八 谷淵ノリオの場合 二
谷淵ノリオ視点
「凄い音がしましたけど、大丈夫なんですか? 早く、あの子を追い出してくださいね。でないと、恥ずかしくて、ご近所を歩けないんですから。聞いているですか? あの子が、あんな失敗作になったのは、あなたの」
そこまで喋って返事がないことを不審に思ったのか、キッチンでオレに対して背を向けていた母がこちらを見ようと振り返る。
「えっ……ノリオ?」
母は幽霊でも見たような表情をしている。
久しぶりに見た母の姿。
…………特に、感想が出てこない。
懐かしさや哀愁でも感じるか、さきほどのオレへの随分な発言に対して怒りを感じるかと思ったが、そういった感情は出てこない。
鬼になった影響か、あるいは父と母がオレを見限ったように、すでにオレも両親を見限っているから、いまさらなにを言われても心に影響しないのかもしれない。
「正解です」
自然とそう口にしながら、暴力的な笑みを浮かべているのを自覚する。
母との距離が近かったので、引き面気味に木刀を振るう。
流麗な挙動と共に繰り出した一撃はグシャリという心地よい感触を伝えて、まるでスイカ割りのスイカのように母の頭部が潰れて砕ける。
『レベルが上がりました。新たな力が解放されます』
母を殺したことで、レベルが上がる条件を満たしたのか、中性的な声が脳裏に響く。
しかも、新たな文言も付け加えられている。
解放された新たな力。
ゲーム的に解釈するなら、おそらくスキルやアビリティに相当するものだろう。
興味深くはあるが、いまは保留だ。
これからの行動方針を決めなくてはいけない。
…………とりあえず、食事と風呂に入ってから、ゆっくりと考えよう。
オレの部屋で殺した五人とキッチンで殺した母の死体が邪魔なので、両親の部屋に適当に投げ込んだ。
重さ数十キロの物を動かすのだから、もう少し苦労するかと思ったが、鬼になりレベルが上がった影響なのか、格段に身体能力が上がっているから予想よりもスムーズに終了した。
片手に一つずつ死体を持っても、まったく苦にならない。
終わったら、冷蔵庫にあるもので適当に自分で作った料理をテーブルで食べる。
自炊は久しぶりだ。
いつも食事は、母が部屋の前に用意した冷めた料理か、夜中にこっそりとカップ麺か、冷凍食品を食べていた。
特に美味しいとは思わないけど、気持ちとしてなんだか新鮮だ。
食事を終えたら、汗と返り血を落とすために、風呂に入る。
いつもは両親と出会わないように、深夜にコソコソと入っていたから、堂々と朝から風呂に入るのはなかなか気持ちが良い。
返り血で汚れていた上下のスウェットを洗濯して、代わりのスウェットに着替えたときには、かなり気分がリフレッシュできた。
まずは、情報収集ということで、ネットで自分のような鬼やレベルアップが、確認されているのか調べてみる。
自分以外にも事例が確認できるなら、オレ個人が特別なのではなく、世界的に大規模な何かが起きていることになる。
まあ、こんな現象は調べてもなにも見つからないと思っていた。
だが、そんなオレの予想に反して、鬼やレベルアップに関する情報はいくつも見つかった。
もちろん、鬼やレベルアップとはいっても、昔話の桃太郎やゲームの話ではなく、オレと同じような現象についての情報だ。
複数のSNSに、いくつも鬼になったという投稿があった。
ムカつく奴を殺したら、鬼になったと謎の声に言われた。
自分をイジメている奴を殺したら、鬼になった。
これは傲慢で堕落した人間を殺せという神の導きであり、自分は神に選ばれた戦士なんだ。
などなど、真偽はわからないが、国内だけで鬼なったという事例を一〇件以上は確認できた。
