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あなたが好きだったから。

掲載日:2025/12/30

氷雨そら先生、キムラましゅろう先生主催、

シークレットベビー企画参加作品です。


初めてのシクべです。

よろしくお願いします。



 あなたが好きだったから、私は身を引いた。

 もともと、3年だけの契約婚だった。

 恋愛感情なしに、偽装夫婦を演じよう。

 そういうあなたに同意をして一緒に暮らし出した日々。

 それなのに。


 約束の期限の三日前、まさか酔ったあなたとそういう関係になるなんて、思わなかった。


 だから。 私はそのまま翌朝家を出た。

 私だけが、どんどんあなたを好きになってしまったことを隠したくて。

 こんな気持ちを悟られ、あなたに迷惑がかかるのに、耐えられなくて。





 それから三年。

 辺境の街に逃れていた私は、一人の子を生み育てていた。

 かわいいかわいいマオ。この子は、私の宝。


 だいすきよ。マオ。

 ごめんね。

 あなたにお父様をあげられなくて。



 ◇◇◇



「おはようございます!」


「ああおはよう。今日も早いね」


「ふふ。だってこんなに気持ちのいい朝なんだもの、いつまでも寝てるのなんてもったいなくって」


「ははは。そうだね。ああ、これ持っていきな。サービスだ」


 朝市の屋台が並ぶ、このシュレイン広場を走り抜けようとしていたあたしに、いつも挨拶する果物屋さんのおじさんがリンゴを一個投げてよこした。


「はわわ」

 ジャンプして両手でなんとかキャッチして。

「ありがとうおじさん」

 そうお礼を言いつつ、りんごにかぶっとかぶりつく。

「美味しい」

 思いっきり笑顔を見せて、お辞儀をした。


「まあいいってことよ。それよりも、お前さん、今日も急いでるんだろ? さあ、行っといで」


「ほんと、いつもありがとうおじさん! じゃぁ、行ってくるね!」


 そのままくるっと振り向くと、また急いで走り出すあたし。


 広場を抜けて少し行ったところにある総合病院。そこに入院している母さんの顔を見に行くのがあたしの日課。

 お仕事前の少しの自由時間を使って行くのに、この広場を迂回してたら時間がもったいなくて。ついついこうやって中を走り抜けてしまう。


 うん。「顔を見に行く」ってあたしは言った。

 会いに行く、じゃない。

 石のように固まったまま寝たきりの母さん。

 もう10年、意識が戻らない、ままだ。


 病院の門を通り抜け、裏口から入る。

 面会時間は午後からだから、こんな朝早くは本当は許されないんだけど、あたしは特別に許可をもらってこうして毎朝ここを通してもらっている。

「おはよマオちゃん、今先生の巡回中だから気をつけてね。廊下は走っちゃダメよ」

「はい、すみませんレイン師長。歩いていきますね」

 待合を通り抜け入院病棟の入り口を駆け抜けたところで、いつもお世話になってる看護師長、レインさんに叱られて。

 気を取り直し早足で歩き、母さんの病室まで急いだ。


 母さんの病室は、個室になっている。


 普通の病室は大部屋が基本。カーテンで仕切られただけのパーソナルスペースで寝かされているのが普通のこの入院病棟において、母さんは特別な存在、ではあったから。


 基本、動くこともなく、眠ったままだ。

 ううん、生きているのかさえ、遠目に見てもわからないだろう。

 生命活動は著しく低下し、まるで冬眠でもしているかのように、呼吸音すら聞こえない。

 肌も青白く硬化してしまっている。

「石化病」とは、よく言ったものだ。

 本当に石になってしまったわけじゃぁないけれど、まるで石像にでもなったかのように、身動き一つ見られなかった。


「母さん。おはよう。あたし、好きな人、できたかもしれない……」


 今日はそれだけ報告し、部屋をあとにする。

 金色の髪も、青白い肌も、母さんは10年前から時が止まったかのようだ。

 10年前、まだ二十五歳だった母さん。

 あたしももう、十五歳になったよ。

 もう、親子じゃなくて姉妹にしか見えない、よね、これじゃぁ。


 そんなことを考えながら、あたしはもときた道を戻る。

 8時には、お仕事が始まる。

 それまでに戻らなくちゃいけない。急がなくちゃ。



 ◇◇◇


 おうちのベッドで硬くなった母さんを見つけたのは、あたしが五歳になったばかりの頃だった。

 呼んでもゆすっても起きてくれなくて。

 このまま母さんが死んじゃうんじゃないかと思ったあたしは、泣いて隣の家のゾフマンさんに助けを求めた。

 それから、慌ただしくやってきた医者。役所の人、母さんの職場の人。

 母さんに縋り付いて泣くしかできなかったあたしに声をかけてくれたのは、母さんの勤め先のご主人、コーラル様だった。


「マオくん。君のお母さんフローラは『石化病』に罹ってしまったようだ。この病気はとても珍しい病気でね、ここでは治療の方法がないんだ。フローラは首都、メルロマルクの総合病院に移送することになる。君は……」


