第35話 王妃の思惑
「アーシャ王女は大丈夫か?」
アデルは王宮への移動中、小声で近衛騎士シャイナに訊いた。
「表面上は、といったところね。元気に振舞っている様に見えるけど、空元気よ」
「まあ、そりゃそうか」
アーシャは──まだ死んだと決まったわけではないが──父君を失い、そして母君まで王室に軟禁されて、会う事も叶わない中、気丈に振舞っていた。それは、彼女に近しい人から見ていると、あまりに痛々しかった。
ちなみに、リーン王妃は病で表には出れないという事になっている。アーシャはそんな母の代わりに町の人々の前に姿を見せ、人々が絶望しない様に勇気を分け与えているのだ。
「気丈な方よ。とても。私が十六の頃に、いえ、今でさえも王女殿下の立場になったらああして振舞えるかと言われては、自信がないわ……」
「……そうだな」
アーシャは今現在十六だ。彼女が十五で成人してからたった一年の間で、この国の状況も、そして彼女を取り巻く環境も大きく変わってしまった。
「アーシャ様はあなたと話すこの時間だけを支えに一週間を乗り越えていると言っても過言ではないわ。だから……たった一時間だけだけど、アーシャ様に力を与えてあげて」
「ああ。最善を尽くすよ」
アデルがそう言うと、シャイナは嘆息して呆れた様な笑みを向けた。
アデルごときの王宮兵士が王女と二人で会う時間を作れるのは、この近衛騎士シャイナの御蔭だ。シャイナはアーシャに対して礼儀作法を教える担当でもあるのだが、その時間をこっそりとアデルとの面会の時間に使わせてくれているのだ。
無論、一つ扉の向こうではシャイナが待機しているので、何かそれらしい事をできるわけではない。だが、それでも、こうして会えて二人で話す時間が持てるというのは、アーシャにとってもアデルにとっても心の支えとなっているのだった。
「こう見えて私、あなたには結構嫉妬してるのよ?」
唐突に、シャイナがくすっと笑って言った。
「え? シャイナが俺に? どうして」
「何年私がアーシャ様の護衛騎士としてお傍にいると思っているの? もう十年よ?」
シャイナは十七の頃に騎士として受勲されると、そのまま王女直属の護衛騎士に任命された。
同じ女性であるし、年上の女性であればアーシャも色々相談しやすいだろうという国王の計らいだったそうだ。
「それなのに、私は姫様を安心させる事さえもできなくて……あなたはたった一年で心の支えになっている。一体、どんな技を使ったのか知りたいくらいよ」
「……別に、ただ大陸や冒険者だった頃の話を聞かせてただけさ」
思わず、一年前にはもう誓いのキスをしていたよ、と言いそうになったが、慌てて口を紡ぐ。
おそらくそれを言ったならばアデルの首はこの女性騎士によって刈り取られ、翌朝には広場に晒される事になるだろう。
「大陸の話をするのは結構だけど、あまり汚い言葉を覚えさせるのはやめてもらえないかしら? 姫様はフレンドリーではあるけども、〝ヴェイユの聖女〟なのよ? お尻からひり出るアレ、とか、お尻の締まりが悪いだなんて言葉を教えて良い存在じゃないの」
「ま、待て。それは俺が教えたわけじゃなくて、勝手に王女が」
「姫様の前でそういう言葉を使わないでって事。面白がって、すぐに真似するんだから」
「……悪かったよ。気を付ける」
反論は無駄だと思い、素直に謝る。
アデルとしては本当に何も教えてなくて、アーシャがひとりで考えている事を「こんなのはどうでしょう?」と使い方が合っているか訊いてくるだけなのだ。
それに対して「合ってるよ」と面白がって相槌を打っているアデルに責任がないとも言えないが、あくまでも王女が自主的に考えているだけなのである。
「ま……いつまでこうして会えるかもわからないから。しっかりと話してあげて」
「どういう事だ?」
立ち止まって訊くと、シャイナは「……口は硬い方?」と声を潜めて訊き返してきた。
「一週間出なかったアレと同じ程度には」
アデルがそう言うと、シャイナは「そういうのをやめなさいって言ってるのよ」と呆れた。
それから「王女に会う前にちょっと来て」とアデルを連れて空いていた会議室に入ると、周囲に人がいないかを確認してから扉を閉めた。それほど知られてはいけない内容なのであろう。
