合格基準
小隊長の康秀が全員を鼓舞する声を何度も上げる。その声に答えるように、義弘たちを含めた49名の男女は肉体の限界を精神で乗り越えようとしていた。
「あと30秒だっ。ほら、自分の限界を超えていけ」
ぐぬぬっと体の底から力をなんとか絞り出すかのように全員が唸っている。しかし、義弘は違った。穏やかな表情で耳を澄ましているのである。この時、彼は自分の体を腕で押し上げながら、ある心境を体感していた。それは座禅にも似た気分だ。周りの時間が緩やかに感じる。キツイはずなのに意識が洗練され、仲間たちの荒い息遣いさえも小鳥の囀り、穏やかな風に揺れる草木の音のように聞こえる。落ちる汗も葉から水面に滴る光景を見ているかのようだ。
一切の邪念が浮かばない明鏡止水の心持ち。義弘はこの心境のまま、己の限界を難なく超えて見せた。2分間に腕立て60回以上しなければならないのを1分30秒でクリアし、そして続けざまに腹筋を行っていく。これまた同様に2分間以内に60回以上だ。男子・女子にかかわらずこれを行い、制限時間内に出来なくとも最後まで回数をこなさなければならない。
これが終われば男子は20キロ、女子は10キロの装備をそれぞれ身に着け、3kmを走破し、その後は男子は懸垂12回以上、女子は懸垂8回以上をこなさなければならない。全ては徹底的に精神と肉体を追い込むことで、過酷な環境を生き抜ける適応能力を身に着けさせ、少しでも生存率を上げるためだでもあり、第1段階の1発合格を目指すためだ。
第1段階の基礎体力テストの合格基準は次のとおりである。
【男子】
1:腕立て40回以上、腹筋40回以上(いずれも2分間以内)
2:3kmを15分30秒以内で走破
3:懸垂8回以上
【女子】
1:腕立て20回以上、腹筋25回以上(いずれも2分間以内)
2:3kmを17分30秒以内
3:懸垂4回以上
この合格基準をを超えたトレーニングを康秀率いる小隊は今、やっているわけである。しかし、康秀曰く、これでもまだ”ぬるい”のだそうだ。3段階終了時までには次の体力検定をこなせるようになることと訓練前から小隊メンバーに示されていることからも、康秀の目指す部隊の基礎体力の基準がうかがえる。
【男子】
1:腕立て80回以上、腹筋80回以上(いずれも2分間以内)
2:3kmを10分30秒で走破
3:懸垂18回以上
【女子】
1:腕立て45回以上、腹筋65回以上(いずれも2分以内)
2:3kmを13分20秒以内
3:懸垂10回以上
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康秀が見守る中、訓練を倒れるような勢いでこなし切った小隊メンバー達。康秀が風呂場のカギを借りに行ってる間、彼らは海上基地を覆う潮風と、波の音が薄暗くなる景色の中に溶け込んでいく様を、身に感じながら、只々、空を眺めていた。
「義弘、これから俺たちどうなるんだろうな」
「急にどうした基樹?」
心配で仕方がないのだ。あの紫電の中でアバターを通してやっていたことを、今度は己の身でやり、戦場を生き抜いていかなければならない。死ねばやり直せるなどということはない。死ねば終わりなのだ。
「怖くて仕方がない、凄い怖いんだ。この世界で死ぬことが」
基樹がこぶしを握り締めているのが見える。義弘も同じだった。怖くないはずがない。亡者編の死ぬ要素と言えばゾンビ達に囲まれ死ぬか、ボス級の怪物にやられるか、ヘマをこくかだ。ゲーム内では表現はされないが、この世界では違う。死が自分に訪れるのだ。
「心配すんな。此処にいるみんな一緒だよ。ほら、見てみろ、俺だってこんなに手が震えてる………あ、これ筋肉がマヒしてるだけか」
「いい加減にしろよ。義弘」
「そういうの要らないって」
小隊メンバーが義弘の発言に呆れたように小さく笑いながら突っ込みを入れる。怖がっていた基樹も笑いを我慢できず吹き出した。リアルで友達のいなかった義弘が大いに笑っている。過酷な状況を共に過ごした年齢の近いメンバーたちは友達を通り越した”仲間”となっていた。
「義弘君って彼女いたの?」
2歳年上で同じ隊の女子である相沢祥子がそう言い放った瞬間、さっきまでの笑いの空気が嘘のように消え去った。代わりに気まずい空気が流れ始める。
「いや、いないですよ。太ってたし、女子たちに嫌われてたし」
彼女は第1海上基地にいる女子たちの中で、男子たちに可愛いと言われている内の一人であるが、やたらと義弘に絡みだがる。それは、男子たちから絶大な人気を集めている女子があまりにも面白い反応を示すからだろう。
「相沢さん、義弘に変なこと余り聞かないでくれますか?」