すでに、警察と交戦したという事例まであるようだ。
軽く撃退できた。
警察弱すぎ。
銃弾効かないオレ、チョー人外。
などと、自慢するようなカキコミもある。
オレは同じ鬼なったとはいえ、SNSに投稿してカキコミしてる連中に対して、共感も賞賛もしない。
むしろ、無自覚に自分から犯罪を自供している連中の肥大化した自己と承認欲求に、嫌悪感すらある。
だが、それでも、連中の浅慮かつ短絡的な行動がオレの役には立っている。
当事者の主観的なものだが、鬼の強さを測れる。
一方で、警察側の鬼、もしくは鬼を自称するものたちを、逮捕あるいは殺害できたという報道はされていない。
これにより、SNSへ鬼たちが投稿した内容の信憑性が増した。
少なくとも、鬼を逮捕か殺害できたなら、警察は公表するはずだ。
鬼という不可解な現象を秘匿する必要はあるかもしれないが、逮捕か殺害できたなら、ただの殺人犯と説明すればいい。
ということは、警察に鬼を短期的に無力化する力がないのかもしれない。
情報収集の目を国外に向ければ、国内と似たような状況が、より多く確認できる。
もっとも、海外だと呼び方が鬼ではなく、デーモンのようだ。
特定の国や地域だけで起こる限定的な出来事ではなく、人間の居るところではほぼ例外なく発生しているらしい。
情報をまとめると、正確な時間は不明だが、昨日から同時多発的に世界的な規模で、鬼もしくはデーモンになる現象が確認されている。
人間が鬼になるトリガーは殺人。
これは国や地域が変わっても変わらない。
ただし、殺害方法によっては、鬼やデーモンにならないケースがある。
少なくとも、大量の殺人が現在進行形で起きている紛争地帯では、鬼やデーモンになったという情報をあまり確認できない。
銃撃、砲撃、爆撃などで殺しても、鬼やデーモンに成れないようだ。
それに、自動車などの乗り物でひき殺しても、ダメ。
毒殺でも条件を満たせない。
直接、人間を素手か、ナイフなどで、殺さないとダメらしい。
ただ、凶器がナイフでも、投擲して人間を殺しても、鬼やデーモンにはなれない。
レベルアップするための殺人も、鬼やデーモンに成るときと条件は同じで、飛び道具など使わずに人間を殺さないと、経験値としてカウントされないようだ。
法治国家の崩壊とは言わないが、現行の警察力では対処することの難しい、人間を殺すほど強くなるイレギュラー。
世界的に重大な岐路にあるのは間違いないだろう。
もっとも、鬼は不死身の化け物というわけではない。
現に、いくつかの国では、レベルは不明だが重火器でデーモンを殺せている。
まあ、この国では拳銃で火力不足だからといって、重火器を警察へ容易に配備するとは思えない。
政治家と警察上層部は、しばらく様子見をするだろう。
その間に、末端の警察官がどれだけ殉職するか知らないが。
警察や国から、鬼に関する正式な発表はない。
事態をまったく知らないということはないだろうが、対処の仕方を決めかねているのかもしれない。
自衛隊を投入すれば鬼に対処できるかもしれないが、容易に出動させることもできないだろう。
鬼は人間よりもはるかに強いが、現行の法では鬼になっても、そいつはただの殺人犯でしかない。
ただの殺人犯に警察では対処できないので、自衛隊に出動してもらう。
現実的で、被害の一番少ない決断かもしれないが、警察は認められないだろう。
認めてしまえば、警察の領分を自衛隊に持っていかれる。
いま居る鬼に対処して終わりでない。
なにしろ、鬼は現在進行形で増えているのだ。
銃殺、毒殺、轢殺以外の殺人犯は鬼になる。
鬼の対処を自衛隊に任せるということは、警察はこれからの殺人犯に対処できませんと宣言しているのと同義だ。