「いや、母さんと離れたくない!」


「ふむ……。君は、頑張れる、と、誓える、かい?」


「なんでもします。がんばります。だから、お願い。母さんのそばに、いたいです」


 思えば……。

 五歳のこの時、あたしは何もわかっていなかったんだと思う。

 それでも、こんな小さなあたしでも、働き口があるなら働いて、母さんのそばに……。って、それだけを考えていたのはほんとう。


 そもそも、こんな辺境の街で慎ましく暮らしていた母さんとあたし。

 そんなあたしたちがこの国の首都メルロマルクに行くことになるだなんて。

 母さんの入院費は、どうなっているんだろうか、だなんて。

 そんなことまで頭が回っていないくらいには世間知らずだったんだ。


 母さんは、「石化病」と診断された。

 っていうか、他にそんな症例の患者が存在したわけじゃないらしい。

 それくらい、珍しい奇病ということだった。

 そして。


 うん。今ならわかるよ。母さんは研究材料として首都に運ばれたんだって。

 あまりにも珍しいから、どこかのスポンサーがついてくれたんだって。

 そうとでも考えなきゃ、この10年の間の治療費、賄えなかっただろうって、思うもの。


 そして、多分。

 そのスポンサーになってくれたのが、今のあたしの勤め先。

 この大きなお屋敷のご主人様。

 フリーデン侯爵様だろうってのは、わかる。

 じゃなかったら、五歳のあたしを引き取って、学校に行かせてくれたりしなかったと思うもの。

 十二歳で初等科を卒業後、あたしはこのお屋敷で働かせてもらってる。

 恩を、返さなきゃ。

 そう思うから。


 ◇◇◇


 お部屋に戻ると一旦服を全て脱いで、汗を拭き取る。

 病院まで近いと言っても全力疾走で駆け抜けて戻ってきたのだ。このまま人前に出るのはちょっと憚られる。

 下着も変えて、お仕事服に着替えたあたしは、最後に母さんの日記を抱きしめ。

「行ってくるね」

 と、声をかけてお部屋をでた。

 メルロマルクに出てきた時、唯一持ってきた母さんの荷物。

 母さんがあたしを育ててくれた記録が綴られているこの日記は、あたしの中では唯一の母さんの思い出。大切な、母さんの記憶。だから。

 泣きたくなった夜は、何度もこの日記を読み返した。

 大好きだって言ってくれる母さん。

 そばに母さんがいてくれる。そう思うことで、なんとかこの10年を過ごせてきたのだと思う。


 お仕事は、主に掃除にお洗濯に、お料理の下拵え。

 お屋敷は広く、お部屋も多いので、大勢のメイドが雇われている。

 あたしはその中の一人。

 メイド長の指示で頑張って働いているけど、こうして体を動かしていると気が紛れる。


 カラン、カラン、と鐘が鳴った。

 あれは旦那様がお出かけになる合図。

「マオ、行くよ」

「はい、リーシャ先輩」

 あの音が鳴ったら近くにいる使用人は皆旦那様のお見送りに集まって、整列する。