赤松葵だ。義弘に女子が近づくときは必ずと言っていいほど彼女が立ちはだかった。そして、今回も葵が言葉を挟んでくる。男子たちはそんな義弘を羨ましがっていたが、女性恐怖症という話を聞いて以来、みんな義弘を不憫に思っているのだ。幼少時の頃の話を聞いたときなど、みんな義弘を抱きしめようとしたくらいだ。そして、”女子がなんだ”、”自分を貫け。モテなくとも、女子に媚びる軟弱モヤシ野郎よりましだ”、”異性に媚びるな”の合言葉で団結したのだ。
「え、なんで?葵ちゃん関係ないでしょ?」
「関係があるとかないとかじゃないんです。義弘は女性が苦手なんです」
聞けばわかる。自分に好意を向けている女子が争っているのだと。義弘はどこかの主人公みたいに”よく聞こえなかった”とか、”どういうことだ?”など難聴・鈍感野郎ではないのだ。その代わりに、その好意を受け入れるだけの余裕がなかった。できれば余り関わりあいたくないと思っている程である。故にこうして葵が女子たちを近づく前に追い払ってくれるのが嬉しかったりもするのだ。
「だったら、祥子が彼女になってあげる。そんで、一緒に治そ?ね?祥子、義弘君の為だったらなんでもしてあげる。どんなことしてもいいから」
撫で声を響かせながら寝転ぶ自分の傍に寄り、手を握った相沢祥子に義弘は何とも渋い顔を見せる。そして、同時に渋い顔を見せていた人物が小隊メンバーの中に何人もいた。特に義弘の周囲にいた者達だ。
「相沢さん、義弘が迷惑がってますから止めてくださいっ」
「そうですっ、いい加減にしてください」
「いい加減にしろよ、相沢。そういうことは止めろって何度言ったら分かるんだ。訓練のあとだから余計な体力使わせんなよ」
近くにいた男子たちが葵よりも先に動き、義弘を祥子から引き離し、壁を作った。彼女は、舌打ちをしながらそれを見る。
「だって、何時までも女性が怖いままだったら義弘君、ずっと童貞のままだよ?私たちなんて、これから先いつ死ぬか分からないんだから早いとこ体験しとかないと」
チラッと自分を見ながら、そう語る彼女の眼は何処か寂しさを宿しているように義弘は感じていた。自分に性的欲求を抱き、襲ってきた女性の目とはだいぶ違うものだと。それと、訓練を終えたばかりだというのに、良くこんなに元気があるものだなぁとも感心していた。
「あのなぁ、今の俺たちはそんなこと、どうだっていいんだよ。生き残って元の世界に帰ることの方が大事だ。家族の元に俺たちは帰りたいんだよ!!仲間も死なせたくないし、ってなにが言いたいかって言うと、俺ら男がいつも女子のことを考えてると思ったら大間違いだってことだよ。気持ちわりぃ媚びた声で近づいて、キタねぇ目でこいつを見るんじゃねぇよ、気持ちわりぃ!!」
「はぁ?泉、あんた今なんて言った!?」
大学1年生だったという好青年の泉隆弘が睨みながら言い放った言葉は、祥子の沸点に触れてしまったようだ。さっきの撫で声は何処に行ったのかと思えてしまうほど、ドスを利かせた声で泉隆弘に詰め寄っていく。そこに義弘が割って入った。
「女性恐怖症を治さないといけないのは祥子さんの言う通りです。これじゃ、自分を好いてくれている女性を、大好きな女性を目一杯抱きしめてあげられることもできませんし、こんなんじゃ童貞を卒業することもできない。ということは家庭を築けないってことですから、祥子さんの言ってることも間違ってません。でも、今はそれよりも、必ず生き残って元の世界に帰ることの方が大事です。俺は全員に生き残ってほしい。絶対に死なないで欲しい。でも嫌な予感ばかりが浮かんでくるんです。それで、寝れないときもある。えっと、何が言いたいかっていうと……明日も訓練頑張りましょう、お疲れさまでした。先に風呂行きます」
「あんの野郎っ」
「おい待て、義弘」
「ずるいぞ、義弘」
そして、首に掛けた幼少期に家族から貰ったお守りを握りしめながら、並々ならぬ思いを紡ぎだす。平和な世界が、家族が近くにいた日々がどれだけ恋しいか、それをどれだけ求めているか、言葉に熱が籠っていた。そして、それは、これからもっと強まっていくだろうという気持ちも全員に感じさせる。
しかし、そんな話とは裏腹に義弘の動作おかしく、話しながら装備を手に持つと、急に走り出し、風呂場へと向かっていったのである。男子全員が”しまった”と言わんばかりに急いで装備を持ち上げ義弘の後を追った。
男たちが笑いながら焦っているのは、風呂に備え付けられているシャワーの数が人数分ないからである。ジャンケンなどでいつも順番を争っていたりするわけだ。だから、皆に先駆けて風呂場に行く義弘に出し抜かれたと言わんばかりの声を上げているのである。