そんな決断を警察ができるわけがない。
状況に対して、プライドを投げ捨てて対応できれば可能かもしれないが、警察とはいえ出世した官僚たちが迅速にプライドを捨てられないだろう。
殉職者の山を築いて、組織を維持できなくなるか、死に続ける末端に激しい突き上げを食らうようになったら、決断できるかもしれない。
もっとも、そのときまで鬼が、自衛隊に対処可能なままかは不明だ。
レベルの上がり方によっては、重火器でも容易に殺せない可能性もある。
数時間も鬼について調べ疲れたのでベッドで一眠りして、目覚めたら夜になっていた。
カップ麺で小腹を満たしながら、久振りにリビングのテレビでニュースを見る。
いくつかの殺人事件と共に、警察が殺事犯に向けて撃った弾が無関係の一般市民に命中してしまったという報道が各局でなされていた。
すでに、何人も殉職者を出しているのに、警察はこの誤射で各方面から叩かれている。
警察の公式なコメントで、現場の警察官には、より慎重な拳銃の取り扱いを徹底させるそうだ。
拳銃があっても鬼への対処は難しいだろうに、拳銃の使用が厳しくなる。
鬼の相手をすることになる警察官に対して同情はしないが、それでも現場の実情を無視したコメントを出されて少しだけ哀れに思う。
それにしても今日は普段よりも、殺人事件に関する報道が多い気がする。
しかし、どのニュース番組も鬼についてはまったく触れていない。
政府によって情報が規制されているのかもしれない。
SNSにこれだけ鬼について投稿されているから、テレビなどが情報を制限しても意味があるとは思えないのだが。
むしろ、情報の開示に関して後手に回ることで、国民が陰謀論まがいの不用意な憶測してしまうように思える。
まあ、オレは別に政府の人間ではないし…………というか、そもそも、もはや人間でもなく鬼だから、この国の政府が国民にどう思われようとも知ったことではない。
それよりも、隣の県ではあるが、距離的に近い中学校で起きた大量殺人が興味深い。
オレが寝ている間に起きた事件。
犯人はイジメられていた女子中学生で、教師と生徒を合わせて一五人殺している。
この犯人は鬼になっている。
それも、オレよりも上のレベルの鬼に。
脅威になりえるから警戒心をまだ見ぬ女子中学生に抱くが、それ以上に彼女を野次馬的な好奇心と共にたくさん殺せて羨ましいと思ってしまった。
寝る前から鬼になって殺人への忌避感はなかったが、殺人への衝動もなかった。
せいぜい跳ね上がった身体能力を試したくなったことぐらいか。
顔を見せ始めた、殺人への衝動。
だが、いまも殺人への飢餓感があるわけではない。
自分のなかの殺人への衝動は自覚できるが、その感覚は睡眠や食事のような生きる上で必須の衝動とは違う。
どちらかと言えば嗜好品を求める感覚に近い気がする。
必須のものではなく、我慢できないほどの感覚でもない。
しかし、オレはあえて我慢しようとは思わない。
せっかく、両親、社会、それらのくびきから解放されたのだから、心のおもむくまま衝動的に生きるのも悪くない。
周到に賢しく行動しなければ、鬼の力があっても一週間を生き残るのも難しいだろう。
だが、それでいい。
思い残す未練も、思いを止めるしがらみもない。
心のおもむくまま人間を殺して、花火のように短く輝いて散るのも良い。
さっそく行動を開始する。
上下ともスウェットのままポケットにスマホと家中からかき集めた一万円札を入れた財布をしまう。
手には木刀だけを持って、玄関に行く。
…………靴がない。
まあ、ここ数年、家から一歩も外出しなかったわけで、オレの靴が一足も玄関に置いていないのも変ではない。
