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令和元年7月20日(土)「純ちゃん」日々木陽稲

 可恋がとても嬉しそうに満面の笑みを浮かべている。

 こんなに喜んでいる姿はそうは見られない。

 わたしの隣りでは純ちゃんも目をキラキラさせている。


「買ったんだ」


「昨日設置してもらったの」


 広いリビングの一角に真新しい機械が置かれている。

 可恋の欲しがっていたトレーニングマシンだ。

 見るからに高額そうなので値段は聞かないでおく。


「わたしや純ちゃんも使っていいの?」


「私がいる時だけね。危ないから」


 わたしには喜んで筋トレをする趣味はないが、純ちゃんは使ってみたそうだ。


「安藤さんは今日トレーナーの方にお話を伺ってからにしよう」


 お預けをくらった犬のように純ちゃんが残念そうな顔をする。

 そんな純ちゃんに構わず、可恋がマシンの性能を語り出した。

 ごめん、何を言っているか分かんないんだけど……。


「マシンはあくまで補助だけど、マシンでしかできないトレーニングもあるからね」


「ふーん」


「道場にも置かれているし、ジムに通ってもいいんだけど、自分専用のマイマシンがあるっていうのは特別な感じがするし」


「へえー」


「今度ひぃなのためのメニューも組むね」


「危険性はないの?」


 わたしが押した程度ではビクともしないと思う。

 ただこんなのが倒れたら大変だ。


「トレーニング中のリスクはマシンの方が安全だったりするんだけど、もちろんリスクがゼロって訳じゃないし、私はひとりの時に使うことが多いので非常時用の対策は考えてる。設置に関しても考えられるだけの安全対策はしてるけど、想定外の大地震だとさすがに絶対安全とは言えないね」


