令和元年7月21日(日)「襲来」日野可恋
朝5時。
今日も曇り空が続く。
夏休みになったのに、こう梅雨が続くと夏本番という気分にならない。
せっかくひぃなが泊まりに来てくれたのに、こんなに気分が晴れない朝は珍しい。
予感なんてものを一切信じない私だが、この時いやな予感があったのかもしれない。
ひぃなと安藤さんと三人で公園に来る。
そこに見慣れない黒人女性がいた。
ノースリーブのシャツに短パン。
サンバイザーをかぶり、その視線は私たちの方を向いていた。
近付くと、その肉体美が目に飛び込んでくる。
均整の取れたプロポーションにバランス良く鍛え上げられた筋肉。
惚れ惚れしてしまう。
身長は安藤さんよりも高いが、スリムでバネがありそうだ。
「あの子、わたしじゃなくて可恋と純ちゃんばかり見てる」
身長の高さから歳上に見えたが、ひぃなの言葉で意外と若いことに気付く。
それに、目を引くという意味では外国人であってもひぃなの方が目立つと思うのに、ひぃなに視線を向けないことに嫌な考えが頭をよぎった。
「○▼※△☆▲※◎★●!?」
英語と思われる言葉が投げかけられた。
たまたま通りかかった人に声を掛けた感じではなく、明確な意思が感じられた。
何より、そこに「カレン」という音があるように聞こえた。
「I'm Karen. What is it for?」
彼女は私に向かって早口でまくし立てる。
それだけでも聞き取りづらいのに、スラングが混じっているのが分かった。
「Could you speak slowly?」だの「I beg your pardon?」だの言ってみても、彼女は自分の言いたいことを一方的に話すだけだ。
かろうじて「サキコ」「カラテ」といった単語が聞き取れた。
早紀子は師範代の名前だから、空手関係であることは間違いないだろう。
YouTubeで海外の筋トレ動画を見て、そこで使われている英語はかなり聞き取れていただけに、ここまで歯が立たないとは思っても見なかった。
ひぃなも加わってなんとかコミュニケーションを取ろうとする。
大声で単語を並べる私より、ひぃなの方がコミュニケーションが上手い。
彼女の名前がキャシーであることを聞き出した。
しかし、これ以上ここで噛み合わない会話を続けても意味がない。
「悪いけど、これから道場まで来てくれる?」とひぃなと安藤さんにお願いする。
ふたりが了承するのを見て、「Run to the Karate Dojo together. Come on!」と声を掛けて走り出すとキャシーがついて来た。
すぐに私を追い越すが、道が分からないようで分岐点のたびに立ち止まって私を待つ。
早く来いと急かしているのが分かるので、私もさすがにゆっくりとは走れない。
普段は空手の稽古のために精神を集中させながらランニングするのに、今日ばかりは心が乱されまくりだ。
道場に到着した。
キャシーは息が上がっていないが、私は少し息切れを起こしている。
体力的な問題ではなく、余計な事をしでかしそうなキャシーを注意するために何度も大声で呼びかけたせいだ。
怒鳴り疲れた私は更衣室ではなく道場内に真っ先に向かった。
「おはようございます。彼女を連れて来ました。後はよろしくお願いします」
「おはよう、可恋ちゃん」
師範代がにこやかに挨拶する。
私の母と同世代だが、彼女もまた一筋縄ではいかない性格の持ち主だ。
「無事に会えたようで良かったわ。昨日アメリカから来て、しばらくうちで預かるのよ。彼女を静かにするためにあなたのことを話したの。朝5時に起きるために早く寝てくれて助かったわ」
「こちらに押しつけないで欲しいのですが」
「彼女の名前はキャシー・フランクリン。あなたと同じ14歳よ。ご家族は来月来日して東京で暮らす予定なの。彼女は空手に興味があるということで、それまでうちにいるから仲良くしてね」
私はいまもの凄い仏頂面をしていると思う。
「言葉が通じません」
「大丈夫よ。すぐに慣れるわ」
私はこめかみを手で押さえる。
「夏休みじゃない、よろしくね」と師範代は気軽に言うが、「夏休みでも忙しいです」と私は反論する。
「まあ、できる範囲で構わないから」と言われてしまうとこれ以上は抵抗できない。
師範代はキャシーに流暢な英語で何やら説明し、それを聞いてキャシーは大喜びしている。
私が歓迎しているような感じの言葉が聞こえるのだが、割って入るだけの英語力がなくて黙って聞いているしかできなかった。
師範代の指示でキャシーを更衣室に連れて行く。
師範代が昔使っていた空手着をキャシーに着せる。
師範代は日本人女性としてはかなり大柄だが、サイズは合わず、手足はかなり短い。
しかし、腰回りは問題ない。
彼女の筋肉を間近で見ると本当に鋼のように見えた。
キャシーは私と戦いたいようだ。
着替えてからずっと話し掛けられるが、私は稽古に集中するため相手にしない。
更衣室から戻るとひぃなたちが到着していた。
