。
いくら報酬とは言え、分不相応だと思い非常に申し訳ない心持ちだったが、ジークハルトの厚意を思うとどうにも無下に断る気持ちにはなれなかった。
だが、普段使いのドレスとなると話は変わってくる。
何しろ、屋敷のソフィアの私室のワードローブには彼の姉が着ていたドレスが何着も掛けられているのだ。
そのドレスは流行こそ違えど、それでも今着ても遜色ないし、むしろそれらも自分には贅沢だとソフィアは考えていた。
そう考えを巡らせているソフィアを知ってか知らずか、ジークハルトは一歩ソフィアの方へと踏み出して、そっと彼女の髪を撫でた。
(……⁉︎ ⁉︎ ⁉︎)
途端に、ソフィアの思考がパンクする。
(だ、旦那様⁉︎ も、もしや、わ、わたくしの髪に何かついているのでしょうか⁉︎)
ドキドキと鼓動が波打ち、両頬が熱くなるのを感じながら、ソフィアはどうにか腰が砕けるところを踏ん張った。
「俺は、もう君がお飾りの役目を担う必要はないと考えている」
(⁉︎ お、俺呼び⁉︎ ふ、普段は私だったはずですが……⁉︎)
ますます思考がパンクするが、ジークハルトが「俺」のあとに言った言葉が気に掛かり、何とか気を振り絞った。
「で、ですが、わ、わたくしは、一年間の契約結婚の妻ですし、は、始めからあくまでも名義上妻なだけで公爵家の夫人としての役割は担わないということだったのでは……」
契約結婚であることに加えて、「愛することはない」と面と向かって言われたときに、自分はあくまでこの公爵家ではただ「妻がいるという事実を立証するための存在」だと認識したのだが、それは違ったのだろうか。
「……正直に打ち明けると、始めはそのつもりだった。俺は君に体裁だけのお飾り妻を求めた。だが君は違った。君はいつも誠実に俺と向き合ってくれたんだ。そんな君をこれ以上お飾りなどにさせておけない」
(お飾りに、しない……)
ジークハルトの言葉を何度も反芻させて、何とか飲み込むと混乱した思考が少し落ち着いてくるようだった。
「それは……とても嬉しいです。わたくしには身に余る光栄だと思います……」
言ったあと胸が熱くなり涙も込み上げてきた。今すぐこの喜びを誰かに伝えたいと思うほど嬉しい。
だが、あることが過ると、その喜びはあくまでも自分の中で完結させなければならないとも思う。
「ソフィア」
「旦那様。……でしたら、わたくしは契約期間が終了するまで、公の場でも妻として振る舞ってもよろしいのですね……」
先日商会に赴いた際や、今日のように共に出掛けた際に周囲の者に「奥様」と呼ばれるたびに心のどこかに罪悪感が湧き上がっていたのだが、これからはもうそれを気にしなくてもよいのだろうか。
「無論だ。だが、ソフィア。契約期間のことだが……」
ジークハルトが何かを言い掛けた瞬間、扉がノックされた。
「旦那様、奥様。一階の準備が整ったそうです」
二人は反射的にセバスの声の方に視線を向けて、一つ間を置いて肩を落とした。
「ああ、了承した。すぐに向かう」
「かしこまりました」
これから下の階に移動しなければ。
そう思い小さく息を吐きだすと、どうにか高鳴る鼓動を抑えることができた。
「それでは、……行こうか」
そう言って、ジークハルトは口元を綻ばせて微笑みそっとソフィアの手を取った。
「⁉︎ ⁉︎ ⁉︎」
ソフィアは、目を瞬かせ徐々に思考は固まっていくが、ジークハルトの温もりがとても心地よく、気がついたら自然な流れでジークハルトと共に歩き出していたのだった。




