第八十六話
「じゃあ、あたしは先に失礼するわ。マモンが町でナンパをするとか笑えないこと言っていたから。バカなことするのを止めないと」
「エルザ殿、わざわざご足労頂いて申し訳なかったな」
「無理して労わなくてもいいわよ。恨まれる覚悟なら出来ているから」
オスヴァルト殿下がエルザさんに労いの言葉をかけると、彼女は淡々とした口調でその必要はないと返します。
どうしたのでしょうか。以前は共に戦った仲間ですし、エルザさんに敵意などないのですが。
「別にエルザ殿が命令を出したわけではあるまい」
「…………」
エルザさんは王宮の中庭の辺りで軽やかに地面を蹴り、塀を飛び越えて去っていきます。
オスヴァルト殿下の仰るとおり彼女は使者としてクラムー教の本部から派遣されているだけですが、彼女としては後ろめたい気持ちもあるのかもしれません。
「エルザ殿を恨むつもりは毛頭ないが、些か困ったことになったな。フィリア殿は大丈夫か」
エルザさんの姿が見えなくなり、オスヴァルト殿下は肩をすくめながら私に気遣いの言葉をかけてくれました。
「問題ありません。まだ結論を出すには時間がありますから」
確かにこれは簡単ではない問題です。
そして何より、私たち二人の将来に大きく関わるお話でした。
ですが、私たちに気落ちする時間はありません。
「なぁ、フィリア殿。もしかして、俺のことで悩んでいるんじゃないか? 俺が国を離れられないと思って無理しようとか考えないでくれよ。兄上にはああ言ったが、今はフィリア殿が無理するくらいならこの国を出ていくのも仕方ないと思っている」
先程、ライハルト殿下に反発していたオスヴァルト殿下はこの国から出ていく選択も視野に入れていると仰せになります。
もちろん、これは断腸の思いで口に出している言葉でしょう。
「オスヴァルト殿下がこの国を愛しており、そして何よりも生涯をこの国に捧げたいと真剣に願っていることは承知しています」
「いや、そうじゃなくて! そうだけど、俺は、俺の望みはその隣にフィリア殿がいることだから! 俺の我儘のせいでフィリア殿が困難を被ることになるなら、望みの一つや二つ投げ捨てる覚悟は出来ている!」
私がオスヴァルト殿下の本当に願っていることについて口にすると殿下は私の方を向き直して両肩を掴み、望みを捨てると言われます。
真っ直ぐな視線はいつものまま。その琥珀色の輝きは彼の実直さを素直に表していました。
「殿下、私も殿下ほどとは言えないかもしれませんが、パルナコルタ王国のことを愛しているんですよ?」
「フィリア殿……」
「望みを捨てるなんて寂しいことは言わないでください。この国は殿下にとっても、私にとっても大切な場所なのですから。前に仰っていましたよね。大事な場面では頭よりも心で判断すべきだと」
「――っ!?」
私は自分の胸に手を当てて、この大好きな国に二人で残る道を諦めては駄目だとオスヴァルト殿下に告げました。
心で判断すべきときがあると教えてくれたのは殿下です。
「まったく、俺も情けないな。格好をつけてフィリア殿にかけた言葉をそのまんま返されるなんて」
「オスヴァルト殿下は今も格好いいですよ」
「はは、そうありたいと思っているが今回ばかりはそうもいかなかった。だけど、目が覚めたよ。すぐに諦めるというのは俺の性分には合わない」
左の手のひらに右の拳を叩きつけて、オスヴァルト殿下は力の込められた声を発しました。
どうやら殿下もまたこの状況を打開することに前向きになってくれたみたいです。
「ミアを助けに行こうとしたときも、狭間の世界に閉じ込められたときも、いつも殿下が諦めるなと仰ってくれたので、私は希望を捨てずに前を向けました」
「俺は何もしてないさ。ミア殿を救えたのも、アスモデウスの野望を打ち砕いて帰ってこれたのも、全部フィリア殿が強いからだよ」
「そんなことはありません。オスヴァルト殿下がいなければ、きっと私は挫けていたと思います。私は私が思っているほど強くなくて、正しくもないことを知ることが出来て良かったと思っているのです」
私が困難に直面したとき、殿下の真っ直ぐで素直な言葉がどれだけ力になったのか口下手な私は上手く説明出来ませんでした。
でも、これだけは言えます。パルナコルタ王国に来て一番私にとって大きなことはオスヴァルト殿下、殿下と出会えたことです。
殿下と出会えたから私はこの国のことが好きになることが出来ました。
「こうして話してみると一年も経ってないのに随分と色んなことがあったな」