幸い、下駄箱をあさったら、昔のスニーカーが見つかった。
いまでも履けるか心配だったが、靴紐を調整したら問題なく履けた。
玄関を出ようとドアに手をかけてたら、オレのなかの捨てた人間としての残骸が、心の奥深くから恐怖をまとって這い上がってくるのを幻視した。
残骸を振り切るように、自分は鬼なのだと暗示するように強く思いながら、深呼吸をする。
ドアを開けたら、躊躇することなく家の外に一歩を踏み出す。
「おおおぉ!」
正体不明の高揚感が全身を満たす。
風景は見慣れた夜の住宅街。
それなのに、子供の頃に行ったおもちゃ屋、遊園地を前にしたときのようにワクワクする。
このワクワクは殺人への衝動に起因するから、そう考えるとなんとも物騒なワクワクだ。
アスファルトを踏みしめる足取りは軽く、内より溢れてくる不定形の恐怖に重くなることもない。
呼吸も自然にできて、締め付けられるように苦しくなったりしない。
鎖のように絡みついて束縛していた過去、人間関係、常識、それらから解放され、卵の殻を破るようにあの家を出れたことで、新しく鬼として再誕したような気分だ。
鬼になる前ならスウェット姿で出歩くのは恥ずかしいとか、思っていた。
だが、いまはなにも感じない。
他人の視線や感想など、心底どうでもいい。
これも鬼になった恩恵なのか。
人間だったときの記憶や人格の連続はあるが、人間を同種あるいは同族と思えなくなっている。
同じ種族ではないから、相手に感情移入して共感することが難しい。
だから、容赦なく相手を、人間を殺せる。
忌避感も躊躇いもない。
あったとしても、害虫を殺した程度のもの。
だから、他人の視線や思考が気にならない。
ペットのイヌやネコの前で、身だしなみを気にして、オシャレをしようとする奴はいないだろう。
それと、同じだ。
しかし……人間がいない。
時間帯が悪いのか、せっかく外に出たのに、あまり人間とエンカウントできず、目に付いたオッサンを木刀で二人しか殺せていない。
レベルの上がった身体能力を確かめられるから、多少は面白い。
だが、相手が弱すぎて、牛刀をもって鶏を割いている気分になる。
相手の数が多ければ無双気分に浸れて、それはそれで爽快かもしれない。
あるいは、一般人よりも殺害する難易度の高い警察官に挑むのも悪くない。
住宅に侵入すれば一家丸ごと殺せて、経験値を一気に稼げるかもしれないが、あまりにも作業的で面白くなさそうなので、あえて実行しようとは思わない。
とりあえず、人間の多そうな駅前の繁華街を目指すか。
運がいい。
駅前、近くの裏通りで、パトカーに乗ろうとしている二人の婦警を発見できた。
「婦警二人、確認」
自然と口元に笑みが生まれる。
「あ、あなたは」
二人の婦警は、木刀を手に近づいてくるオレに戸惑っているようだが、拳銃を抜くなどの臨戦態勢にならない。
「オレか? オレはただの」
そこで言葉を切り、挨拶代わりに木刀をパトカーに叩きつける。
「殺人鬼だ」
一撃でパトカーが潰れてしまった。
予想以上の破壊力だ。
それに、金属の塊であるパトカーへ叩きつけたのに、木刀には傷が一つもない。
オレが鬼になったことで、この木刀もなんらかの影響を受けているのかもしれない。
「殺人鬼?」
タレ目の婦警は、言葉の意味が理解でないかのように、状況についてこれていない。
「マヤ、この人、課長から警告されていた事例かもしれない」
切れ長の目をした婦警は、同僚に警告して警戒を促しているが、拳銃を抜いたりしない。
「えっ? それって」
「反応が鈍い。せっかく、婦警に出会ったのに、残念だ」
期待していただけに、本当に残念だ。