 可恋は安全に対しては人一倍重視しているので、わたしが考えるようなことはすべて想定しているだろう。


「そろそろ行こうか」


 ひとしきり喋り続けた可恋がそう言った。

 やっとマシンの話題から解放されることにホッとしながらわたしは頷いた。


 今日はこれから純ちゃんのスイミングスクールへ見学に行く。

 純ちゃんにとっては明後日から東京で行われる合宿前の最後の練習だ。

 可恋が見学したいと希望したので純ちゃんを通して許可をもらった。

 わたしにとっても横浜のスイミングスクールは初めて行く場所だ。


 小学校低学年の時に、わたしと純ちゃんは地元のスイミングスクールに入った。

 純ちゃんはわたしに付き合う感じで参加したけど、文字通り水を得た魚のように泳ぐことを楽しんだ。

 わたしは数ヶ月しか続かなかったが、純ちゃんは水泳を気に入り、スクールで泳ぎ続けた。

 純ちゃんはみるみる身体が大きくなり、メキメキ頭角を現した。

 そして、横浜のスイミングスクールへの移籍を勧められた。

 裕福な家庭という訳ではなかったので、純ちゃんも彼女の両親も相当悩んだらしい。

 最後はコーチの熱心な説得と本人の希望を受け入れて移籍が決まった。

 わたしにはよく分からないが、スケールの大きな泳ぎができると言われ、今後日本の競泳界で注目されるホープと呼ばれているそうだ。


 可恋はわたしより頭一つ分背が高い長身だが、純ちゃんはそれよりも更に高い。

 可恋はスラリとしているモデル体型だが、純ちゃんは横幅もしっかりあって上体の筋肉は並々ならぬものだ。

 そのふたりに挟まれて歩くと、「連れ去られた宇宙人」の図のようでちょっと嫌。

 しかし、可恋は「ひぃなを守るため」といったこの並び順を変えてくれない。


 三人で電車に乗るのは初めてだ。

 いつも以上の視線を感じる。

 今日も降ったりやんだりの天候で、土曜日の車内はそこそこの混み具合だった。

 三人揃って座れるほどではなく、ひとりなら座れる感じで、「ひぃなは座ってていいよ」と可恋に言われたが、わたしは並んで立っていることを選んだ。

 電車が揺れても両隣のふたりはビクともしないので、安心して立っていられた。


 最寄り駅からは純ちゃんに案内してもらってスイミングスクールへ向かう。

 学校ではわたしがいないと頼りないんだからって思うことのある純ちゃんだが、足取りは確かで安心感がある。

 何年も通い慣れた道なんだから当たり前なんだけどね。


 スクールの受付で見学証をもらっていると、コーチの男性がわざわざ出迎えてくれた。

 純ちゃんは挨拶するとすぐに更衣室に行ったので、コーチに案内してもらうことになった。

 可恋は可恋で挨拶もそこそこにコーチとトレーニングの話を始めた。

 とても日本語とは思えないような言葉を交わしながら見学席へ向かうふたりの後をわたしはついて行った。


 屋内プールは想像以上に広く、美しく見えた。

 当然だけど、市民プールや学校のプールのような混み具合ではない。

 たいして泳げるわけではないが、このプールなら泳いでみたいと思わせるものがあった。


 しばらくすると、競泳水着に身を包んだ純ちゃんがプールサイドに出て来た。

 普段とは違ってとてもシャープな感じに見える。

 どんな服装よりも彼女は競泳水着が似合っている。

 スタッフと話しながらウォーミングアップを始めた。

 コーチは今もわたしの隣りで可恋と話し込んでいる。

 ここにいていいのかなと思っていると、コーチが急に立ち上がって大声で指示を出した。

 あまりの大声に耳鳴りがするほどだった。


 その指示に頷いた純ちゃんがプールに入る。

 ゆったりとリラックスした泳ぎだった。

 それでも驚くようなスピードだ。

 近くに全力で泳いでいる選手がいたが、遜色なく見える。

 練習は続き、ちゃんと飛び込みから全力の泳ぎをするようになった。

 それを見ながらコーチが説明してくれる。

 専門的な用語が多く、可恋は理解しているが、わたしにはさっぱりだ。


 素人相手に熱心に説明してくれるコーチも凄いが、対等に話し合える可恋も凄いのだろう。

 話は延々と続いている。

 ちょっと蚊帳の外に置かれた感じで寂しいけど、これも純ちゃんのためだと我慢する。

 わたしは純ちゃんのことを食い入るようにずっと見ていた。

 そして、普段との違いに気付いた。


 その違いは、会話の量だ。

 学校では純ちゃんはほとんど喋らない。

 わたしが何かと面倒をみるせいで喋らなくても困らない。

 可恋とだってわたしが間に入るから、ふたりで話す機会はめったにない。

 それが、ここでは話している。

 長い時間話し込むようなことはないけど、スタッフや他の選手にも純ちゃんから声を掛ける場面を何度か見た。

 声を掛けられた時もちゃんと反応している。

 孤立している感じはなく、ちゃんと意思疎通ができているように見える。


 水泳のことはわたしではたいして力になれない。

 コーチや可恋に任せるしかない。

 でも、コミュニケーションのことはわたしの領域だ。

 純ちゃんは無口だし、水泳のこと以外には無関心だ。

 わたしだって純ちゃんが周囲ともう少し関わりを持てるようにいろいろと工夫はしてきた。

 友だちと引き合わせたり、やる気を引き出したり、誘導したり、宥めすかしたりと。

 ただ、本人が望んでいないのが伝わるだけに、あまり強引にはできなかった。


 純ちゃんと高校が別々になることはほぼ確定している。

 今日の純ちゃんを見ていると、わたしがいなくても大丈夫なようにも見える。

 一方で、あくまで水泳のことだからできているのかもしれないと思う。

 来年だって同じクラスになれるかどうか分からない以上、何らかの手は打っておくべきなんだろう。


 わたしがもの思いにふけっていると、「退屈?」と可恋に聞かれた。

 いつの間にかコーチの姿がなかった。


「ちょっと考え事をしていただけ」


 可恋への相談はもう少し自分の中で考えがまとまってからにしようと思う。

 純ちゃんはこれから合宿だし、まず自分でどうするのか決めたかった。


 可恋はコーチからの説明をかみ砕いて説明してくれた。


「ごめん、わたしじゃ分からない」


 わたしの言葉に可恋は頭をかいた。

 本当はわたしがもっと勉強すべきなんだろうけど、可恋流に優先順位をつけるならわたしがトレーニングを学ぶより可恋に任せた方がいいと思う。


「トレーニングのことは可恋に任せる。わたしはわたしにしかできないことを頑張るから」




††††† 登場人物紹介 †††††


日々木陽稲・・・中学2年生。普段はお小遣いをやりくりしているが、ファッション関係は金銭感覚がマヒしている。


日野可恋・・・中学2年生。普段は無駄遣いを一切しないが、ベッドやトレーニングマシンには値段で妥協しなかった。


安藤純・・・中学2年生。口には出さないが、両親や妹に対して、スイミングスクールに通わせてもらってることに感謝している。

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