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諦めたい乙女と焦る騎士団長 ②

 その日の夜、ネージュはタンクトップに短パンといういつもの部屋着姿で、客間のベッドに仰向けに横たわっていた。

 天井のシンプルなシャンデリアを背景に、指先では飴細工の金魚がくるくると舞っている。灯りを受けて輝く紅色が美しく、ひとしきり眺めたネージュは手を降ろして重い溜息を吐いた。


 ——これ、一生食べないだろうな。


 馬鹿みたいだ、と思う。いつまでも想いを引きずって、カーティスの振る舞いに胸を高鳴らせて。

 優しさが人を傷つけることがあるとはよく言うけれど、近頃はそれをとみに実感してばかり。あんな格好いい人に行きつけのお店に連れていかれて、プレゼントまでされたら、どんな女だって落ちるに決まっている。

 一緒に訓練を重ねては、励まされて勇気をもらって。屋敷に帰ればふとした瞬間にすれ違い、あの優しい笑顔に出会うことができる。

 残酷だ。諦められると思ったのに、全然そんなことは不可能だったのだと思い知らされてしまった。こんなに接点のある状況では上手くいくはずがなかったのに。

 もうここを出るべきなのだろう。

 その考えが生まれたのはある意味自然なことだった。そもそもこんな恵まれた環境に身を置いていることがおかしい。騎士になったとは言っても庶民根性が抜けきらない孤児のネージュと、超名門貴族たるアドラス侯爵家。脇役と麗しきヒロイン親子。寮さえ壊れなければここまで深く関わることのなかった人達だというのに。

 何よりも今日聞いた噂だ。口に出すのも憚られるような恐れ多いあの噂。ファランディーヌが知らせてくれなければ、世情に疎いところのある己は気付きもせずにのうのうと過ごしていたかもしれない。

 なんて馬鹿なんだろう。もっと早くに噂になる可能性について考えるべきだった。こんなに良くしてくれたのに迷惑をかけて、シェリーにもカーティスにも合わせる顔がない。

 ネージュはのろのろと起き上がった。短パンを脱いでスラックスを履き、タンクトップの上からセーターを身につける。

 合わせる顔がなくとも行かなければ。まずはシェリーにこの屋敷をお暇することを相談しよう。

 しかし決意を帯びた者に対して、運命とは時にどこまでも無情だった。


「レニエ副団長。こんな時間に、どうしたんだい」


 三階に上がったところでカーティスと出くわしてしまい、ネージュは心の中で悲鳴を上げた。

 一瞬表情が歪んだのかもしれない。カーティスは眉をしかめると、心配そうに首を傾げた。


「何かあった? 浮かない顔をしているようだけど」


 これはもうシェリーとおしゃべりするだけだと言える雰囲気ではない。ネージュは困り果てて言い淀んだのだが、そもそもこの家の主人たるカーティスに直接伝えればいいと思いつくのは案外早かった。

 ネージュは空色の瞳を真っ直ぐに見据えた。相変わらず綺麗なその色は今も優しげに細められていて、親しみすら感じさせるような気がした。

 そんなことを思う自分はなんて滑稽なのだろう。カーティスの誠実さが、今は苦しみばかりをもたらしてくる。


「実は、そろそろこちらをお暇させて頂こうかと思うのです。これ以上甘えるわけには参りませんので」


 宿の見当も付きましたのでと嘘八百を並べ立て、ネージュは直角に腰を折った。

 これ以上この方に気を使わせてはいけない。心配と親切心だけで引き止めるようなことをさせてはいけないのだ。


「閣下とご息女様におかれましては、私のような者に過分なお心遣いを下さいました。使用人の皆様にもとても良くしていただいて、このお屋敷での毎日は私には過ぎたる光栄でした。……本当に、ありがとうございました」


 ネージュは絨毯敷きの床を見つめながら、何とか言い切ったことに安堵を覚えていた。

 これでいい。あとは滞在費を払う旨だけ伝えて、明日にでも出て行くのだ。

 カーティスはきっと少し残念そうな顔をしつつ、わかったと言って微笑んでくれるのだろう。そう考えていたネージュは顔を上げた瞬間に面食らってしまった。

 カーティスは何を言っているのかわからないとばかりに瞳を見開いていた。かつてないほど愕然としていて、顔色すら悪くなっているように見える。


「私が……何か、悪いことをしてしまっただろうか……?」


 掠れた声で問われた内容に、ネージュは困惑するしかない。カーティスが悪いはずがないのになぜそんなことを聞くのだろう。


「とんでもございません。閣下はいつも、もったいないほどに親切にしてくださいました。ただ本当にこれ以上はご迷惑をおかけできないと」

「それなら!」


 カーティスが大声を出すのを初めて聞いたネージュは、驚いて肩をすくめてしまった。しかし彼は自身こそが大声を出したことに一番驚いたという顔をして、動揺したように瞳を揺らすとしばしの間口を噤んだ。


「……すまない、驚かせるつもりじゃなかった。けど、それならここにいればいい」


 目が疲れているのだろうか。なんだかとてつもなく必死な表情に見えるだなんて。


「あと少しでマクシミリアンが攻めてくる。何もこんな時期に一人にならなくてもいいだろう。 ……それとも、誰か共に過ごしたい相手でもいるのか」


 ——どうしてそんなことをお聞きになるのですか。しかも、いつもの穏やかな口調を捨て去ってまで。


 頭の中に困惑ばかりが渦巻いていて、ネージュは素直な疑問を口に出しそうになった。

 問いをぶつけてどうするのだろう。一体どんな答えを期待しているというのだろう。

 この人は優しい人。公平であろうとしているけれど、近しい人への情を捨てきれない愛情深い人だ。その中に己は入っていないのに、ただ優しさを向けられただけで、どれほど愚かな勘違いをしようとしているのか。


「いませんよ、そんな人。ご心配頂かなくても、私は十三の時から一人暮らしですから」


 ネージュは軋みを上げる心をひた隠しにして、部下にするみたいに軽快に笑い飛ばして見せた。

 カーティスは心から心配してくれていたようだった。だから少しだけ素の自分を出して、畏まった部下としての態度を封印する。


「賑やかに過ごさせて頂き大変楽しかったので、寂しいですけど……本来の暮らしに戻るのは当然のことですので。良い大人が居候なんていけませんよね」


 ネージュは苦笑を浮かべて視線を伏せる。そしてまた上げたとき、彼は期待したような反応を示してはくれなかった。


「私がここまで引き止める意味を、考えてはくれないのか」


 少しの冗談も見当たらない空色の瞳に見据えられ、ネージュは息を詰めた。

 そんなことは考えたくない。自惚れにもほどがある結論なんて得てしまったら、いよいよ諦めきれなくなるかもしれない。


「え、ええと……シェリーが寂しがるからですか? そこまでご心配なさることはないと思いますが」

「そうじゃない。私は」


 そこでカーティスは不自然に言葉を切った。この言葉を言うべきか、言わないべきか。ただその一点だけを考えていたであろう間は、存外早くに打ち破られた。


「私は、君のことが好きなんだ」


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