パトカーを潰してから、いまのオレなら最低でも五回は二人を殺せている。
あまりにも、危機感がない。
「……あなたは、なにを言っているの?」
切れ長の目をした婦警は、オレに対して警戒感を強めているが、ズレている。
オレを脅威に感じたなら彼女たちは拳銃を抜くか、最低でも木刀の間合いから、出ようとしないといけない。
疑うような眼差しを向けて、オレの反応を待つように警戒しても無意味だ。
普通の犯罪者を相手にするなら、無難な対応なのかもしれないが、鬼に対して無知すぎる。
情報収集に関して特殊な技術を持たなず、組織に所属もしてないオレが、鬼のことを知れたのに、国家の治安を預かる警察官が知らないのは怠慢だ。
「鈍いな。もういい、面倒だ。死んで経験値になれ。それに、お前たち二人で、記念すべき二桁達成だ」
「きょ、凶器を捨てて、大人しくしなさい」
こちらの殺意をようやく感じ取ったのか、タレ目の婦警が警棒を抜いて警告してきた。
本人は真剣なのかもしれないが、この時点で拳銃ではなく警棒を抜くのは、愚行でしかない。
まあ、拳銃を抜いたとしても、生存できる確率が、それほど上がるわけではない。
「あまりに滑稽で、まるで道化だな。哀れだから、お前から殺してやる」
介錯のつもりで、苦しまぬように一撃で殺すつもりで、タレ目の婦警の頭部に木刀を振り下ろす。
だが、
「っつ」
オレの木刀は、婦警の頭部を破壊することなく、赤いパーカーを着た小柄な少女の左腕で防がれた。
…………防がれた?
鬼になったオレの一撃を?
パトカーも一撃で潰したのに、骨折することなく、わずかに痛がるだけ。
ありえない。
フードに隠れてよく見えないが、特徴的な褐色の肌は確認できた。
……それと、オレと同類……鬼であることも理解した。
根拠も、理屈もわからないが、目の前の少女が鬼だということは確信できる。
しかし、
「なんだ、お前。…………お前は、バカなのか。どうして、警察をお前が守っている?」
意味がわからない。
警察に追われて、敵対している鬼が、警察を鬼から守る。
理解不能だ。
もしかしたら、二人が鬼に成る前の知己だから、救おうというのだろうか?
それでも、リスクとリターンの収支がとても釣り合わない。
……あるいは、二人を守ったのは偶然で、オレとの交戦が目的なのか?
「君、なにしてるの! 危険だから、すぐに、逃げなさい」
切れ長の目をした婦警が、切迫したように鬼の少女に告げる。
鬼の少女は、一瞬だけ後ろ気にした様子だが、それ以上は反応しないで、オレから二人を守るつもりのようだ。
……ふむ。
二人の婦警は、少女が鬼だと知らない。
少女は自分の正体が鬼だとバレたとしても、二人を守るつもりか。
少女の行動原理と動機は、予想もつかない。
だが、少女との交戦は興味がある。
危機感のない二人の婦警と戦うよりも、リスクは跳ね上がるが問題ない。
元々、長く生存するための戦いではなく、死ぬまでの娯楽としての嗜好品のような殺人と戦いを求めのもの。
不思議なことに、木刀を少女へ向けることに少しだけ罪悪感を覚える。
少女が人間ではなく、鬼だから同族を殺すことに対して本能的に忌避しているのかもしれない。
だが、行動に問題ないレベルの罪悪感だ。
少女を支障なく、遅滞なく、躊躇なく、攻撃できる。
木刀をゆっくりと正眼に構える。
応じるように、少女はパーカーのポケットの入れていた右手を出して、ナイフを構える。
正面から少女を見据えて、観察する。
フードに隠れて顔はよく見えないが、小柄で幼い。
一〇代前半くらいの女子中学生か?
…………女子中学生?
もしかしたら、この少女は、隣の県の中学校で起こった殺人事件の犯人か?
