1-5
「よしっ、風呂入るか」
自分の部屋の景色とそこを埋め尽くす現実の香り。慣れ親しんだ腹部の脂肪。そして、仮想世界でも再現しきれない現実特有の体の重さ、疲労感が、ここが現実世界であることを知らせる。鏡の前に立ち、自分の容姿を眺める義弘。アバターの容姿と違って、だらしなく垂れた贅肉が体のシルエットをゆがませている。
「問題なのは体型だよな」
身長も割と高く、目鼻立ちははっきりしており、睫毛は長く、目元は堀が深いことによるくっきりとした二重瞼である。それらのみを見れば、男前といえるだろう。しかし、ぽっちゃりという言葉がぴったりな体型が顔の下に続き、その顔を台無しにしている。何度、話す前からこの体型をチェックされたことかと、義弘は苦い表情を見せ、自身の贅肉を掴んだ。
「仮想世界のアバターのような体型になれればなぁぁ」
彼の切実な願いである。
「昔はガリガリなのを嘆いてたのに、今じゃ肥満を嘆いてるんだね、兄貴は。中年のおっさんかよ」
少し開いたドアから覗きながらそう語るのは義弘の妹である吾妻有希。彼女の方は義弘と違い、スタイルも良く、その容姿も可愛らしい。
「有希、俺のヌード見たんだから、ちゃんと金払えよ、1,500円な」
「なんでだよ、そんな贅肉だらけのヌードのどこに1,500円の価値があるんだ」
中学校で何度も告白されている妹の性格は勝気そのもの。その性格を表すかのようなショートカットに、この男よりも乱暴な口調のどこに男子たちは好意を抱くのか。告白してくる男どもは妹を本気で好きなのではなく、容姿だけを狙っているとしか思えないと義弘は心配した。しかし、それを言ったら中学生や高校生の恋愛なんてほとんどが相手の容姿目当てであろう。義弘は軽度のシスコンなのだ。
「いやいや、価値ならあるから。今日食べた飯がこの腹に詰まってる」
「なるほど、それで1,500円ね、って絶対払わねぇからな。こっちは善意で風呂が空いたって伝えにきてやったのに」
「なら、仕方ないな。金はいいから久しぶりに一緒に風呂でも入るか」
「キモっ、死ね」
「うっ、、」
冷たい目線、真顔で言われた言葉が義弘の心に突き刺さる。”義兄ちゃん、お風呂入ろうよぉ”と愛らしく自身の手を引いていた妹に言われるその破壊力は計り知れないものである。銃弾に撃たれたかのように床に四つん這いになった。
「死ねはないだろうが。兄弟のコミュニケーションを取ろうとしただけで死ねはないだろ有希、つい最近までは一緒に入ってたじゃないか、頼む、兄ちゃんの女性恐怖症を治すと思って手伝ってくれ、お前や母さんなら全然怖くないんだよ」
「家族だから怖くないに決まってんだろ、彼女作ってその人にでも頼め。な?せっかく痩せれば見れる顔してんだからさ兄貴は」
有希が床にうずくまる兄の肩に手を乗せ、優しく呟く。
「馬鹿野郎、女性恐怖症なのにどうやって彼女を作るんだよ。その時点にたどり着けるならもうとっくに治ってんだろうがよぉ」
悲しくなる。今までに好きになった女子もいたが、近づくことさえ叶わなかった。彼の言葉はふざけた調子で聞こえるが、内心は自分はなんて情けない男なんだと、これじゃ好きな人も抱きしめることすら叶わないという悲壮感で溢れている。その言葉を聞いた有希は無言で自身の部屋に帰って行った。
義弘もまた無言で立ち上がると風呂に行き、眠りに就くための準備をする。こうして、吾妻家に静かな夜が訪れるのであった。
**************************
その日の夜、義弘は悪夢にうなされていた。それは彼が良く見る夢であり、女性恐怖症の原因そのものである。 そもそも義弘が女性恐怖症になった理由は幼少時代にあった。彼が小学校二年生の時、とんでもなく可愛らしい容姿をしていた義弘は幼い男子に性的欲求を抱く女性から拉致されかけたのだ。そのときの女性の言葉、息遣い、自身に向ける狂気じみた目が今も義弘の心を震え上がらせる。
「おい、起きろ義弘、義弘っ」
耳元で囁かれる懐かしい声、起こすときの揺さぶり方も懐かしい。3年ぶりに叔父に起こされている。
「んぅ、んん。あれ…おじさん?帰ってくるのは明日じゃなかった?」
「久しぶりだな義弘。だけど、再会を喜んでる場合じゃない……周りをよく見てみろ」
「え…どういうこと?」
まだ夢を見ているのかと思いながらも、視線を移した。しかし、義弘がみている景色、そこは眠りに就いた部屋ではなく、だだっ広いだけで何もない無機質な空間が広がっており、大勢の人がそこに集められていた。
「え……これ夢?夢…いひゃい、いひゃい」
おかしい。おかしすぎる。明日帰ってくるはずの叔父が目の前にいて、粗末な大合唱のような喧噪が聞こえてくるなんてありえない。自宅の部屋でまだ夢を見ているのかと引き続き思うそんな義弘の頬を、叔父が抓る。義弘はこの痛みで思考が冴えてきたのか、急に起き上がった。
「夢……じゃない」