「今から言う話は冗談抜きで他言無用よ。他の王宮兵士や衛兵にもね」
近衛騎士は声を低くして、まるで脅す様に言う。
アデルが頷くと、彼女は驚くべき事を口にした。
「リーン様が、アーシャ様をルベルーズに行かせようとしてるわ。ある文書を携えた密使としてね」
「ある文書……?」
「ええ。『グスタフは国賊。彼を倒して国を守れ』とね」
「……マジかよ」
アデルが息を飲んでシャイナを見ると、彼女は橙色の髪を揺らして頷いた。
それは、先程のカロンの話と一致してくる話だ。リーン王妃は、ダニエタン伯爵に『解放戦争を起こせ』と言うつもりなのである。
アーシャが城を抜けて、リーン王妃の密書を携えてルベルーズに行けば、それは王妃の意思になる。グスタフの言う『俺の言葉は王妃の言葉』を否定する事にもなり、正義がどちらにあるかが明白になるだろう。
「要するに……王妃は娘に解放軍を率いらせて戦争をやらせようって言うのかよ」
「そういう事ね」
勿論実質的に軍を率いるのはダニエタン伯爵よ、とシャイナは付け足した。
「そういう問題じゃ……ないだろ」
アデルは絶望的な気持ちでシャイナの言葉を聞いていた。
人を殺すどころか、争いが国で起きる事さえも恐れていたアーシャだ。身近な人が死ぬ事を想像するだけで怖くて眠れなくなってしまっていたのに、その彼女に対して戦争を引き起こせという。無茶苦茶だと思えた。
「リーン様だって、アーシャ様の性格の事はわかっているわ。ずっと悩んでいらしたもの」
「王妃が脱出してダニエタン伯爵に会いに行くっていうのは」
「無理よ。グスタフの監視が厳し過ぎる。リーン様を城どころか部屋から脱出させる事も難しいわ」
「くそ……!」
握り締めたアデルの手のひらに、自らの爪が食い込む。
王妃が動けないのであれば、アーシャが発つしかない。それに、王妃とて自らが人質である事も知っているだろう。自分が解放軍の足枷となるのであれば、最悪は自害すら考えているはずだ。
「……仮にダニエタン伯爵が蜂起したとして、その勝算は?」
「アーシャ様が立ち上がったとなれば、兵士達の士気も高まるでしょう。それを加味したとしても、勝てる見込みは半分ってとこかしら」
ほぼほぼ運任せの戦となるのは間違いなさそうだ。いや、ルベルーズから王都までの道のりは長い。途中にはベルカイム領主との戦いもあるだろう。それらを全て跳ねのける強さがルベルーズの軍にあるかと言われれば、それは危うかった。
「俺は……俺はそこには連れて行ってもらえないのか」
アーシャを密使に送る、と言っているが、それは当然脱走だ。グスタフ陣営にとっても、アーシャがルベルーズに辿り着くのは何としても止めたいはず。当然、追撃部隊を放つだろう。そうなった時、戦闘は避けられない。彼女には護衛が必要なはずだった。
「王女に同行するのは私、と聞かされているわ」
「なんでだよ! 俺じゃ信用が足りないってのか⁉」
「早合点しないで。私もあなたが同行するものだと思っていたけれど、王妃様には別の考えがあるみたいなの」
「別の考え?」
アデルが訊き返すが、橙色髪の女騎士は首を横に振った。
「リーン様は思慮深い方よ。きっと……あなたには、何か別の任務が言い渡される。そんな気がするの」
その任務についてはまだシャイナにも知らされていないのだろう。
だが、密使の件がはっきりとしているにも関わらず、アデルをそこに同行させないのには何か意味がある。それは間違いなさそうだ。
「密使の件について、アーシャ王女は?」
「もう知っているわ」
「……それで、何て?」
「何も」
おそらく、何も言えない程に思い悩んでいるのだろう。
このまま手をこまねいていても、グスタフに売国されるのを待つだけだ。それであれば、蜂起して戦って自分達の国を守った方が早いとも考えられるが──しかし、賢しいアーシャの事である。母が自害も考慮に入れている事にも気付いているだろう。
何が正しいのか、アデルにもわからなかった。
「ほんとに……ケツからひり出るアレの上を歩いてる気分だよ」
「今だけはそれに同感するわ」
アデルとシャイナはそんな会話を交わして、王女の元に向かった。