 ロビーの隅っこで並んでいると、旦那様、エドワード様が、見送りの使用人たちをさっと見て、「それでは行ってくる」と声をかけてくださった。

 濃厚なバリトンボイスが響く。あたしはあの声が好き。

 なんだかすごく落ち着く気がするもの。

 一瞬、旦那様のお顔があたしを見て、微笑んでくれた気がする。

 もう、それだけで幸せな気分になる。


 旦那様に初めてお会いしたのは、母さんの移送のためコーラル様に付き添われてこの首都メルロマルクに着いた時。

 病院に寄る前にお屋敷に赴き、あたしは旦那様に紹介された。

「マオくん。君はこの屋敷でお世話になることに決まった。さあ、挨拶しなさい」

 そういうコーラル様に従い顔をあげると、そこには母さんよりも少しだけ年上だろうか、まだお若い、王子様のようなお方がいらっしゃった。

 長めの金の髪をバックに流し、精悍なお顔立ちがはっきり見えて。

 青い瞳は、サファイヤのように煌めいて見えた。


「マオ、というのか。君は」


「ええ、母さんは、真実の愛という意味があるのだと、そう教えてくれました」


「そうか。良い名だ」


 そうおっしゃって、あたしの頭をくしゃくしゃっと撫でてくれた旦那様。

 泣くのを我慢していたのが、わかったのだろう。


「良いんだ。もう、我慢しなくていい」


 低く、染み渡る声に、なんだかすごく心が癒え。


「ごめんなさい、旦那様……、我慢、できな、くて……」


 涙が止まらない。留めなく頬を伝い、ボトボトと落ちていく。


「もう、大丈夫だ。大丈夫、だよ……」


 大きな体を屈ませて、あたしをそっと抱きしめてくれた旦那様。


 心がふんわりと温かくなって、あたしはいつの間にか、そのまま寝入ってしまったらしい。



 気がついた時、ふかふかのお布団に寝かされていたことに気がついたあたしはものすごく恐縮して、旦那様に謝らなきゃと思ったのだけど。

「子供がそんなこと心配しなくていいよ。君はもううちの子だ。このまま学校にも通わせてあげるから」

 そう優しくおっしゃってくださった旦那様。

 最初は意味もわからず言われるまま学校に通っていたけど、ある時メイドの一人の言葉で真実を知った。

「ボランティア、なのよ。資産家っていうのはそういう援助をどれだけしているかが社会的なステータスにもなるのよ。よかったわね、奇病のお母様がいて」

 あたしに嫌味ばかりいうベッキー。

 彼女のセリフに、あたしはやっと納得できて。

 彼女も結婚して退職していったからもうここにはいないけど、それでも彼女がいたからこそあたしは慢心せずに済んだのだと思う。

 小等部を卒業する時、旦那様は言った。

「良いんだよ、君はこのまま高等部まで学校に通っても。そうして卒業しさえすれば、君は立派なレディになれる。好きな人と結婚することも、好きな職業に就くことも、自由だよ」