キャシーは師範代に言われてひぃなたちと見学するようだ。
1時間の朝稽古はあっという間に終わった。
あれだけ心が乱されてもしっかり集中できたのは収穫だ。
だが、当然これで終わらなかった。
ひぃなと談笑していたキャシーが稽古が終わったのに気付いて私のところにやって来た。
稽古をしていた面々は壁際に立って私とキャシーを見守っている。
師範代も来てキャシーと話し合う。
どうやらルールを決めているようだ。
結局うちの流派にはないコンタクトありの勝負となり、防具を身に付けて対戦の準備をする。
礼をして中央に進み出て、キャシーと対面する。
彼女は大きい。
男性でも彼女ほど背が高い相手と戦った記憶がない。
しかも、黒人だからか非常にバネがありそうだ。
鍛え上げられた筋肉とともに並の相手ではないと分かる。
師範代の「始め」の合図で私は構える。
こちらから攻めるのではなく、様子を見るために守りの姿勢を取る。
キャシーはレスリングのタックルの構えだ。
ジリジリと近付いてくる。
キャシーは細かなフェイントから左足を踏み込んできた。
普通であればそこから右足の回し蹴りだろうが、そう思わせておいての左足の前蹴りが来た。
跳ねるような蹴りを右手で打ち払うと、その勢いを乗せて右足の回し蹴りが飛んで来る。
キャシーの身体能力の高さに感心しつつ、上体をスウェイで躱そうとするが、そこからグンと足が伸びる。
そこまでは予想通りの攻撃だったので、バックステップで避ける。
キャシーは転がって受け身を取り、すぐに立ち上がる。
そのまま加速をつけてのタックルが来る。
速く大きい彼女のタックルをまともに食らうと大ダメージは必至だ。
少々の反撃ごとタックルで仕留めようという意図が見える。
彼女の腕の長さからしても躱すのは難しい。
「そこまで!」
私が踏み込みかけたところで師範代の声が上がった。
止めなければ、私の膝がキャシーの顔面に入っていた。
しかし、キャシーは止まらない。
師範代は間に入ろうとするが間に合いそうもない。
私は次善の策であった左からの蹴りでキャシーの肩を跳ね上げ、わずかにバランスを崩してその隙にタックルを回避した。
キャシーは右肩を押さえてうずくまった。
そんなに大きな衝撃はなかったはずだが、キャシーは罵詈雑言を吐いて悪態をついている。
師範代が駆け寄り、様子を見た。
私はゆっくりと近付く。
キャシーが私に何か言うが聞き取れない。
ただ私に怒っているのではないことは分かった。
「Good Fight!」と伝えるとキャシーはニカッと笑った。
マンションに戻り、お昼を食べ終えた頃に来訪を知らせるチャイムが鳴った。
師範代とキャシーだ。
招き入れたくはないが、そうもいかない。
不満を隠さずにふたりを部屋に入れる。
キャシーのケガは軽傷で済んだそうだ。
私からは大げさに見えたが、キャシー曰く不意を突かれたからだそうだ。
キャシーはリビングのトレーニングマシンに目を輝かせ、私が使っていいと言う前に使い始めた。
マシンを使い慣れている印象なので、放っておいて師範代との会話を続ける。
一通り話し終えると師範代はひとりで帰ろうとする。
「連れて帰ってください」
「本人が帰りたいと言えばね」
「……」
「まだ道を覚えてないみたいだから、道場に連れて来てね」
師範代は頭を抱える私を無視して、ひぃなや安藤さんに声を掛けて帰って行った。
師範代は現役を引退した後しばらくアメリカの道場で指導していたらしい。
私がこの道場に移ってからなかったので知らなかったが、時々こうして留学生をホームステイさせていたりしたそうだ。
それはとても立派なことだけど、その皺寄せがなぜ私に来るかが分からない。
「ひぃなは随分コミュニケーションが取れてるよね?」
「どうかなあ。でも、気持ちは伝わる感じかな」
キチンと英語を理解して話そうとする私より、ボディランゲージも使いながら雰囲気で語り合うひぃなの方が相性がいいのかもしれない。
早口は少しずつ慣れてきたが、スラングは分からない。
聞いても答えないし、お手上げだ。
ひとつひとつ理解しようと質問しても、その時には話が進んでしまっている。
会話のペースにも慣れないといけないということか。
キャシーはトレーニングを終えるとお腹が減ったと言い出した。
プロテインを出したが足りないらしい。
彼女の話を理解した限りでは、早起きしたため朝食を食べておらず、病院の帰りに軽い食事をしただけだという。
食材は昼食でほぼ使い切ってしまったので、非常用の保存食をいくつか出してみたが、日本食はあまり口に合わないようだ。
『何時までここにいるつもり?』と聞くと、『いつまででも』というふざけた答えが返ってきたので、『いますぐ叩き出すよ』と言うと、『夕食を食べたら帰る』という言質が取れた。
夕食となると買い出しに行かなければならない。
彼女を連れて行くのはとても不安だ。