「はい。私もまさかこんなに早く二度目の婚約が出来るとは思いませんでした」
「そうだよなー。俺も迷ったんだよ。早くないかとフィリア殿に引かれるんじゃないかって。だが、この想いは色褪せないって自信があったからな」
色んなことがあった、という短い言葉に集約するには濃厚すぎる出来事の数々を私たちは邂逅します。
様々な出会いがあり、多くの人に感謝することを私は覚えました。
「だが、俺にとってはやっぱりフィリア殿が一番大切だ。もちろん、この国も大事だがそれだけは曲げられない。だからフィリア殿が望むのなら俺はどこにでも行くつもりだ。これは本心で望んでいる」
殿下は私のことを最優先するのは変わらないと仰ってくださいました。
どこにでも一緒に来てくれる。その言葉の優しさに触れて、私の中で一つの結論が生まれます。
これしかないかもしれません。今はまだ薄い望みしかありませんが、現状をひっくり返すにはこの方法しかこれから先も思いつかない気がします。
「殿下、私と一緒にダルバート王国に付いてきて貰えませんか?」
「えっ?」
「私、決めました。まずはダルバート王国に行ってみようと。ですから殿下も共に付いてきて欲しいのです」
私が殿下にダルバート王国に行こうと提案すると彼はびっくりした顔でこちらを見つめます。
先程とは真逆のことを申し上げているのですから当たり前です。
「ええーっと、いきなりで理解が追いつかないが。それって、フィリア殿が教皇になるって決意したということか?」
やはりオスヴァルト殿下は私が急に教皇になると言い出したと思っているようです。
そうではありません。私が考えているのはその前提を覆すことです。つまり……。
「私に教皇になるようにという命令を取り消していただく為にクラムー教の本部に直談判しましょう」
「な、なんだって!? そんなこと出来るのか? 教皇様の遺言だぞ。覆らないだろう」
直談判という発言にさすがのオスヴァルト殿下も唖然とされていますね。
確かに神にも等しいとされる絶対的な権力を持っている教皇の遺言には大きな拘束力があります。
「こちらの正当性が伝われば絶対に覆らない話ではないと思います。もちろん、相応の理論武装は必要ですけど」
「なるほど、この話が根本から不当であるという根拠を示そうとするって訳か。どうやってすれば良いか俺には想像も及ばないが」
オスヴァルト殿下の仰るとおり、教皇の遺言が不当であることをある程度の証明が出来れば、クラムー教の本部もそれを認めて覆すはずです。
不当であることの証明には当然、それ相応の大きな根拠が必要となりますが、私にはある仮説があり、それが証明出来れば絶対に不可能ではないと言い切れると思っています。
「それに私の気持ちもきちんと知って頂きたい部分もあります。自分は教皇には相応しくないと、パルナコルタの聖女として生きたいと、本部の方々にもお伝えしたいのです」
そして何よりも意志を伝えたいと思っています。
私はどこまでいってもこの国の聖女であり続けたいという想いを皆さんにご理解頂きたいという気持ちが強いのです。
「ふーむ。そういうことか。何ていうか、その。フィリア殿は随分と変わったな」
私の言葉を聞いたオスヴァルト殿下は腕を組みながら考え込む仕草をして、感慨深いような口調で「変わった」と言われました。
えっ? そう言われてみれば、以前よりも積極的にはなったと思いますが、そんなにしみじみと感じられるようなことでしょうか。
「へ、変ですか?」
変化を指摘された私はオスヴァルト殿下の顔を見上げてみました。
殿下はニコリと笑って、ポンと肩を叩きます。
「何を言っている。以前のフィリア殿も魅力的だったが、今のほうが素敵になったに決まっているだろう」
「は、はい。ありがとう、ございます」
幾度となくオスヴァルト殿下の言葉に私はこんなにも恥ずかしく思わなくてはならないのでしょう。
殿下が素直で正直であることを知れば知るほど、その言葉がストレートに私の心を刺激して響き渡り、ドキリと身を震わせるのです。
私はあまりにもはしたない表情を見せたくない一心で、俯いてしまいました。
「フィリア殿、どうした? どこか具合が悪いのか?」
「いえ、お構いなく。大丈夫ですから」
「そ、そうか。だが、フィリア殿の真意は伝わった。そういうことなら俺もダルバート王国に同行しようじゃないか」
俯いた私の顔を覗き込むようにして、オスヴァルト殿下は一緒にダルバート王国に行くことを了承します。
二人でなら、どこに行くのも怖くないと確かな安心感が私の胸のうちにはありました。