 優しくあたしの目を覗き込むようにして、にこりと微笑む旦那様。

 この時、あたしはなんだか突き放されるような気がしていた。

 学校の図書館で読んだ「奨学金おじさま」のように、貧しい少女に援助を惜しまないボランティアだ、と、それだけの関係なのだ、と、そう思い知らされて。

 でも、だめ。

 あたしは、旦那様のそばにいたい。

 旦那様に、恩返しをしたい。

 だから……。


「あたしは……、働きたいです。小等部を卒業したら、どうかここで働かせてください」

 そう懇願した。


 最初は渋っていた旦那様。


 でも、最後は折れてくださった。


 あたしのわがままを聞いてくれる形で、そのままここ、このお屋敷でメイドとして雇ってくださったのだった。



 ◇◇◇



「おい、マオ。ちょっとお茶を入れてくれないか」


 ロビーでお掃除をしていると、そう声をかけられた。


「はい、ただいま」


 大きな声で返事をし、振り返る。


 旦那様と同じ金色の髪、サファイヤ色の瞳。あたしより三つ年上の、このお屋敷のおぼっちゃま。

 アンソニー・フリーデン様。


 厨房からアンソニー様の大好きなミルクティーを調達すると、ワゴンに乗せて彼のお部屋に急ぐ。


「お待たせいたしました」


 礼をしてお部屋に入ると、アンソニー様は机に向かって本を読んでいるところだった。


「ああ、ありがとう。マオ。ちょっと夢中になって読み進めてたら、喉が渇いてさ」


 こちらを向いて、そう笑顔を見せる。


「それではお茶はこちらにおきますね。机の上じゃ、御本を汚してしまってもいけませんし」


「そうだね。じゃぁ、一緒にお茶にしようか」


「え? そういうわけにもいきませんよ? 私は仕事中なのですし」


「大丈夫だって、少しくらい休憩しても。それとも君は、僕に寂しく一人でお茶を飲めっていうのかい?」


「ふう。しょうがないなぁアンソニー兄様は。私と兄様じゃ身分が違うのよ? いつまでも兄妹の真似事はできないの。わかってるでしょう?」


「ああ、わかってるさ。兄妹じゃないのは。でも、マオが僕のお嫁さんになってくれたら、身分とかそんなの関係なくなるような気がするな」


「ダメよ。あたしは平民、兄様は次期侯爵様なのよ? いくら幼い頃から一緒に育ったって、それは変わらないもの」


 あたしがここに引き取られた五歳の時から、ずっと一緒に育ってきたアンソニー兄様。

 兄様って呼び方は、それこそアンソニー様に強要されて始めた言い方。

 旦那様とか奥様も、それを咎めることもなかったから、あたしももうすっかり慣れてしまっていたけれど。


「それにね。マオ。君のその青い瞳は、絶対貴族の血を引いているからこそだと思うんだけどね?」


 え!?


「あたしの、瞳?」


「ああ。君の母さんの瞳は何色だった?」


 母さん……。

 明るい金色の髪、真っ白な肌。そして、薄い茶色の瞳。

 あたしの顔立ちは母さんとそっくりになった、けど。

 同じ金色でも艶のある黄金の髪、そして、この青い瞳は、きっとお父様からの遺伝、なのだろう。そう感じていた。母さんの日記にあった、母さんが愛していた、お父様……。


「母さんは、薄い茶色、だったわ……」


「ごめん、マオ。ちょっと配慮、足りなかったね……。君の母さん、寝たきりだから、瞳の色なんて随分見てないよね……。ごめん、色々思い出させちゃったかな……」


 あたしが固まったように物思いに耽っていたからか、アンソニー兄様はそう、謝ってくれる。


 うん。兄様はそういう人。ずっと一緒にいたからわかる。大好きよ、兄様。


「ごめんなさい兄様。あたしは大丈夫、だから……」


 ああ、だめ、お茶が冷めちゃう。


 あたしは応接テーブルにお茶のセットを置いて、そしてお茶菓子として用意したクッキーも並べて。

 ついでにあたしの分のカップもおき、ポットから並々とミルクティーを注いだ。


「ごめん、兄様。お茶、冷めちゃうからいただきましょう?」


「はは。そうだね。ああ、うまそうだ」


 どっかりとソファーに腰掛けると、あたしにも座れとジェスチャーする兄様。

 そうして二人きりのお茶会? が、始まった。


「うまいな、このクッキー」


「そうでしょ。兄様の好きな野いちごをラム酒につけて、それをクッキーの生地に練り込んだの。サクサクっとした食感と、じわっとくるラム酒の香りが絶品よね。我ながらよくできたと自画自賛してるのよ」


「ああ、本当に。マオは菓子作りが上手だな」


「えへへ。なんとか料理長に頼み込んで、兄様のおやつ係にしてもらったから」


 ふんわりと微笑むアンソニー兄様のお顔が、ちょっと真剣な瞳に変わる。


「さっき僕が言ったこと、冗談とかじゃ、ないから」


「え?」


「僕は、結婚するなら相手は君しかいないって、そう思ってるから」


 ええ!!


