第六十九話
不覚を取りましたね。まさかこうも簡単に捕まってしまうとは。
この肌に感じる異質な空気、そしてマナの量、明らかに地上とは違います。
この場所は恐らく……以前、エルザさんに聞いた狭間の世界とやらに連れて行かれたのだと推測するのが妥当でしょうか。
アスモデウスは私が目を覚ましたことに気付いていませんね。
空を飛びながら何処かを目指しているみたいです。
不用意に私に触れていることは幸運でした。
この方は一度、不覚を取っているにも関わらずあまりにも無警戒です。
大きすぎる力ゆえに油断していても、負けることがなかったからでしょう。
「うがあああああああああああああッ!!」
先程、手を握ったときと同様にアスモデウスは悶苦しみ、私の体を手放します。
そう、再び私はアスモデウスの左腕から体内に自分の魔力を流し込みました。
二度も同じ手を、こんな短期間に受けてしまうのは迂闊としか言えませんが、とにかく私は空中から地面へと落下します。
上手く受け身を取らなくてはかなり痛みを伴いますから気を付けませんと――。
「まったく、あのアスモデウスに捕まってどうやったら自力で逃げられるのよ」
「フィリアの姐さんはやる女だと思ってましたぜ!」
落下を開始して一秒にも満たない内に、エルザさんとマモンさんが現れて、私を受け止めてくれます。
マモンさんなら狭間の世界への道を開くことが可能だと聞いていましたが、こんなに良いタイミングで来てくれるとは思いませんでした。
「ありがとうございます。助かりました」
「お礼が言いたいのはこっちよ。でも、それはまた後で……」
「フィリア姐さんも傷付いているし、まずはアスモデウスの旦那から距離を取らないとな」
アスモデウスは苦悶の表情を浮かべていますが、こちらをはっきりと認識しています。一度、同じことを経験したからなのか、自分の左腕を即座に切り落としてダメージを最小限にしたみたいです。
私も負傷していますし、彼と争うのは良い作戦とは言えないでしょう。
それならば――。
「おのれ! 退魔師め! 僕の愛する人を返せ! 邪魔をするなァ!」
「エルザさん、マモンさん、目を閉じてください……。大閃光球ッ!」
「なっ――!? 目がッ!? 目がーーーーっ!!」
強い光を発する球体を私はアスモデウスに向かって投げつけました。
太陽光の何倍もの明るさを放つ、この球体は直視すると通常の人間なら失明する可能性すらあります。
あまり聖女のお務めをするにあたっては役に立たない魔法なのですが、逃亡しようとしている今は大いに役立ってくれました。
「セント・ヒール……」
マモンさんに抱えられたまま、地面に降りた私は脇腹の治療をします。
普段から怪我に強くなるように血管を鍛えていましたから、出血も少なくて済んでおり、治療はすぐに終わりました。
「器用だなー。聖女っていうのは」
「この人が特別なのよ。なんせ、四百年ぶりに現れた大聖女なんだから」
「フィアナはなんていうか、圧倒的パワーはあったけど、フィリアの姐さんみたいに器用って感じじゃあなかったなー」
怪我も治り、岩陰に身を潜めることに成功した私たち。
それにしても、この空間はあまりにも殺風景過ぎます。
生命の鼓動は感じられず、空を見上げても永遠に白が広がるのみで、岩も地面も真っ白で色というものが失われたのか錯覚する程でした。
ただ、マナだけは色濃く感じることが出来ます。これは体内に魔力が流れている悪魔たちが生息するのに適した環境ということでしょうか。
「大聖女さん、この狭間の世界に興味を持ってもらったところ、悪いんだけど。そろそろ戻るわよ」
「すみません。助けに来てもらって。一人でここに取り残されたら途方に暮れていたところです」
実際、エルザさんたちが来てくれなかったらと想像するとゾッとします。
この環境は修行時代に体験したどの場所よりも過酷に見えましたし、帰る術が想像できません。
「あたしはあなたの護衛だし。それに、あなたはあたしを助けて傷付いたスキを突かれたのよ。さっきも言ったけどお礼を言いたいのはこっち。……ありがとう」
「いえ、聖女は手の届く範囲の全てを救うことが仕事ですから。お気になさらずに」
何やら恥ずかしそうな顔をしながらエルザさんは私にお礼の言葉を述べました。
目の前の人が傷付きそうなのを無我夢中で助けただけですし、その後不覚を取ったのは鍛錬不足だっただけですから、エルザさんが気にすることはないのですが……。
「うおっ! エルザの姐さんが素直にお礼を言ってらぁ! こりゃあ狭間の世界でも雪が降るんじゃねぇか!?」
「うるさいわね! 早く、地上へのゲートを開きなさい!」
「へいへい、わかってるよ。今すぐにゲートを――」
マモンさんがエルザさんを挑発して、彼女が怒ったような声を出すと彼は手を天にかざして、魔力を集中させました。
バチバチと魔力の波動が肌を刺激します。アスモデウスには及びませんが、マモンさんも相当大きな魔力を有していますね……。
「……変だな。地上へのゲートが開かないぞ」
しかしながら、マモンさんは手を下ろしてそんなことを呟きました。
どうやら地上に繋がる道を作ることに失敗したみたいです。
これはどういうことなのでしょうか。
「まさか、アスモデウスのやつ。地上への空間移動を超魔力で封鎖したんじゃ……」
「ちっ! 手が早い旦那だぜ! そんなに惚れた女に逃げられるのが嫌かねぇ……!」
「つまり、私たちはこの狭間の世界に取り残された、ということですか?」
「助けに来ておいて、悪いわね。そういうことよ」
エルザさんは私の言葉を頷きながら肯定しました。
どうやら、上手くアスモデウスから逃げ出せたと思いましたが、簡単には帰らせてもらえないみたいです。
困りましたね。地上の皆さんも心配しているでしょうし、どうにか安否だけは伝えたいものですが……。
「これを使ってみましょうか。まだ試作品で上手く使えるか分かりませんが……」
「なにそれ? ブレスレット?」
私は自らの腕に付けているブレスレットに嵌め込んでいる青色の石を指先で撫でました。
これは聖女のお務めの際に離れていてもリーナさんたちと連絡が取れるようにと作ってみたアクセサリーです。
ブレスレットから放たれる特殊な波長の魔力をリーナさんに先日プレゼントしたネックレスがキャッチして、会話を可能とする仕組みなのですが……。
ここのところ、色々あり過ぎて実験すら怠っており、リーナさんに仕組みもまだ教えないままにしていました。
あのとき、オシャレとやらに私が目覚めたとあまりにも感激されていて話しにくかったんですよね。
問題は狭間の世界から地上へと魔力の波動が届くかどうかなんですが――。
私はブレスレットに魔力を込めて、リーナさんのネックレスと交信を計りました。
『一刻も早くフィリア殿の安否が確認出来ないと、俺は不安なんだよ! ここで待っているなんてあり得ない!』
「今の声はオスヴァルト殿下ですか? フィリアです。聞こえますか?」
『わ、わ、私のネックレスからフィリア様の声が〜〜』
どうやら通信は成功したみたいですね。
ですが、皆さんを驚かせてしまったみたいです。
まずは状況を説明しなくては、ですね。




