第36話 元冒険者と王女の思惑
「アデル!」
王女の私室に入った瞬間、ふわりと甘い香りがアデルの鼻腔を擽った。それと同時に、彼の体にほんの少しだけ重みが加わる。
「アーシャ、久しぶり。って言っても一週間ぶりだけど」
飛びついてきた彼女をしっかりと抱きとめて、その頬に触れようとした時である。背後から、こほんという咳払いが聞こえた。
「……一応、私が近くにいるという事を忘れない様に」
敬称をつける事もね、と怒りを我慢するかの様な低い声がアデルの耳に入って思わずぞくりとする。
「はあ。ほんとに……あなたを招き入れる幇助をしてるって国王様に知られたら、私まで処刑されるんじゃないかしら」
シャイナはそうぼやきながら、隣室へと入っていく。アデルとアーシャがこうして逢瀬している間、彼女はその部屋でいつも待っていてくれるのだ。
その背中を見送ると、アーシャとアデルは顔を見合わせ、互いに笑みを交わしあった。
「俺はシャイナに恐ろしい程嫌われているな」
「そんな事ないですよ。きっと、信用されています。じゃなきゃ、こうして会わせてなんてくれなません」
「まあ、確かにな」
アーシャと話してあげて欲しい──そうシャイナから頼まれたのは、三か月程前だった。
国王が遠征先で行方不明になり、母が軟禁状態となってから、母君の代わりにアーシャが民を勇気付ける役割を担っていた。
しかし、十五~六の少女が平気なわけがない。その心労がたたって、遂に寝込んでしまったのだ。シャイナが自分にできる事なら何でもするから言って欲しいとアーシャに言ったところ、彼女が願った事が『アデルと話したい』だった。その願いを聞き入れるべく、彼女は自分が受け持つ礼儀作法の講義の時間を二人が逢引する時間に当てたのである。
一年前の誓いの口付け──あの誓いは二人だけの秘密である──以降、アデルとアーシャの間ではこっそりと口付けを交わす程度の事はしているが、それ以上の行為や愛の言葉等は一切交わされていない。勿論恋人関係でもないし、情夫というわけでもなかった。
ただ、シャイナが近衛騎士としてこの密会を許している事が明るみになれば、嫁入り前のアーシャにアデルを情夫──という言葉が正しいのかもわからないが──とする事を幇助している様にも受け取られる危険性がある。少なくとも、嫁入り前の王族や貴族の令嬢が密かに身分の低い男と密会するなど、本来許される事ではないのだ。彼女の言う『私まで処刑される』とは、そういう事を意味しているのだろう。
ただ、それでもシャイナがこうしてアーシャとアデルが話せる機会を設けたのは、それだけ彼女が王女を大切に想っているからだ。
また、この国の現状を鑑みるに、何か打ち手を考える際にも必ず必要となってくる存在が〝ヴェイユの聖女〟であるアーシャ王女だ。国の為にも、彼女に倒れられるわけにもいかなかったのである。
「ちなみに、シャイナは私がアデルの事を好きなのも、知ってますよ?」
「えっ」
何気にぽそっと衝撃的な事実をアーシャが言った。
こうして逢引をした際に、二人は毎回誓いの口付けを行ってはいる。いつもそれを求めてくるのは彼女だ。アデルも彼女のそんな態度から、彼女からの好意を察していた。
しかし、アーシャは王族で、アデル自身は兵士だ。その関係性もあって──会う度に口付けているくせに今更なんだとは思うが──その好意を敢えて口にしない様にしていると思っていた。
「でも、毎回キスをしているのは内緒です」
「いや、おまッ」
慌ててシャイナがいる方の部屋の扉を見て声を潜めるアデルに、くすくす笑うアーシャ。
そんな王女を見て、アデルも頬を緩めた。
「叱られるぞ、本当に」
「シャイナに叱られるのは慣れてます」
「全く……悪い王女様だ」
「はい。私、悪い子です」
言いながら視線を合わせると、二人は自然と唇を寄せた。そして、一瞬だけ二人が唇を通して繋がる。