「だって、兄様……」


「父様にもそれとなく打診してみた。本気だって、そう」


「旦那、様、に?」


「反対はされなかったよ」


 え、だって、でも、それじゃぁ、でも……。


 涙が、一雫落ちた。


 あたしが泣いて俯いてしまったから、兄様はそれ以上話すのをやめた。


 ああ。

 兄様はどう思ったのだろう。

 それだけが、不安、だった。





 ◇◇◇



 あたしの「好き」は、隠さなきゃいけない。


 絶対に。


 叶わない、のもわかってる。

 だって……。



 この10年の間に分かったことが、ある。

 母さんの病気は自然な病気、ではなく、呪いの類だろう、ということ。


 一体、どこの誰が。

 それはわからずじまいだったのだけど。


 そして。


 母さんのところにお見舞いにくるご婦人。

 とある男爵家の未亡人、母さんによく似た顔立ちの方。

 彼女が母さんのお母様、あたしのおばあさまなのだろうと、そんな気はしている。

 名乗ってはくださらなかった。

 おばあさまにはおばあさまの生活があって、今は家督を養子に譲り、お家でも肩身が狭いのだと、そうそれだけおっしゃっていた。

 あたしが侯爵さまのお家でお世話になっているって告げると、とても喜んでくれたから。多分、間違いないと思う。


 どんな事情があって母さんがお父様のそばから離れたのかまでは日記には書かれていなかった。

 あいしていたから身を引いた、それだけだ。

 どうして三年だけの偽装結婚なんてことをしていたのかも。

 お父様の素性も、そう。

 だけど、きっと、あたしがお父様の子だとわかるとお父様に迷惑がかかる、母さんはそう危惧していたのだろうということは察することができた。

 おばあさまも、それが分かっているから、あたしに名乗り出てくれないのかもしれない。

 それでも、今のあたしが幸せだというと、自分のことのように喜んでくれた。

 それだけは、真実だと思うから。




 兄様のお母様、アニータ様は、お屋敷の本館には滅多にお顔を出されない。

 離れの別館で、静かに暮らしていらっしゃる。

 そんなおとなしい方だった。

 屋敷の皆は「奥様」って呼んでいるけど、奥様らしいことを特にするわけでもない。

 そんな彼女よりもある意味威張っている女性、イライザ様がいらっしゃる。

 アニータ様のお姉様、という話だけど、実家のラウル家がこのフリーデン侯爵家の親族の伯爵家だからか、昔から懇意にしているから、と、我が物顔でこのお屋敷に出入りしている。

 未亡人で、家督は息子、まだ幼いリチャード様が継いでいるらしい。

 暇なのかな。

 最初はそう思ってた。

 でも。

 彼女が旦那様を好きなのだ、というのに気がついてから、あたしは彼女のことを警戒するようになっていた。

 そんなあたしの心がわかるのか、あたしも彼女からは嫌われて。

 会うたび、厳しく叱られる。

 あたしの掃除の仕方が気に入らない、と、殴られたこともあった。

 旦那様や兄様にいいつけるような真似はしなかったけど、きっと兄様だったら怒ってくださっただろうな。そうは思う。

 でも、そんな事をすればきっともっと彼女の怒りを買って、あたしはここに居られなくなるかもしれない。それが怖かった。

 他の使用人のみなだって、この屋敷の女主人よろしく威張り散らすイライザ夫人にさからうことはできなかったもの。

 お屋敷のお仕事は、一人きりじゃできないから。

 イライザ夫人がその気になって命令したら、きっとあたしの居場所なんか無くなってしまうだろう。


 彼女がきている時は、なるべく目立たないようにひっそりとお仕事に集中する。

 それでも彼女の機嫌の悪い日は、わざわざあたしが居るところにやってきては当たり散らす事が多かった。

 癇癪の吐け口に、あたしはちょうどよかったのかもしれない。




 ◇◇◇


「何度言ったらわかるの! わたくしの好みはストレートティーよ。それなのに、こんなミルクばっかりのお茶を運んでくるなんて! あなたなんかクビよクビ、とっとと荷物をまとめて出て行きなさい!」


 ガシャン


 カップが割れる音。


 イライザ夫人が癇癪を起こしているのがまるわかりの音だ。


 ああ、いけない。今日のいじめのターゲットはリーシャ先輩!?

 あたしなら、いつもおこられなれているからいいけど、ううん、よくはないけど、このままだとリーシャ先輩がお屋敷から追い出されちゃう。


 ていうか、先輩、あたしが兄様用に用意してたポットと間違えちゃったのかも。

 ああ、ごめんなさい先輩。言って無かったあたしも悪いかもしれないわ。


「申し訳ありませんイライザ夫人。そちらのポットはアンソニー様用に私が用意していたものでした。夫人用のものも別に用意しています。ですから、申し訳ありません。今すぐお持ちしますから……」