……まあ、そんなことは、瑣末なことだ。
それよりも、少女の持つナイフが気になる。
オレの木刀が強化されているように、少女のナイフも強化されているのだろう。
なにしろ、少女のナイフが放つ禍々しさと威圧感は、オレの木刀の比ではない。
普通の木刀とナイフが切り結んで、木刀が両断されるなどありえない。
だが、オレの木刀と少女のナイフでは、結果が予想できない。
切り結び方によっては、一撃で両断されてしまうこともありえる。
まあ、それでも、少女にオレの木刀が両断される心配はあまりない。
少女はなんとなく、ナイフを構えているが、あまりにも隙だらけだ。
オレの一撃を骨折することなく受けるから、少女はオレよりもレベルが上なのだろう。
だが、それでも負ける気がしない。
確実に、少女は武芸の素人だ。
オレの剣道の技量は達人と呼ぶほどではないが、少女が身体能力で上回れても、対処できるだろう。
もちろん、身体能力の差が隔絶していて、手も足も出ない可能性もある。
しかし、向き合って観察して見ると、そこまで身体能力が隔絶しているようには思えない。
それよりも、少女の動きが窮屈そうだ。
…………なるほど。
少女の目的は目の前のオレを倒すことではなく、後ろに居る二人の婦警を守ることだから、動きに制限があるのか。
……つまらない。
流れるように大きく後退して、少女の前進を誘い、行動の制約を解き放つ。
少女に勝つだけなら、無駄な動きどころか、オレが不利になるだけだ。
だが、これでいい。
これで少女は後ろのお荷物を気にすることなく、オレとの戦いに集中できる。
別に、自分が強いと、自信過剰に自惚れているわけではない。
オレは少女を殺したいのではなく、全力で戦った上で殺して勝利を手にしたいのだ。
すでに、人を殺すには過剰な性能のこの身体能力を、十全に発揮させるには少女のような同類の鬼でなくてはダメだ。
少女はオレの挙動に戸惑うように、小さく首を傾げてから、警戒するように慎重に足を進める。
二人の婦警と離れて戦うのは、二人にとっても安全になるとわかっていても、心理的に二人から離れるのが不安なのか、振り返ったりはしないが、後ろを気にしているように感じられる。
オレはこんなにも少女との戦いに気持ちを高ぶらせているのに、少女はオレよりも後ろのお荷物を気にする。
嫉妬にも似た感情が心の内側で燃え広がり、イラ立ちを加速させる。
木刀を少女に叩き込んで、脅威とわからせてオレだけに集中させてやる。
面。
面。
胴。
「っつ」
小さく少女の痛がるような声が聞こえた。
オレの三連撃は、少女の右腕に防がれる。
少女はナイフで受けようとしたようだが、オレがそれを許さなかった。
もっとも、少女は痛がりながらも、ナイフを落とすことなく保持しつづけたので、オレが圧倒的に有利とはいえない。
見た目は少女の細腕なのに、生き物どころか金属の塊に分厚いゴムタイヤを巻きつけた物を叩いたような感触だった。
フェイントのつもりなのか、少女は左右に素早く動きながら向かってくる。
かなり速いが、動きが単調なのでタイミングを合わせるのは難しくない。
突き。
彼女の踏み込みに合わせて放ったのだが、首をひねって避けられた。
面。
胴。
面。
クリーンヒットどころか、一撃は防がれて、あとは避けられた。
…………?
少女の動きが徐々に良くなっている。
……なぜだ?
手加減していた?