王女と密会して、キスをする──一介の兵士に過ぎないアデルに、許される行為ではない。しかし、それでも二人はこうして互いの繋がりを求め合う。
アーシャが雑談もなく、いきなり口付けてくる時は大概精神的に余裕がない時だ。ただ救いを求めるかの様に、彼女はアデルとの口付けを求める。
アデルの予想を裏付ける様に、そのまま何度か唇を重ねていると、はらりと王女の頬に涙が伝った。慌てて見ると、アーシャはその浅葱色の瞳いっぱいに涙を浮かばせていた。
「アーシャ……? どうした?」
「何でも……ありません」
彼女は嫌々する様にして首を横に振ると、顔を伏せた。
「……王宮を発つ日が決まったのか?」
そう訊くと、アーシャはハッとして顔を上げた。
「知っていたんですか……?」
「さっきシャイナから聞いた」
彼女は小さく息を吐いて、力なく微笑んだ。
「まだ明確な日付は決まっていません。ただ……そう遠くはない、との事です」
「……そうか」
「私、怖いです。自分の預かる文書がこの国の運命を左右していて……それを届けても届けなくても、たくんさんの血が流れてしまいます……私は、その重圧に耐えられません」
アデルは無言でアーシャを抱き締めて、その背中と白銀の髪を優しく撫でてやった。
耐えられないのは当然だ。自分の一挙一動で、戦争が起こるか、戦争が起こらず民が苦しんだ後に国が売り飛ばされる事が決まってしまう。いくら王族として育ち、〝聖女〟と言われていても、彼女はまだ十六の少女なのである。その様な立場に耐えられる程、強くはない。
「ごめんな、アーシャ。俺、お前の事何も支えられなくて。お前の重圧も悩みも、何もわかってやれない」
アデルは冒険者上がりでひとりの王宮兵士に過ぎない。戦争が起こるかどうかについての重圧について、ましてや王族の悩みなど、わかってやれるはずがなかった。
「そんな事……ありません。アデルは、今も私を支えてくれています」
アーシャは歔欷しながらも、小さな声で続けた。
「アデルとこうして毎週会えなかったなら……私、耐えられませんでした。こうして好きな人の体温を感じられないと、生きてる心地すらしません。あなたと会えるから、何とか自分を奮い立たせる事ができるんです」
「アーシャ……」
この時、アデルは初めて王女の気持ちを知った。
ただ身近な人間がいないから、ただ頼れる存在が欲しかったから自分が選ばれているのではないか──アデルは心のどこかでそう思っていた。父王の消息が不明で、王妃が軟禁されていて、それで心細いからただ自分を求めているのではないか、と。
しかし、違った。彼女は心の底からアデルを好きでいて、そして精神的支柱にしていたのである。
「ふふっ……ダメな王女ですね。私があなたを支えたくて、居場所になるって言って誘ったのに……私が支えられちゃってます」
「そんな事ないさ」
アデルはアーシャを抱き締めて、その言葉を否定する。
「俺が絶望に暮れていて、人生の指針を失ってた時……裏切られて死にたくなっていた時に、まだ生きようって思ったのは、あの時のアーシャの言葉があったからだ。だから……今度は俺が支える番だよ」
今はどこで何をしているのかすらわからない、元恋人と仲間達。彼らから裏切られて、人生の指針を見失った時に支えになったのが、アーシャの言葉だった。
あの選択が正しかったのかはわからない。結果的に一国の王女に恋をする事になって、将来もっと辛い想いをするかもしれない。
だが、こうして崩れそうな彼女を支えられる存在が自分だけなのだと思うと、あの時の自身の選択は誤りではなかったと思うのだ。
この少女は〝ヴェイユの聖女〟と呼ばれ、大地母神フーラの生まれ変わりとも称される程の人物だ。ひと時でもその様な偉大な人物に想われ、支えになれるのであれば、それは光栄なのだろう──アデルはそう思って、自らの人生に意味付けしようとしていた。
しかし、〝ヴェイユの聖女〟は少し微笑んだかと思うと、そんなアデルの思いも寄らない事を口走った。