しかし、おとなしく待っててくれるとは思えない。
『買い物に行くけど、ついて来る?』
『当然』
キャシーは嬉しそうに答えた。
「大丈夫かな?」とひぃなに尋ねると、ひぃなの返答よりも先に『英語で話せ』とキャシーに言われた。
『それならキャシーが日本語を話せるようになれ』と私は言い返す。
『わたしたちも一緒に行くから大丈夫』とひぃなは健気に英語で話した。
スーパーマーケットに着く前に思い出したことがあり、私はキャシーに伝える。
『日本ではレジでお金を払う前に商品を食べてはいけない。従ってね』
だが、キャシーの返事がない。
私の英語の問題なのか、キャシーが私を舐めているのか、それ以外に理由があるのかさっぱり分からない。
『ルールを守らないなら、道場に直行し、二度と私のマンションに入れないから』
強い口調で言うと、「ya!」と親指を立てた。
ホッとした私に、『ルールって何?』とキャシーが聞いてくる。
脱力した私の代わりにひぃなが丁寧に説明してくれた。
『何を食べたい?』とスーパーマーケットに入ってすぐにキャシーに尋ねた。
「Kobe beef!」
『アメリカ産牛肉でいいよね?』
「Go to Hell!」
今日は歓迎会のようなものだと大盤振る舞いをする。
歓迎する気持ちはほとんどないけど。
スーパーマーケット内で私たち4人はもの凄い注目を浴びている。
でも、気疲れでそんな視線を気にする余裕がなかった。
キャシーは店内では意外とおとなしかった。
3人でキャシーがうろつかないようにガードしていたせいでもある。
帰るとすぐに夕食作りだ。
ひぃなが手伝ってくれると言ったが、安藤さんひとりでキャシーの相手はできない。
ひぃなにはキャシーの相手を任せ、私ひとりで調理に臨む。
食材の量は女子4人前とは思えないほど多い。
ひぃなは小食だが、私はやや多めで、安藤さんは大食漢、キャシーは安藤さんに負けないだけ食べそうだ。
メインディッシュのステーキを焼き上げて盛り付け、それを食卓に運ぶ。
『今日は歓迎会だから特別よ』
余計な話はベラベラと喋るのに、こちらの話は聞いていないことが多い。
大声で繰り返して、ようやく『分かった』とキャシーが答えた。
毎日のように食べに来そうだから、今日の料理が普通と思われてはたまらない。
キャシーは安藤さんと双璧を成す食べっぷりを見せた。
『カレンは料理の天才だ!』と大げさに褒めてくれる。
ひぃながそれを聞いて喜んでいる。
食べ終わると、『純は強いのか?』と聞かれた。
『彼女は優れた水泳選手で、格闘技はやってない』と答えると、納得した顔を見せた。
『カレンは日本で何番目に強い?』と聞かれ、私は危うくお茶を吹き出すところだった。
『知らないわ。朝に道場で練習していた空手家の半分くらいは私より強いと思う』
朝の稽古は道場の中でも強い人だけが参加を許される。
半分は私より強く、半分は私と似た実力だ。
『サキコはカレンが私と同じ歳だと言った。同世代の中ではどうだ?』
『知らない。私は強さの序列に興味がない』
キャシーは怒って『何故』と聞いてくるが、『私の哲学だから』としか答えようがない。
私も『キャシーはどんな格闘技を習ったの?』と聞いてみた。
これまではまともに会話のやり取りをしなかったキャシーがこの質問にはすぐに答えてくれた。
『指導を受けたのはレスリングだけ。他は動画を見て学んだ』
キャシーの蹴りは付け焼き刃といった感じだったけど、タックルは本物という印象があった。
でも、レスリングでコンタクトありの空手と戦うのは相性が悪いでしょ。
『空手は他より強いのか?』
『分からない。他の格闘技をそこまで深く知らないから』
キャシーのストレートすぎる質問に即答した。
空手しか知らない私が答えられる質問ではない。
キャシーも私の答えに納得したようだった。
食後の片付けを済ますと、3人を送って行く。
ひぃなと安藤さんは午後に帰る予定を夕食まで付き合わせてしまった。
「今日はありがとう。本当に助かったよ。たぶん明日も彼女が来て大変だと思うけど、助けてね。ひぃなだけが頼りだから」
明日から合宿なのに予定を狂わせてしまった安藤さんにも謝っておく。
「無理しないでね、可恋。おやすみなさい」とひぃなは私に言った後、「Good night, Cathy」とキャシーにも手を振っていた。
道場へ向かう途中、私は気になっていたことを訊いた。
『キャシーは終わりの合図を知ってた?』
『試合の後、サキコから聞いたよ』
††††† 登場人物紹介 †††††
日野可恋・・・中学2年生。子どもの頃から空手を習っている。予測のつかない相手が大の苦手。
日々木陽稲・・・中学2年生。英語力はファッションの情報を漁ったり、映画鑑賞で身に付けたりしている程度。
安藤純・・・中学2年生。キャシーの英語はすべて聞き流している。
キャシー・フランクリン・・・14歳。身体能力は抜群だが、格闘技の競技歴は浅い。