いや、その様子はなかった。
ならば、なぜだ。
なぜ、少女の動きが良くなる。
疑問はある。
だが、立ち止まり悠長に思考している余裕などない。
少女の踏み込みを迎撃して、さらにこちらからも仕掛ける。
一分にも満たない短い攻防。
それでも、オレの繰り出した手数は一〇〇に迫る。
オレは無傷で、少女は三〇を超える攻撃を受けた。
だが、致命的な一撃は一つもない。
少女の動きは錯覚ではなく、確実に良くなっている。
しかし、その理由はなんとなくわかった。
なにしろ、オレの動きも少女に触発されたように、徐々に良くなっていた。
考えてみれば簡単な話で、単純に自分の身体能力に慣れてきたというだけのこと。
オレも少女も鬼になって二四時間経過しているかどうかも怪しい、鬼の初心者。
心構えも覚悟もなく、急に与えられた人外の性能に、短時間で適応できるわけがない。
少女はオレよりも高レベルで、殺人の経験は多いかもしれないが、自分の全力を把握していないという点では、オレと一緒だ。
なにしろ鬼にとって、人間は弱すぎる。
命がけの戦いになるどころか、全力すら出す必要がない。
だから、少女にとって自分を殺せる可能性のオレに出会ったことで、少女は自身にとって未知の全力を発露させ、オレと切り結ぶごとに慣れ始める。
オレと少女の間に、言葉はない。
行き交うのは、殺意のこもった木刀とナイフ。
生と死を分かつ極限の緊張感。
一手ごとに自身を把握して、さらなる高みに登るような高揚感に満たされる。
物騒で危険な、しかし、最高に楽しいワルツを少女と踊っているような気分になる。
人間数人を一瞬で粉砕できる破壊力を秘めた一撃の応酬。
一瞬で決めるという思いと同時に、この時が永遠に続けばいいと思ってしまう。
気づけば自然と凶暴な笑みを浮かべていると自覚する。
だが、残念なことに、終わりが見えてきた。
オレが少女について行けなくなっている。
最初はレベルの差で発生する身体能力の差を剣道の経験で覆していたのに、現在は剣道の経験で身体能力の差を誤魔化している状態だ。
殺意を込めているが、振るわれるのは少女を殺す一撃ではなく、少女の攻撃を妨害するための無力な牽制の一撃。
技量で圧倒できると思っていたが、身体能力の差で小手先の技量を圧倒されてしまった。
死が見える。
このままだと、一分後には少女によって、オレは死ぬだろう。
恐怖はない。
恐怖はない……が、まだ、この心を満たす一時を終わらせたくない。
力。
力が、欲しい。
少女の強さに、追いつける力が。
『力がリクエストされました。最適な力、赤力を獲得しました』
謎の声と共に、全身を高熱が駆け巡る。
それなりに痛くて、反応したくなるが、少女の前でそんな隙をつくる余裕などない。
熱と痛みで、ぎこちなくなる体を強引に動かして、少女の前進を防ぐ。
熱と痛みが引くまでの数秒の間に、五回ほど少女に切られたが、全て軽傷だ。
致命傷は一つもない。
なにが、どうなったのか、赤力とはなんなのか、まったくわからない。
だが、体は交戦に支障がない。
なら、いまはただ少女と戦うだけだ。
主導権を渡さないためにも、こちらから仕掛ける。
面。
…………?
どういうことだ。
絶え間ない連続攻撃で、少女の攻撃の起点を潰そうとしたのに、オレの攻撃は一撃で停止している。
致命的な隙だが、少女は大きく避けて、攻撃してくる様子はない。
当然か。
オレの身体能力が劇的に上がっている。
踏み込んだアスファルトには亀裂が入って、振り下ろした木刀はアスファルトを砕いて地面にめり込んでいる。
この力は先程の声の影響なのか。
だとしたら、一時的なものか、恒常的なものか、ペナルティはないのか。
気になることは多岐にわたる。
しかし、それらは、勝利か、死後にでもやればいい。
いまは少しでも早くこの力に慣れて、少女と戦わないといけない。
突き。
面。
胴。
籠手。
明らかに、この赤力によって、レベルが上がった時よりも、身体能力が強化されている。
だが、制御が難しい。
連撃ではなく、なんとか確かめるように一撃一撃を放つことしかできない。
それでも一撃の威力と速度は上がっているから、少女もオレの一撃の後にうかつに攻めてこない。
「赤い肌、急激な身体能力の上昇。…………鉄肌と同質の力かな」
少女が独り言のように呟いた言葉に反応して、自分の手に素早く視線を向ける。
街灯に照らされたオレの肌が、赤褐色になっていた。
これも赤力の影響か。
まあ、戦闘に影響がないなら、肌の色など、どうでもいい。
それよりも、少女の言葉を信じるなら、オレと同じようになんらかの力を手に入れている。
……ふむ、改めて少女を観察すると、肌が褐色なのは、日焼けではなく手に入れた力の影響か。
どんな力を手に入れたのか、気にはなるが、過剰に気にしてもあまり意味はない。
少女がどんな力を手に入れていても、オレは全力で挑むだけだ。
「……面倒。調度いいから、あれを試してみようかな。…………変身」
悪寒。
恐怖。
撤退。
否!