 お部屋に駆けつけ、リーシャ先輩を庇うように前に出る。

 憎々しげに、あたしのことを舐め回すように睨む夫人。


「あなた、それですむと思ってるんじゃないわよね。すぐにそこの割れたポットを片づけなさい! いいわね、すぐによ!」


「あ、では雑巾と箒と塵取りを持ってまいりますので」


「バカね。わたくしはすぐやりなさいと言ったのよ。素手でお掃除なさい。それくらいできるわよね!」


「だめ、マオ。手、怪我しちゃうわ」


「いいのよ、リーシャ先輩。これくらいなら……」


 あたしは床に跪き、欠けたカップやポットを拾いエプロンに集めていく。

 うん、気をつけてやれば、なんてことはないわ。

 そう思いつつ、慎重に。


「なにモタモタしてるのよ! 早くやりなさいって言ったわよね!」


「痛い!」


 足で、手を踏まれた。

 拾っている途中の陶器のかけらが、ざっくりとあたしの手にくいこんでいる。


「あら、手が真っ赤じゃない。汚らしい。あら、でも、どこの馬の骨かわからない下賤の女の血が流れているのですもの、汚くて当たり前、だったわね」


 そう言い放つ、イライザ夫人。


 あたしのことなら、何を言われても、いい。

 どんなに叱られても、傷つけられても、我慢できる。

 でも。


「訂正、してください。あたしの母さんは、汚らしくなんかありません!」


 膝をついたままだったけれど、あたしはキッと顔をあげ、イライザ夫人の目を見据え。


「あたしの母さんは、天使のように綺麗な心の人でした。女手一つで苦労して、あたしを育ててくれたんです! あたしはいくらいじめられても、いい。でも、母さんを侮辱するのだけは、許せません!」


 たじろぐ夫人。

 あたしは目を逸さず睨み続けた。


「なにをしてるんだ!」


 騒ぎに気がついた兄様が、あたしのそばまで来て肩を抱いてくれた。


「怪我をしてるじゃないか! マオ、大丈夫か。すぐに医者を呼ぶから!」


「兄様、ありがとうございます。でも、これくらいなら大丈夫です」


 あたしは、キュアヒーリング、と、ちいさくつぶやく。

 金色の粒子が溢れ出し、あたしの手を優しく包んだかと思うと……、傷がスーッと癒えていく。


「マオ、おまえ、回復魔法が使えたのか……」

「ええ、兄様。あたし……」


 貴族であれば多かれ少なかれ魔法の才があるもの。

 そう、学校でも習った。

 実は母さんも、簡単な生活魔法程度なら使えた。でも、この力はそんなんじゃない。

 もっと、高度な、もっと、力が必要な、そんな魔法だった。


 だから、内緒にしておきたかった。兄様の言われたように、あたしのこのサファイヤの瞳には強い魔力が篭っている。貴族だって証のようなもの。

 きっと、高等部まで通っていれば、そうした魔法の勉強もしたんだろう。

 今のあたしは自己流だけど、母さんを治したい、そんな想いがこの回復魔法を産んだのかもしれない、そうも思っている。


「やっぱりそうなのね。だから、気に入らなかったのよ! その目が!」


 イライザ夫人の胸から、真っ黒な瘴気のようなものが溢れてくる?


「あなたも、石になっちゃいなさい!!」


 夫人があたしを指さして、そう言った。


 ああ。母さんを石化したのは、これ、だったんだ。


 瞬間、そう気がついて。


 彼女の闇魔法、石化の魔法。


 それを、あたし、に、も……。




 ◇◇◇


「なぜこんな事をした、イライザ」


「そうだ、イライザおばさん。どうしてマオにこんな事を!」


「ふん! あの子が貴方の娘だってわかったからよ! エドワード、あなたわたくしを騙してたのよね。あの女とは偽装結婚だって、そういうからわたくしは信じていたのに」


「騙したわけじゃない、私は誰とも結婚するつもりは無かった。ああ、君ともだ。イライザ」


「そうよね。あなたはここにいるアンソニーのために、ご自分の子は持たない。そうおっしゃったのだもの。そしてわたくしとの婚約を破棄し、あの女と結婚したのよね」


「ああ。そうだ」


「だったらなんでこの娘がいるのよ! おかしいじゃない!」


「え? どういう事、父さん」


「ふん、アンソニーは知らないのね。そこの娘マオは、このエドワードの娘なのよ。あの女、この娘を妊娠して姿をくらませたんだわ。知っていれば産ませたりなんかしなかったのに!」


