誰か仕事を代わってくれ
「リシャール、魔獣召喚の進捗はどうだ」
拠点たる館の離れにて、魔獣召喚の準備を着々と進めるリシャールの背中に、ロードリックは問いを投げかけた。
離れと言っても石造りの小屋でしかなく、真冬の冷気が身にしみるはずのその空間は、今は大量の書物と蝋燭によって妙な生暖かさを有している。リシャールは書物に落とした視線を上げてロードリックを振り返ると、何事かを小声で囁いた。
「悪いが聞こえない。もう一度述べよ、リシャール」
「も、申し訳ありません。あの、恐らくは一月九日に間に合うかと」
ようやく聞こえたか細い返答は、一応の安堵をもたらすものだった。ロードリックは嘆息して腕を組み直し、再び視線を書物に落としたリシャールに労いの言葉をかけた。
黒魔術は魔法とは一線を画す。
命に干渉できないのが魔法だ。治癒魔法ですら怪我人自身が持つ回復力を増幅させているのに過ぎず、致命傷なら治すことは不可能。ましてや死んだ人間を生き返らせることなど想定すらしていない。
その法則全てを無視するのが黒魔術なのだ。ネクロマンサーなどがこれに該当し、他にも人を意のままに操る術や毒薬の製造など、それら全てが邪法として禁じられている。
リシャールは孤独な子供時代、害のない悪魔を召喚して唯一の友達としていたらしい。それが原因で処刑されかけ、寸でのところでマクシミリアンに救われたと聞いている。
「王立騎士団内部から崩壊させる計画はどうなった。黒魔術によって操りやすそうな者の選定は済んだのか」
「それは、まだ……」
「そうか。忙しいようならこの計画は無かったことにしても良いがな」
王立騎士団の戦力を削ぐために、黒魔術によって裏切りを誘発するという計画。しかしあまりにもリシャールの負担が大きすぎるし、魔獣召喚の計画に影響してはたまらない。
ロードリックが思案顔をすると、リシャールもまた前髪で目元を隠した顔を安堵に緩ませたようだった。
「わ、私は……元より、マクシミリアン様にはこのような、卑怯な真似はふさわしくないと。常々、思っておりました」
リシャールが初めてというくらいに長く語ったことに、ロードリックは浅葱色の瞳を見開いた。そしてその内容が自身の考えていたことと同じだったからこそ、返答にしばし窮してしまう。
マクシミリアンは本来このような真似をするはずがないのに、冷えた声で手段を選ぶなと言う。逆らう気のない臣下たちは当然従おうとしていたが、良識あるものほど疑問に思っている。
謀反を起こしたことに否やはない。しかしそこに主君の幸せはあるのかと。
「私とて、復讐など忘れてほしいさ……」
ポツリとこぼした言葉にリシャールが首を傾げる。失言だったことを理解したのと、離れに部下の一人が飛び込んできたのは、全くの同時だった。
「申し上げます! ゴードン様が王立騎士団に捕らえられたとのこと……!」
ロードリックは視線を鋭くして振り返った。最早リシャールの視線を意識の外に締め出して、部下に報告の続きを問う。
「いつの話だ。状況はどうなっている」
「詳しいことはわかりません。ただ連絡が取れない日が続いており、部下が探したところ血痕が残されていたと」
なるほど、血痕が残されていたのならそれはわざとだ。あのゴードンを捕らえる程の力を持った者が、そう簡単に証拠を残すはずがない。
ゴードンは数少ない良識と常識を併せ持った有能な部下であり、失えば後の計画に障りが出ることは間違いないというのに。
胃が痛い。ちょっとありえないくらい痛くなってきたが、やることはやらねばならない。
ロードリックは離れを後にした。奴を助ける力があってまともな判断力を有している者など、己以外に存在しないのだ。
*
ミルクティー色の髪が夜風に靡き、琥珀色の瞳が驚愕を得て見開かれている。