脈絡もなく、溢れてきた少女に対する恐怖心に流されて、逃走したくなったが理性の力で黙らせて、全力の突きを放つ。
少女はわずかに首を動かすだけで、オレの突きを避ける。
木刀は少女を捕らえられなかったが、少女の被っていたフードを引っかけた。
そして、夜空の下で、それが街灯で照らされる。
獣。
獅子。
いや……黒獅子か。
少女の体形は小柄なままで、変わらない。
しかし、フードの下にあったのは、少女のそれではなく、鋼色の鬣をそなえた黒き獅子。
よく見れば、袖から出ている手も黒い毛で覆われていた。
平時だったら、元が少女なら、鬣はオスにしかないから変だとか考えそうだが、そんな思考はオレの頭にはない。
見た目は小柄な二足歩行の黒いライオン。
だが、あれはそんなものではない。
オレには死の塊が、二足歩行しているようにしか見えない。
赤力に慣れるとか、剣道の経験があるとか、そんなレベルではない。
オレのなかの鬼の本能が告げている。
あれは生き物としてのステージがオレとは違う。
恐怖で全身の筋肉が強張っていく。
まるで、全身が恐怖で凍結していくようだ。
これは、死への恐怖ではない。
もっと根源的な生き物が、圧倒的な強者に出会ったときのような恐怖。
これがヘビに睨まれたカエルの気持ちなのかもしれない。
あとは捕食されるだけ。
だが、
「キィエエエーーー」
発声にのみ集中して、全身の強張りと恐怖を吹き飛ばせると思い込む。
やけに耳障りな心音を無視して、木刀を正眼に構えて次の一撃に集中する。
オレが放つ最後の一撃。
生死、勝敗、そんな雑念を置き去りにして、意識を一撃へと没入させていく。
これから面を放つ。
一番練習して、一番自身のある一撃。
面。
最高の一撃だ。
赤力の奔流を制御して、踏み込みも木刀の振りの滑らかで、完璧だった。
ただ、
「ガアアアァ」
ライオンとなった少女には通用しなかった。
少女の左手で、右の手首を掴まれて、そのまま骨ごと潰されていく。
「力は強いけど、強度はそれほどじゃないんだ」
ライオンの頭なのに、声は少女ままなのが不思議だ。
だが、それよりも勝った気で、油断している少女にイラ立つ。
オレはそこまでの弱者なのかと。
右手首を掴まれた不自然な姿勢ながら、自由になる左腕一本で相手の脇腹に木刀を叩きつける。
しかし、
「痛い……けど、死ぬようなダメージじゃないわね」
これも通じない。
少女のナイフが迫る。
最早、恐怖はない。
だが、未練はある。
もっと強くなってから、もっと強くなった少女と果てるまで、戦ってみたかった。
まあ、悪くはない。
恐怖と惰性に満ちた、昨日までの人生に比べれば、生きたいと思うほどの未練を抱えて逝けるのだから十分だ。
笑って逝ける。
ナイフが首を切り裂く。
熱くて冷たい鋭い痛みと共に、血が急速に失われて温かさと感覚が失われていく。
「死ぬのに、笑顔とかキモッ」
目も見えずかすかに聞こえる耳に届いた声に、内心で苦笑する。
オレはこんなにも執着しているのに、相手からはこんな言葉を送られるのは、なんともオレらしい。