「そんな、父さん、ほんとう、なの?」


「イライザ、君は」


「ええ、フローラの事を、捜したわ。だって、おかしいもの。貴方がいつまで経ってもあの女のことばかり考えているの、わかったから。見つけた時は驚いたわ。だって、彼女を匿っていたのって、執事だったコーラル、でしょう? 子供も居たけど、あの時はコーラルの子だとばっかり思ってたわ。それでもフローラの失踪はぜったいに貴方が手引きしたんだって、そうにちがいないって思ったから。だから、お仕置きしたの」


「それでフローラに石化の魔法をかけたのか!」


「貴方が裏切るから悪いのよ! わたくしの気持ちなんか考えてもくれなかった、貴方が悪いんだわ!!」


「君との婚約はもともと、親同士の口約束だったじゃないか。事情が変わったから解消しただけだろう。裏切るもなにもない」


「でも、貴方はあの女を愛したんじゃない! それが裏切りじゃなくてなんだっていうのよ!!」



 どれくらい気絶していたんだろう。

 気がついた時には旦那様と兄様、そしてイライザ夫人が言い争いをしていて。


 あたしに罹った石化魔法は、表面の皮膚一枚だけ。

 回復魔法を使った時に、ちょうど身体の表面を精霊キュアの金色の粒子が覆ってくれていたから。

 だから、きっと、助かったんだ。


「キュアヒーリング!」

 あたしは精霊キュアに願う。

 呪いを、闇魔法を、浄化して、と。


 ぱらり、ぱらりと皮膚の表面の角質部分が剥がれていく。


 うん。今のあたしの力じゃ、これが精一杯。

 学校を卒業してから毎日母さんに回復魔法を使ってきたけど、いまだに治らない石化の呪い。

 表面だけだったからなんとかなった、けど……。


「あなた、まさか、石化の呪いを、解いたの……」


 ガクッと膝からおちる、イライザ夫人。


「大丈夫か、マオ。ああ、よかった。マオ、無事で、よかった……」


 兄様が駆け寄ってあたしを抱きしめてくれた。

 ああ、温かい。

 ありがとう、兄様。ほんと、大好きよ……。でも……。


「兄様、ごめんなさい……。あたし、旦那様の、娘、だったです……。たぶんそうだって、旦那様がお父様だって、感じていたけど……。イライザ様の言葉を否定しなかったっていうことは、そうなのですよね? 旦那様……」


「ああ、マオ。そうだ、その通りだ。愛しているよ、君のことも、フローラの事も……」


「ありがとうございます、お父様、って、呼んでもいいです、か……?」


「ああ。もちろんだ。コーラルに真実を聞かされたときは、驚いた。しかし、君の顔を見て、確信したよ。この子はわたしの子だって」


「どう、して……」


 聞きたいことはいっぱいある。

 どうして偽装結婚だなんてことになっていたのか。

 愛していたならどうして、母さんをほかっておいたのか……。


「私は、兄の子であるアンソニーに家督を譲るためにだけに、生きてきた。私を庇って事故にあった兄への贖罪のためだけに、生きていたんだ。だから決して子をなすことはない、そう誓っていた……」


 え? ええ? それじゃぁ、兄様は、本当の兄様じゃ、無かった、の?

 兄様を好きだって、この気持ちは絶対に隠し通さなきゃいけないって、ずっと、心に秘めて置かなきゃいけないって、そう思ってた、けど……。


「フローラとも、最初は世間体を取り繕うためだけの、偽装結婚だった……。しかし、愛してしまった……。この気持ちは絶対に隠し通さなければいけない。秘めたまま、フローラの幸せを願わなければいけない、そう信じていた。あの日、石化した彼女を見るまでは……」


 お父様のお顔がくしゃっとゆがんだ。


「ばかだった。取り返しのつかないことをしてしまったんだと、気がついた時にはもう遅かった。マオ、君だけだよ。そんな私の心を癒してくれたのは……。父親らしいことなんか何もしてあげられなかったけど、せめて君には幸せな人生を送って欲しかった。これは、本当の気持ちだよ……」


 あたしは、立ち上がって。

 ふらふらと歩いてお父様のそばまでくると、そのままぎゅうっと抱きついた。


「あたしは……感謝、しています……。うちのこだよっておっしゃってくださったお父様の言葉が、ほんとうにうれしかった。だから、離れたくなくて。ずっとここに居たくって……。ごめんなさい、わがままを言いました……」


