23、子供の教育
ネメアの獅子は、最近一つの悩みを抱えていた。
それは、一人息子の教育について。
全てを切り裂く強靭な爪と、どのような刃物でも切れぬ鉄壁の毛皮を父から受け継いだ息子は、向かうところ敵無し。
最近では父親の目を盗んでネメア平原を離れ、狩りと称して近隣の森で意味もなく魔物や人を襲ったりしている。
食べるために他の魔物を襲う、己が身を守るために人と戦う……それはいい。
問題は、己が力をただ示すためだけに、意味もなく他者を傷つけること。
それも、おもしろ半分にだ。
更に言えば、息子には自分が逆に殺されるかもという、生き物としての危機意識すらも無い。
これでは、いずれワレらを超える強者に出会った時、逃げることすら能わず簡単に殺されてしまうことだろう。
ワレの育った時代と違い、今の世では神や半神と出会うことは稀だ。
魔物の類も随分と弱くなった。
だからこそ、己が一番強いなどと、殺されるようなことはないと、無邪気に考えてしまうのだろうが……。
今の世にも、確かに強者は存在する。
地上に降りてくる機会が減っただけで、神界には神々がいるし、秘境から出てこぬだけで、ワレらに匹敵する霊獣、神獣の類も少なからずいる。
もし、何も知らずに、そのようなもの達に戦いを挑めば……。
さて、どうしたものか……。
ここはヘラクレス様に頼んでみるしかないか?
だが、ワレと戦った頃ならともかく、あの方も今では立派な神の一柱。
子供の教育を手伝って欲しいなどとは、おいそれとは頼めぬし……。
(ねぇ、ちょっとお願いがあるんだけどいいかな?)
タオ殿からの念話が届いたのは、そんな時だった。
なんでも、トカゲの加工をするのに、ワレの爪の欠片を少しわけてもらいたいとのこと。
この話に、ワレは飛びついた。
気配を探ってみれば、確かに相手はこの前ヘラクレス様の供で東方仙界に行った際に会った童のもの。
だが、その仙気はこの前会った時とは比べものにならぬほどに強大になっていて、下手をすれば今のワレでも敵わぬほど……。
才のある童だとは聞いていたが、わずか10年足らずでここまで育つとは……。
このような者が時折現れるから、人という種は恐ろしいのだ。
ともあれ、これは願ってもない好機!
ここはタオ殿にお願いして、あの愚かな息子の教育に手を貸していただくとしよう。
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「……と、まあ、そんな感じで今回の試合をネメアの獅子さんと計画してね。
アンドレさんもレイアお姉さんも、いい修行になったでしょ?」
「タオちゃん……」
「あれが……修行……? レイア嬢が死ぬかもしれないほどの怪我までされたのに!」
屈託のない笑顔で事情を説明するタオと、それを諦めたような顔で聞いているレイア。
それに対して、自分は納得できないといった顔で怒りを抑えるアンドレだが……。
「(それに、お陰でレイアお姉さんとも随分仲良くなれたんじゃない?)」
二人で苦しい修行を耐え忍び、お互いが命の危機を感じる修羅場を揃って経験したことで、レイア嬢との距離は確かに縮まっている。
それを自覚して、何も言えなくなってしまうアンドレを、にやにやしながら見つめるタオ。
一方、ネメアの獅子親子はというと……。
(父よ! 知っていたならどうして教えてくれなかったのだ!? ワレはあの時、死をも覚悟して……)
タオの仙気を浴びせられた時のことを思い出し、全身の毛を逆立てて怒りを露わにする息子を、
(くくっ、まるで小さな子猫のように、耳を伏せて小さくなっておったな)
そう言って、楽しそうに揶揄うネメアの獅子。
(相手の強さにも気づかず、自分が最強だなどと嘯く様は、まさに蟷螂の斧。己がいかに矮小な存在であるか、思い知ったであろう?)
星座に名を連ねる神獣であるネメアの獅子や、神の一柱であるヘラクレス様はともかく、この地上で自分に勝てる生き物などいるはずがない……そう信じていたが……。
少なくとも、ここにいる3人は自分を傷つけることが可能な存在で、そのうちの一人に至っては、自分はおろか、あの父でさえも敵わないという。
もし、目の前の少女が始めからあの二人に手を貸していたら……?
もし、ワレのあの時の攻撃で、女が死んでいたら……?
もし、男の持つ剣が、あの少女の持つ剣と同等のものだったら……?
何か一つでも違っていたら、今頃ワレは殺されていたかもしれない。
父のように星座に名を刻むこともできず、ただの愚かな獣として……。
(……父よ、ワレが愚かでした。これからは、もう馬鹿なことは致しません)
その言葉に、ここ最近の憂いがやっと晴れたと、ネメアの獅子は密かに安堵の息を漏らすのであった。
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「じゃあ、悪いけど、ちょっとだけ爪を削らせてもらえるかな? 鍛治の触媒に使うだけだから、ほんとにちょっとだけで大丈夫だから」
そう言って、いそいそと宝貝作成用の工具を取り出すタオ。
「気遣いは不要ですぞ。爪など放っておけば勝手に生えてきます。好きなだけ持っていってください」
そう嬉しそうに返すネメアの獅子。
一方、壮絶な死闘を繰り広げた1匹と2人はというと……。
(女、怪我の方は大丈夫か?)
「え、えぇ、もう治りかけているから平気よ。タオちゃんの気功治療が効いてるから」
「あぁ、その、息子殿の方の足は大丈夫か?」
(ああ、問題無い。だが、お前の一撃はなかなか……)
「いや、息子殿の攻撃の方が……」
(女、正直、お前の速さには難儀したぞ)
「いえ、私なんて牽制がやっとで……」
互いに死闘を繰り広げた者同士、互いに保護者に嵌められた者同士、互いの健闘を讃え合っていた。
こうして、目的のネメアの獅子の爪を無事入手した3人はラモスへの帰路についた。
その際、お互いすっかり意気投合した1匹と二人を見て、ネメアの獅子が一つの提案をしたという。
(今回は、息子が世話をかけた。お詫びに、お前たち二人が存命の間に限り、このネメア平原を人が通ることを許可しよう)
この提案により、思いがけずラモスの西に新たな交易路が開けることになり、ラモス領はよりいっそうの繁栄を約束されるのだった。
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『実に、忌々しい! あのヒドラがまさか殺られるとは……』
使い魔からの知らせを聞いた男は、地団駄を踏んだ。
憎きヘラクレスの子孫に一泡吹かせてやろうと思ったが、よもやヒドラが街にも着けずに討ち取られるとは思いもしなかった。
『……いや、いくらヒドラといっても、所詮は余の知るヒドラ殿のひ孫にすぎぬのだ……過度の期待であったか』
もはや大した知性もなく、とてもあのヒドラ殿の血族とは思えぬ存在。
だからこそ、ヘラクレスと闘ったヒドラの戦友という誼だけで使役することができたのだが……。
『わざわざ余が自らの背を貸し、アケロンの大河を渡してやったというのに……』
よもや、ヘラクレスの血をわずかに引いているというだけの只人に、たとえ出来損ないとはいえ、あのヒドラが倒されるとは考えもしなかった。
『ヘラクレスの血は、十分に薄まったと思っていたが……』
あの不名誉な戦いから随分と時代が経った。
余はもう十分に待ったのだ。
これ以上、あの恥辱に耐え忍ぶことなどできん!
だが、どうやって……。