ロードリックは早速のこの事態に自らの脆弱さを呪った。胃痛が酷過ぎて蹲っていたらこの有様、忌々しいにも程がある。
第三騎士団副団長ネージュ・レニエ。あの英雄バルトロメイ・ガルシアの秘蔵っ子で、若返りを果たした王立騎士団幹部の中でも特に年若い秀才。直接話したことはないが、かなりの実力を持つことは知っている。
それでも殺すのは容易い。副団長の実力では、ロードリックに傷一つ負わせることも叶わないだろう。
しかし本当にそれでいいのか。
今しがた、ネージュは蹲る男の体調を心配して駆け寄ってきたのだ。善意の行動を取っただけの罪無き女を殺すことは、騎士道に反する行いではないのか。
攻撃されることを予測してか、ネージュが防御魔法を展開する。しかし勢いのまま立ち上がったロードリックは、ぶり返した胃痛によって地面に膝をついてしまった。
——くそ、本当に忌々しい。
痛い、痛すぎる。死にそう。治癒魔法をかけてもらったはなから再発するし、何をしても良くならない。恐らくはこの復讐劇が終わるまで、なんなら騎士団長を辞めない限りは、この激痛とは付き合い続けることになるはずだ。
「え……あの……?」
頭上から女騎士が困惑の眼差しを注いでいるのを感じる。
屈辱だ。敵陣に乗り込んだと同時に胃痛で倒れ、あまつさえ弱みを敵に見せるなど。
と言うかこの状況、戦ったら負けるのではないのか。怪我など我慢できるのに胃痛が我慢できないのは何故だ。どうしよう。終わった——。
「だ、大丈夫ですか……! お腹が痛いんですか?」
絶望感に支配されていたロードリックは、不意に背を撫でる細い手の感触を得た。冷汗の滲んだ顔を上げれば、困惑を表情に乗せたネージュが、琥珀色の眼差しでこちらを覗き込んでいる。
「触るな……!」
「言ってる場合ですか。貴方、今にも死にそうな顔色ですよ。お腹を壊しているんですか?」
それは完全に病人に対する態度だった。介護をする者の純粋な眼差しにロードリックは意表を突かれて、つい一瞬口を噤んでしまった。それを是と受け取ったのか、ネージュは鞄を探って透明な瓶を差し出してくる。
「水、飲んでください」
「……敵の施しは受けない」
「毒なんて入っていません。腹痛の原因は? トイレ行きますか?」
「ふ、ふざけるな! 腹を下しているのではなく、胃痛だから困っているんだろうが!」
ズタズタになったプライドによってつい叫んでしまったロードリックは、ネージュの満面の笑みに己の失態を悟った。
「ちょうど良かった、常備薬を買ったところだったんです。はいこれ、胃薬です。飲んでくださいね」
「いらん! 放っておけ、敵の与越した薬など飲めるか……!」
「市販品ですよ、見たことあるでしょう? さほど効きませんが無いよりはマシです。さあ、意地を張らずに」
さあさあ、と差し出された薬包紙には砂色の粉末が包まれていた。それを口元にまで近づけられたところで、ロードリックは観念して口を開けた。
瓶の水を手渡されて、苦味から逃れたい体が勝手に動く。半分ほど飲み干してしまったところで、琥珀色の瞳がじっとこちらを見つめていることに気が付いた。
「良かった、飲んでくださって」
小首を傾げるネージュは、格上の敵に対する恐れなど気にしていないと言わんばかりの笑顔だった。荒く息をする背中を細い手でさすり、穏やかに語りかけてくる。
「最近思い出した話なのですが、これ、手当てって言うんですよ。ほら、手を当ててもらうと安心するでしょう? 少しは痛みが引くといいんですけど」
この時、ロードリックは自身の心臓が大きく弾んだのを感じた。
しかしその原因には思い当たらない。この受け入れ難い状況も相まって、呆然と背を撫でられるままになっていたのだ。