「マオ。君の事を、娘だって思っていいのかい。私には、そんな資格、ないと思っていた……」


「あたしは、ずっと、お父様だって思ってました。だから兄様のこともあきらめなきゃって、そう思って……」


「マオ……」


「兄様、大好きです。大好きだったから、諦めなきゃって、ずっと、思い込んでいました……」


「バカだな。マオは。だから言ったろ? 僕は真剣に君を愛してるって。父さんも、反対しなかったって。ああ、でも、そういう事なら父さんはむしろ喜んでくれていたのかもしれないな。マオを、堂々と娘と呼べることに」


 全てが勘違い、思い違い、掛け違い、だったの、かな……。

 母さん、あたし、幸せになれるの、かな……。



「おい、イライザ!」

 膝から崩れ落ちしゃがみ込んでしまっていたイライザ様の様子があまりにもおかしくて。

 お父様が肩をゆすっても、反応がない。

「これは……」

 何か考え込む、お父様。


 そうこうしている時だった。


「旦那様、よろしいでしょうか。今総合病院から連絡がありまして……。当家で支援している患者が、目を覚ましたそうです」


 え? 母さん!


「わかった。すぐに行くと伝えてくれ。マオ、一緒に行こう」

「父さん、僕も」

「ああ、アンソニーも一緒に」


 バタバタと用意された馬車に、三人で乗り込んだ。

 イライザ夫人は、そのまま使用人たちに任せて。



 ◇◇◇


 呪詛返し。

 あの時。

 イライザ夫人は放心したまま意識ここにあらずの状態で、しゃがみ込んでしまっていた。

 お父様曰く、「マオが石化の呪いを跳ね返したからかもしれないな」と。

 闇魔法である石化魔法、石化の呪いは強力すぎる反面、こうした代償も、あったのだろう。


 もしかしたらそれで?

 母さんの呪いも、とけたの?


 だとしたら、嬉しい……。



「フローラ!」


 病室に入るなり、そう叫んだお父様。


 あたしは、お父様の後ろ。

 もう10年も経っちゃったんだもの。

 母さんにあたしだってわかってもらえなかったら、悲しい。

 臆病だ。あたしは。



「エドワード、さま……」


 ああ、母さん。ベッドで身体を起こして、こちらを見て。

 しゃべってる、母さん。もう動いてる母さんの姿なんか、忘れかけてた。

 ああ。母さん……。


 あたしはもう我慢ができず、涙が溢れてとまらなかった。

 会えたのに、せっかく会えたのに、声をかける事もできず、泣き腫らして。


「マオ? そこにいるのは、マオ、ね。わたしの大事なマオ。大きくなったわね……」


「母さん、母さん、かあさーん!!」


 あたしは母さんのすぐそばまで駆け寄って、ベッドに縋り付く。


「ごめんね、苦労をかけたわよね」


「ううん、ううん、よかった。よかった。母さん!!」


 お父様があたしの肩に手を置いて、優しく微笑んでくれた。

 あたしはお父様と、場所を交代してあげる。

 きっと、お父様も母さんとおはなししたいこといっぱいあるだろうから。


「ねえ。エドワード。あなた、老けたわね。でも、だからわたし、マオのことすぐにわかったわ。ありがとう、マオを連れてきてくれて」


「ああ。フローラ。マオのことも、君のことも、もう離さない。覚悟してくれ」


 そう、母さんを抱き寄せる、お父様。

 あたしの肩をそっと抱いてくれる、兄様。


 あたし、しあわせに、なっても、いいの、かな。

 そうぼそっとつぶやくと。


「あたりまえじゃないか。マオのことは、僕がぜったいに幸せにするから」


 そう兄様が耳元で囁く。


「ありがとう、兄様。大好きよ」


 あたしもそう、こてんと兄様の胸に頭をつけて。


 もう一度、「あなたが好き。大好き」そう囁いた。


         Fin























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― 新着の感想 ―
シークレットベビー側が・・・なのは始めて読みました! 多分侯爵が。。なんだろうと思いアンソニーとどうなるかと心配したけど、無事にハピエンでよかったです!  伏字だらけになってしまいすみません_(._.…
うっ、そうきたか…!!天才だ…! きっとその救いの手は侯爵が……いや、そうですよね!と頷きながら読んでました。 ちゃんと幸せになる終わり方で、心がぽかぽかです♡
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